第81話「堕龕の魔種」
四天王・アカネを討ち取った和泉。
これで、東方の間の戦いは終わった――はずだった。
だが、倒れたはずのアカネの内側で、赤黒い何かが胎動を始める。
終わったはずの戦いが、鬼哭餓亂城の奥底を揺らす。
第81話「堕龕の魔種」
燃える炎の手が、アカネの背を貫き、胸から突き出していた。
身体を焦がすほどの熱波。
その中心にいながら、和泉の内側には、奇妙なほど冷たい覚悟が流れている。
戦いの決着とは、これほどにあっけないものなのか。
和泉自身、その事実をまだ受け止めきれずにいた。
貫かれたアカネもまた、あまりのあっけなさに戸惑いを隠せないようだった。
「これで……終わりだ」
和泉は、まるで自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「はは……」
口元から血を流しながら、アカネは肩越しに和泉へ視線を送る。
「まさか、これほどとは……ね」
和泉は静かに、その視線を受け止めた。
そして、ぐっと手に力を込める。
炎に包まれた腕を、アカネの身体から引き抜いた。
「……っ」
その瞬間、和泉の腕に、生々しい感触が残った。
覚悟はしていた。
敵を倒すために必要な一撃だった。
それでも、生理的な嫌悪感までは消せない。
炎の熱よりも、その感触の方が、嫌に深く神経へこびりついた。
腕を抜かれたアカネの身体が、糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちる。
「き、君……」
アカネは、途切れ途切れに声を漏らした。
「“この子”と戦った時より……強くなっていない?」
貫かれた箇所は、内側から焼かれていた。
出血すら、ほとんどない。
ただ、焦げた煙だけが細く立ち上っている。
「……」
和泉は、じっと崩れ落ちたアカネを見下ろしていた。
「お前が……俺を怒らせただけだ」
その声は、嫌に平坦だった。
叫びでもない。
怒号でもない。
そこに、激しい怒りはもう残っていない。
燃え尽きた怒りの底にある、冷たい灰のような声だった。
「……まいったわね」
アカネは、かすかに笑った。
だが、次の瞬間。
「ゴフッ……!?」
口から大量の血を吐き出し、そのまま血の中へ身体を沈めるように倒れ込んだ。
『和泉さん、大久保指導官代理の方も終わったようです』
深紅に光る慧珠から、梓の声が響く。
だが、その声には、かすかなノイズが混じっていた。
いつものような冷静さは保っている。
けれど、その奥にある疲労までは隠しきれていない。
『あとは、お任せを――くッ!?』
倒れたアカネを浄化しようと、梓の慧珠の光が近づいた瞬間。
接続が、大きく揺らいだ。
「梓さん!? 大丈夫ですか!?」
和泉が思わず声を上げる。
深紅の慧珠には、細かな亀裂が走っていた。
光が明滅し、今にも砕けそうに震えている。
『やはり……私には、少しばかり荷が重かったようですね……』
* * *
現実世界。
梓は、脳内を駆け巡る痛みに必死に耐えていた。
四つの慧珠を通じて流れ込む情報が、彼女の頭の中を焼くように暴れ回っている。
和泉の戦場。
理恵の暴走。
杏樹と亜子の負傷。
敵の能力。
瘴気の濃度。
そして、鬼哭餓亂城そのものの崩壊の兆し。
そのすべてを同時に処理し続けた代償が、今になって梓の身体へ押し寄せていた。
「……っ、う……」
奥歯を噛み締め、梓は耳を押さえる。
指の隙間から、つう、と赤いものが流れた。
耳から、血が出ている。
それでも、梓は慧珠から目を逸らさなかった。
「ですが……私の仕事は、最後まで必ず果たします」
彼女の視線の先には、意識を失った花奈の姿があった。
さらにその奥。
テントの外では、氷室が今も孤軍奮闘している。
誰も、楽な状況にはいない。
誰も、完全な状態では戦えていない。
ならば、自分だけが弱音を吐くわけにはいかなかった。
梓は震える指で、再び慧珠へ触れる。
