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夢幻開現師―悪夢を断つ者―  作者: ks21
第八章:「鬼哭餓亂城・落城編」
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第87話「黒鴉の風」

 和泉たち四人に対し、朱天将はゆっくりと右腕を突き出した。


 先ほどまでの余裕とは違う。


 そこにあるのは、戯れではない。


 悪鬼羅刹の総大将が、初めて黒の部隊を“討つべき敵”として認めた気配だった。


「貴様らに見せてやろう」


 朱天将《しゅてんしょう》の右手に、真っ赤な大盃《おおさかずき》が顕現する。


「この極上の美酒を」


 朱天将が盃を掲げる。


 その上に、赤い塊が生まれた。


 だが、それは固体ではない。


 血のように赤い液体が、球体となって宙に集まっている。


 その瞬間、和泉たちの鼻腔に強烈な匂いが広がった。


「うっ……なに、これ!?」


 杏樹が鼻を押さえ、顔を歪める。


 齧歯類を思わせる悪鬼・篥歯《りっぱ》へ転身した彼女にとって、その匂いは人以上に鋭く突き刺さっているのだろう。


「血の匂い……」


 亜子が呟く。


 だが、和泉と理恵だけは、その匂いに覚えがあった。


「百希夜さん、これは――」


「ああ……血花桜と同じ匂いだ」


 血花桜《けっかざくら》。


 かつて金是町で、血のように赤い花を咲かせた夢の桜。


 人々の執着と鬱屈を糧に咲き、朱天が堕龕の魔種(だがんのましゅ)を育てるために利用した、あの事件の残滓。


 朱天将は、盃の上で波打つ赤い酒を、愉悦の眼差しで見つめた。


「そうだ。血花桜から《堕龕の魔種》を取り出した際に残った血の樹液。それをじっくりと寝かせた、特別な酒よ」


 赤い酒が、どくん、と脈打つ。


 まるで、まだ何かの命を宿しているかのように。


「このままでも美味だが――」


 朱天将は、かっと眼を見開いた。


◇◇◇


「カアアアアアアッ!!」


 丹後の地では、なおも夢の裂け目から悪鬼たちが溢れ出していた。


 市街地に取り残された住民へ、一体の悪鬼が襲いかかる。


 だが、その爪が届く寸前。


 悪鬼の動きが、不自然に止まった。


「え……?」


 住民が呆然と見上げる。


 パキッ。


 乾いた音がした。


 次の瞬間、悪鬼の身体が砂のように崩れ始める。


 腕が崩れる。


 脚が崩れる。


 顔が崩れ、叫び声すら上げられぬまま、悪鬼は灰となって消えていった。


 それは一体だけではない。


 路地で。


 商店街で。


 住宅地で。


 新たに溢れ出した悪鬼たちが、次々と灰へ変わっていく。


「いったい、何が起きている……?」


 悪鬼の侵攻を抑えていた氷川が、警戒を解かぬまま呟いた。


 だが、徳井は上空を見据えていた。


 その視線の先には、現の世へ落ちようとする鬼哭餓亂城《きこくがらんじょう》がある。


「とうとう、鬼の大将も本気ということか……」


 崩れた悪鬼たちの身体は、やがて灰となり、ゆっくりと風に乗って舞い上がっていく。


 遥か上空。


 鬼哭餓亂城へと。


◇◇◇


 灰は、鬼哭餓亂城の内部へ流れ込んでいく。


 そして、朱天将が掲げる盃へと集まり、血の酒へ溶けていった。


 緋色の酒が、盃に満ちる。


 どろりと揺れるその液体から、むせ返るほど濃い血の匂いが放たれた。


「今宵、貴様らとの饗宴に興じよう」


 朱天将は満足げに笑い、盃に口をつける。


 そして、一息に血の酒を飲み干した。


 ゴクリ。


 朱天将の喉が鳴る。


 瞬間、城内の空気が変わった。


