第80話「天敵の炎」
北方、南方、西方――。
三つの戦場で四天王は討たれ、残るは東方の間。
和泉百希夜と大久保淳は、黒煙を操る四天王・アカネ、そして灰色の番犬・死灰と対峙する。
アカネにとっての天敵――。
その炎が、黒き煙を焼き払う。
第80話「天敵の炎」
「さあ、第二ラウンド開始だ!!」
和泉の手を握り、起き上がらせた大久保が声を上げる。
「……はい!!」
和泉もまた、再び気力を取り戻す。
そんな二人を、アカネは冷たい視線で見つめていた。
(あれほど溢れていた力が、また安定している。せっかく、器の底が割れかけていたのに……)
煙管を、こつこつと鳴らす。
その仕草には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
(とっとと、“覚醒”のための贄に仕上げたかったのだけれど……)
カンッ。
その時、ひと際大きな音を鳴らし、アカネは戦闘態勢へと移行する。
「まあ、多少は予定がずれたけれど……でも、結果は変わらないわ」
そして、煙管の先を二人へ向けた。
「まずは、邪魔者を排除して頂戴」
主の命に従い、灰色の番犬が駆け出した。
三つ首となった死灰は、鋭い牙の隙間からどす黒い瘴気を吐き出している。
「来るか!」
和泉が再び構える。
だが、それを大久保が片手で制した。
「和泉君は、少し休んだ方がいい。これまでの戦いで、相当なダメージが蓄積しているはずさ」
大久保の言う通り、度重なる戦闘の負荷は、和泉の精神を確実に削っていた。
身体はまだ動く。
だが、心の奥に溜まった疲労は、炎を扱う和泉にとって致命的な隙になりかねない。
「でも……!」
和泉が口を開いた、その時。
死灰が三つの巨大な口を開き、襲い掛かった。
「まったく、少しも“待て”ができない子だなあ」
大久保は、いつもの調子を崩さない。
手にした象牙印を、静かに振り下ろす。
ドンッ!!
「――!?」
飛び掛かる死灰の胴体へ、巨大な象の脚が落ちた。
凄まじい重量が、死灰の身体を舞台へ叩きつける。
だが、死灰はその肉体を灰のように霧散させ、圧力から逃れていた。
「ダメです! これじゃあ、押し切られる!!」
和泉が叫ぶ。
しかし、大久保はいつもの柔らかな態度を崩さなかった。
「確かに。普通に踏み潰すだけじゃ、あの子には届かないみたいだね」
再び死灰が襲い来る。
灰となり、影となり、牙となって、大久保へ迫る。
その中で、大久保は静かに精神を研ぎ澄ませた。
「でも、僕だって笠井さんから君たちを託されたんだ――」
象牙印を握る手に、力がこもる。
「こんな所で、まごついていられないさ!」
そして、大久保は自身の悪鬼を呼び起こした。
「悪鬼召喚――」
瞬間、彼の足元が白く輝き始めた。
「《群象》!!」
大久保の声に応じて、光の中から巨大な白き巨象が出現する。
山のような巨体。
白く硬質な皮膚。
太い四肢。
長くしなやかな鼻。
その姿は、ただ大きいだけではない。
目の前に立つだけで、戦場そのものを押し潰すような圧を放っていた。
「さあ!」
その額に乗った大久保が、死灰へ指を差す。
「奴を蹴散らしてくれ!!」
パオオオオン!!
群象は大きな鼻を持ち上げ、雄叫びを上げる。
自身の眼前に現れた巨大な悪鬼を敵と認識した死灰もまた、三つの首で唸り声を上げた。
灰色の番犬が床を蹴る。
白き巨象が地を踏み鳴らす。
そして――。
二体の悪鬼が、激突した。
ドゴオオオオオオオッ!!
凄まじい衝撃が、東方の間を揺らす。
死灰は身体をよじらせながら、鋭い牙と爪を群象の肉体へ喰い込ませようとした。
だが、その白く美しい皮膚は、驚くほどに硬い。
文字通り、歯が立たない。
「グルルルルルッ!!」
死灰は苛立つように唸り、灰となって群象の背後を取ろうとする。
しかし――。
ブオンッ!!
