第78話「血染めの舞台」
西方の間に広がるのは、観客なき豪奢な劇場。
血を操り、戦う者の理性を熱狂へと沈める四天王・バーミリオン。
理恵、芦谷、梓は連携によってその舞台を終わらせようとする。
だが、血に染まった舞台は、簡単には幕を下ろさない。
一度訪れたはずの終幕は、さらなる悲劇の第二幕へと変わっていく。
そして、追い詰められた理恵の中で、静かに“何か”が目を覚ます。
西方の間。
そこは、豪奢な劇場のような空間だった。
赤い緞帳。
金色の装飾。
磨き上げられた舞台。
そして、観客のいない客席。
本来ならば、喝采と音楽に満たされるはずの場所。
だが今、その舞台に響いているのは、狂気に染まった足音と、剣戟の音だった。
理恵へ襲いかかった東京校の三人を、芦谷の金鵄鳥の音色が縫い止める。
「來瀬川さん、今だ!!」
「畏まりました!」
理恵は素早く三人へ踏み込み、立華鉢頭摩鋏の峰で、それぞれの急所を打った。
「ぐっ……!」
「あ……」
戦いへの衝動に突き動かされていた三人の身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
理恵はすぐに三人の前へ立ち、彼らを庇うようにバーミリオンへ視線を向けた。
「いったい、何があったのですか?」
その問いに、芦谷は苦虫を噛み潰したような表情で答える。
「分からない。ここへ来てから、俺たちは悪鬼の群れに追われ続けていた。ようやくこの部屋に辿り着いたと思ったら、奴と対峙した途端、急に三人が暴れ出したんだ」
『おそらく、毒に近いものが彼らを極度の興奮状態にさせたのでしょうね』
三人の浄化を続けていた梓が、深紅の慧珠越しに告げる。
「毒?」
芦谷が眉をひそめる。
「梓の見立ては、おそらく当たっています」
理恵は静かに言った。
「彼らは敵味方の区別を失い、戦いへの衝動だけで動かされていた。バーミリオンの能力によって、理性を奪われていたのでしょう」
そう言いつつ、理恵はバーミリオンへ鋭い視線を向ける。
「かく言う私も、梓や芦谷先生が来られなければ、どうなっていたか分かりません」
そんな理恵たちを見て、バーミリオンは不敵に笑っていた。
「いやあ、素晴らしい!」
声高らかに、バーミリオンは芝居がかった仕草で拍手を送る。
「戦う者たちの友情。互いを庇い合う姿。なるほど、これはこれで美しい」
そこで、彼女は口元を歪めた。
「しかし、残念だ。僕はね、仲間同士が殺し合い、生き残った者が後悔に沈むような――そんな悲劇も嫌いではないんだがね」
その瞳には、相手を嘲笑するような嗜虐性が宿っていた。
「……いったい、奴は何者なんだ?」
三人の呼吸と意識が落ち着いてきたことを確かめると、芦谷も理恵と並び、バーミリオンと対峙する。
「恐らく……“朱天”の部下。いえ、“分け身”に近い存在でしょうね」
理恵の言葉に、バーミリオンは初めてわずかに目を見開いた。
「へえ……そこまで分かっているなんて、さすがは“紫苑の令嬢”さんだ」
「当然です」
理恵は一歩も引かずに答える。
「貴方の能力が、自身の血を媒介としたものであるなら、私の中にも一時的に“貴方の血”が流れたということ」
紫紺の光を宿した瞳が、きっと細められる。
「あれほどの“汚れた者の血”が、そうそうあるわけがないでしょう?」
「……」
理恵の言葉に、バーミリオンはすぐには答えなかった。
だが、その瞳の奥に揺らめく怒りの炎までは隠せない。
「なるほど……」
やがて、バーミリオンは静かにサーベルを構え直した。
「なら、いよいよ君たちを始末する時が来たようだ」
サーベルの切っ先が、理恵たちへ向けられる。
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
理恵もまた、立華鉢頭摩鋏の刀身を構えた。
「ここまでのことをされて……俺たち開現師が黙っておくと思うなよ」
芦谷の声にも、静かな怒りが滲んでいた。
一瞬の沈黙。
そして――。
ダンッ!!
