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夢幻開現師 ―夢の守り人―  作者: ks21
第八章:「鬼哭餓亂城・籠城編」
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第81話「堕龕の魔種」

四天王・アカネを討ち取った和泉。


これで、東方の間の戦いは終わった――はずだった。


だが、倒れたはずのアカネの内側で、赤黒い何かが胎動を始める。


終わったはずの戦いが、鬼哭餓亂城の奥底を揺らす。

第81話「堕龕(だがん)魔種(ましゅ)


 燃える炎の手が、アカネの背を貫き、胸から突き出していた。


 身体を焦がすほどの熱波。


 その中心にいながら、和泉の内側には、奇妙なほど冷たい覚悟が流れている。


 戦いの決着とは、これほどにあっけないものなのか。


 和泉自身、その事実をまだ受け止めきれずにいた。


 貫かれたアカネもまた、あまりのあっけなさに戸惑いを隠せないようだった。


「これで……終わりだ」


 和泉は、まるで自分自身に言い聞かせるように呟いた。


「はは……」


 口元から血を流しながら、アカネは肩越しに和泉へ視線を送る。


「まさか、これほどとは……ね」


 和泉は静かに、その視線を受け止めた。


 そして、ぐっと手に力を込める。


 炎に包まれた腕を、アカネの身体から引き抜いた。


「……っ」


 その瞬間、和泉の腕に、生々しい感触が残った。


 覚悟はしていた。


 敵を倒すために必要な一撃だった。


 それでも、生理的な嫌悪感までは消せない。


 炎の熱よりも、その感触の方が、嫌に深く神経へこびりついた。


 腕を抜かれたアカネの身体が、糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちる。


「き、君……」


 アカネは、途切れ途切れに声を漏らした。


「“この子”と戦った時より……強くなっていない?」


 貫かれた箇所は、内側から焼かれていた。


 出血すら、ほとんどない。


 ただ、焦げた煙だけが細く立ち上っている。


「……」


 和泉は、じっと崩れ落ちたアカネを見下ろしていた。


「お前が……俺を怒らせただけだ」


 その声は、嫌に平坦だった。


 叫びでもない。


 怒号でもない。


 そこに、激しい怒りはもう残っていない。


 燃え尽きた怒りの底にある、冷たい灰のような声だった。


「……まいったわね」


 アカネは、かすかに笑った。


 だが、次の瞬間。


「ゴフッ……!?」


 口から大量の血を吐き出し、そのまま血の中へ身体を沈めるように倒れ込んだ。


『和泉さん、大久保指導官代理の方も終わったようです』


 深紅に光る慧珠から、梓の声が響く。


 だが、その声には、かすかなノイズが混じっていた。


 いつものような冷静さは保っている。


 けれど、その奥にある疲労までは隠しきれていない。


『あとは、お任せを――くッ!?』


 倒れたアカネを浄化しようと、梓の慧珠の光が近づいた瞬間。


 接続が、大きく揺らいだ。


「梓さん!? 大丈夫ですか!?」


 和泉が思わず声を上げる。


 深紅の慧珠には、細かな亀裂が走っていた。


 光が明滅し、今にも砕けそうに震えている。


『やはり……私には、少しばかり荷が重かったようですね……』


     * * *


 現実世界。


 梓は、脳内を駆け巡る痛みに必死に耐えていた。


 四つの慧珠を通じて流れ込む情報が、彼女の頭の中を焼くように暴れ回っている。


 和泉の戦場。


 理恵の暴走。


 杏樹と亜子の負傷。


 敵の能力。


 瘴気の濃度。


 そして、鬼哭餓亂城そのものの崩壊の兆し。


 そのすべてを同時に処理し続けた代償が、今になって梓の身体へ押し寄せていた。


「……っ、う……」


 奥歯を噛み締め、梓は耳を押さえる。


 指の隙間から、つう、と赤いものが流れた。


 耳から、血が出ている。


 それでも、梓は慧珠から目を逸らさなかった。


「ですが……私の仕事は、最後まで必ず果たします」


 彼女の視線の先には、意識を失った花奈の姿があった。


 さらにその奥。


 テントの外では、氷室が今も孤軍奮闘している。


 誰も、楽な状況にはいない。


 誰も、完全な状態では戦えていない。


 ならば、自分だけが弱音を吐くわけにはいかなかった。