群象の巨大な鼻が、横薙ぎに振るわれた。
実体化する寸前の灰を、まとめて吹き散らす。
死灰の肉体は形を結ぶより早く砕かれ、灰色の瘴気となって舞台へ散った。
「すごい……」
和泉は思わず息を呑む。
これまで何度も和泉を苦しめてきた死灰。
灰となり、影となり、牙となって襲い来る厄介な相手。
その動きを、大久保の《群象》は、圧倒的な質量と広範囲の制圧で封じ込めていた。
「和泉君」
群象の額の上で、大久保が振り返る。
その表情は、いつものように穏やかだった。
けれど、その瞳には、確かな覚悟が宿っていた。
「少しだけでいい。息を整えて」
「大久保さん……」
「大丈夫」
大久保は笑った。
「ここは、僕が引き受ける」
「随分と余裕そうね」
奥で控えていたアカネが、気に食わなそうに言い放つ。
煙管から立ち上る煙が、ゆらりと揺れた。
「僕は本来、女性に手を上げるのは気が引けるんだけどね」
その瞬間。
群象の頭上に乗る大久保へ向けて、死灰の巨大な前脚が振り下ろされた。
だが、その爪が届くより早く、大久保は群象の額を蹴って飛び出す。
軽やかに空中へ身を躍らせ、その勢いのまま、アカネのいる場所へ一直線に飛んだ。
「面倒ね……貴方が相手をしなさい」
アカネが冷たく命じる。
その言葉に従い、そばに控えていた、澪音の姿をした形代が無言で走り出した。
虚ろな瞳。
感情のない動き。
ただ命令を遂行するためだけに動く人形のように、形代は大久保の進路へ割り込む。
「でも」
大久保の目が、そこで初めて鋭くなる。
「君のような外道には、容赦しない!!」
空中で身を捻りながら、大久保は地面へ向けて牙王印を構えた。
「牙王印は、直接叩き込むだけが使い道じゃないんだ!」
ドンッ!!
象牙印が、床へ押しつけられる。
印が刻まれた瞬間、その場所から巨大な群象の脚が突き出した。
「――!?」
「行くよ! 押印!!」
突撃してきた形代の進路を塞ぐように、白き巨象の脚が現れる。
ドゴッ!!
凄まじい衝撃が走った。
形代は両腕を交差させ、何とかその一撃を受け止める。
だが、群象の質量は尋常ではない。
その身体が、床を削りながら後方へ押し戻される。
「まあ、直接スタンプするより威力は落ちるけどね」
大久保は着地しながら、軽く肩をすくめた。
「足止めには十分!」
その間に、大久保はアカネへ向かってさらに踏み込む。
「チッ……使えないわね」
アカネは苛立たしげに舌打ちし、すぐさま距離を取ろうとする。
だが、大久保はにやりと笑った。
「悪いけど、そこはもう“スタンプ済み”さ」
「!?」
アカネが足元を見る。
その瞬間、床に刻まれていた印が白く浮かび上がった。
「それじゃ、こっちへ来てもらうよ!」
大久保が再び牙王印を押し込む。
ドンッ!!
同時に、アカネの足元から群象の脚が跳ね上がった。
「くッ!?」
背を蹴り上げられ、アカネの身体が宙へ放り出される。
その軌道は、まっすぐ大久保の方へ。
「はああああ!!」
大久保は踏み込み、飛んできたアカネへ渾身の蹴りを叩き込んだ。
ガンッ!!
鈍い衝撃音が、東方の間に響き渡る。
「――!?」
確かに、蹴りは入った。
だが、その瞬間。
大久保は初めて異変に気づいた。
手応えがない。
いや、肉体へ衝撃は伝わっている。
だが、肝心の“中身”に届いていない。
「随分と、乱暴してくれるじゃない」
驚く大久保をよそに、アカネは涼しげな顔で煙管を口へ運ぶ。
「ふっ」
吐き出された白煙が、大久保へ向かって伸びた。
「群象!!」
大久保の叫びと同時に、群象が巨大な鼻を振るう。
ブオンッ!!