次の瞬間、劇場全体に激しい衝撃音が鳴り響いた。
理恵とバーミリオンの刃が、舞台の中央で激しく噛み合う。
「やっぱり!」
刀身をぶつけ合いながら、バーミリオンは嬉しそうに笑った。
「仲間のおかげで、随分と動きがよくなったじゃないか!!」
理恵は答えない。
ただ、双剣を振るい、鋭く踏み込む。
だが――。
「しかし、僕の能力に気を取られるあまり――」
バーミリオンのサーベルが、理恵のわずかな迷いを突くように滑り込む。
「君の刃から、さっきまでの切れ味が消えているよ」
鋭い突きが飛ぶ。
理恵はそれを辛うじて受け流した。
だが、たしかにバーミリオンの言う通りだった。
理恵の攻撃には、先ほどまでの冴えがない。
血を浴びれば、興奮作用に呑まれる。
傷を与えれば、相手の再生と覚醒を助ける。
斬れば危険。
だが、斬らねば勝てない。
その矛盾が、理恵の剣を鈍らせていた。
「しかし!」
その刹那、芦谷の声が劇場に響いた。
「今度は俺もいることを、忘れちゃあ困るなあ!!」
芦谷が、手にした金鵄鳥を高く掲げる。
ピィィィイイイイ――!!
鋭く、耳障りな音色が、劇場全体を貫いた。
「くッ……!?」
金切り声にも似たその音は、バーミリオンの鼓膜を直接揺さぶる。
美しい舞台に似つかわしくない、不快で、鋭く、神経を逆撫でする音。
その一瞬、バーミリオンの動きが鈍った。
「そこです!」
理恵は、その隙を逃さない。
紫紺の双剣が、鋭い軌跡を描く。
ザンッ!!
バーミリオンの胸元を、理恵の一閃が深く斬り裂いた。
「あらら!」
鮮血が舞う。
だが、バーミリオンは痛みに顔を歪めながらも、なお笑みを崩さなかった。
「調子に乗っちゃって! 斬っても意味がないと、教えたと思うんだけどね!!」
裂けた傷口から、再び赤い血が飛び散る。
その血が空中へ弾けた瞬間――。
『私も居りますことを、お忘れでしょうか?』
「!?」
深紅の慧珠が、淡く光った。
梓が展開した結界が、飛び散った鮮血を包み込む。
血は空中で行き場を失い、理恵たちの身体へ触れることなく、淡い光の中で封じ込められた。
「なるほど……!」
芦谷の瞳が鋭くなる。
「血を封じれば、あいつの覚醒作用も抑えられるってわけか!」
『長くは持ちません。畳みかけるなら、今です』
「十分だ!」
芦谷は金鵄鳥を握りしめる。
「ここで一気に押し切る!!」
その言葉と同時に、芦谷の身体を光が包み込んだ。
「悪鬼転身――《鳶法師》!!」
眩い光が弾ける。
次の瞬間、芦谷の肉体は大きく変貌していた。
山伏装束をまとった、巨大な鳶。
鋭い嘴。
広げられた翼。
法衣のように風を孕む羽毛。
その姿は、鳥でありながら法師の威厳を纏う、異形の悪鬼だった。
「天羽扇!!」
鳶法師となった芦谷が、大きく翼を振るう。
ばさり、と空気が裂けた。
舞い散った羽が、次の瞬間、鋭利な刃へと変わる。
無数の羽刃が、雨のようにバーミリオンへ降り注いだ。
「くッ……!」
バーミリオンはサーベルを振るい、迫る羽を弾き落とす。
だが、すべては落としきれない。
ザシュッ!
ザシュザシュッ!!
数本の羽刃が、バーミリオンの肩に、腕に、脇腹に深々と突き刺さった。
「まったく……」
血を流しながらも、バーミリオンはなお笑っている。
「徒党を組んだからといって、随分と調子に乗ってくれるじゃないか」
だが、その笑みに、先ほどまでの余裕はない。
理恵はそれを見逃さなかった。
(ここで、叩き込む――!)
ピィィィイイイイ――!!