 朱天将の身体から、赤黒い酒気が噴き上がる。


 それは炎のようであり、血煙のようでもあった。


 朱天将が、空になった盃を放り投げる。


 盃が床へ落ちるより早く、朱天将は低く腰を落とした。


「さあ――始めようか」


 白い長髪の間から伸びる二本の角。


 その姿を見た瞬間、和泉たち四人の背筋に悪寒が走った。


 頭の天辺から背骨を通り、足先まで。


 冷たい感覚が、全身の神経を逆なでする。


 だが同時に、四人の内側で別の何かが湧き上がった。


 恐怖ではない。


 絶望でもない。


 それは、闘争。


 これより始まる全身全霊の戦いを前に、四人の闘争本能が激しく震え始めていた。


 相反する感情が、胸の内でぶつかり合う。


 それでも、確かなことが一つだけあった。


 ここにいる者たちは今、かつてないほど己の才を開花させようとしている。


 一瞬の静寂。


 朱天将の口元が、わずかに吊り上がる。


 和泉が点火針《てんかしん》を握り直す。


 理恵の紫紺の刃が、低く鳴る。


 杏樹が小さく息を吸い、亜子の砲身が淡い光を帯びる。


 そして――。


 五つの影が、同時に掻き消えた。


 次の瞬間、激しい衝撃が鬼哭餓亂城全体を揺らした。


 城内の空気が弾け、轟音が響く。


 床板が砕ける。


 壁が裂ける。


 瓦礫が宙を舞う。


 城内を縦横無尽に駆け巡りながら、二つの力が激しくぶつかり合っていた。


 一つは、力だけを欲し、慈悲も道理もなく、ただひたすらに弱肉強食の修羅道を行く者。


 もう一つは、己が使命を果たし、他者の命を守るため、どれほど強大な相手にも小さな勇気を重ねて立ち向かう者たち。


 決して交わることのない二つの力。


 だが、確かに今この瞬間だけは、同じ一点を見ていた。


 目の前の相手に、負けたくない。


 その単純で明確な欲が、敵味方の境界すら超えて、互いをさらに高みへと押し上げていく。


 遥か上空へ跳び上がった朱天将の周囲で、空気が急激に乾いていく。


 酒気を帯びた熱が膨れ上がり、大気との摩擦だけで発火しかねないほどに灼熱化していた。


(――来るか!)


 朱天将の期待に応えるかのように、城の底から紅蓮の業火が舞い上がる。


 それはまるで、天を喰らわんとする昇り龍のようだった。


 ゴオオオオオオオオオッ!!


 強烈な熱が、城内のあちこちを赤熱化させる。


 床も、柱も、壁も、瞬く間に火の海へ変わっていく。


 だが、燃え盛る猛火の中で、朱天将は笑っていた。


 舞うように身を翻し、猛火の渦すら己の昂りを高めるための熱へと変えていく。


 その紅蓮を裂いて、白銀の刃が煌めいた。


 業火の濁流の中、和泉が朱天将へ迫る。


「紡げ――《赤い一線》!!」


 点火針の刀身が、紅蓮の炎よりもさらに鮮やかな赤へ染まる。


「来い! 赤き烈火!!」


 火焔の渦の中、朱天将は迫る和泉を真正面から迎え撃つ。


 両者が激突する直前。


 先に動いたのは、和泉だった。


 点火針を横一閃に振るう。


 だが、刃はわずかに朱天将の肉体へ届かない。


 しかし、それすらも和泉にとっては次なる一手の伏線だった。


 和泉が柄を握り込む。


 赤々と光る点火針から、炎が噴き出した。


「《炎上》!!」


 振るわれた一閃に合わせ、炎の刀身が伸びる。


 紅蓮の刃が、朱天将の身体を呑み込まんと迫った。


「ぬるい!!」


 朱天将が全身に力を込めた瞬間、周囲を覆っていた炎がまとめて吹き飛ばされた。


「まだまだ! 頼んだぞ、杏樹!!」


 和泉の手には、鞄ほどの大きさをした泡が握られていた。


 それを、朱天将へ向けて放り投げる。


(あれは、青き新星か。だが、あまりにも単調な!)