深紅の光が、かすかに揺らいだ。
それでも、消えない。
「お嬢様……皆様……」
梓は痛みに歪む顔を上げる。
「どうか、もう少しだけ……持ちこたえてください」
* * *
『大丈夫、と安易には言えませんが……皆様が命を賭して戦っているのです』
震える声を必死に抑えながら、梓は気丈に言葉を紡ぐ。
『私も、弱音を吐いている暇はありません』
その声は、かすれていた。
けれど、折れてはいなかった。
「……なら、後はお任せします」
梓の覚悟を受け止め、和泉は静かに頷いた。
深紅の慧珠が、淡く光る。
倒れたアカネの身体を包み込むように、浄化の光が広がっていった。
だが、和泉の胸中は決して穏やかではなかった。
他者の命も、尊厳も、一切顧みない者たち。
人を器とし、駒とし、犠牲とし、平然と踏みにじる者たち。
そんな相手を前にして。
自分の戦いには、いったい何の意味があったのか。
自分は、何を守ることができたのか。
そうした想いが、ささくれのように和泉の精神へ突き刺さる。
勝ったはずなのに。
終わったはずなのに。
胸の奥には、どうしようもないざらつきだけが残っていた。
「百希夜君は、よくやったよ」
気難しい顔で黙り込む和泉の肩を、横からぽん、と誰かが叩いた。
大久保だった。
いつの間にか、彼は和泉の隣に立っていた。
「君は、よくやった」
その声は、いつものように柔らかかった。
けれど、その言葉はどこか、大久保自身にも言い聞かせているように聞こえた。
救えなかったものがある。
守りきれなかったものがある。
それでも、今ここに残っているものを守るために、彼らは戦った。
和泉は何も言えず、ただ小さく息を吐いた。
これで、今回の事件も終わる。
そう思った。
そう思おうとした。
その瞬間――。
倒れたはずのアカネの指が、ぴくりと動いた。
そして、彼女の肉体が、まるで見えない糸で吊り上げられるように起き上がる。
「まだ……やる気かよ!」
やるせない憤りを吐き出すように、和泉は再び点火針を構えた。
だが、立ち上がったアカネを見た瞬間、和泉は違和感に気づく。
すでに、彼女の精神は風前の灯火だった。
意識が戻ったというより、肉体だけが無理やり動かされている。
それなのに――。
アカネの腹部だけが、どくどくと異様に脈打っていた。
呼吸ではない。
心臓の鼓動でもない。
もっと別のもの。
それを裏付けるように、彼女の下腹部には無数の血管が浮き上がり、不気味に蠢いていた。
腹の奥底で、何かが内側から身じろぎしている。
和泉には、そう見えた。
そう。
それは――胎動。
じくじくと浮き上がった血管から、血が滴り落ちる。
床へ零れた瞬間、和泉たちの鼻腔を強烈な血の匂いが貫いた。
「……この匂い」
和泉は、その匂いを知っていた。
かつて、金是町で咲いた血花桜。
赤々とした花弁から漂っていた、甘く、腐った血の香り。
そして、その奥に混じる、朱天のものとしか思えない邪悪な瘴気。
「止めるぞ、百希夜君!!」
「はい!!」
二人は同時に駆け出していた。
だが、ほんのわずかに間に合わなかった。
彼らが走り出した時には、すでに床のあちこちから血が滲み出していたのだ。
床だけではない。
壁からも。
天井からも。
おびただしい血が、どっと溢れ出す。
「これは……!?」
驚愕する大久保の前で、赤黒い濁流が蠢いていた。
その血の一滴一滴が、これまでの戦いで流されたものだった。
開現師たちの血。
悪鬼たちの慟哭が染み込んだ瘴気。
そして、東西南北の戦場で撒き散らされた四天王たちの毒。
それらすべてが、中心にいるアカネへと導かれていく。
まるで、へその緒を通して母体から子へ栄養が送られるように。
血と瘴気が流れ込むたび、アカネの下腹部が赤々と光を帯びていった。
「これ以上、させるか!」
大久保はすでに、血の濁流の中へ押印済みの瓦礫を流し込んでいた。
「押印!!」
瓦礫がアカネの足元へ辿り着いた瞬間、大久保は牙王印を押し込む。
ドンッ!!