鳶法師の叫びが、再び劇場を震わせる。
金鵄鳥の音色とはまた違う、悪鬼そのものが放つ鋭い鳴き声。
その音が、バーミリオンの動きを一瞬縛った。
「それは……不快だよ!!」
バーミリオンは顔を歪める。
そして、自身の身体に突き刺さった羽刃を乱暴に引き抜いた。
血が飛ぶ。
だが、その血すら彼女にとっては武器の一部。
バーミリオンは引き抜いた羽を、芦谷へ向かって投げ返した。
「なッ!?」
さらに追撃をかけようとしていた芦谷は、反応が遅れる。
羽刃が、一直線に彼の胸元へ迫った。
「蕣花縛塊!!」
ズルッ――。
寸前で、床から伸びた蔓が芦谷の身体へ絡みつく。
理恵の咲かせた蔓が、強引に芦谷を後方へ引き寄せた。
投げ返された羽刃は、芦谷の羽毛を数本掠めながら、背後の舞台壁へ突き刺さる。
「す、すまない……助かったよ」
「いえ。ですが、やはり敵は通常ではありません」
理恵は、静かにバーミリオンを見据える。
「単純な力押しでは、通用しないでしょう」
「そのようだな」
芦谷も翼を畳み、息を整える。
「俺の金鵄鳥の音も、すでに馴化が始まっているようだ」
二人が距離を取ったことで、バーミリオンは体勢を整える。
胸元。
肩。
脇腹。
羽刃が突き刺さっていた箇所からは、なお血が滴っていた。
「なるほど」
バーミリオンは一本ずつ羽を抜きながら、涼しげに笑った。
「随分と調子が出てきたようだね」
だが、その傷はすぐには塞がらない。
先ほどまでなら瞬く間に再生していたはずの傷口が、わずかに開いたまま残っている。
「しかし、さっきの連携は、そう何度も使えないようだ」
バーミリオンの視線が、深紅の慧珠へ向いた。
血を封じるために結界を張り続けていた梓の光は、明らかに弱まっている。
慧珠の輝きも、先ほどより鈍い。
『……問題ありません。必ず、相手の能力を封じてみせます』
梓は即座に答える。
だが、その声には隠しきれない疲労が滲んでいた。
「くそッ……」
芦谷が低く吐き捨てる。
「奴は不死身ってことなのか?」
理恵たちが必死に畳みかけても、バーミリオンは倒れない。
斬られ、刺され、音で動きを止められても、なお立っている。
だが、理恵だけは違うものを見ていた。
「いいえ」
理恵は静かに首を振る。
「決して、無駄ではありません」
「何?」
芦谷が理恵を見る。
理恵は、バーミリオンの胸元を指さした。
「先ほどの私の一撃……まだ完全には修復できていません」
その言葉は、芦谷だけでなく、バーミリオン自身にも向けられていた。
「……」
バーミリオンの笑みが、わずかに薄くなる。
理恵の言う通りだった。
他の傷に比べ、胸元の深い斬撃だけは明らかに塞がりが遅い。
血の覚醒作用によって再生力を高めている。
だが、それは無限ではない。
「まあ」
バーミリオンは、再び芝居がかった笑みを浮かべる。
「さすがに何でもありでは、舞台として面白くないだろう?」
「なるほどな」
芦谷が目を細める。
「あの高速再生にも、限度はあるってことか」
「ええ」
理恵は立華鉢頭摩鋏を握り直す。
「ですので、このまま押せば――」
勝利への糸口が見えた。
そう思われた、その時。
「いや」
芦谷は低く告げた。
「残念だが、そう簡単な話じゃないみたいだ」
「それは、どういうことでしょうか?」
理恵が問い返す。
芦谷は、バーミリオンを見据えたまま答えた。
「さっきの攻防で、俺の金鵄鳥の音がもう効きにくくなり始めていた」
その指摘通り、バーミリオンはすでに芦谷の音に馴化しつつある。
最初は動きを止められた。
次は鈍った。
だが、三度目には、ほとんど無理やり動いてみせた。
「それに……梓さんも、同じことを何度もできる状態じゃない」
芦谷の視線が、浮かぶ慧珠へ向かう。
『問題ありません。必ず相手の能力を――』
「梓」
理恵が静かに名を呼んだ。
その声音に、梓は言葉を止める。
「あなたに無理をさせれば、他の皆さんにも影響が出ます。ここで消耗しきるわけにはいきません」
『ですが、お嬢様……』
「だからこそ」
芦谷が言葉を引き継いだ。
「次で必ず仕留める。それで構わないね?」
理恵は、短く息を吐いた。
