第88話「悪鬼転生」
深く暗い世界の底で――。
黒いワンピースと赤い靴を履いた少女が、ゆっくりと瞳を開いた。
まだ微睡みの中にいるのか、その瞳の焦点ははっきりとしていない。
ぼんやりとした眼差しは、少女のあどけなさをより強く際立たせていた。
だが、瞳の奥に漂う漆黒は、その少女がただの“人”ではないことを物語っていた。
永劫にも思える闇の中で、少女は微笑んだ。
子どもらしい、無垢な笑み。
けれど、その奥には、見た者を凍てつかせるほどの底知れぬ怖さがあった。
「始……また、会えるね」
消え入りそうなほど小さな声。
しかし、その声は闇の中にはっきりと響いた。
そう呟くと、少女は再び瞳を閉じる。
閉じた瞳の端から、一筋の涙をこぼしながら。
◇◇◇
風雲荒ぶる京都上空――。
京都全域の空を覆う鬼の居城、鬼哭餓亂城を前に、笠井亮はただ一人、立ち向かっていた。
現の世へ顕現し始めた鬼哭餓亂城の城壁は、あらゆる攻撃を阻む。
それは、この城が今なお、現の世と夢の狭間に存在しているからだ。
本来ならば、城壁を穿つには、完全な顕現を待たねばならない。
確かに、笠井の一矢天籟は天守閣を突き破り、城の内部へと届いた。
だが、それは笠井一人の力だけで成し得たものではない。
仲間の助けがあってこそ、その理を超えられたのだ。
しかし、このまま鬼哭餓亂城の完全顕現を許せば、京都全域に何が起こるか分からない。
とりわけ今、丹後では菩提府の開現師たちが、現の世へ溢れ出した悪鬼の侵攻を命懸けで食い止めている。
完全顕現すれば、その勢いはさらに激しさを増すだろう。
その先に待つ惨状は、容易に想像できた。
だからこそ、笠井は己の力の真価を発揮し、この鬼の居城そのものを破壊しようとしていた。
笠井は、自身の内に巣食う悪鬼へと意識を向ける。
漆黒の翼と第三の眼を持つ悪鬼――風鴉。
今でこそ、その力は宿主である笠井の意志に従っている。
だが、本質は凶暴そのものだった。
十四歳の頃。
笠井は鬼夢に巻き込まれ、自身の悪鬼である風鴉を暴走させた。
敵の悪鬼を祓ってもなお、風鴉は止まらなかった。
黒き風は荒れ狂い、笠井の精神は崩壊しかかっていた。
その時、彼を救ったのが、開現師であった父だった。
笠井は幼くして母を病で亡くし、父と二人で暮らしてきた。
父もまた若くして両親を亡くしており、頼れる親族はほとんどいなかった。
父は、自分が開現師であることを息子に黙っていた。
それはきっと、息子を心配させたくなかったからなのだろう。
だが、悪鬼の活性化が進むにつれ、父は毎日のように任務へ追われていた。
幼い笠井は、母がいない寂しさを父に見せることさえ、迷惑になると思い込んでいた。
だから、決して父の前では母のことを話さなかった。
そんな息子を前に、父もまた、どう接すればよいのか分からなかったのだろう。
息子を傷つけないように。
寂しさを刺激しないように。
けれど、その不器用な優しさは言葉にならず、ただ距離だけを生んでいった。
父は仕事へ没頭し、笠井はますます何も言えなくなった。
中学校に入ってから、父とまともに会話した回数は、覚えている限りでも数えるほどしかない。
その頃の笠井は、父が嫌いだった。
いや、正確には苦手だったのだ。
父とどう話せばいいのか分からない。
ただ、向き合うことができなかった。
きっと、それは父も同じだったのだろう。
親子は、あまりにも不器用だった。
そして、笠井自身もあまりにも幼かった。
そんな父が、自分の命を賭して笠井を守ってくれた。
その事実は、笠井にとって何よりも大きな衝撃だった。
死の間際になって、ようやく父と話せた気がした。
父から譲り受けたヴァジュラ――風塵鴉鎚。
それを見つめながら、笠井は今もなお消えない想いに沈んでいた。
あの時、言えなかった言葉。
聞けなかった言葉。
