第79話「黒き鬼女の余韻」
西方の間に、静寂が戻った。
血を操る四天王・バーミリオンは討たれ、
理恵たちは、苛烈な戦いの終幕を迎えた。
だが、その勝利は安堵だけを残してはくれない。
《黒百合戀母》の力に呑まれた理恵は、なおも黒き鬼女として立ち上がる。
傷ついた芦谷、限界を超えて支援を続ける梓、そして駆けつける真理。
勝利の余韻に残されたのは、
理恵の奥底に眠る闇と、來瀬川の名に刻まれた因縁だった。
黒き鬼女の爪痕が残る西方の間で、
戦いは次なる最終局面へとつながっていく。
西方の間にて繰り広げられた、理恵たちとバーミリオンの戦いは終わりを迎えた。
舞台の赤い照明は消え、豪奢な劇場には重い沈黙が落ちている。
倒れ伏したバーミリオン。
砕けたサーベル。
赤黒く染まったステージ。
確かに、戦いは終わったはずだった。
だが――。
理恵の能力は、まだ解除されていなかった。
『……お、お嬢様』
深紅の慧珠から、梓の震える声が漏れる。
その瞬間。
垂れた黒髪の奥にある瞳が、かっと見開かれた。
それは、倒れた標的から、次なる獲物へと視線を移す獣の目だった。
ゆらり、と。
黒き鬼母神が立ち上がる。
「く、くそ……!」
その視線の先にいたのは、芦谷だった。
黒百合戀母と化した理恵は、すでに次なる標的を見定めている。
だが、芦谷の身体も限界を迎えていた。
片腕を失い、全身に深い傷を負い、立っているのもやっとの状態。
それでも彼がまだ戦う意志を保っていられるのは、ただ一つ。
背後にいる生徒たちのためだった。
「せ、先生……!?」
「お前たちは下がっていろ!!」
震える生徒たちに向け、芦谷は強く言い放つ。
声だけは、まだ教師のものだった。
自分が倒れれば、生徒たちの心も折れる。
だから、どれほど傷ついていようと、芦谷は指導者としてのやせ我慢を続けるしかなかった。
黒百合戀母は、立華鉢頭摩鋏を再び抜き放つ。
紫紺の刃が、舞台のわずかな光を拾って妖しく輝いた。
「こいつは……弱ったな」
金鵄鳥を握る芦谷の手に、汗が滲む。
勝ち目など、ほとんどない。
それでも。
(とにかく、俺が盾になれば……多少なりとも時間は稼げるか?)
あまりにも無策だった。
けれど、他に方法はない。
考えている間にも、相手は待ってくれない。
ガッ!!
『お嬢様!?』
梓の悲鳴と同時に、理恵が駆け出した。
黒い死装束が舞台の上を滑る。
その速度は、先ほどバーミリオンを蹂躙した時と変わらない。
いや。
標的を変えただけで、殺意はまったく衰えていなかった。
「南無三!!」
芦谷が金鵄鳥を奏でる。
ピィィィイイイイ――!!
鋭い音色が、劇場に鳴り響く。
だが、もはやその程度では足止めにもならない。
黒百合戀母は一切怯まず、芦谷へ迫る。
振り上げられた刀身が、美しく、そして禍々しく光った。
これまでか。
そう思われた瞬間――。
「まったく……手のかかる子ね!!」
横合いから、銀色の閃きが飛び込んだ。
ガンッ!!