 朱天将は迫る泡へ、力任せに蹴りを放った。


 凄まじい風圧が鎌鼬となり、一瞬にして泡を切り裂く。


 だが――泡の中には、誰もいなかった。


「いない!?」


「油断大敵!」


 杏樹の声が、朱天将の耳に届く。


 その瞬間、朱天将は気付いた。


 泡は一つではない。


 和泉は時間差でもう一つ、背後へ回り込むように泡を投げ込んでいたのだ。


 だが、それでも先ほどの鎌鼬に耐えられるはずがない。


 本来ならば、だ。


「行け! 四魂球《しこんきゅう》!!」


 泡の中から飛び出した杏樹は、すでに四つの水晶を生成していた。


 四つの水晶が、四方から朱天将へ放たれる。


「ぬううう!!」


 さしもの朱天将も、その連撃への反応がわずかに遅れた。


 四魂球が朱天将へ迫る。


 しかし、朱天将から立ち上る熱によって周囲の空間が歪み、水晶の動きは近付くほどに鈍っていく。


 その攻防の最中、もう一つの影が上空から舞い降りた。


「形態変化――《三連装ビーム機銃》!!」


 自身のヴァジュラを機銃へ変えた亜子が、追撃をかける。


 放たれた無数の光弾が、朱天将を撃ち抜かんと降り注いだ。


 しかし――。


「ふん!!」


 朱天将が酒気を爆ぜさせた瞬間、立ち上る熱が暴発する。


 四魂球も、無数の光弾も、一気に弾き飛ばされた。


 それでも、和泉の炎、杏樹の泡、亜子の光弾――重ねられた連撃は、すべて最後の一閃へ繋げるための布石だった。


「鬼ノ刻(おにのこく)……」


 瞬間、朱天将の背後に二振りの刃が舞う。


 紫紺の光を放つ、理恵の立華鉢頭摩鋏《りっかはずまぎょう》。


「《追想》!!」


 交差する紫紺の連撃が、朱天将の肉体を切り裂いた。


 その刹那、四人の胸に勝利の手応えが走った。


 だが――。


 斬り裂かれたかに見えた朱天将の輪郭が、ぐにゃりと歪む。


 そもそも、刃は届いていなかった。


 攻撃が届く寸前。


 圧縮された時の中で、朱天将は最小限の動きだけで、その一撃を躱していたのだ。


 あまりにも流麗で、あまりにも自然な動き。


 だからこそ、四人は“斬った”と誤認した。


 それは、この拮抗しかけた攻防において、最も致命的な空白だった。


「――どこに……」


 理恵は、朱天将の姿を必死に探す。


 だが、その思考がすでに遅い。


 流水のように滑る朱天将の動きは、視覚だけで捉えるには、あまりにも静かで、速すぎた。


 ゴッ!!


 理恵が気付いた時には、後頭部にかつてない衝撃が走っていた。


 朱天将は、理恵の太刀筋に沿うように背後へ抜けていた。


 その一瞬、放たれた肘打ちがまともに入ったのだ。


「――っ」


 声すら出せず、理恵の身体から力が抜ける。


 そのまま、最下層へ向かって落ちていった。


 周囲にいた和泉たちも、その一連の動きを確かに見ていた。


 見えてはいた。


 だが、それはただの視覚情報にすぎない。


 彼らが朱天将の動きを“攻撃”として認識するまでには、ほんのわずかな遅れがあった。


 そのわずかな遅れが、圧倒的な差を生む。


「りえっち――!?」


 落ちていく友の名を叫んだ瞬間、杏樹は理解した。


 自分と、和泉たちとの実戦経験の差を。


 少なくとも、和泉と亜子は迂闊なことをしない。


 たとえ朱天将の動きを認識しきれなくても、敵から視線を逸らすような真似はしない。


 理恵でさえ、攻撃を受けながら、最後まで朱天将から意識を外さなかった。


 激しい自己嫌悪が、杏樹の胸へ押し寄せる。


 それでも、杏樹は自分が今すべきことを思い出した。


 ババババッ!!


 杏樹は四方へ散らすように、無数の泡弾を放つ。


 朱天将の姿を捉えるため。


 仲間へ、その位置を知らせるため。


 だが――。


「うっ!!」


 ドンッ!!


 篥歯となった身体でも耐えきれないほどの手刀が、杏樹の腹へ叩き込まれた。


 わずかに踏ん張ったことで、貫かれることだけは免れた。


 しかし、その一撃は、彼女の転身を強制的に解くには十分だった。


「が……っ」


 杏樹の身体が、小さく跳ねる。


 そして、理恵を追うように下層へと落ちていった。


 刹那の攻防で、二人が落とされた。


 残された和泉と亜子は、朱天将と眼が合う。


 その瞳には、怒りも、愉悦もない。


 そこにあるのは、無。


 無心。


 余計な感情を削ぎ落とした朱天将の技の冴えは、先ほどよりもなお増していた。


 瞬間、朱天将の姿が消えた。


 いや、正確には消えたのではない。


 先ほどと同じように、朱天将は二人の認識の隙間へ滑り込んだのだ。


 しかし――。


 パンッ! パンッ!