紫紺の瞳に、静かな覚悟が宿る。
「ええ」
双剣の切っ先が、舞台の光を受けて鈍く輝く。
「これ以上の長期戦は避けなければなりません」
「なら、俺が奴を引きつける」
芦谷は翼を大きく広げる。
「來瀬川さん。君が、仕留めてくれ」
「……承知しました」
理恵は静かに頷いた。
そして、わずかに姿勢を低くする。
まるで一輪の花が、咲く直前に力を溜めるように。
「では、行くぞ!!」
鳶法師となった芦谷が、舞台の空へ舞い上がる。
「へえ!」
バーミリオンはサーベルを構え、口元を歪めた。
「今度は小鳥ちゃんがお相手かい?」
「ああ!」
芦谷は空中で羽を広げる。
「せっかくだから、相手をしてもらおうか!!」
再び、無数の羽が舞う。
鋭い羽刃が、四方からバーミリオンへ襲いかかった。
「まったく」
バーミリオンは軽やかにサーベルを振るう。
「芸がないね、君は!!」
ギンッ!
ギギンッ!!
放たれた羽刃は、ことごとく切り落とされていく。
だが、芦谷は攻撃の手を止めない。
「まだまだッ!!」
翼を振るい、さらに羽を飛ばす。
数で押し、角度を変え、空中から間合いを支配する。
だが。
「だから、まだ分からないのかい?」
バーミリオンが、ふっと姿勢を沈めた。
次の瞬間、舞台を蹴る。
赤い軌跡が走る。
彼女は羽刃の雨を掻い潜り、一気に芦谷の懐へ踏み込んできた。
「そこ!!」
ピィィィイイイイ――!!
芦谷の雄叫びが、バーミリオンを真正面から貫く。
だが――。
「まったく、芸がない!!」
バーミリオンは歯を食いしばりながらも、ほとんど怯まなかった。
音の衝撃を受け流すように、わずかに身体を傾ける。
そして、そのままサーベルを振り抜いた。
ザンッ!!
「ぐっ!?」
鳶法師となった芦谷の脇腹を、鋭い刃が切り裂いた。
だが、金鵄鳥の音が完全に無意味だったわけではない。
踏み込みが、わずかに浅い。
刃は深く入りきらず、致命傷を避けていた。
「うおオオオ!」
芦谷は痛みを押し殺し、翼をさらに広げる。
「《羽刃斬》!!」
その翼が、刃のように鋭く光る。
羽根の一枚一枚が、研ぎ澄まされた刃へと変わった。
芦谷はその身ごと、バーミリオンへ突撃する。
守りではない。
足止めでもない。
理恵の一撃へ繋げるため、自らを刃に変えた突攻だった。
しかし――。
「ははは。自分の身を挺して仲間の道を開く。確かに、美しい」
ぽた、ぽた、と。
赤い血がステージを染めていく。
「だが、それはあまりにも“古典的”すぎるね」
バーミリオンのサーベルの切っ先は、芦谷の翼を貫いていた。
「う……ぐッ!?」
芦谷の全身へ、焼けるような痛みが駆け抜ける。
翼を貫かれた衝撃で、鳶法師の身体が大きく軋んだ。
「まったく」
バーミリオンは、呆れたように肩をすくめる。
「君ごときの突撃を止めるために、僕がわざわざ能力を使うと思っていたのかい?」
そう言って、彼女はサーベルを握る手にぐっと力を込めた。
ぎり、と。
刀身が、翼の内側でねじれる。
「ぐうッ……!」
「フフ。情けないとは思わないのかい?」
バーミリオンは、芦谷の苦悶を愉しむように目を細めた。
「若人ばかりに負担をかけて、自分はその程度の足止めしかできないなんてさ」
ぎりぎりと、さらに刀身が食い込む。
その笑みは、劇場の主役が観客へ向ける優雅なものではない。
相手の痛みを味わい、追い詰め、踏みにじることを愉しむ者の笑みだった。
彼女もまた、他の四天王と同じ。
その根にあるのは、他者をいたぶらずにはいられない悪意だった。
「はは……」
「何を笑っているんだい?」
こんな状況でなお笑う芦谷に、バーミリオンの表情がわずかに歪む。
芦谷は血を吐くように息を漏らしながら、それでも笑っていた。
「あんたが……そういうサディスティックな奴で、助かったよ」
「……何?」
芦谷が、残った片翼をゆっくりと持ち上げる。
羽の先に、淡い光が宿る。
「まだ、何か――」
バーミリオンが警戒し、サーベルを引き抜こうとした。
だが、芦谷の狙いは攻撃ではなかった。
「こういうことだ!!」
次の瞬間。
芦谷は、自らの片翼を振り下ろした。
ザンッ!!