 梓は震える指で、再び慧珠へ触れる。


 深紅の光が、かすかに揺らいだ。


 それでも、消えない。


「お嬢様……皆様……」


 梓は痛みに歪む顔を上げる。


「どうか、もう少しだけ……持ちこたえてください」


     * * *


『大丈夫、と安易には言えませんが……皆様が命を賭して戦っているのです』


 震える声を必死に抑えながら、梓は気丈に言葉を紡ぐ。


『私も、弱音を吐いている暇はありません』


 その声は、かすれていた。


 けれど、折れてはいなかった。


「……なら、後はお任せします」


 梓の覚悟を受け止め、和泉は静かに頷いた。


 深紅の慧珠が、淡く光る。


 倒れたアカネの身体を包み込むように、浄化の光が広がっていった。


 だが、和泉の胸中は決して穏やかではなかった。


 他者の命も、尊厳も、一切顧みない者たち。


 人を器とし、駒とし、犠牲とし、平然と踏みにじる者たち。


 そんな相手を前にして。


 自分の戦いには、いったい何の意味があったのか。


 自分は、何を守ることができたのか。


 そうした想いが、ささくれのように和泉の精神へ突き刺さる。


 勝ったはずなのに。


 終わったはずなのに。


 胸の奥には、どうしようもないざらつきだけが残っていた。


「百希夜君は、よくやったよ」


 気難しい顔で黙り込む和泉の肩を、横からぽん、と誰かが叩いた。


 大久保だった。


 いつの間にか、彼は和泉の隣に立っていた。


「君は、よくやった」


 その声は、いつものように柔らかかった。


 けれど、その言葉はどこか、大久保自身にも言い聞かせているように聞こえた。


 救えなかったものがある。


 守りきれなかったものがある。


 それでも、今ここに残っているものを守るために、彼らは戦った。


 和泉は何も言えず、ただ小さく息を吐いた。


 これで、今回の事件も終わる。


 そう思った。


 そう思おうとした。


 その瞬間――。


 倒れたはずのアカネの指が、ぴくりと動いた。


 そして、彼女の肉体が、まるで見えない糸で吊り上げられるように起き上がる。


「まだ……やる気かよ!」


 やるせない憤りを吐き出すように、和泉は再び点火針を構えた。


 だが、立ち上がったアカネを見た瞬間、和泉は違和感に気づく。


 すでに、彼女の精神は風前の灯火だった。


 意識が戻ったというより、肉体だけが無理やり動かされている。


 それなのに――。


 アカネの腹部だけが、どくどくと異様に脈打っていた。


 呼吸ではない。


 心臓の鼓動でもない。


 もっと別のもの。


 それを裏付けるように、彼女の下腹部には無数の血管が浮き上がり、不気味に蠢いていた。


 腹の奥底で、何かが内側から身じろぎしている。


 和泉には、そう見えた。


 そう。


 それは――胎動。


 じくじくと浮き上がった血管から、血が滴り落ちる。


 床へ零れた瞬間、和泉たちの鼻腔を強烈な血の匂いが貫いた。


「……この匂い」


 和泉は、その匂いを知っていた。


 かつて、金是町(こんぜちょう)で咲いた血花桜(けっかざくら)


 赤々とした花弁から漂っていた、甘く、腐った血の香り。


 そして、その奥に混じる、朱天のものとしか思えない邪悪な瘴気。


「止めるぞ、百希夜(ときや)君!!」


「はい!!」


 二人は同時に駆け出していた。


 だが、ほんのわずかに間に合わなかった。


 彼らが走り出した時には、すでに床のあちこちから血が滲み出していたのだ。


 床だけではない。


 壁からも。


 天井からも。


 おびただしい血が、どっと溢れ出す。


「これは……!?」


 驚愕する大久保の前で、赤黒い濁流が蠢いていた。


 その血の一滴一滴が、これまでの戦いで流されたものだった。


 開現師たちの血。


 悪鬼たちの慟哭が染み込んだ瘴気。


 そして、東西南北の戦場で撒き散らされた四天王たちの毒。


 それらすべてが、中心にいるアカネへと導かれていく。


 まるで、へその緒を通して母体から子へ栄養が送られるように。


 血と瘴気が流れ込むたび、アカネの下腹部が赤々と光を帯びていった。


「これ以上、させるか!」


 大久保はすでに、血の濁流の中へ押印済みの瓦礫を流し込んでいた。


押印(ムドラ)!!」


 瓦礫がアカネの足元へ辿り着いた瞬間、大久保は牙王印を押し込む。


 ドンッ!!