 破裂音が、二人の耳へ届く。


 杏樹が残した泡。


 それが弾ける音が、朱天将の動きを知らせていた。


「亜子! 左だ!!」


「!?」


 和泉の叫びに、亜子は咄嗟に防御姿勢を取る。


 ゴッ!!


 次の瞬間、凄まじい衝撃が亜子の腕を貫き、鼓膜から脳天まで一気に駆け抜けた。


 防御は、間に合った。


 だが、直撃を受け止めた代償はあまりにも大きい。


「か……はっ……!」


 亜子は鼻と耳から血を流しながら、その勢いのまま城壁へ叩きつけられた。


 ガンッ!!


 城壁に大きな凹みが生じる。


 亜子の身体は、白壁へめり込むようにして動きを止めた。


 直後、亀裂の走った城壁が砕け散る。


 亜子の身体は白壁から剥がれ、力なく下層へと落ちていった。


 そのまま朱天将は、狙いを和泉へ移す。


 弾ける泡の音によって、和泉は朱天将の動きを辛うじて把握していた。


 朱天将が、一気に間合いを詰める。


 和泉は点火針を構えた。


(ちッ……これじゃ、間に合わねえ!!)


 泡を弾かせながら、朱天将は鋭い貫手を和泉へ向ける。


 ドスッ!!


「ぐッ!?」


 貫手が、和泉の左肩を貫いた。


 激痛が走る。


 だが、その瞬間、和泉は点火針を消していた。


 左腕を犠牲にしてでも、右手を空けるために。


「舐めるなあああ!!」


 烈火のごとく赤く燃え上がった右腕が、朱天将の脇腹へ叩き込まれる。


 否。


 そのまま、肉を貫いた。


「――ほう」


 和泉と朱天将。


 二人は互いの身体を貫いたまま、下層へと落下していく。


「咄嗟とはいえ、ここまでするか。なあ、和泉百希夜《いずみときや》」


 朱天将の顔には、驚きとも、歓喜ともつかぬ感情が浮かんでいた。


「悪いな……こうでもしなきゃ、てめえに一矢報いる方法が思いつかなかったんでな」


 これまでの連戦で、和泉の身体はすでに限界を超えている。


 策は尽きた。


 余力もない。


 それでもなお、彼の中から湧き上がる闘志だけは、未だ消えていなかった。


「さすがは……黒き母神の“半身”ということか」


 朱天将は、和泉を見ながら呟く。


 いや、違う。


 その瞳は、和泉を通して、どこか遠い場所を見ていた。


 だが、“黒き母神”という言葉を聞いた瞬間。


 和泉の内側で、何かが蠢いた。


 深く、暗い底から浮かび上がる、白い影。


 まだ形を持たぬそれが、胸の奥でゆっくりと身じろぎする。


「そうか。貴様の白影も、目醒めを望むか」


「お前……さっきから何をわけの分からねえことを……」


 朱天将の言葉に、和泉は困惑する。


 だが、本当は違う。


 敵が何を見ているのか。


 何を目的としているのか。


 その真意の輪郭を、和泉はどこかで理解しかけていた。


「そうだ――これは、貴様らも望んだことだ」


 落下しているはずの二人の間に、奇妙な静寂が流れる。


 まるで、長い時の中へ閉じ込められたかのように。


「だから、何を言ってやがる?」


 和泉の表情に浮かんだのは、怒りか。


 それとも、怯えか。


 そのどちらともつかない顔を見て、朱天将は静かに笑った。


「恐れることなどない。これは、世界の“理”なのだ」


 朱天将の失われた左腕が、赤黒い酒気を纏って再生していく。


 肉が盛り上がる。


 骨が伸びる。


 血管が絡み合い、新たな腕が形を成していく。


「ここからだ。ここから、世界は新たな段階へと再世《さいせい》する」


「くっ……わけの分からないことを!!」


 和泉は、朱天将の身体を貫いた右腕に力を込める。


 だが、もはや僅かな火すら灯らない。


 朱天将は、静かに和泉を見下ろした。


「和泉百希夜。貴様は、新たなる世界への礎となるのだ」


 朱天将は、和泉の左肩を貫いた腕を無理やり引き抜いた。


 肩口から、血が激しく迸る。


 そして――。


 ゴッ!!


