第87話「黒鴉の風」
和泉たち四人に対し、朱天将はゆっくりと右腕を突き出した。
先ほどまでの余裕とは違う。
そこにあるのは、戯れではない。
悪鬼羅刹の総大将が、初めて黒の部隊を“討つべき敵”として認めた気配だった。
「貴様らに見せてやろう」
朱天将の右手に、真っ赤な大盃が顕現する。
「この極上の美酒を」
朱天将が盃を掲げる。
その上に、赤い塊が生まれた。
だが、それは固体ではない。
血のように赤い液体が、球体となって宙に集まっている。
その瞬間、和泉たちの鼻腔に強烈な匂いが広がった。
「うっ……なに、これ!?」
杏樹が鼻を押さえ、顔を歪める。
齧歯類を思わせる悪鬼・篥歯へ転身した彼女にとって、その匂いは人以上に鋭く突き刺さっているのだろう。
「血の匂い……」
亜子が呟く。
だが、和泉と理恵だけは、その匂いに覚えがあった。
「百希夜さん、これは――」
「ああ……血花桜と同じ匂いだ」
血花桜。
かつて金是町で、血のように赤い花を咲かせた夢の桜。
人々の執着と鬱屈を糧に咲き、朱天が堕龕の魔種を育てるために利用した、あの事件の残滓。
朱天将は、盃の上で波打つ赤い酒を、愉悦の眼差しで見つめた。
「そうだ。血花桜から《堕龕の魔種》を取り出した際に残った血の樹液。それをじっくりと寝かせた、特別な酒よ」
赤い酒が、どくん、と脈打つ。
まるで、まだ何かの命を宿しているかのように。
「このままでも美味だが――」
朱天将は、かっと眼を見開いた。
◇◇◇
「カアアアアアアッ!!」
丹後の地では、なおも夢の裂け目から悪鬼たちが溢れ出していた。
市街地に取り残された住民へ、一体の悪鬼が襲いかかる。
だが、その爪が届く寸前。
悪鬼の動きが、不自然に止まった。
「え……?」
住民が呆然と見上げる。
パキッ。
乾いた音がした。
次の瞬間、悪鬼の身体が砂のように崩れ始める。
腕が崩れる。
脚が崩れる。
顔が崩れ、叫び声すら上げられぬまま、悪鬼は灰となって消えていった。
それは一体だけではない。
路地で。
商店街で。
住宅地で。
新たに溢れ出した悪鬼たちが、次々と灰へ変わっていく。
「いったい、何が起きている……?」
悪鬼の侵攻を抑えていた氷川が、警戒を解かぬまま呟いた。
だが、徳井は上空を見据えていた。
その視線の先には、現の世へ落ちようとする鬼哭餓亂城がある。
「とうとう、鬼の大将も本気ということか……」
崩れた悪鬼たちの身体は、やがて灰となり、ゆっくりと風に乗って舞い上がっていく。
遥か上空。
鬼哭餓亂城へと。
◇◇◇
灰は、鬼哭餓亂城の内部へ流れ込んでいく。
そして、朱天将が掲げる盃へと集まり、血の酒へ溶けていった。
緋色の酒が、盃に満ちる。
どろりと揺れるその液体から、むせ返るほど濃い血の匂いが放たれた。
「今宵、貴様らとの饗宴に興じよう」
朱天将は満足げに笑い、盃に口をつける。
そして、一息に血の酒を飲み干した。
ゴクリ。
朱天将の喉が鳴る。
瞬間、城内の空気が変わった。
朱天将の身体から、赤黒い酒気が噴き上がる。
それは炎のようであり、血煙のようでもあった。
朱天将が、空になった盃を放り投げる。
盃が床へ落ちるより早く、朱天将は低く腰を落とした。
「さあ――始めようか」