巨大な象の脚の幻影が顕現し、アカネの身体を横から押し倒した。
だが――。
『待ってください……! 彼女の内部に、別の反応があります』
ひび割れた深紅の慧珠から、梓の声が響く。
梓は慧珠を通して見ていた。
アカネの内側。
そこから、触手のように無数の血管を伸ばす“何か”を。
『これは……種……?』
梓の視界に映ったもの。
それは、血よりもなお赤い、異様な種子だった。
「ふふ……見えたようね」
それまで意識を失っていたはずのアカネが、再び目を開ける。
その瞳には、まだ歪んだ陶酔が残っていた。
「そうよ。これこそ、私が“あの子”に選ばれた証明……授かった種――」
アカネは絶え間なく蠢く腹部を押さえ、恍惚とした笑みを浮かべる。
「《堕龕の魔種》」
上擦った声でそう告げながら、アカネは身ごもった腹を慈しむように、自身の腹部を撫でた。
「これまでの戦いも……この城で流された血も、瘴気も、毒も……すべては“あの子”の計略」
アカネは、その笑みをさらに歪ませる。
「わけの分からないことを……!」
和泉は、点火針の刀身を赤く染め上げた。
「もう、これ以上何もさせやしない!!」
床を蹴り、跳び上がる。
赤い火が、刃に収束した。
「紡げ――《赤い一線》!!」
必殺の一閃が、アカネへ振り下ろされる。
「無駄よ!」
アカネは腹部を抱えたまま、陶然と笑った。
「私は、この種を宿すに足る器!」
その瞬間、床を這っていたすべての血が、彼女の体内へと流れ込んだ。
「だからこそ、私は次なる存在へと至る!!」
アカネの肉体を、大量の血と肉が包み込んでいく。
骨が軋む。
肉が膨れ上がる。
黒い瘴気が血管のように全身を走り、彼女の輪郭を押し広げていく。
人の形が、内側から壊されていった。
「この力があれば、私は――」
新たなる存在へ至る。
そう確信したはずのアカネの言葉が、そこで止まった。
『違うよ』
アカネの表情が、初めて凍りついた。
腹の奥底から、声が響いた。
無邪気な子どもの声。
だが、その声色とは裏腹に、底知れない冷たさがあった。
『君は、その先には立てない』
「待って、朱天……それは、どういう――」
『君もまた、僕を育てるための器にすぎないんだよ』
その声は、静かだった。
あまりにも静かで、あまりにも残酷だった。
『咲く花じゃない』
「……なにを、言っているの?」
アカネの声から、余裕が消えた。
『君のような“殻”は、割るためにあるってことさ』
朱天の声は、とても穏やかだった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
『ありがとう。これまで育ててくれて』
どくん、と。
アカネの腹部が大きく脈打つ。
『そして、さようなら。僕を閉じ込める殻』
「……っ」
アカネの顔が歪んだ。
ようやく理解したのだ。
自分もまた、誰かを支配する側ではなかった。
朱天にとっては、ただの器。
ただの母体。
ただの殻。
「嫌……私は、まだ――」
黒い根のような瘴気が、アカネの腹から伸びる。
喉へ。
胸へ。
眼へ。
彼女の声が、少しずつ潰れていく。
「私は……まだ……」
最後の言葉は、形にならなかった。
アカネの輪郭が崩れる。
血が肉を押し広げ、瘴気が骨を組み替え、四天王の残滓が毒となって流れ込んでいく。
そして、やがてそこに立っていたのは、もはやアカネではなかった。
四つの鬼の顔。
八本の腕。
歪に膨れ上がった鬼の肉体。
だが、その瞳に意思はない。
怒りも。
嗜虐も。
嘲笑も。
すべてが混じり合ったまま、ただ暴れるためだけに形を得た怪物。
「まだ、終わりじゃないらしいね」
「ええ」
和泉と大久保が構え直す。
その前で、巨大な鬼は虚ろな目をしたまま、ただ呆然と立っていた。
だが、梓の慧珠はその異変を捉えていた。
『二人とも、気を付けてください。あの鬼の内側で、先ほどの《堕龕の魔種》が成長を続けています』
「成長……?」
和泉が目を細める。
朱禍童子の肉体は、今もなお、ぐにゃり、ぐにゃりと形を変えていた。
四つの顔。
八本の腕。
膨れ上がった鬼の肉体。
だが、それは完成した姿ではない。
内側から、何かに押し広げられているようだった。
『しかも……形状が安定していません。中で、別のものが育っているようです』
その時、朱禍童子の四つの顔が一斉に震えた。
「ゴオオオオオオ!!」
言葉なき怪物が、巨大な咆哮を上げる。
次の瞬間、四本の腕が力任せに振り下ろされた。
ドゴオオオオッ!!