 朱天将の回し蹴りが、和泉の腹部へ叩き込まれた。


「く、はあああ!!」


 和泉の身体が、最下層へと落ちていく。


 だが、落下しながらも和泉は苦し紛れに炎のクナイを放った。


 シュッ――。


 それが、朱天将の頬をかすめた。


 切れた箇所から、一筋の血が滴る。


「ここまでの連戦……奴には、もはや力など残っていまい」


 朱天将は、指先で血を拭う。


(他の者たちも同様だ。だが……まさか、“奴”の覚醒に供振《きょうしん》し始めているのか?)


 拭った血を払いながら、朱天将は城の下層を見据えた。


 落ちていった和泉たち。


 だが、その戦意は、未だ折れていない。


 その事実に、朱天将はわずかな脅威を覚えていた。


「ならば――ここで仕留めるしかあるまい」


 和泉たち四人を確実に殺すため、朱天将は自ら下層へ降りようとした。


 その時だった。


 ゴオオオオオオオオオッ!!


 黒き風が、鬼哭餓亂城の内部を貫いた。


 それは矢ではない。


 刃でもない。


 城そのものを喰らうように吹き荒れる、黒鴉《こくあ》の風。


 朱天将のすぐ横を抜け、その風は下層へと流れ込んでいく。


「まさか……あれは!?」


 その時、初めて朱天将の顔から、余裕という色が消えた。


◇◇◇


 鬼哭餓亂城の最下層――。


 瘴気が淀む地の底で、和泉たち四人は、もはや指一本動かすことすらできなかった。


 さらに、四人の状態を悪化させていたのは、朱天将の酒毒だった。


 大久保や真理たちの助けによって、四人はかろうじてその酒毒に抗ってきた。


 だが、その守りも、刻一刻と薄れ始めている。


 四天王たちとの激闘。


 そして、その元凶たる朱天将との連戦。


 肉体は限界を超え、精神もすでに擦り切れていた。


 彼らと共に戦ってきた悪鬼たちさえ、今は完全に沈黙している。


 地の底に煮凝りのように凝り固まった、どす黒い瘴気。


 そこへ混じる、朱天将の高濃度の酒気。


 それらが、四人の精神をじわじわと汚染していく。


 誰もが、このまま闇の中に沈むかと思われた、その時――。


 それは、天より落ちてきた。


 黒き風が、一塊となって最下層へ直撃したのだ。


 瞬間、底に溜まっていた瘴気が吹き飛ぶ。


 淀んだ空気が裂け、重く沈んでいた闇が払われていく。


 黒き風は渦を巻き、倒れ伏した四人を包み込んだ。


「こ、これは――先生……」


 和泉は、その風の中に笠井の意志を感じ取る。


「隊長だけじゃないよ……花奈さんもいるよ」


 元の姿に戻った杏樹が、かすかに目を開ける。


「ええ……感じます。梓、よく頑張ってくれました」


 理恵は、風に乗って届く梓の温かな感情に触れ、涙をこぼした。


「……私たち、まだ生きてるんだね」


 今にも消え入りそうな亜子の声。


 だが、その瞳には、確かに強い光が宿っていた。


「なら……こんなところで、寝てらんねえな」


 和泉はそう言うと、点火針を杖代わりにして、無理やり身体を起こした。


 もう、戦える余力など残っていないはずだった。


 それでも、和泉は折れない。


 なぜなら、現実《もと》の世界で、自分たちの帰りを待つ人たちがいるから。


「さあ――ここまで期待されてんだ」


 和泉は、理恵、杏樹、亜子へ視線を向ける。


「お前たちも、まだまだやれるだろう?」


「で、ですが、もう……」


 理恵は、か細い手で立華鉢頭摩鋏の刀身に触れる。


 だが、自分の中にもう何も残っていないことを、誰よりも自覚していた。


「はは……もっと頑張りたいけど、もうスカンピンだよ」


 杏樹は笑ってみせる。


 けれど、その笑顔はいつものものとは明らかに違っていた。


「くッ……!」


 亜子も立ち上がろうとする。


 だが、脚に力が入らない。


 そんな三人を前に、和泉は自身の内なる火を再び燃やそうとしていた。


 しかし、そこに兆しはない。


「トッキー……無理だよ」


 杏樹は、胸の内に秘めていた思いを、ついに吐き出した。


「今のわたしたちじゃ、あいつには絶対勝てないよ!!」


 それは、決して絶望したから出た言葉ではない。


 戦いを諦められないからこそ。


 まだ立ちたいからこそ。


 自分たちの不甲斐なさに、怒りを覚えているのだ。