白い長髪の間から伸びる二本の角。
その姿を見た瞬間、和泉たち四人の背筋に悪寒が走った。
頭の天辺から背骨を通り、足先まで。
冷たい感覚が、全身の神経を逆なでする。
だが同時に、四人の内側で別の何かが湧き上がった。
恐怖ではない。
絶望でもない。
それは、闘争。
これより始まる全身全霊の戦いを前に、四人の闘争本能が激しく震え始めていた。
相反する感情が、胸の内でぶつかり合う。
それでも、確かなことが一つだけあった。
ここにいる者たちは今、かつてないほど己の才を開花させようとしている。
一瞬の静寂。
朱天将の口元が、わずかに吊り上がる。
和泉が点火針を握り直す。
理恵の紫紺の刃が、低く鳴る。
杏樹が小さく息を吸い、亜子の砲身が淡い光を帯びる。
そして――。
五つの影が、同時に掻き消えた。
次の瞬間、激しい衝撃が鬼哭餓亂城全体を揺らした。
城内の空気が弾け、轟音が響く。
床板が砕ける。
壁が裂ける。
瓦礫が宙を舞う。
城内を縦横無尽に駆け巡りながら、二つの力が激しくぶつかり合っていた。
一つは、力だけを欲し、慈悲も道理もなく、ただひたすらに弱肉強食の修羅道を行く者。
もう一つは、己が使命を果たし、他者の命を守るため、どれほど強大な相手にも小さな勇気を重ねて立ち向かう者たち。
決して交わることのない二つの力。
だが、確かに今この瞬間だけは、同じ一点を見ていた。
目の前の相手に、負けたくない。
その単純で明確な欲が、敵味方の境界すら超えて、互いをさらに高みへと押し上げていく。
遥か上空へ跳び上がった朱天将の周囲で、空気が急激に乾いていく。
酒気を帯びた熱が膨れ上がり、大気との摩擦だけで発火しかねないほどに灼熱化していた。
(――来るか!)
朱天将の期待に応えるかのように、城の底から紅蓮の業火が舞い上がる。
それはまるで、天を喰らわんとする昇り龍のようだった。
ゴオオオオオオオオオッ!!
強烈な熱が、城内のあちこちを赤熱化させる。
床も、柱も、壁も、瞬く間に火の海へ変わっていく。
だが、燃え盛る猛火の中で、朱天将は笑っていた。
舞うように身を翻し、猛火の渦すら己の昂りを高めるための熱へと変えていく。
その紅蓮を裂いて、白銀の刃が煌めいた。
業火の濁流の中、和泉が朱天将へ迫る。
「紡げ――《赤い一線》!!」
点火針の刀身が、紅蓮の炎よりもさらに鮮やかな赤へ染まる。
「来い! 赤き烈火!!」
火焔の渦の中、朱天将は迫る和泉を真正面から迎え撃つ。
両者が激突する直前。
先に動いたのは、和泉だった。
点火針を横一閃に振るう。
だが、刃はわずかに朱天将の肉体へ届かない。
しかし、それすらも和泉にとっては次なる一手の伏線だった。
和泉が柄を握り込む。
赤々と光る点火針から、炎が噴き出した。
「《炎上》!!」
振るわれた一閃に合わせ、炎の刀身が伸びる。
紅蓮の刃が、朱天将の身体を呑み込まんと迫った。
「ぬるい!!」
朱天将が全身に力を込めた瞬間、周囲を覆っていた炎がまとめて吹き飛ばされた。
「まだまだ! 頼んだぞ、杏樹!!」
和泉の手には、鞄ほどの大きさをした泡が握られていた。
それを、朱天将へ向けて放り投げる。
(あれは、青き新星か。だが、あまりにも単調な!)