あの日、届かなかったはずの声が、今も胸の奥で風のように渦巻いている。
追憶は、永劫にも感じられた。
だが、それはほんの刹那にすぎない。
追憶から意識を引き戻し、笠井は静かに眼を上げた。
瞬間、風が止む。
荒れ狂っていた黒き風が、まるで息を潜めるように静まり返った。
その静寂の中で、笠井の奥底から風鴉の聲が響く。
「開咒申請――」
◇◇◇
同時刻。
菩提府本部へ戻り、指揮を執っていた矢野のもとへ、緊急通信が飛び込んだ。
「長官! 笠井隊長より《開咒申請》が入りました!!」
「何!? まさか、王倶へと転生させるつもりなのか……!」
矢野の表情が険しくなる。
「無上衆の応答は?」
「だめです……依然、応答はありません!」
「やはり、まだ彼らの意志は聞けぬか……」
現状を覆す、最後の一手となるはずだった。
しかし、承認が下りなければ、その力は解放できない。
司令室に焦燥が広がりかけた、その瞬間――。
「待ってください! 無上衆から応答が!!」
「何!?」
◇◇◇
笠井の要請を受け、菩提府本部の最奥――。
《無上の間》の扉が開かれる。
『彼も、ようやく本来の力を取り戻しつつあるようだな』
四方の廂の奥に佇む何者かが、口を開いた。
いや、それは正確ではない。
直接、頭の奥へ響いてくるような聲。
聲にならない聲。
それが、無上の間に満ちていた。
『しかして、これでよいのか?』
別の廂の奥から、異なる聲が響く。
『果たして、これで“盟約の刻”を迎えられるのか?』
さらに別の聲が、疑問を投げかける。
しばし、沈黙が落ちた。
やがて、最後の聲が静かに響く。
『それは、私たちが決めることではありません』
その言葉を受け、他の聲は沈黙した。
無上の間を、再び静寂が満たす。
だが、廂の奥に控える者たちは、その沈黙をもって同意を示していた。
『ならば、ここは彼らに委ねるとしよう』
最初の聲が、静かに告げる。
『開咒、承認』
◇◇◇
「無上衆からの承認を確認!!」
「まさか……彼らは、これすら予測していたのか?」
矢野はわずかに逡巡した。
だが、すぐさま思考を切り替える。
今、迷う時間はない。
「開咒承認――笠井へ伝達!!」
矢野の一声を受け、無上衆による《開咒》の承認が正式に笠井へ伝達される。
「いいのかい?」
背後で控えていた大塚が、静かに声をかける。
「これで、現と夢の境界はさらに曖昧になるわよ。また、責任を追及されるんじゃないの?」
「私だって、椅子にふんぞり返っているだけの人間ではないよ」
矢野は、ぐっと拳を握る。
「現状を打破できるのなら、いくらでも頭を下げてやるさ」
その覚悟を聞き、大塚はふっと笑った。
そして、モニターに映る笠井の姿を見据える。
(さあ、亮。あんたの真の力を見せつけなさい!)
大塚は声には出さず、胸の奥で檄を飛ばした。
◇◇◇
ガシャン――。
笠井の内で、何かが砕ける音がした。
(――来た)
それは、耳で聞く音ではない。
魂の奥底に嵌め込まれていた枷が、砕け散る感覚だった。
同時に、開咒承認の意志が伝わってくる。
無上衆の意志。
矢野の覚悟。
そして、この一手にすべてを託した者たちの想い。
そのすべてを背負うように、笠井の内側で黒き風が膨れ上がっていく。
笠井は静かに拳を握った。
そのまま、自身の悪鬼たる風鴉へ、転生の咒を告げる。
「悪鬼転生――」
瞬間、止まっていた風が再び動き始めた。
いや、吹くなどという生易しいものではない。
鬼哭餓亂城を取り巻く大気そのものが、笠井を中心に渦を巻き始めたのだ。
◇◇◇
丹後の市街地――。
一人の住民が、震える指で夜空を指さした。
「おい、あれを見ろ!」
空が、捻じれている。
京都全域へ広がる鬼哭餓亂城を中心に、巨大なうねりが生まれていた。
黒雲が幾重にも渦を巻き、丹後の空からもはっきりと見える漆黒の漏斗雲を形作っていく。