その一撃が床板を抉り、大量の木片を巻き上げた。
飛び散った木片が、迫る白煙を乱し、掻き消していく。
その隙に、大久保は後方へ着地した。
「……君、何者だい?」
大久保が、アカネを見据えて問う。
アカネは煙管からゆっくりと煙をくゆらせ、ふっと笑った。
「何者、ね」
「先ほどの一撃、直撃したなら、それなりのダメージが入るはずだった」
大久保は、先ほどの攻防で感じた違和感を思い返す。
「でも、君に触れた瞬間、ようやく理解したよ」
その声が、わずかに低くなる。
「君はその身体を……いや、宿主の精神を乗っ取っている」
大久保は牙王印を握り直す。
「いわば、寄生体のようなものなんだろ?」
「ま、もう隠しておく必要もないかしら」
アカネは、悪びれもせず笑った。
「寄生体というのは……まあ、的を射ているわね」
そう言って、アカネは自身の胸元へ手を当てる。
「この“精神”は、単なる借り物。貴方の攻撃は、私には届かない」
煽るように、アカネは口元を歪めた。
「だからか」
大久保の眉がわずかに動く。
「さっきの攻撃、入っている気がしなかったのは」
「ただ、やはりコピーを重ねると駄目ね」
アカネは退屈そうに煙管を回す。
「他の子たちは、元の“精神”との繋がりが強すぎる。どれだけ似せても、完全な器にはならない」
そう言うと、アカネは煙管を咥え、ふっと煙を吐いた。
ゆらり、と舞い上がった白煙が、蛇のようにうねる。
次の瞬間。
それは目にも止まらぬ速さで、大久保へ向かって走った。
白い軌跡が、空間を裂く。
「完全に、舐められてるな……」
悪しき白煙が迫る中、大久保はすでに牙王印の押印を終えていた。
ドン!
ドン!
天井に刻まれた印から、巨大な脚が落ちる。
群象の脚が、煙を踏み潰した。
白煙はぐにゃりと形を歪め、四方へ散る。
その間に、大久保はアカネとの距離を詰めた。
「……貴方、人の忠告を聞かないタイプ?」
「ああ!」
大久保は笑う。
「案外、やってみないと分からないだろ?」
アカネが指をくい、と曲げる。
すると、散っていた煙が再び大久保へ向かって集まり始めた。
逃げ場を塞ぐように、四方から白煙が迫る。
「牙王印が生み出す脚は、単なる幻じゃない」
ふっと、大久保は笑った。
「その本質は――」
押印された印が、淡く輝く。
「圧倒的な質量が生む、重圧だ!!」
ぐん、と空間が軋んだ。
群象の脚が落ちた場所を中心に、見えない圧力が広がっていく。
その重圧に押さえつけられ、白煙の動きが鈍った。
煙であるはずなのに、まるで重い水の中を進むように動きが遅くなる。
「そして!!」
大久保が拳を構える。
「まだ、直接殴ってみる価値くらいはある!」
「無駄だと、まだ分からないの?」
アカネは冷ややかに言った。
大久保の拳が、アカネの顔面へ鋭く放たれる。
だが。
「ダメージがないからって、顔を腫らされるのは嫌よ」
コツン。
アカネは煙管を軽く振るい、大久保の拳を払い除けた。
「――でも、あまり“僕”ばかり気にしちゃ駄目だなあ!」
大久保が、ゆっくりと身体をのけぞらせる。
その背後。
大久保の身体に隠れるようにして、もう一人が踏み込んでいた。
「歯を食いしばれよ」
和泉だった。
大久保の影に紛れ、すでにアカネの懐へ迫っていた。
「あれを止めて!!」
アカネの声が初めて乱れる。
その命令に従い、澪音の姿をした形代が飛び出した。
だが――。
「させないよ!」
大久保は、足元の瓦礫を蹴り上げる。
その瓦礫には、すでに牙王印が押されていた。
大久保はそれを形代へ向けて投げつける。
次の瞬間。
瓦礫に刻まれた印が白く輝き、そこから群象の脚が飛び出した。
ドゴッ!!
現れた脚に蹴り飛ばされ、形代の動きが大きく阻害される。
「まったく、使い物にならないわね」
「お前もな」
「!?」
苛立つアカネの懐に、和泉はすでに潜り込んでいた。
その拳には、赤い火が灯っている。
「ちっ!!」
アカネは咄嗟に煙管を振り上げ、和泉へ叩き下ろそうとした。
だが――。
ゴッ!!