地面が砕け、激しく粉塵が舞い上がる。
「とにかく! 今は奴を止めるのが先決だ!!」
飛び散る瓦礫の中、和泉と大久保は同時に跳んだ。
宙へ舞った和泉を、赤色の鬼面が睨みつける。
かっと目を見開いたかと思うと、その口が大きく裂けた。
「カアアアアアアア!!」
吐き出されたのは、大量の黒い灰。
灼熱を帯びた灰が、和泉へ襲い掛かる。
「同じような技を、そう何度も喰らってたまるか!」
和泉は掌に火を灯し、それを高速で回転させる。
「飛火手裏剣!!」
回転する火輪が、飛んでくる灰を切り裂く。
火と灰がぶつかり、爆ぜ、黒い煙が宙へ散った。
すると、朱禍童子の首がぐるりと回る。
今度は、黄色の鬼面が和泉へ向いた。
黄色の鬼面が口元を歪め、粘ついた唾液を吐き出す。
「っ!?」
和泉の身体に付着したそれは、瞬時に黒く変色し、硬質化した。
鼻腔に広がる、甘ったるい匂い。
「これは……飴か!?」
固まった飴が、和泉の手足を縛る。
動きの止まった和泉へ、朱禍童子の腕が振り下ろされた。
「こっちもいることを忘れないでほしいな!!」
大久保が瓦礫を鬼の頭上へ蹴り上げる。
すでに、その瓦礫には印が刻まれていた。
大久保は地面に牙王印を押しつける。
「押印!!」
ドンッ!!
巨大な象の脚が顕現し、朱禍童子の肩口を踏みつける。
振り下ろされかけた腕の軌道が、わずかに逸れた。
「はああああああ!!」
その隙に、和泉は全身の熱を高める。
べったりと身体に貼りついた飴が、じゅう、と音を立てて溶け落ちていった。
だが、朱禍童子は止まらない。
今度は青い鬼面が、かっと眼を見開く。
「消えろおおおお!!」
野太い声が響いた瞬間、強烈な衝撃波が二人を弾き飛ばした。
「ぐっ……!」
「大丈夫かい、百希夜君?」
「問題ないです……」
和泉は点火針を握り直しながら、朱禍童子を見据える。
その時、残る緑の鬼面が、ゆっくりと口を開いた。
吐き出されたのは、血の臭いを帯びた濁った息。
「っ……!」
それを吸い込んだ瞬間、和泉の心拍が跳ね上がった。
血が熱い。
神経が焼ける。
身体が勝手に前へ出ようとする。
戦え。
壊せ。
切り裂け。
そんな衝動が、頭の奥を叩く。
「百希夜君!」
大久保の声に、和泉は奥歯を噛み締めた。
「……問題、ないです」
和泉は呼吸を整え、胸の奥で荒れ狂う熱を押さえ込む。
これは力ではない。
血を無理やり沸かされているだけだ。
「……奴の動き、妙ですね」
「うん。僕もそう思っていたところだ」
朱禍童子は、追撃してこなかった。
あれほどの力を持ちながら、和泉たちを仕留めきる動きではない。
暴れている。
攻撃している。
だが、そのすべてが、どこか偏っている。
「藤本さん。奴の内部の様子は分かるかい?」
大久保が問いかける。
ひび割れた深紅の慧珠が、かすかに光った。
『……見えます。ですが、かなり不安定です』
梓の声には、明らかな疲労が滲んでいた。
『中心の種が……先ほどより形を変えています。まるで……胎児めいた輪郭に……』
「胎児……?」
その言葉に、和泉の背筋が冷たくなる。
同時に、敵の狙いが見えた気がした。