その異様な光景を前に、人々は声すら上げられず、ただ立ち尽くしていた。
◇◇◇
鬼哭餓亂城の周囲に、厚い雲が幾重ものベールのように折り重なる。
それは、外部からの侵入を拒む結界であり、同時に、その内側で生まれようとしている何かを包み隠す繭でもあった。
「“王倶”!!」
笠井の呼び声とともに、風鴉の姿が眩い光に包まれた。
黒き鴉の輪郭が、その光の中で形を失うようにほどけていく。
第三の眼が爛々と見開かれる。
首元には、連なる勾玉が現れた。
そして、その背から漆黒の翼が一枚、また一枚と生まれ出る。
翼が増えるたび、空が軋む。
千の羽ばたきに呼応するように、渦巻く黒雲が大きく裂けた。
眩い光が天を貫き、地上へ無数の光芒が降り注ぐ。
それは、地上の人々に救済を告げる光であり、同時に、悪鬼たちへ終焉を告げる裁きの光でもあった。
「三世を統べ、五十六億の嵐よ吹きならせ――」
笠井の詠唱に応じ、光の中から“それ”が降臨する。
第三の眼。
首を飾る勾玉。
そして、千の翼を従えた黒き極鴉。
もはや悪鬼の域すら超えた、風鴉の真なる姿。
「――千羽織暴風鴉!!」
次の瞬間。
千の黒翼が、大江山上空いっぱいに広がった。
そのすべてが一斉に羽ばたき、天地を揺るがす黒き暴風を生み出した。
千の翼から舞い散る黒い羽根。
その一枚一枚に宿るのは、《黒錆鉄爪》。
そして、羽ばたきによって生み出される風そのものにも、同じ力が宿っている。
笠井を中心に広がった黒き風が、鬼哭餓亂城へと押し寄せた。
その風は、これまで《黒錆鉄爪》が生み出してきた荒々しい黒風とは、明らかに様相を異にしていた。
一見すれば、すべてを優しく撫でるような穏やかな風。
だが、その本質は――。
風化。
触れたものの時を加速させ、長い年月の果てに訪れる朽滅を、一瞬のうちにもたらす力。
黒き風が、鬼哭餓亂城を包み込んだ。
その瞬間――。
王倶《千羽織暴風鴉》は、その真なる力を顕した。
◇◇◇
「押印!!」
大久保の一声とともに、巨大な象脚の幻影が朱天将を押し潰さんと迫る。
シュッ――。
しかし、朱天将は流水のごとく身を滑らせ、迫る象脚を最小限の動きでいなした。
「今です!!」
大久保が身を屈める。
その背を足場に、後方で機を窺っていた真理が飛び上がった。
銀色の立華鉢頭摩鋏を携え、上空から朱天将へ斬りかかる。
だが、朱天将はすでに真理の動きを捉えていた。
迎撃すべく、片腕を振り上げる。
「やらせませんわ!!」
その横合いから、英傑月誅を高速で回転させたレイカが迫る。
「風の壁!!」
刃の回転が生み出した風の渦が、朱天将へ襲いかかった。
「ふん!」
朱天将は片手を突き出し、荒れ狂う風の渦を真正面から押しとどめる。
だが、それこそが三人の狙いだった。
朱天将がレイカの攻撃に意識を割いた、その一瞬。
大久保が、朱天将の懐へ肉薄する。
「やらせん!」
朱天将は、空いていたもう一方の腕を突き出した。
迫る大久保を、その掌で押さえ込もうとする。
しかし、大久保は怯まない。
自身のヴァジュラである牙王印を、朱天将の掌へ直接叩き込んだ。
「押印三昧!!」
大久保の叫びに呼応し、巨大な象脚の幻影が地の底から一気に突き上がる。
ズドオオオオオッ!!
凄まじい衝撃が、朱天将の身体を下から蹴り上げた。
牙王印を受け止めた腕に、無数の亀裂が走る。
「ほう……想像以上の威力だ」
決死の一撃を受けてもなお、朱天将は笑っていた。
「まだ終わりじゃないよ!!」
大久保の言葉どおり、三人の連携はまだ終わっていない。
朱天将の頭上では、真理が渾身の一太刀を振り上げていた。
「鬼ノ刻――」
真理が掲げた銀色の刃が、眩い光を放つ。
「――《清浄》!!」
銀の一閃が、朱天将めがけて振り下ろされた。
ガシッ――!!