それよりも早く、和泉の拳がアカネの腹部へ叩き込まれた。
「うッ!?」
その瞬間。
初めて、アカネの表情が歪んだ。
激しい痛みが、借り物の“精神”を通り越し、アカネの本体へ響いたのだ。
『やはり、通用しましたね』
深紅の慧珠から、梓の声が響く。
その声には、かすかなノイズが混じっていた。
和泉、理恵、杏樹、亜子。
四人すべての戦況を同時に観測し続けている梓の負荷は、限界に近づいている。
それでも、彼女は東方の間への観測を切らなかった。
「ああ。藤本さんの言う通りだった」
大久保は拳を握りしめる。
「彼女は、僕の攻撃を受けても平然としていた。けれど、和泉君の攻撃だけは、ずっと避け続けていた」
大久保の瞳が、鋭くアカネを射抜く。
「つまり、彼の炎だけは、借り物の精神の奥にいる君まで届く」
そして、力強く言い放った。
「和泉君こそ、君にとっての天敵なのさ!!」
和泉の拳から迸る真っ赤な炎が、アカネの腹部を焼いた。
「はああああ!!」
和泉はさらに踏み込み、その拳へ力を込める。
だが――。
「ガアアアア!!」
横合いから飛び込んできた死灰が、二人の間へ割って入った。
巨大な牙が和泉へ迫る。
和泉は咄嗟に後方へ跳び、距離を取った。
「やれるね、百希夜君?」
大久保が声をかける。
「はい! もちろんです!」
和泉は再び点火針を手に取り、アカネと対峙した。
その背を見ながら、大久保は内心で驚きを隠せずにいた。
(それにしても、凄まじい回復力だ……)
一線級の開現師に必要な条件の一つ。
それは、精神的なタフさ。
鬼夢の中では、肉体への傷だけでなく、精神そのものが削られていく。
恐怖。
痛み。
後悔。
怒り。
焦り。
それらを浴び続ければ、普通なら心が折れる。
だが、和泉百希夜は違った。
(これほどタフな開現師を、少なくとも僕は見たことがない)
先ほど、大久保と交代して、わずかに息を整えたとはいえ、和泉はここまで何度も四天王の攻撃を受けている。
精神も身体も、限界に近いはずだった。
それなのに、まだ立っている。
それどころか――。
(彼は、時間が経てば経つほど、尻上がりに“怒り”を力へ変えていく)
恐怖に呑まれるのではない。
怒りに呑まれるのでもない。
怒りを燃料にして、それでも前へ進む。
それが、和泉百希夜という開現師だった。
「行くぞ!!」
和泉が床を蹴る。
銀色の刀身が、赤い炎を纏って走った。
「ちッ! 止めなさい!!」
先ほどのダメージが抜けきっていないアカネは顔を歪めながらも、死灰と澪音の形代へ命令を下す。
「群象! でかい方の動きを止めるんだ!!」
「任せて!」
大久保の指示を受け、白き巨象が地を踏み鳴らす。
対する死灰も三つの首で咆哮を上げ、瘴気を撒き散らしながら突進した。
白き巨象と地獄の番犬が、再び激突する。
轟音が、東方の間を揺らした。
一方、反対方向からは、澪音の姿をした形代が和泉へ迫る。
「彼女は僕が――」
「いえ、僕がやります」
援護に回ろうとした大久保を、和泉が制した。
「……分かった。僕はあっちを抑える」
大久保は一瞬だけ和泉を見る。
その瞳に宿る覚悟を見て、それ以上は止めなかった。
そして、群象と共に死灰の対応へ向かう。
『和泉さん。あまり無理はなさらない方がよいのでは?』
深紅の慧珠から、梓の声が響く。
いつも通り、抑えた声音。
だが、その奥には、確かに和泉を案じる気配があった。
ただ、その声はわずかに掠れていた。