 巨大な象の脚の幻影が顕現し、アカネの身体を横から押し倒した。


 だが――。


『待ってください……! 彼女の内部に、別の反応があります』


 ひび割れた深紅の慧珠から、梓の声が響く。


 梓は慧珠を通して見ていた。


 アカネの内側。


 そこから、触手のように無数の血管を伸ばす“何か”を。


『これは……種……?』


 梓の視界に映ったもの。


 それは、血よりもなお赤い、異様な種子だった。


「ふふ……見えたようね」


 それまで意識を失っていたはずのアカネが、再び目を開ける。


 その瞳には、まだ歪んだ陶酔が残っていた。


「そうよ。これこそ、私が“あの子”に選ばれた証明……授かった種――」


 アカネは絶え間なく蠢く腹部を押さえ、恍惚とした笑みを浮かべる。


「《堕龕(だがん)魔種(ましゅ)》」


 上擦った声でそう告げながら、アカネは身ごもった腹を慈しむように、自身の腹部を撫でた。


「これまでの戦いも……この城で流された血も、瘴気も、毒も……すべては“あの子”の計略」


 アカネは、その笑みをさらに歪ませる。


「わけの分からないことを……!」


 和泉は、点火針の刀身を赤く染め上げた。


「もう、これ以上何もさせやしない!!」


 床を蹴り、跳び上がる。


 赤い火が、刃に収束した。


「紡げ――《赤い一線》!!」


 必殺の一閃が、アカネへ振り下ろされる。


「無駄よ!」


 アカネは腹部を抱えたまま、陶然と笑った。


「私は、この種を宿すに足る器!」


 その瞬間、床を這っていたすべての血が、彼女の体内へと流れ込んだ。


「だからこそ、私は次なる存在へと至る!!」


 アカネの肉体を、大量の血と肉が包み込んでいく。


 骨が軋む。


 肉が膨れ上がる。


 黒い瘴気が血管のように全身を走り、彼女の輪郭を押し広げていく。


 人の形が、内側から壊されていった。


「この力があれば、私は――」


 新たなる存在へ至る。


 そう確信したはずのアカネの言葉が、そこで止まった。


『違うよ』


 アカネの表情が、初めて凍りついた。


 腹の奥底から、声が響いた。


 無邪気な子どもの声。


 だが、その声色とは裏腹に、底知れない冷たさがあった。


『君は、その先には立てない』


「待って、朱天……それは、どういう――」


『君もまた、僕を育てるための器にすぎないんだよ』


 その声は、静かだった。


 あまりにも静かで、あまりにも残酷だった。


『咲く花じゃない』


「……なにを、言っているの?」


 アカネの声から、余裕が消えた。


『君のような“殻”は、割るためにあるってことさ』


 朱天の声は、とても穏やかだった。


 だからこそ、逃げ場がなかった。


『ありがとう。これまで育ててくれて』


 どくん、と。


 アカネの腹部が大きく脈打つ。


『そして、さようなら。僕を閉じ込める殻』


「……っ」


 アカネの顔が歪んだ。


 ようやく理解したのだ。


 自分もまた、誰かを支配する側ではなかった。


 朱天にとっては、ただの器。


 ただの母体。