「百希夜君。君も勘づいたかい?」
「ええ……」
和泉は朱禍童子を睨みつける。
視線は鬼の顔ではない。
その腹の奥。
蠢く《堕龕の魔種》のさらに内側へ向けられていた。
「朱天の野郎……あの鬼の中で育つつもりかよ」
「そうなると、あの巨大な鬼は――」
大久保が牙王印を握り直す。
「中の幼体を守る繭、というわけだね」
和泉は、点火針の切っ先を下げない。
「だったら、やることは一つです」
「ああ」
大久保は、わずかに笑った。
「一気に叩き割る!」
朱禍童子が、再び言葉なき咆哮を上げた。
八本の腕が、天を覆うように振り上げられる。
次の瞬間。
そのすべてが、和泉へ向かって振り下ろされた。
「形態変化――《灰切》!!」
和泉の叫びとともに、点火針が巨大な両刃の大剣へと変化する。
ドゴオオオオッ!!
振り下ろされた複数の腕を、和泉は灰切の刀身で受け止めた。
「ぐっ……!」
全身に、凄まじい衝撃が走る。
腕が軋む。
膝が沈む。
だが、和泉は歯を食いしばり、踏みとどまった。
「はああああああッ!!」
そのまま灰切を振るう。
巨大な刀身が、唸りを上げて横へ走った。
朱禍童子の巨体が、その脅威的な一撃に押され、わずかに後ずさる。
「カアアアアアアア!!」
赤鬼の面が、再び大量の灰を吐き出した。
灼熱を帯びた灰が、黒い嵐となって和泉へ迫る。
だが――。
「邪魔だ!!」
灰切の一閃が、灰の嵐を真正面から吹き飛ばした。
黒灰が裂け、火花が散り、道が開く。
「ぐぅ……!」
和泉はそのまま追撃をかけようと踏み込む。
しかし、灰切はあまりにも重い。
高威力である反面、小回りは利かない。
巨大な刀身を振り抜いた反動で、和泉の体勢がわずかに崩れかけた。
その隙を、黄鬼の面が見逃さない。
口元を歪め、粘ついた黒い飴の塊を吐き出す。
それは空中で弾け、和泉の動きを封じようと迫った。
「押印!!」
だが、その瞬間。
大久保の声が響いた。
和泉と朱禍童子がぶつかり合っている間に、大久保はすでに周囲へ印を仕込んでいた。
床。
瓦礫。
砕けた柱。
戦場のあちこちに刻まれた白い印が、一斉に光る。
ドンッ!!
顕現した象の脚が、飛来した飴の塊を地面へ叩きつけた。
黒い飴は床へ潰れ、硬質化しながら砕け散る。
「助かります!」
「礼はあとでいいよ!」
大久保は牙王印を構えたまま、朱禍童子を見据える。
「今は、あいつを倒すことだけ考えよう!」
その時、青鬼の面がかっと眼を見開いた。
「死ねえええええッ!!」
放たれた罵声が、刃となって飛ぶ。
目に見えない言葉の刃が、和泉の精神を切り裂こうと迫った。
「っ……!」
和泉は灰切の幅広い刀身の陰へ身を隠す。
ギギギギンッ!!
言葉の刃が刀身にぶつかり、耳障りな音を立てて弾けた。
和泉はその隙に灰切を持ち上げ、再び振り下ろそうとする。
だが――。
ガシッ!!
朱禍童子の八本の腕が、灰切の刀身をまとめて掴んだ。
「なっ……!」
凄まじい握力が、刀身を軋ませる。
次の瞬間、朱禍童子は刀身ごと和泉の身体を振り回した。
「ちいいいいッ!!」
和泉は咄嗟に灰切を地面へ突き立てる。
ガギィッ!!