朱天将は迫る泡へ、力任せに蹴りを放った。
凄まじい風圧が鎌鼬となり、一瞬にして泡を切り裂く。
だが――泡の中には、誰もいなかった。
「いない!?」
「油断大敵!」
杏樹の声が、朱天将の耳に届く。
その瞬間、朱天将は気付いた。
泡は一つではない。
和泉は時間差でもう一つ、背後へ回り込むように泡を投げ込んでいたのだ。
だが、それでも先ほどの鎌鼬に耐えられるはずがない。
本来ならば、だ。
「行け! 四魂球!!」
泡の中から飛び出した杏樹は、すでに四つの水晶を生成していた。
四つの水晶が、四方から朱天将へ放たれる。
「ぬううう!!」
さしもの朱天将も、その連撃への反応がわずかに遅れた。
四魂球が朱天将へ迫る。
しかし、朱天将から立ち上る熱によって周囲の空間が歪み、水晶の動きは近付くほどに鈍っていく。
その攻防の最中、もう一つの影が上空から舞い降りた。
「形態変化――《三連装ビーム機銃》!!」
自身のヴァジュラを機銃へ変えた亜子が、追撃をかける。
放たれた無数の光弾が、朱天将を撃ち抜かんと降り注いだ。
しかし――。
「ふん!!」
朱天将が酒気を爆ぜさせた瞬間、立ち上る熱が暴発する。
四魂球も、無数の光弾も、一気に弾き飛ばされた。
それでも、和泉の炎、杏樹の泡、亜子の光弾――重ねられた連撃は、すべて最後の一閃へ繋げるための布石だった。
「鬼ノ刻……」
瞬間、朱天将の背後に二振りの刃が舞う。
紫紺の光を放つ、理恵の立華鉢頭摩鋏。
「《追想》!!」
交差する紫紺の連撃が、朱天将の肉体を切り裂いた。
その刹那、四人の胸に勝利の手応えが走った。
だが――。
斬り裂かれたかに見えた朱天将の輪郭が、ぐにゃりと歪む。
そもそも、刃は届いていなかった。
攻撃が届く寸前。
圧縮された時の中で、朱天将は最小限の動きだけで、その一撃を躱していたのだ。
あまりにも流麗で、あまりにも自然な動き。
だからこそ、四人は“斬った”と誤認した。
それは、この拮抗しかけた攻防において、最も致命的な空白だった。
「――どこに……」
理恵は、朱天将の姿を必死に探す。
だが、その思考がすでに遅い。
流水のように滑る朱天将の動きは、視覚だけで捉えるには、あまりにも静かで、速すぎた。
ゴッ!!
理恵が気付いた時には、後頭部にかつてない衝撃が走っていた。
朱天将は、理恵の太刀筋に沿うように背後へ抜けていた。
その一瞬、放たれた肘打ちがまともに入ったのだ。
「――っ」
声すら出せず、理恵の身体から力が抜ける。
そのまま、最下層へ向かって落ちていった。
周囲にいた和泉たちも、その一連の動きを確かに見ていた。
見えてはいた。
だが、それはただの視覚情報にすぎない。
彼らが朱天将の動きを“攻撃”として認識するまでには、ほんのわずかな遅れがあった。
そのわずかな遅れが、圧倒的な差を生む。
「りえっち――!?」
落ちていく友の名を叫んだ瞬間、杏樹は理解した。
自分と、和泉たちとの実戦経験の差を。
少なくとも、和泉と亜子は迂闊なことをしない。
たとえ朱天将の動きを認識しきれなくても、敵から視線を逸らすような真似はしない。
理恵でさえ、攻撃を受けながら、最後まで朱天将から意識を外さなかった。
激しい自己嫌悪が、杏樹の胸へ押し寄せる。
それでも、杏樹は自分が今すべきことを思い出した。
ババババッ!!
杏樹は四方へ散らすように、無数の泡弾を放つ。
朱天将の姿を捉えるため。
仲間へ、その位置を知らせるため。
だが――。
「うっ!!」
ドンッ!!
篥歯となった身体でも耐えきれないほどの手刀が、杏樹の腹へ叩き込まれた。
わずかに踏ん張ったことで、貫かれることだけは免れた。
しかし、その一撃は、彼女の転身を強制的に解くには十分だった。
「が……っ」
杏樹の身体が、小さく跳ねる。
そして、理恵を追うように下層へと落ちていった。
刹那の攻防で、二人が落とされた。
残された和泉と亜子は、朱天将と眼が合う。
その瞳には、怒りも、愉悦もない。
そこにあるのは、無。
無心。
余計な感情を削ぎ落とした朱天将の技の冴えは、先ほどよりもなお増していた。
瞬間、朱天将の姿が消えた。
いや、正確には消えたのではない。
先ほどと同じように、朱天将は二人の認識の隙間へ滑り込んだのだ。
しかし――。
パンッ! パンッ!
破裂音が、二人の耳へ届く。
杏樹が残した泡。
それが弾ける音が、朱天将の動きを知らせていた。
「亜子! 左だ!!」
「!?」
和泉の叫びに、亜子は咄嗟に防御姿勢を取る。
ゴッ!!