 ただの殻。


「嫌……私は、まだ――」


 黒い根のような瘴気が、アカネの腹から伸びる。


 喉へ。


 胸へ。


 眼へ。


 彼女の声が、少しずつ潰れていく。


「私は……まだ……」


 最後の言葉は、形にならなかった。


 アカネの輪郭が崩れる。


 血が肉を押し広げ、瘴気が骨を組み替え、四天王の残滓が毒となって流れ込んでいく。


 そして、やがてそこに立っていたのは、もはやアカネではなかった。


 四つの鬼の顔。


 八本の腕。


 歪に膨れ上がった鬼の肉体。


 だが、その瞳に意思はない。


 怒りも。


 嗜虐も。


 嘲笑も。


 すべてが混じり合ったまま、ただ暴れるためだけに形を得た怪物。


「まだ、終わりじゃないらしいね」


「ええ」


 和泉と大久保が構え直す。


 その前で、巨大な鬼は虚ろな目をしたまま、ただ呆然と立っていた。


 だが、梓の慧珠はその異変を捉えていた。


『二人とも、気を付けてください。あの鬼の内側で、先ほどの《堕龕の魔種》が成長を続けています』


「成長……?」


 和泉が目を細める。


 朱禍童子の肉体は、今もなお、ぐにゃり、ぐにゃりと形を変えていた。


 四つの顔。


 八本の腕。


 膨れ上がった鬼の肉体。


 だが、それは完成した姿ではない。


 内側から、何かに押し広げられているようだった。


『しかも……形状が安定していません。中で、別のものが育っているようです』


 その時、朱禍童子の四つの顔が一斉に震えた。


「ゴオオオオオオ!!」


 言葉なき怪物が、巨大な咆哮を上げる。


 次の瞬間、四本の腕が力任せに振り下ろされた。


 ドゴオオオオッ!!


 地面が砕け、激しく粉塵が舞い上がる。


「とにかく! 今は奴を止めるのが先決だ!!」


 飛び散る瓦礫の中、和泉と大久保は同時に跳んだ。


 宙へ舞った和泉を、赤色の鬼面が睨みつける。


 かっと目を見開いたかと思うと、その口が大きく裂けた。


「カアアアアアアア!!」


 吐き出されたのは、大量の黒い灰。


 灼熱を帯びた灰が、和泉へ襲い掛かる。


「同じような技を、そう何度も喰らってたまるか!」


 和泉は掌に火を灯し、それを高速で回転させる。


飛火手裏剣(とびひしゅりけん)!!」


 回転する火輪が、飛んでくる灰を切り裂く。


 火と灰がぶつかり、爆ぜ、黒い煙が宙へ散った。


 すると、朱禍童子の首がぐるりと回る。


 今度は、黄色の鬼面が和泉へ向いた。


 黄色の鬼面が口元を歪め、粘ついた唾液を吐き出す。


「っ!?」


 和泉の身体に付着したそれは、瞬時に黒く変色し、硬質化した。


 鼻腔に広がる、甘ったるい匂い。


「これは……飴か!?」


 固まった飴が、和泉の手足を縛る。


 動きの止まった和泉へ、朱禍童子の腕が振り下ろされた。


「こっちもいることを忘れないでほしいな!!」


 大久保が瓦礫を鬼の頭上へ蹴り上げる。


 すでに、その瓦礫には印が刻まれていた。


 大久保は地面に牙王印を押しつける。


押印(ムドラ)!!」


 ドンッ!!