慧珠の光も、かすかに揺らいでいる。
梓は今もなお、四つの戦場を同時に観測し続けているのだ。
「いや」
和泉は、澪音の形をしたものを見据える。
「あれは、俺がやらなきゃ駄目なんだ」
そう言って、点火針の刀身へ炎を纏わせた。
揺らいでいた火が、ゆっくりと収束していく。
薄く。
細く。
けれど、確かに。
炎は、無駄に荒れ狂うことなく、刀身へ静かに沿っていった。
(たとえ、深化覚醒ができなくても……)
和泉は息を整える。
(今の俺にできることを、やる)
「……」
澪音の姿をした形代は、表情一つ変えない。
虚ろな瞳で、ただ命令のままに和泉へ襲い掛かる。
その姿が、和泉の胸をひどく痛ませた。
かつて救えなかった少女の影。
朱天に利用され、アカネに弄ばれ、今もなお戦いの道具として扱われている姿。
怒りが、胸の奥で燃え上がる。
だが、和泉はその炎を暴走させなかった。
怒りを、刃へ。
悔しさを、一線へ。
揺らいでいた炎が、真っ直ぐに燃え上がる。
一瞬。
赤い火が、蒼へと変わった。
「紡げ――」
和泉が踏み込む。
澪音の形代が腕を振り上げる。
だが、遅い。
蒼い火が、一筋の糸のように空間を縫った。
「《赤い一線》」
ザンッ――。
静かな斬撃だった。
激しい爆発も、派手な轟音もない。
ただ、一本の線が走った。
蒼から、やがて赤へ。
瞬くように揺れる火の糸が、形代の身体を斬り抜ける。
ボッ――。
次の瞬間、炎が形代を包んだ。
だが、それは焼き尽くす炎ではない。
澪音の姿にまとわりついていた偽りを、静かに祓う炎だった。
炎の中で、澪音の姿がほどけていく。
少女の面影は薄れ、形代は本来の素体である女の姿へと戻っていった。
和泉は、燃え尽きていく影を見つめる。
その拳を、静かに握りしめた。
「……もう、利用させない」
* * *
一方、その頃。
大久保と群象は、黒き番犬――死灰と対峙していた。
「いやいや、こっちは任せろと啖呵を切ったものの……」
大久保は牙王印を構えながら、困ったように笑う。
床へ押印するたびに、白い印が浮かび上がり、群象の脚が死灰の動きを押さえ込む。
そこへ、群象の荒々しい攻撃が叩き込まれた。
ドゴッ!!
巨大な鼻が振るわれ、死灰の身体が灰のように散る。
だが、手応えは薄い。
死灰の身体は煙のようにほどけ、衝撃を受け流してしまう。
いくら群象の質量が圧倒的でも、相手が形を保たない以上、決定打にはなりにくい。
「相性最悪って感じだなあ~」
大久保はぼさぼさの髪を掻きながら、苦笑する。
だが、その目は諦めていなかった。
次の瞬間、大久保の頭の中に一筋の光明が差す。
「……なるほど。なら、潰すんじゃなくて――」
その言葉をかき消すように、死灰がさらに獰猛に暴れ出した。
「ガアアアアアア!!」
三つの首が、同時に咆哮を上げる。
ぐわっと開いた口が群象の首元へ噛みつき、鋭い爪が白い肌へ突き立てられた。
さらに、三つの尻尾が鞭のようにしなり、大久保へ襲い掛かる。
「おっと、危ないな!」
大久保は横へ跳び、尻尾の一撃をかわした。
砕けた床板と瓦礫が、周囲へ飛び散る。
その瞬間、大久保はすかさず牙王印を構えた。
「押印!!」
彼は飛び散った瓦礫へ、次々と印を刻んでいく。
ドンッ。
ドンッ。
ドンッ。
刻まれた白い印が、淡く輝いた。
大久保が再び牙王印を押し込む。
すると、瓦礫から群象の脚が飛び出し、蹴り飛ばされた石片が死灰の身体へ叩き込まれた。
ガガガガッ!!