次の瞬間、凄まじい衝撃が亜子の腕を貫き、鼓膜から脳天まで一気に駆け抜けた。
防御は、間に合った。
だが、直撃を受け止めた代償はあまりにも大きい。
「か……はっ……!」
亜子は鼻と耳から血を流しながら、その勢いのまま城壁へ叩きつけられた。
ガンッ!!
城壁に大きな凹みが生じる。
亜子の身体は、白壁へめり込むようにして動きを止めた。
直後、亀裂の走った城壁が砕け散る。
亜子の身体は白壁から剥がれ、力なく下層へと落ちていった。
そのまま朱天将は、狙いを和泉へ移す。
弾ける泡の音によって、和泉は朱天将の動きを辛うじて把握していた。
朱天将が、一気に間合いを詰める。
和泉は点火針を構えた。
(ちッ……これじゃ、間に合わねえ!!)
泡を弾かせながら、朱天将は鋭い貫手を和泉へ向ける。
ドスッ!!
「ぐッ!?」
貫手が、和泉の左肩を貫いた。
激痛が走る。
だが、その瞬間、和泉は点火針を消していた。
左腕を犠牲にしてでも、右手を空けるために。
「舐めるなあああ!!」
烈火のごとく赤く燃え上がった右腕が、朱天将の脇腹へ叩き込まれる。
否。
そのまま、肉を貫いた。
「――ほう」
和泉と朱天将。
二人は互いの身体を貫いたまま、下層へと落下していく。
「咄嗟とはいえ、ここまでするか。なあ、和泉百希夜」
朱天将の顔には、驚きとも、歓喜ともつかぬ感情が浮かんでいた。
「悪いな……こうでもしなきゃ、てめえに一矢報いる方法が思いつかなかったんでな」
これまでの連戦で、和泉の身体はすでに限界を超えている。
策は尽きた。
余力もない。
それでもなお、彼の中から湧き上がる闘志だけは、未だ消えていなかった。
「さすがは……黒き母神の“半身”ということか」
朱天将は、和泉を見ながら呟く。
いや、違う。
その瞳は、和泉を通して、どこか遠い場所を見ていた。
だが、“黒き母神”という言葉を聞いた瞬間。
和泉の内側で、何かが蠢いた。
深く、暗い底から浮かび上がる、白い影。
まだ形を持たぬそれが、胸の奥でゆっくりと身じろぎする。
「そうか。貴様の白影も、目醒めを望むか」
「お前……さっきから何をわけの分からねえことを……」
朱天将の言葉に、和泉は困惑する。
だが、本当は違う。
敵が何を見ているのか。
何を目的としているのか。
その真意の輪郭を、和泉はどこかで理解しかけていた。
「そうだ――これは、貴様らも望んだことだ」
落下しているはずの二人の間に、奇妙な静寂が流れる。
まるで、長い時の中へ閉じ込められたかのように。
「だから、何を言ってやがる?」
和泉の表情に浮かんだのは、怒りか。
それとも、怯えか。
そのどちらともつかない顔を見て、朱天将は静かに笑った。
「恐れることなどない。これは、世界の“理”なのだ」
朱天将の失われた左腕が、赤黒い酒気を纏って再生していく。
肉が盛り上がる。
骨が伸びる。
血管が絡み合い、新たな腕が形を成していく。
「ここからだ。ここから、世界は新たな段階へと再世する」
「くっ……わけの分からないことを!!」
和泉は、朱天将の身体を貫いた右腕に力を込める。
だが、もはや僅かな火すら灯らない。
朱天将は、静かに和泉を見下ろした。
「和泉百希夜。貴様は、新たなる世界への礎となるのだ」
朱天将は、和泉の左肩を貫いた腕を無理やり引き抜いた。
肩口から、血が激しく迸る。
そして――。
ゴッ!!
朱天将の回し蹴りが、和泉の腹部へ叩き込まれた。
「く、はあああ!!」
和泉の身体が、最下層へと落ちていく。
だが、落下しながらも和泉は苦し紛れに炎のクナイを放った。
シュッ――。
それが、朱天将の頬をかすめた。
切れた箇所から、一筋の血が滴る。
「ここまでの連戦……奴には、もはや力など残っていまい」
朱天将は、指先で血を拭う。
(他の者たちも同様だ。だが……まさか、“奴”の覚醒に供振し始めているのか?)