 巨大な象の脚が顕現し、朱禍童子の肩口を踏みつける。


 振り下ろされかけた腕の軌道が、わずかに逸れた。


「はああああああ!!」


 その隙に、和泉は全身の熱を高める。


 べったりと身体に貼りついた飴が、じゅう、と音を立てて溶け落ちていった。


 だが、朱禍童子は止まらない。


 今度は青い鬼面が、かっと眼を見開く。


「消えろおおおお!!」


 野太い声が響いた瞬間、強烈な衝撃波が二人を弾き飛ばした。


「ぐっ……!」


「大丈夫かい、百希夜君?」


「問題ないです……」


 和泉は点火針を握り直しながら、朱禍童子を見据える。


 その時、残る緑の鬼面が、ゆっくりと口を開いた。


 吐き出されたのは、血の臭いを帯びた濁った息。


「っ……!」


 それを吸い込んだ瞬間、和泉の心拍が跳ね上がった。


 血が熱い。


 神経が焼ける。


 身体が勝手に前へ出ようとする。


 戦え。


 壊せ。


 切り裂け。


 そんな衝動が、頭の奥を叩く。


「百希夜君!」


 大久保の声に、和泉は奥歯を噛み締めた。


「……問題、ないです」


 和泉は呼吸を整え、胸の奥で荒れ狂う熱を押さえ込む。


 これは力ではない。


 血を無理やり沸かされているだけだ。


「……奴の動き、妙ですね」


「うん。僕もそう思っていたところだ」


 朱禍童子は、追撃してこなかった。


 あれほどの力を持ちながら、和泉たちを仕留めきる動きではない。


 暴れている。


 攻撃している。


 だが、そのすべてが、どこか偏っている。


「藤本さん。奴の内部の様子は分かるかい?」


 大久保が問いかける。


 ひび割れた深紅の慧珠が、かすかに光った。


『……見えます。ですが、かなり不安定です』


 梓の声には、明らかな疲労が滲んでいた。


『中心の種が……先ほどより形を変えています。まるで……胎児めいた輪郭に……』


「胎児……?」


 その言葉に、和泉の背筋が冷たくなる。


 同時に、敵の狙いが見えた気がした。


「百希夜君。君も勘づいたかい?」


「ええ……」


 和泉は朱禍童子を睨みつける。


 視線は鬼の顔ではない。


 その腹の奥。


 蠢く《堕龕の魔種》のさらに内側へ向けられていた。


「朱天の野郎……あの鬼の中で育つつもりかよ」


「そうなると、あの巨大な鬼は――」


 大久保が牙王印を握り直す。


「中の幼体を守る繭、というわけだね」


 和泉は、点火針の切っ先を下げない。


「だったら、やることは一つです」


「ああ」


 大久保は、わずかに笑った。


「一気に叩き割る!」


 朱禍童子が、再び言葉なき咆哮を上げた。


 八本の腕が、天を覆うように振り上げられる。


 次の瞬間。


 そのすべてが、和泉へ向かって振り下ろされた。


「形態変化――《灰切》!!」


 和泉の叫びとともに、点火針が巨大な両刃の大剣へと変化する。


 ドゴオオオオッ!!


 振り下ろされた複数の腕を、和泉は灰切の刀身で受け止めた。


「ぐっ……!」


 全身に、凄まじい衝撃が走る。


 腕が軋む。


 膝が沈む。


 だが、和泉は歯を食いしばり、踏みとどまった。


「はああああああッ!!」


 そのまま灰切を振るう。


 巨大な刀身が、唸りを上げて横へ走った。


 朱禍童子の巨体が、その脅威的な一撃に押され、わずかに後ずさる。


「カアアアアアアア!!」


 赤鬼の面が、再び大量の灰を吐き出した。


 灼熱を帯びた灰が、黒い嵐となって和泉へ迫る。


 だが――。


「邪魔だ!!」


 灰切の一閃が、灰の嵐を真正面から吹き飛ばした。


 黒灰が裂け、火花が散り、道が開く。


「ぐぅ……!」


 和泉はそのまま追撃をかけようと踏み込む。


 しかし、灰切はあまりにも重い。


 高威力である反面、小回りは利かない。


 巨大な刀身を振り抜いた反動で、和泉の体勢がわずかに崩れかけた。


 その隙を、黄鬼の面が見逃さない。


 口元を歪め、粘ついた黒い飴の塊を吐き出す。


 それは空中で弾け、和泉の動きを封じようと迫った。


押印(ムドラ)!!」


 だが、その瞬間。


 大久保の声が響いた。


 和泉と朱禍童子がぶつかり合っている間に、大久保はすでに周囲へ印を仕込んでいた。


 床。


 瓦礫。


 砕けた柱。


 戦場のあちこちに刻まれた白い印が、一斉に光る。


 ドンッ!!


 顕現した象の脚が、飛来した飴の塊を地面へ叩きつけた。


 黒い飴は床へ潰れ、硬質化しながら砕け散る。


「助かります!」


「礼はあとでいいよ!」


 大久保は牙王印を構えたまま、朱禍童子を見据える。


「今は、あいつを倒すことだけ考えよう!」


 その時、青鬼の面がかっと眼を見開いた。


「死ねえええええッ!!」


 放たれた罵声が、刃となって飛ぶ。


 目に見えない言葉の刃が、和泉の精神を切り裂こうと迫った。


「っ……!」


 和泉は灰切の幅広い刀身の陰へ身を隠す。


 ギギギギンッ!!


 言葉の刃が刀身にぶつかり、耳障りな音を立てて弾けた。


 和泉はその隙に灰切を持ち上げ、再び振り下ろそうとする。


 だが――。


 ガシッ!!


 朱禍童子の八本の腕が、灰切の刀身をまとめて掴んだ。


「なっ……!」


 凄まじい握力が、刀身を軋ませる。


 次の瞬間、朱禍童子は刀身ごと和泉の身体を振り回した。


「ちいいいいッ!!」


 和泉は咄嗟に灰切を地面へ突き立てる。


 ガギィッ!!