斬ったのは、バーミリオンではない。
自分自身の翼だった。
「ま、まさか――!?」
さしものバーミリオンも、一瞬理解が遅れた。
貫かれた翼を、自ら断つ。
それは逃げるためではない。
バーミリオンの視線とサーベルを、自分に縫い止めるため。
そして、その一瞬の死角を作るため。
翼を失った芦谷の身体が、力なく地上へ落下していく。
「大人だってな……」
落ちながら、芦谷は血の滲む声で笑った。
「それなりのプライドってのは、あるもんさ――」
そして、天へ向かって叫ぶ。
「今だ! やれ!!」
「まさかッ!?」
バーミリオンが振り向いた時。
すでに、決着は動き出していた。
「――芦谷先生、ありがとうございます」
舞台の光を受け、紫紺の影が舞う。
立華鉢頭摩鋏を手にした理恵が、バーミリオンの懐へ入っていた。
「くッ!? まだああああ――!」
最後の抵抗とばかりに、バーミリオンはサーベルを引き戻し、理恵を貫こうとする。
だが、遅い。
芦谷が作った一瞬。
梓が封じた血。
そして、理恵が見極めた再生の限界。
そのすべてが、この一撃へと結ばれていた。
「いえ」
理恵の瞳に、紫紺の光が宿る。
「これで“終幕”です」
立華鉢頭摩鋏の双刃が交差する。
舞台の上に、鬼母神の影が舞う。
淡く、静かに。
けれど、確かに死を告げる花のように。
「鬼ノ刻――」
理恵の声が、劇場に澄んで響く。
「《追想》!!」
交差した紫紺の斬撃が、バーミリオンの身体を深く刻んだ。
ザンッ!!
血の花が散る。
紫紺の軌跡が、舞台の上で美しく結ばれる。
「な……」
バーミリオンの目が、見開かれた。
「馬鹿な……僕が……この僕が……?」
驚異的な再生力を誇ったその身体も、この一撃には耐えきれなかった。
胸元から走った斬撃が、先ほど塞がりきっていなかった傷と重なり、再生の流れを完全に断ち切る。
サーベルが、彼女の手から滑り落ちた。
カラン、と。
乾いた音が、劇場に響く。
「こんな……幕引きなど……」
バーミリオンの身体が、力を失っていく。
豪奢な衣装が血に染まり、舞台の照明を受けて赤く揺れた。
「美しく……ない……」
最後まで芝居がかった声で、彼女はそう呟いた。
そして、そのまま力なくステージへ崩れ落ちた。
西方の間に、静寂が落ちる。
華やかな劇場の照明だけが、倒れたバーミリオンを無情に照らしていた。
『これで、終わりましたね』
深紅の慧珠から、安堵した梓の声が響く。
「いえ」
理恵は静かに息を吐いた。
「これも、芦谷先生と梓が来てくれたおかげです」
そう言って、理恵は急ぎ芦谷の元へ向かおうとする。
だが――。
「来るなああああああああ!!」
元の姿へ戻った芦谷が、失った片腕を押さえながら叫んだ。
鳶法師として断った片翼。
それは、人の姿へ戻った芦谷の片腕そのものでもあった。
「あ、芦谷先生!? いったい――」
その瞬間。
理恵も、ようやく自分自身の異変に気づいた。
戦いは終わった。
バーミリオンは倒れた。
それなのに、心臓の鼓動が収まらない。
どくん。
どくん。
どくん。
血が、熱い。
視界が、妙に鮮明だ。
全身の神経が剥き出しになったように、わずかな物音にすら反応してしまう。
まだ、戦いたい。
まだ、斬りたい。
まだ、この舞台で踊り続けたい。
そんな衝動が、理恵の内側から沸き上がってくる。
「……っ!?」
理恵は、自分の口元へ手を当てた。
指先に、赤いものが付着する。
鼻血。
興奮状態に晒され続けた身体が、すでに悲鳴を上げ始めていた。