突然の速攻に、黒百合戀母の反応がわずかに遅れる。
だが、それでも理恵は襲いかかる者へ刀身を走らせた。
鋭い刃が、飛び込んできた真理の頬をかすめる。
赤い線が、白い肌に走った。
それでも真理は退かない。
ほんの一瞬の差で、彼女の銀色の刀身が黒百合戀母の頭部を打ち据えた。
鈍い音が響く。
黒百合戀母の身体が、ぐらりと揺れた。
そして、あっけなく地に伏せる。
倒れた瞬間、黒い死装束が霧のようにほどけ、理恵の姿は元へ戻っていった。
白く細い首。
乱れた黒髪。
力を失った細い身体。
そこにいたのは、先ほどまでの鬼女ではない。
傷つき、意識を失った來瀬川理恵だった。
『……ありがとうございます、真理様』
深紅の慧珠から、梓の声が震えながら響く。
北方の間での戦いを終えた真理たちへ、梓が救援を要請していたのだ。
真理は倒れた理恵を見下ろす。
その瞳が、ほんのわずかに揺れた。
だが、それは一瞬だけだった。
次の瞬間には、いつもの冷たい眼差しが戻っている。
「梓」
真理の声が、静かに落ちた。
「あなたが付いていながら、どういうこと?」
その怒りの矛先は、深紅の慧珠へ向けられていた。
『申し訳ございません。私の力不足により……』
「ええ。力不足では済まされないわ」
真理の声は冷たい。
だが、その奥には、抑え込まれた焦りと怒りが滲んでいた。
「けれど、今は責めている場合ではない。状況を報告して」
誰も、すぐには言葉を発することができなかった。
西方の間には、重い沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、亜子だった。
「何がなんだか分かんないんだけど……他のみんなはどうなってるの?」
その言葉で、まだ何か言いたげだった真理も口を閉じる。
『はい。南方の間では、杏樹様と大明寺様が敵の一体を討ち取りました』
その報告に、亜子の表情は大きく変わらなかった。
けれど、肩からわずかに力が抜ける。
彼女なりに、安堵したのだろう。
「……そっか。よかった」
短く、それだけを呟く。
「遅くなって申し訳ありません」
真理は、倒れ込む芦谷の元へ歩み寄った。
「いや、助かったよ……。それに、大明寺も無事でよかった」
芦谷は、生徒たちに支えられながら、何とか上体を起こす。
顔色は悪い。
片腕を失った痛みも、出血も、決して軽いものではない。
それでも、彼はまず生徒の無事を確認していた。
「梓、治療を」
『はい』
慧珠が淡く光り、芦谷の傷口へ浄化の光が注がれる。
裂けた傷は少しずつ塞がっていく。
呼吸も、わずかに落ち着いていった。
だが、失われた片腕までは戻らない。
『申し訳ございません。私の実力では、ここまでしか……』
「いや、随分楽になったよ」
芦谷は苦笑する。
「それより、大明寺たちの元へ案内してくれないかい?」
その言葉に、真理が眉をわずかに動かす。
「その状態で、まだ生徒の心配ですか」
「教師だからね」
芦谷は、片腕だけで何とか身体を支えながら笑った。
「みっともなくても、そこは譲れないさ」
亜子は、意識を失った理恵をそっと支えていた。
理恵の顔は青白く、呼吸は浅い。
先ほどまでの黒き鬼女の面影は、もうない。
だが、亜子はその手を離さなかった。
「なら、私が殿を務めましょう」
真理が静かに言う。
その声に、誰も異を唱えなかった。
こうして、真理たちは戦いの終わった南方の間へ向かうことになった。
崩れた舞台を背に、西方の間を後にする。
その道中、亜子がふと口を開いた。
「梓さん。和泉君は?」
『はい。和泉さんは、大久保様と共に最後の敵と会敵中です』
「最後の敵……」
亜子の声が、わずかに低くなる。
真理が、横目で亜子を見た。
「お友達が心配?」
その問いに、亜子は少しだけ考え、それから首を振った。
「指導官代理がいるし……それに、和泉君なら大丈夫」
「……そう」
真理は、それ以上何も言わなかった。
鬼哭餓亂城での戦いも、いよいよ佳境へと向かっている。
北方の間では、亜子と真理がシナバーを討った。
南方の間では、杏樹とレイカがシンシャを討った。
西方の間では、理恵と芦谷がバーミリオンを討った。
残るは、東方の間。
和泉百希夜と大久保淳。
そして、四天王最後の一人――アカネ。
鬼哭餓亂城の悪意は、まだ終わっていない。
次回予告
西方の間で、理恵と芦谷は四天王・バーミリオンを討ち取った。
だが、その勝利はあまりにも大きな代償を残す。
暴走した理恵。
片腕を失った芦谷。
疲弊しながらも四つの戦場を支え続ける梓。
北方、南方、西方――。
三つの戦場で四天王は倒れ、鬼哭餓亂城での戦いはいよいよ最終局面へ向かう。
残るは、東方の間。
そこでは、和泉百希夜と大久保淳が、黒煙を操るアカネ、そして灰色の番犬・死灰と対峙していた。
大久保の《群象》が戦場を押し潰し、
和泉の炎が、借り物の精神の奥に潜む敵の本体へ届く。
次回、
第80話「天敵の炎」
黒き煙を裂き、怒りを刃へ。
和泉の炎が、最後の四天王を焼く。