 大剣の刃が床を抉り、無理やり勢いを殺した。


 だが、朱禍童子の力は止まらない。


 八本の腕が、なおも灰切を押さえ込む。


 このままでは、埒が明かない。


 ならば――。


 和泉は、地面に突き立てた大剣を一気に持ち上げようとする。


 しかし、その瞬間。


 朱禍童子の拳が、和泉の頭上へ振り下ろされた。


「はああああッ!!」


 和泉は柄を握ったまま、わずかに浮き上がった灰切の刀身を、思いきり蹴り上げる。


 重い刀身が、下から跳ね上がった。


 それは、剣技というより、ほとんど力任せの反撃だった。


 だが、その一撃は朱禍童子の予測を外した。


「グガアアアッ!!」


 蹴り上げられた灰切の刃が、振り下ろされていた腕の一本を叩き斬る。


 巨大な腕が宙を舞い、黒い瘴気と血のような液体を撒き散らした。


 和泉は荒い息を吐きながら、灰切を構え直す。


「……悪いな」


 その瞳には、まだ火が灯っていた。


「俺たちは、まだ止まるわけにはいかないんだ!!」


 和泉の猛攻に、朱禍童子も荒れ狂う。


 四つの鬼面が、四方八方へ毒を吐き散らした。


「こっちも忘れないでほしいな!」


 だが、大久保が足首へ押印を叩き込む。


 ドンッ!!


 顕現した象の脚が、朱禍童子の足元を打ち抜いた。


 巨体が、わずかに傾く。


 先ほど《群象》を大きく展開し終えた今、本来なら出力の低下は避けられない。


 だが――。


 大久保は、息を整えながら牙王印を握り直す。


 赤鬼面が、大久保へ向かって灰を吹きつけた。


「遅い!!」


 すでに大久保は、前方へ瓦礫を投げ放っていた。


 その瓦礫に、牙王印を叩き込む。


押印(ムドラ)!!」


 顕現した象の脚が、飛来する灰を真正面から跳ね返した。


 さらに、大久保はもう一歩踏み込む。


連印(サンガ)!!」


 刻まれた複数の印が、一斉に光る。


 無数の象脚が連なり、灰の奔流を押し返した。


「ゴオオオオオッ!?」


 跳ね返された灰を、朱禍童子自身が浴びる。


 黒灰が鬼面にまとわりつき、肉を焼き、視界を奪った。


 大久保は、その手応えにわずかに目を細める。


 自分でも分かる。


 今の動きは、普段の自分では届かなかった。


 大きな力を使い果たし、消耗しきっているはずの身体が、それでもなお前へ出ている。


 これも――彼の影響なのか。


 大久保の攻撃に合わせるように、和泉が灰切の刀身を振り上げる。


「はああああッ!!」


 巨大な刀身に足をかけ、全身の体重を乗せる。


 踏み込みでは足りない。


 腕力だけでも足りない。


 ならば、自分の身体すべてを刃に乗せる。


 鋭い一閃が、朱禍童子の腕を叩き斬った。


「グガアアアアアアッ!!」


 腕を失い、朱禍童子が慟哭を上げる。


 四つの鬼面は眼を血走らせ、狂ったように毒を吐き続けた。


 灰。


 飴。


 言葉の刃。


 血毒の息。


 四天王の残滓が、意思もなく暴れ回る。


「大人しくしてもらうよ!!」


 大久保は、朱禍童子の巨体を駆け上がった。


 肩へ。


 腕へ。


 首筋へ。


 そして、四つの鬼面へ向かって次々に印を叩き込む。


押印(ムドラ)!!」


 ドンッ!!