大剣の刃が床を抉り、無理やり勢いを殺した。
だが、朱禍童子の力は止まらない。
八本の腕が、なおも灰切を押さえ込む。
このままでは、埒が明かない。
ならば――。
和泉は、地面に突き立てた大剣を一気に持ち上げようとする。
しかし、その瞬間。
朱禍童子の拳が、和泉の頭上へ振り下ろされた。
「はああああッ!!」
和泉は柄を握ったまま、わずかに浮き上がった灰切の刀身を、思いきり蹴り上げる。
重い刀身が、下から跳ね上がった。
それは、剣技というより、ほとんど力任せの反撃だった。
だが、その一撃は朱禍童子の予測を外した。
「グガアアアッ!!」
蹴り上げられた灰切の刃が、振り下ろされていた腕の一本を叩き斬る。
巨大な腕が宙を舞い、黒い瘴気と血のような液体を撒き散らした。
和泉は荒い息を吐きながら、灰切を構え直す。
「……悪いな」
その瞳には、まだ火が灯っていた。
「俺たちは、まだ止まるわけにはいかないんだ!!」
和泉の猛攻に、朱禍童子も荒れ狂う。
四つの鬼面が、四方八方へ毒を吐き散らした。
「こっちも忘れないでほしいな!」
だが、大久保が足首へ押印を叩き込む。
ドンッ!!
顕現した象の脚が、朱禍童子の足元を打ち抜いた。
巨体が、わずかに傾く。
先ほど《群象》を大きく展開し終えた今、本来なら出力の低下は避けられない。
だが――。
大久保は、息を整えながら牙王印を握り直す。
赤鬼面が、大久保へ向かって灰を吹きつけた。
「遅い!!」
すでに大久保は、前方へ瓦礫を投げ放っていた。
その瓦礫に、牙王印を叩き込む。
「押印!!」
顕現した象の脚が、飛来する灰を真正面から跳ね返した。
さらに、大久保はもう一歩踏み込む。
「連印!!」
刻まれた複数の印が、一斉に光る。
無数の象脚が連なり、灰の奔流を押し返した。
「ゴオオオオオッ!?」
跳ね返された灰を、朱禍童子自身が浴びる。
黒灰が鬼面にまとわりつき、肉を焼き、視界を奪った。
大久保は、その手応えにわずかに目を細める。
自分でも分かる。
今の動きは、普段の自分では届かなかった。
大きな力を使い果たし、消耗しきっているはずの身体が、それでもなお前へ出ている。
これも――彼の影響なのか。
大久保の攻撃に合わせるように、和泉が灰切の刀身を振り上げる。
「はああああッ!!」
巨大な刀身に足をかけ、全身の体重を乗せる。
踏み込みでは足りない。
腕力だけでも足りない。
ならば、自分の身体すべてを刃に乗せる。
鋭い一閃が、朱禍童子の腕を叩き斬った。
「グガアアアアアアッ!!」
腕を失い、朱禍童子が慟哭を上げる。
四つの鬼面は眼を血走らせ、狂ったように毒を吐き続けた。
灰。
飴。
言葉の刃。
血毒の息。
四天王の残滓が、意思もなく暴れ回る。
「大人しくしてもらうよ!!」
大久保は、朱禍童子の巨体を駆け上がった。
肩へ。
腕へ。
首筋へ。
そして、四つの鬼面へ向かって次々に印を叩き込む。
「押印!!」
ドンッ!!