それは、芦谷も同じだった。
「く、くそ……っ!? なんだ、これは……!」
芦谷はぎりぎりと歯を食いしばり、床に爪を立てる。
失った腕の痛みなど、とっくに意識の外へ追いやられていた。
それよりも強い。
傷の痛みすら凌駕するほどの闘争本能が、彼の思考を塗り潰そうとしている。
今にも、目の前のすべてへ襲いかかりたい。
そんな願望が、理性の底を突き破ろうとしていた。
『ま、まさか……これは!?』
梓が異変に気づいた、その時だった。
「アハハハハハハハハ!!」
倒れていたはずのバーミリオンが、笑った。
最初は小さく。
やがて、劇場全体へ響き渡るほど高らかに。
「まさに、真の演劇とは偶然から生まれるものさ!!」
バーミリオンは、ゆっくりと身を起こした。
胸元には、理恵の《追想》によって刻まれた深い傷が残っている。
だが、その顔に浮かんでいるのは苦痛ではない。
恍惚。
歓喜。
限界を越えた興奮。
バーミリオンのテンションは、もはや最高潮に達していた。
『そ、そんな……! お嬢様の技を受けたはずなのに……!』
「ああ、そうだね!」
バーミリオンは両腕を広げ、舞台の中央で天を仰ぐ。
「確かに、僕は君の一撃を受けた! あれは素晴らしかった! 美しく、鋭く、そして残酷なまでに正確だった!!」
彼女は胸元の傷を指でなぞる。
そこから赤い血が滲む。
「正直に言おう。危なかったよ。あと少し深ければ、僕という演者はここで幕を下ろしていたかもしれない」
だが。
次の瞬間、バーミリオンの笑みが狂気を帯びた。
「でも! 僕は生き残った!!」
その叫びに呼応するように、劇場の照明が赤く明滅する。
「生き残るべくしてね!!」
「ブッ……!」
「がはッ……!」
その直後。
理恵と芦谷が、同時に大量の血を吐いた。
『お、お嬢様!!』
梓の声が悲鳴に近くなる。
理恵は口元を押さえ、片膝をついた。
頬は赤く染まり、瞳は血走っている。
芦谷もまた、荒い息を吐きながら身体を震わせていた。
戦闘への衝動。
異常な心拍。
全身を駆け巡る熱。
それは、先ほどまでとは比べものにならないほど濃く、深く、二人を侵していた。
「まったく」
バーミリオンは笑う。
「僕の血を直接浴びなければ能力が発動しない、とは言ったかもしれない」
彼女は、サーベルを拾い上げる。
「けれど、それが“液状の血”に限るなんて、僕は一言も言っていないはずだよ?」
『まさか……』
梓の慧珠が、周囲の空気を解析するように淡く光る。
そして、気づいた。
劇場の空気中に漂う、赤い微粒子。
これまでの攻防で舞台中に飛び散ったバーミリオンの血。
それが、霧のように。
塵のように。
細かな粒子となって、西方の間全体へ漂っていた。
『血液が……粒子化して、大気中に……!?』
「正解だ」
バーミリオンは、満足そうに拍手を送る。
「僕は、自身の血を操ることができる。血流も、濃度も、拡散も、凝固もね」
彼女の傷口から滲んだ血が、ふわりと宙に浮かぶ。
それは糸のように伸び、やがて赤い霧となって舞台へ広がっていく。
「その血によって、僕は驚異的な回復速度を保っていた。さらに――」
バーミリオンは、ばっと両手を広げた。
「血の濃度を操作すれば、たとえ粒子となっても、強い覚醒作用を保持できる!!」
『まさか、これほど微量なものでも……!?』
「もちろん、普通ならここまで強くは作用しない」
バーミリオンは、頭を抱えるようにして笑った。
「でも、今は違う。今の僕は、さっきまでの僕じゃない!!」