 鬼面の顎めがけて、象の脚が蹴り上がる。


 朱禍童子の頭部が跳ね上がり、毒の息が空へ逸れた。


 だが、その直後。


 着地した大久保へ、朱禍童子の脚が跳んだ。


「ぐっ!?」


 わずかに反応が遅れた。


 激しい衝撃が全身を貫き、大久保の身体が後方へ大きく弾き飛ばされる。


「大久保さん!」


「僕はいい! 前を見ろ、百希夜君!!」


 次に、朱禍童子は残った腕を和泉へ振り下ろした。


「ちっ!?」


 だが、和泉はその猛攻の中で、灰切を再び元の点火針の姿へと戻す。


 突然、巨大な刀身が消えた。


 受け止められるはずだった拳は、勢いそのままに宙を切る。


 思いがけない空振りに、朱禍童子の巨体が拳の後を追って前へつんのめった。


 だが、両脚を踏みしめ、かろうじて倒れずに耐える。


「いや」


 後方で、大久保が血を拭いながら笑った。


「そのまま倒れてもらいましょうかね!!」


 大久保が牙王印を構える。


 先ほどまでの攻防。


 鬼の巨体を駆け上がった時。


 四つの鬼面へ印を叩き込んだ時。


 その隙に、彼はすでにもう一つの印を仕込んでいた。


 朱禍童子の膝裏。


 巨体を支える、最も無防備な支点へ。


押印(ムドラ)!!」


 ドンッ!!


 二本の象脚が、朱禍童子の膝裏を同時に打ち抜いた。


「ガアアアアアアッ!!」


 巨体の重心が、完全に崩れる。


 支えを失った朱禍童子は、咆哮を上げながら前方へ倒れ込み始めた。


「ナイスアシストです、大久保さん!」


 朱禍童子が倒れる先。


 そこには、すでに和泉が待ち構えていた。


「ウオオオオオオッ!!」


 朱禍童子は最後のあがきとして、残った拳を和泉へ放つ。


 だが、和泉は背を向けていた。


 点火針の刀身を肩に担ぎ、その切っ先だけを朱禍童子へ向けている。


 見ていない。


 だが、信じている。


 大久保が崩した巨体の軌道を。


 自分の背後へ落ちてくる、朱禍童子の位置を。


 そして、自分の炎が届く、その一点を。


「討て――」


 和泉の声が、静かに落ちる。


「《灰切》!!」


 瞬間。


 点火針の刀身が、赤い光を放った。


 細い刃が、巨大な両刃の大剣へと一気に変化する。


 背後へ突き出された灰切の刃が、落下してくる朱禍童子の顔面へ突き刺さった。


 ドゴオオオオオオッ!!


 落下の勢い。


 灰切の重量。


 和泉の炎。


 そのすべてが一点に重なり、朱禍童子の四つの鬼面をまとめて砕き割る。


 だが、和泉は勝利の手応えを感じなかった。


 斬ったのではない。


 倒したのでもない。


 何かを、開けてしまった。


 砕けた鬼面の奥。


 赤黒い肉の裂け目のさらに奥で。


 《堕龕(だがん)魔種(ましゅ)》が、脈打っていた。


 倒れた朱禍童子の肉体の奥底から、わずかな胎動が、灰切の刀身を伝って和泉へと流れ込んでくる。


 それは、次第に大きく、力強いものへと変わっていく。


「……まさか」


 和泉の喉が、かすかに震えた。


 その胎動は、朱禍童子のものではない。


 アカネのものでもない。


 もっと奥。


 もっと深く。


 鬼哭餓亂城そのものの底から響いてくるような、巨大な鼓動。


 やがて、そのうねりは城全体へと伝わり、鬼哭餓亂城を低く軋ませた。


 夢の城が、現実へ爪を立てるように。


 遠く、現実世界の夜空に、赤黒い城の影が浮かび上がる。


「――遅かったか!?」


 大久保が、苦い声を漏らす。


 殻を割った。


 だが、それは止めるためではなかった。


 むしろ、内側に眠るものへ、出口を与えてしまったのだ。


 赤黒い肉の裂け目が、ゆっくりと開く。


 その奥から、白い指が伸びた。


 ぬめった膜を裂き、何かが這い出ようとしている。


 からん。


 どこかで、盃の転がる音がした。


 無邪気な子どもの笑い声が、城の奥底から響く。


『ようやく――』


 その声は、アカネのものではない。


 朱禍童子のものでもない。


 鬼哭餓亂城の主。


 朱天の声だった。


『目が覚めた』


 戦いの終局へと向かう中で。


 ついに、朱天が再世する――。

次回予告


朱禍童子を討ち果たした和泉。


だが、勝利の手応えはなかった。


崩れた骸の奥で、新たな鬼が目を醒ます。


次回、

第82話「崩界王・朱天将」


鬼哭餓亂城が、現の世へ爪を立てる。

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