鬼面の顎めがけて、象の脚が蹴り上がる。
朱禍童子の頭部が跳ね上がり、毒の息が空へ逸れた。
だが、その直後。
着地した大久保へ、朱禍童子の脚が跳んだ。
「ぐっ!?」
わずかに反応が遅れた。
激しい衝撃が全身を貫き、大久保の身体が後方へ大きく弾き飛ばされる。
「大久保さん!」
「僕はいい! 前を見ろ、百希夜君!!」
次に、朱禍童子は残った腕を和泉へ振り下ろした。
「ちっ!?」
だが、和泉はその猛攻の中で、灰切を再び元の点火針の姿へと戻す。
突然、巨大な刀身が消えた。
受け止められるはずだった拳は、勢いそのままに宙を切る。
思いがけない空振りに、朱禍童子の巨体が拳の後を追って前へつんのめった。
だが、両脚を踏みしめ、かろうじて倒れずに耐える。
「いや」
後方で、大久保が血を拭いながら笑った。
「そのまま倒れてもらいましょうかね!!」
大久保が牙王印を構える。
先ほどまでの攻防。
鬼の巨体を駆け上がった時。
四つの鬼面へ印を叩き込んだ時。
その隙に、彼はすでにもう一つの印を仕込んでいた。
朱禍童子の膝裏。
巨体を支える、最も無防備な支点へ。
「押印!!」
ドンッ!!
二本の象脚が、朱禍童子の膝裏を同時に打ち抜いた。
「ガアアアアアアッ!!」
巨体の重心が、完全に崩れる。
支えを失った朱禍童子は、咆哮を上げながら前方へ倒れ込み始めた。
「ナイスアシストです、大久保さん!」
朱禍童子が倒れる先。
そこには、すでに和泉が待ち構えていた。
「ウオオオオオオッ!!」
朱禍童子は最後のあがきとして、残った拳を和泉へ放つ。
だが、和泉は背を向けていた。
点火針の刀身を肩に担ぎ、その切っ先だけを朱禍童子へ向けている。
見ていない。
だが、信じている。
大久保が崩した巨体の軌道を。
自分の背後へ落ちてくる、朱禍童子の位置を。
そして、自分の炎が届く、その一点を。
「討て――」
和泉の声が、静かに落ちる。
「《灰切》!!」
瞬間。
点火針の刀身が、赤い光を放った。
細い刃が、巨大な両刃の大剣へと一気に変化する。
背後へ突き出された灰切の刃が、落下してくる朱禍童子の顔面へ突き刺さった。
ドゴオオオオオオッ!!
落下の勢い。
灰切の重量。
和泉の炎。
そのすべてが一点に重なり、朱禍童子の四つの鬼面をまとめて砕き割る。
だが、和泉は勝利の手応えを感じなかった。
斬ったのではない。
倒したのでもない。
何かを、開けてしまった。
砕けた鬼面の奥。
赤黒い肉の裂け目のさらに奥で。
《堕龕の魔種》が、脈打っていた。
倒れた朱禍童子の肉体の奥底から、わずかな胎動が、灰切の刀身を伝って和泉へと流れ込んでくる。
それは、次第に大きく、力強いものへと変わっていく。
「……まさか」
和泉の喉が、かすかに震えた。
その胎動は、朱禍童子のものではない。
アカネのものでもない。
もっと奥。
もっと深く。
鬼哭餓亂城そのものの底から響いてくるような、巨大な鼓動。
やがて、そのうねりは城全体へと伝わり、鬼哭餓亂城を低く軋ませた。
夢の城が、現実へ爪を立てるように。
遠く、現実世界の夜空に、赤黒い城の影が浮かび上がる。
「――遅かったか!?」
大久保が、苦い声を漏らす。
殻を割った。
だが、それは止めるためではなかった。
むしろ、内側に眠るものへ、出口を与えてしまったのだ。
赤黒い肉の裂け目が、ゆっくりと開く。
その奥から、白い指が伸びた。
ぬめった膜を裂き、何かが這い出ようとしている。
からん。
どこかで、盃の転がる音がした。
無邪気な子どもの笑い声が、城の奥底から響く。
『ようやく――』
その声は、アカネのものではない。
朱禍童子のものでもない。
鬼哭餓亂城の主。
朱天の声だった。
『目が覚めた』
戦いの終局へと向かう中で。
ついに、朱天が再世する――。
次回予告
朱禍童子を討ち果たした和泉。
だが、勝利の手応えはなかった。
崩れた骸の奥で、新たな鬼が目を醒ます。
次回、
第82話「崩界王・朱天将」
鬼哭餓亂城が、現の世へ爪を立てる。