その言葉に、梓の慧珠が小さく震えた。
『……まさか』
梓は、嫌な答えへ辿り着く。
『北方と南方の四天王が倒されたことで……力が、残った個体へ戻っている……?』
「そう!!」
バーミリオンは、歓喜に目を輝かせる。
「僕たちは、朱天の“並行同位体”!! つまり、根源を同じくする存在!!」
劇場全体を包む赤い霧が、さらに濃くなる。
「元の朱天から分かたれたことで、僕たちの力はそれぞれに分散されていた。アカネ、シンシャ、シナバー、そして僕。それぞれが別の形で、朱天の一側面を担っていたのさ」
バーミリオンの胸元の傷が、じゅくり、と音を立てる。
裂けた肉が、ゆっくりと寄り合っていく。
「だが、北方と南方の同位体が消えた今――」
傷が塞がる。
血が戻る。
赤い霧が、バーミリオンの身体へ吸い込まれていく。
「その力の一部が、残された僕たちへ回帰している!!」
バーミリオンは高らかに笑った。
「アハハハハハハ!! 素晴らしい! 素晴らしいよ!! 仲間の死すら、舞台を彩る最高の演出になるなんて!!」
その言葉の直後。
理恵の《追想》によって刻まれた胸元の傷が、完全に塞がった。
『そんな……』
梓の声に、初めて明確な絶望が混じる。
バーミリオンは、サーベルをくるりと回す。
その姿は、先ほどまでよりもはるかに危うく、美しく、そして禍々しかった。
「さあ、第二幕といこうじゃないか」
赤い霧が、舞台の上で渦を巻く。
その中心で、バーミリオンは恍惚とした笑みを浮かべた。
「僕の血に酔い、戦いに溺れ、互いを壊し合う――そんな最高の悲劇を、ここから始めよう」
* * *
理恵は、血に染まっていく意識の中で、かつての記憶を追想していた。
――かつて、私の家族は、それほど悪くなかった。
確かに、他の家と比べたことがないから、はっきりとは分からない。
けれど。
少なくとも、今よりはずっと仲が良かったと思う。
私は、姉と梓と一緒にいる時間が、何よりも嬉しかった。
特に、姉様への憧れは、子どもながらに相当なものだったと思う。
姉様も、きっと辟易していたでしょう。
それでも。
父と母。
姉様。
そして、梓。
大切な人たちと一緒にいられることが、嬉しかった。
これからもずっと、ずっと。
こんな時間が当たり前のように続いていくのだと、そう思っていた。
けれど。
それは、あっけなく終わりを告げてしまう。
そう。
私自身が、壊してしまったのだから――。
『……さ、ま! ……嬢様!!』
消えかかる理性の中で、梓の声が木霊する。
『お嬢様! お気を確かに!!』
震える梓の声が、はっきりと聞こえてきた。
今や、芦谷だけではない。
浄化されたはずの東京校の三人もまた、目を覚まし、血走った瞳で身体を震わせている。
バーミリオンの言葉通り、時間が経てば経つほど、血の毒性は強くなっているらしい。
理恵は、暴走しかかる思考の奥で、この絶望的な状況を冷静に見つめていた。
だが、冷静に見れば見るほど、この現状がどれほど救いようのないものなのかも分かってしまう。
ひとたび闘争本能に火がつけば、誰彼構わず襲いたくなる衝動を抑えられない。
理性は削られ、判断は濁り、身体は勝手に戦いを求める。
このままでは、仲間同士で殺し合う。
バーミリオンの望む悲劇が、ここで完成してしまう。
(……ならば)
絶望の中で、ただ一つだけ、理恵を支えているものがあった。
大切な仲間たちへの想い。
そして、ここで負けてはならないという使命感。
それだけが、理恵を理恵たらしめている最後の牙城だった。