「まあ、その気持ちは分からないでもないな……」


 それでもなお、和泉は笑っていた。


「でも、こんなところで終われないだろ?」


 その時、和泉の手に再び火が灯った。


 とても小さな火。


 今にも掻き消えてしまいそうな、頼りない火。


 だが、その火は確かに、暗い城の底を照らしていた。


「だって、俺たちは最強の男に見込まれた精鋭なんだぜ!」


 瞬間、和泉の火が勢いを増す。


 その炎に照らされ、三人は最後の力を振り絞った。


「そうですね……わたくしも、こんなところで負けてなんていられません!」


 理恵が、震える膝に力を込める。


「別に、あたしも戦えないなんて一言も言ってない」


 亜子も、壁に手をつきながら立ち上がる。


 そして、俯く杏樹へ、和泉は手を差し伸べた。


「さあ、行こう、杏樹」


 和泉は真っ直ぐに告げる。


「俺たちには、お前の力が必要だ!」


 俯いていた杏樹は、ぐっと手で顔をこすった。


 そして、ぱっと顔を上げる。


「なら……仕方ないね!」


 その顔に、もう迷いはなかった。


 和泉は杏樹の手を握り、彼女の身体を引き起こす。


 その瞬間、杏樹の全身に、和泉の炎の熱が伝わってきた。


 それに呼応するように、理恵が二人の手へ自身の手を重ねる。


 その後ろで、どうすればいいか分からず、おずおずとしていた亜子の手を、今度は理恵が握った。


「さあ、亜子さんも!」


「う、うん」


 そうして、四人の手が重なった。


「熱いね」


 杏樹は、自身の内側に広がる熱を感じながら、重なった手を見つめる。


「ああ。それに、先生や花奈さん、梓さんの気配も感じる」


 和泉は、その熱が自身の火だけではないように感じていた。


 黒き風に乗って届いた仲間たちの存在。


 笠井の覚悟。


 花奈の祈り。


 梓の観測。


 そのすべてが、自分たちをここまで繋いでくれた。


「負けられませんね」


 理恵が、皆の顔を見つめる。


「負けられないね」


 亜子は重なった手を見ながら、どこか懐かしそうに呟いた。


「さあ、一気に上げるぞ!!」


 瞬間、四人の心が重なった。


 黒き風の中で、四人の身体が赤く煌めき出す。


◇◇◇


 下層へ降下しようとしていた朱天将は、地の底で輝く四つの光を見つけた。


「なるほど……まだ我の邪魔をするか!!」


 朱天将の顔から、先ほどまでの余裕は消えていた。


 だが、その口元には、抑えきれぬ喜悦が浮かぶ。


 完全に叩き潰したはずの四人が、なおも立ち上がろうとしている。


 その事実が、悪鬼羅刹の総大将をさらに昂らせていた。


 朱天将が一気に急降下しようと身構えた瞬間。


 その進路を塞ぐように、三つの人影が現れる。


「おっと。ここは通さないよ!!」


「あなたが何者であろうと、私たちは悪鬼を祓うのみ!!」


「癪ですが、ここは杏樹さんたちに花を持たせましょう!!」


 大久保、真理、レイカ。


 三人が、朱天将の前に立ちはだかる。


 誰一人として万全ではなく、満身創痍だった。


 それでもなお、三人は下層へ向かう道を譲らなかった。


「貴様らごときで、我を止められると思うなよ」


 朱天将は冷たい眼で、三人を見下ろす。


「さあ、お二人さん!」


 大久保は、まだ満足に動かない腕を押さえながら、それでも笑った。


「しっかり、時間稼ぎをさせてもらおうじゃないか!!」


 大久保の声とともに、三人は朱天将へと向かった。


 その眼下で、黒き風に包まれた四つの光が、ひとつの鼓動を刻み始める。


 鬼哭餓亂城を揺らす黒鴉の風。


 その風の中で、黒の部隊の四光は、再び立ち上がろうとしていた。

次回予告


 鬼哭餓亂城を貫き、四つの光へ届いた黒鴉の風。


 その風を生み出した笠井亮は、かつて父から託された力と、今も胸に残る言葉に向き合っていた。


 現と夢の境界を揺るがす禁じられた力が、ついに解き放たれる。


 千の黒翼が夜空を覆い、鬼の居城へ落城の刻を告げる。


 そして、崩れゆく城の底で――。


 次回、第88話「悪鬼転生《あっきてんしょう》」。

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