瓦礫は死灰の黒い身体に吸い込まれるように沈む。
直接的な傷にはならない。
だが、衝撃によってその灰の身体は大きく乱れた。
群象に噛みついていた三つの首の力が、わずかに緩む。
「パオオオオン!!」
その隙を、群象は逃さなかった。
白き巨象が雄叫びを上げ、巨体を大きく揺らす。
首元へ食らいついていた死灰の身体が、強引に引き剥がされた。
圧倒的な肉の壁。
巨大な四肢。
戦場そのものを押し潰すような存在感。
その圧を前に、死灰はたまらず灰となって逃げようとする。
だが。
「逃さないよ!!」
大久保が牙王印を振り下ろした。
その瞬間、四方へ散っていた瓦礫の印が一斉に光る。
床。
壁。
天井。
砕けた柱の欠片。
至るところに刻まれていた白い印が、死灰と群象を囲むように浮かび上がった。
「君は灰になれる。だから攻撃を避けられる」
大久保は静かに言う。
「でもね、逃げ込む場所を全部押さえられたら――話は別だ」
ドンッ!!
巨大な群象の脚が、四方から振り下ろされる。
逃げようと広がった死灰の灰を、上から、横から、足元から、圧倒的な重圧が押し潰した。
「ガ、アアアアアア!!」
死灰が苦しげに吠える。
灰になって散ろうとしても、印に封じられた重圧が形を崩させない。
逃げ場を奪われた死灰は、三つの首を振り乱しながら、今度は群象へ突進した。
追い詰められた獣の本能。
逃げられないのなら、噛み砕く。
そう言わんばかりの突進だった。
だが、それは最も愚かな選択だった。
「さあ、後は頼んだよ、群象」
大久保が静かに告げる。
群象は長い鼻を持ち上げ、死灰へと向けた。
その瞬間。
死灰の三つの首が、初めて明確な戦慄を浮かべる。
群象は、おもむろに息を吐いた。
そして次の瞬間――凄まじい勢いで吸い込み始めた。
ゴオオオオオオオッ!!
「ガッ……!?」
猛烈な吸引が、死灰の身体を引き寄せる。
黒い灰が、瘴気が、煙のような肉体が、群象の鼻先へ吸い込まれていく。
死灰は必死に床へ爪を食い込ませた。
三つの首が吠え、尻尾が床を叩き、身体を引き裂かんばかりに踏ん張る。
だが――。
「そうはさせないよ」
大久保は、すでに次の印を刻み終えていた。
死灰が爪を立てている床。
そこにも、白い印が浮かび上がる。
「さあ、往生してもらうよ!!」
ドンッ!!
現れた群象の脚が、死灰の爪を踏み砕くように落ちた。
「ガアアアアアア!?」
踏ん張りが、崩れる。
ほんの一瞬。
死灰の身体が床から離れた。
それで十分だった。
ゴオオオオオッ!!
群象の鼻が、黒き番犬の身体を一気に吸い込んでいく。
灰の身体も。
瘴気の牙も。
三つの首も。
黒い尻尾も。
すべてが、巨大な白き鼻の奥へ呑み込まれていく。
「ガ、ア……アア……!」
最後まで抵抗しようとした死灰の咆哮が、途中で途切れた。
やがて、その巨体は完全に群象の中へ収められる。
ボンッ。
群象の内側で、鈍い音が鳴った。
白い巨体の鼻先から、黒煙がほんの少しだけ漏れる。
だが、それもすぐに消えた。
死灰は、完全に沈黙した。
「……ふう」
大久保は短く息を吐く。
「よし。こっちは片付いた」
そして、和泉の方へ視線を向ける。
その目には、いつもの柔らかさと、確かな信頼が宿っていた。
「行け、和泉君」
白き巨象が、静かに鼻を下ろす。
「アカネは、君に任せる」
* * *
その時だった。
残る手駒を失ったアカネが、怒りを込めて煙管を振るった。
黒煙が、和泉と大久保へ向けて襲い掛かる。
ドオオオンッ!!
凄まじい衝撃が走り、床一面に巨大なクレーターが刻まれる。
和泉と大久保は、それぞれ別方向へ跳んで黒煙をかわしていた。
「面白くもない茶番劇を見せられて、退屈なんだけど」
アカネの冷たい視線が、和泉を射抜く。
その瞳には、はっきりとした苛立ちが浮かんでいた。
「ああ、同感だ」
和泉は点火針を握り直す。
「お前たちのおふざけも、ここで終わらせる!」
銀色の閃光が走る。
それに応じるように、黒煙が不気味に舞い上がった。
「我が僕となりなさい!」
アカネが煙管を振るう。
黒煙は四方へ散り、屋敷内に身を潜めていた悪鬼たちを次々と呑み込んでいった。
「ガアアアアアア!!」
黒煙に侵された悪鬼たちが、黒き狂犬へと姿を変える。
牙を剥き、瘴気を撒き散らしながら、和泉へ襲い掛かった。
「どけえええええ!!」
和泉は踏み込む。
点火針の刀身が赤く燃え上がり、襲い来る黒犬たちを次々と斬り払った。
燃える刃が、黒煙を裂く。
和泉は止まらない。
そのまま一気に間合いを詰め、アカネへ向けて刀身を振り下ろす。
ガンッ!!