「何ッ!?」
必殺の一閃を受け止めたのは、朱天将が跳ね上げた右脚だった。
その脛が銀の刃と激突し、激しい火花を散らしている。
「貴様らとの遊戯など、退屈極まりないわ!」
次の瞬間、朱天将は空中で身を捻った。
左脚が、目にも留まらぬ速さで宙を薙ぐ。
蹴撃から生まれた衝撃波が、三人をまとめて呑み込んだ。
「キャアアアアッ!!」
「くッ!?」
「うッ!?」
最後の力を振り絞って戦っていた三人に、もはやその一撃を受け止める余力は残っていなかった。
三人の身体が弾き飛ばされ、それぞれ城壁へ激しく叩きつけられる。
朱天将は三人を一蹴すると、最下層へ視線を向けた。
地の底で輝く、四つの光。
その輝きは、先ほどよりもさらに強くなっていた。
「ふん……無駄な足掻きを」
朱天将は大気を強く蹴り、最下層へ急降下しようとした。
だが――。
ピシッ。
ピシッ――。
「……何?」
朱天将を取り囲む城壁に、細い亀裂が走った。
それは、一本から二本へ。
二本から数十本へ。
床を這い、柱を伝い、天井へと広がっていく。
次の瞬間――。
ドドドドドドドドドッ!!
鬼哭餓亂城全体が、激しく鳴動した。
城壁が崩れる。
柱が折れる。
床が割れ、天守を支える城の骨組みそのものが、次々と崩れ始めていく。
「な、何だと!?」
さしもの朱天将も、突如として加速し始めた落城に眼を見開いた。
その時、黒き風が朱天将の身体を優しく撫でた。
攻撃とは思えないほど、穏やかな風。
だが、それが触れた瞬間、朱天将を包んでいた邪悪な瘴気が、長い時を経たかのように薄れ、霧散していく。
「これは……“黒き疾風”か!!」
黒き風は、城を力任せに破壊しているのではない。
風に触れた鬼哭餓亂城の夢の層が、遥かな年月に晒されたかのように風化していく。
一枚ずつ。
また一枚ずつ。
城を現の世へ繋ぎ留めていた夢の層が朽ち、剥がれ落ちていく。
存在を支える理が崩れ始めた城は、次第に自らの形を保てなくなっていた。
黒き風が城内を駆け巡るにつれ、鬼の居城は急速にその形を失っていく。
「はッ……先輩が、やってくれた!」
瓦礫に半ば埋もれながら、大久保が薄く眼を開いた。
遠のいていく意識の中、口元にかすかな笑みが浮かぶ。
「これで……お前の城も、終わりだ」
その言葉を最後に、大久保の意識は静かに闇へ沈んだ。
◇◇◇
黒き風は、和泉たち四人のもとへも届いていた。
「これは――」
「笠井隊長が、やってくれたようですね!」
理恵は、頬を撫でる風の中に笠井の気配を感じ取る。
「うん! そうだよ!!」
杏樹もまた、その風から笠井の意志を感じ取り、明るい笑顔を浮かべた。
「やってくれたんだね」
亜子も、崩れていく城壁を見上げ、静かに頷いた。
そして、三人の視線は自然と和泉へ集まった。
「ああ……俺たちも、負けてられねえな!」
黒き風に呼応するように、四人を包む赤い光が一気に燃え上がる。
だが、その瞬間――。
ドゴオオオオオオオオオッ!!
凄まじい踵落としが、四人の立っていた場所へ叩き込まれた。
床が爆ぜる。
瓦礫と土煙が噴き上がり、崩れかけた最下層が大きく揺れた。
だが――そこに、四人の姿はなかった。
「ほう……」
朱天将が、わずかに眼を細める。
踵が床を穿つ寸前、四人はそれぞれ別方向へ跳び、攻撃の範囲から逃れていた。
先ほどまでとは、明らかに違う。
舞い上がる土煙の向こう。
四つの影が、再び一か所へ降り立つ。
和泉。
理恵。
杏樹。
亜子。
四人とも、満身創痍。
それでも、四人から立ち上る力は、かつてないほどの高まりを見せていた。
和泉は《点火針》を構え、朱天将を真っ直ぐに見据える。
「さあ――決着をつけよう」
「ああ……最後の宴としゃれ込もうではないか」
朱天将の口元に、凄絶な笑みが浮かぶ。
崩れゆく鬼哭餓亂城を舞台に――。
悪鬼羅刹の総大将と、黒の部隊。
この永き戦いを終わらせる、最後の饗宴が幕を開けた。
次回予告
崩れゆく鬼哭餓亂城。
限界を越えた和泉たちは、それでも朱天将の前に立ち続ける。
一人では届かない。
だが、背中を預けられる仲間がいる。
四人の力が響き合う時、赤き炎はさらなる領域へ――。
すべてを懸けた最後の一撃が、京都の空を切り裂く。
次回、第89話「蒼き超越」