拭った血を払いながら、朱天将は城の下層を見据えた。
落ちていった和泉たち。
だが、その戦意は、未だ折れていない。
その事実に、朱天将はわずかな脅威を覚えていた。
「ならば――ここで仕留めるしかあるまい」
和泉たち四人を確実に殺すため、朱天将は自ら下層へ降りようとした。
その時だった。
ゴオオオオオオオオオッ!!
黒き風が、鬼哭餓亂城の内部を貫いた。
それは矢ではない。
刃でもない。
城そのものを喰らうように吹き荒れる、黒鴉の風。
朱天将のすぐ横を抜け、その風は下層へと流れ込んでいく。
「まさか……あれは!?」
その時、初めて朱天将の顔から、余裕という色が消えた。
◇◇◇
鬼哭餓亂城の最下層――。
瘴気が淀む地の底で、和泉たち四人は、もはや指一本動かすことすらできなかった。
さらに、四人の状態を悪化させていたのは、朱天将の酒毒だった。
大久保や真理たちの助けによって、四人はかろうじてその酒毒に抗ってきた。
だが、その守りも、刻一刻と薄れ始めている。
四天王たちとの激闘。
そして、その元凶たる朱天将との連戦。
肉体は限界を超え、精神もすでに擦り切れていた。
彼らと共に戦ってきた悪鬼たちさえ、今は完全に沈黙している。
地の底に煮凝りのように凝り固まった、どす黒い瘴気。
そこへ混じる、朱天将の高濃度の酒気。
それらが、四人の精神をじわじわと汚染していく。
誰もが、このまま闇の中に沈むかと思われた、その時――。
それは、天より落ちてきた。
黒き風が、一塊となって最下層へ直撃したのだ。
瞬間、底に溜まっていた瘴気が吹き飛ぶ。
淀んだ空気が裂け、重く沈んでいた闇が払われていく。
黒き風は渦を巻き、倒れ伏した四人を包み込んだ。
「こ、これは――先生……」
和泉は、その風の中に笠井の意志を感じ取る。
「隊長だけじゃないよ……花奈さんもいるよ」
元の姿に戻った杏樹が、かすかに目を開ける。
「ええ……感じます。梓、よく頑張ってくれました」
理恵は、風に乗って届く梓の温かな感情に触れ、涙をこぼした。
「……私たち、まだ生きてるんだね」
今にも消え入りそうな亜子の声。
だが、その瞳には、確かに強い光が宿っていた。
「なら……こんなところで、寝てらんねえな」
和泉はそう言うと、点火針を杖代わりにして、無理やり身体を起こした。
もう、戦える余力など残っていないはずだった。
それでも、和泉は折れない。
なぜなら、現実の世界で、自分たちの帰りを待つ人たちがいるから。
「さあ――ここまで期待されてんだ」
和泉は、理恵、杏樹、亜子へ視線を向ける。
「お前たちも、まだまだやれるだろう?」
「で、ですが、もう……」
理恵は、か細い手で立華鉢頭摩鋏の刀身に触れる。
だが、自分の中にもう何も残っていないことを、誰よりも自覚していた。
「はは……もっと頑張りたいけど、もうスカンピンだよ」
杏樹は笑ってみせる。
けれど、その笑顔はいつものものとは明らかに違っていた。
「くッ……!」
亜子も立ち上がろうとする。
だが、脚に力が入らない。
そんな三人を前に、和泉は自身の内なる火を再び燃やそうとしていた。
しかし、そこに兆しはない。
「トッキー……無理だよ」
杏樹は、胸の内に秘めていた思いを、ついに吐き出した。
「今のわたしたちじゃ、あいつには絶対勝てないよ!!」
それは、決して絶望したから出た言葉ではない。
戦いを諦められないからこそ。
まだ立ちたいからこそ。
自分たちの不甲斐なさに、怒りを覚えているのだ。
「まあ、その気持ちは分からないでもないな……」
それでもなお、和泉は笑っていた。
「でも、こんなところで終われないだろ?」
その時、和泉の手に再び火が灯った。