点火針と煙管がぶつかり合い、激しい火花を散らした。
「本当に、貴方には困ったものね!」
鍔迫り合いの中で、アカネが叫ぶ。
「貴方の中にいる“それ”の火は、本来実体を持たない私すら焦がす――」
アカネの言葉が指しているもの。
それは、和泉の内に眠る悪鬼。
白影。
「それに、貴方がお仲間を焚きつけるから、私の分け身たちも使い物にならなくなったじゃない!」
「当然だ!」
和泉の瞳に、赤い火が宿る。
「俺が、俺たちが――黒の部隊である俺たちが、お前たちなんかに負けるはずがないだろうが!!」
点火針から炎が爆ぜた。
ゴオッ!!
炎の衝撃が、アカネの身体を吹き飛ばす。
「チッ……!」
すかさず、アカネは煙管を咥え、大きく息を吸い込んだ。
「黒毒煙霧!」
凝縮された黒煙の塊が、砲弾のように和泉へ放たれる。
『和泉さん! 高濃度の瘴気が閉じ込められています。直撃は危険です!』
梓の警告が、深紅の慧珠から響く。
先ほどよりも、ほんの一拍遅い。
慧珠の光も、わずかに揺らいでいる。
それでも、梓は和泉へ必要な情報を届け続けていた。
だが、和泉はすでに動いていた。
「毒か! なら――」
点火針の刀身に、炎が灯る。
細く。
鋭く。
一点を貫くためだけに、火が収束していく。
「火槍尖!!」
放たれた炎が、槍のような一閃となって飛ぶ。
赤い火槍は、黒煙の塊を真正面から貫いた。
ボオオッ!!
炎が黒煙のベールを突き破り、そのままアカネへ迫る。
「壁となりなさい!!」
黒き狂犬たちが、アカネの命に従って飛び出した。
炎の槍を受け止めるように次々と盾となり、その身を焼かれながら散っていく。
「む……!? あの子は――」
刹那の攻防の中で、アカネは和泉の姿を見失っていた。
次の瞬間。
黒煙の揺らぎの中から、和泉が飛び出す。
「そこか!!」
アカネが煙管を振るう。
黒煙が刃となって飛び、飛び出した和泉の身体を切り裂いた。
だが――。
斬られたはずの和泉の姿が、陽炎のように揺らぐ。
輪郭が崩れ、熱に溶けるように消えていった。
「……朧陽炎」
「っ!?」
アカネが振り返る。
その時には、すでに和泉は彼女の背後を取っていた。
左手が、内側から真っ赤に燃えている。
炎は拳を包むのではない。
掌そのものを、赤く輝かせていた。
「《火焔神掌》」
静かな声。
だが、その一撃には、燃え上がる怒りと、折れない意志が込められていた。
和泉の真っ赤に燃える手刀が、背後からアカネを貫く。
「な……はッ……!?」
アカネの瞳が、大きく見開かれた。
今度は違う。
借り物の精神を通り抜け、その奥に潜む本体へ、炎が届いている。
白煙が乱れ、黒煙が裂ける。
アカネの身体が、大きく震えた。
和泉は歯を食いしばり、さらに炎を押し込む。
「これで……」
赤い火が、アカネの内側で爆ぜる。
「終わりだ!」
次回予告
四天王・アカネを討ち取った和泉。
これで、東方の間の戦いは終わった――はずだった。
倒れたはずのアカネの内側で、赤黒い何かが胎動を始める。
次回、
第81話「堕龕の魔種」
終わったはずの戦いが、鬼哭餓亂城の奥底を揺らす。