とても小さな火。
今にも掻き消えてしまいそうな、頼りない火。
だが、その火は確かに、暗い城の底を照らしていた。
「だって、俺たちは最強の男に見込まれた精鋭なんだぜ!」
瞬間、和泉の火が勢いを増す。
その炎に照らされ、三人は最後の力を振り絞った。
「そうですね……わたくしも、こんなところで負けてなんていられません!」
理恵が、震える膝に力を込める。
「別に、あたしも戦えないなんて一言も言ってない」
亜子も、壁に手をつきながら立ち上がる。
そして、俯く杏樹へ、和泉は手を差し伸べた。
「さあ、行こう、杏樹」
和泉は真っ直ぐに告げる。
「俺たちには、お前の力が必要だ!」
俯いていた杏樹は、ぐっと手で顔をこすった。
そして、ぱっと顔を上げる。
「なら……仕方ないね!」
その顔に、もう迷いはなかった。
和泉は杏樹の手を握り、彼女の身体を引き起こす。
その瞬間、杏樹の全身に、和泉の炎の熱が伝わってきた。
それに呼応するように、理恵が二人の手へ自身の手を重ねる。
その後ろで、どうすればいいか分からず、おずおずとしていた亜子の手を、今度は理恵が握った。
「さあ、亜子さんも!」
「う、うん」
そうして、四人の手が重なった。
「熱いね」
杏樹は、自身の内側に広がる熱を感じながら、重なった手を見つめる。
「ああ。それに、先生や花奈さん、梓さんの気配も感じる」
和泉は、その熱が自身の火だけではないように感じていた。
黒き風に乗って届いた仲間たちの存在。
笠井の覚悟。
花奈の祈り。
梓の観測。
そのすべてが、自分たちをここまで繋いでくれた。
「負けられませんね」
理恵が、皆の顔を見つめる。
「負けられないね」
亜子は重なった手を見ながら、どこか懐かしそうに呟いた。
「さあ、一気に上げるぞ!!」
瞬間、四人の心が重なった。
黒き風の中で、四人の身体が赤く煌めき出す。
◇◇◇
下層へ降下しようとしていた朱天将は、地の底で輝く四つの光を見つけた。
「なるほど……まだ我の邪魔をするか!!」
朱天将の顔から、先ほどまでの余裕は消えていた。
だが、その口元には、抑えきれぬ喜悦が浮かぶ。
完全に叩き潰したはずの四人が、なおも立ち上がろうとしている。
その事実が、悪鬼羅刹の総大将をさらに昂らせていた。
朱天将が一気に急降下しようと身構えた瞬間。
その進路を塞ぐように、三つの人影が現れる。
「おっと。ここは通さないよ!!」
「あなたが何者であろうと、私たちは悪鬼を祓うのみ!!」
「癪ですが、ここは杏樹さんたちに花を持たせましょう!!」
大久保、真理、レイカ。
三人が、朱天将の前に立ちはだかる。
誰一人として万全ではなく、満身創痍だった。
それでもなお、三人は下層へ向かう道を譲らなかった。
「貴様らごときで、我を止められると思うなよ」
朱天将は冷たい眼で、三人を見下ろす。
「さあ、お二人さん!」
大久保は、まだ満足に動かない腕を押さえながら、それでも笑った。
「しっかり、時間稼ぎをさせてもらおうじゃないか!!」
大久保の声とともに、三人は朱天将へと向かった。
その眼下で、黒き風に包まれた四つの光が、ひとつの鼓動を刻み始める。
鬼哭餓亂城を揺らす黒鴉の風。
その風の中で、黒の部隊の四光は、再び立ち上がろうとしていた。
次回予告
鬼哭餓亂城を貫き、四つの光へ届いた黒鴉の風。
その風を生み出した笠井亮は、かつて父から託された力と、今も胸に残る言葉に向き合っていた。
現と夢の境界を揺るがす禁じられた力が、ついに解き放たれる。
千の黒翼が夜空を覆い、鬼の居城へ落城の刻を告げる。
そして、崩れゆく城の底で――。
次回、第88話「悪鬼転生」。