「――致し方、ありませんね」
本能のままに暴れ出すかと思われた理恵が、静かに立ち上がる。
その姿に、バーミリオンも気づいた。
「おやおや。この状況で、ついに姫君の心も壊れてしまったかな?」
嘲るように言った、その直後。
バーミリオンの背筋に、冷たいものが走った。
それは、棘のように小さな違和感だった。
けれど、その違和感は次第に強烈な痛みへ変わり、脳天を内側から貫くような寒気となって広がっていく。
「……何だ?」
バーミリオンの笑みが、わずかに歪む。
「これ以上、何をしてももう手遅れだ!!」
だが、理恵にはその言葉さえ届いていないようだった。
そして、その時。
バーミリオンは初めて見る。
ぼう、と立ち尽くす理恵の顔を。
「……!?」
彼女は、笑っていた。
美しい顔に浮かんだ笑みは、吸い込まれそうになるほど妖艶だった。
だが、同時に。
異常なほど、恐ろしかった。
人の笑みではない。
怒りでも、悲しみでも、狂喜でもない。
ただ、何かが決定的に外れてしまった者だけが浮かべる、静かで美しい破滅の笑み。
「もう、眠りについてもらうよ!!」
バーミリオンは急ぎサーベルを抜き、理恵へ斬りかかろうとする。
だが――。
時、すでに遅い。
『お嬢様! おやめください!!』
梓の悲痛な声が響く。
しかし、もう理恵には届かない。
混乱する舞台の上で、ただ一人。
理恵の声だけが、はっきりと響いた。
「――おいでなさい、《首狩り雀》」
その瞬間。
舞台上に、カチ、カチ、と不快な音が響いた。
それは、いつの間にか理恵の肩に止まっていた。
バーミリオンの目にも、はっきりと映る。
雀の姿をした、小さな異形。
だが、その頭部は鳥のものではない。
鋭く、冷たく、無機質な鋏。
首狩り雀と呼ばれるそれは、胴体と鋏となった頭部のつなぎ目から、じくじくと黒ずんだ血を滴らせていた。
カチ。
カチ。
カチ。
しきりに鋏を開閉させる音が、劇場の静寂を裂いていく。
それが、この舞台に響く不快音の正体だった。
さらに、いつの間にか理恵の衣装は、白い死装束へと変わっていた。
純白。
清らかで、儚く、葬送を思わせる白。
その白の中に立つ理恵は、まるで生者ではなかった。
「悪鬼招来――」
その瞬間、首狩り雀が小さな翼をはためかせ、宙へ浮かぶ。
「――《黒百合戀母》」
理恵の唇が、ゆっくりとその名を紡いだ。
すっと、首狩り雀が理恵の細く白い首筋へ近づく。
そして。
鋏の頭部が、彼女の首を撫でた。
次の瞬間、理恵の首筋に大きな横線が走る。
どっと、血が溢れ出した。
それは、あの儚げな理恵から流れ出たとは思えないほど、黒く、どろりと濁った血だった。
絶え間なく流れ落ちる黒い血が、白い死装束へ零れていく。
ぽた、ぽた。
白が、黒に染まる。
清らかな装束が、じわじわと穢れていく。
やがて、純白だった衣は完全に黒く染まり、黒装束へと変わった。
理恵の美しい黒髪が、だらりと垂れ、彼女の顔を覆う。
その隙間から覗く口元には、なおも薄い笑みが浮かんでいた。
――まさに、般若か。
あるいは、鬼母神か。
今や、可憐な令嬢はそこにはいない。
黒き殺意だけによって立つ鬼女が、そこにいた。
* * *
対峙していたバーミリオンは、その異様な変貌に一瞬、思考を止めた。
白い死装束が黒く染まり、長い黒髪が顔を覆う。
その肩で、首狩り雀がカチ、カチ、と鋏を鳴らしている。
そして。
ふわり、と髪が揺れた隙間から、理恵の瞳が見えた。
「……っ!」
その瞬間、バーミリオンの背筋に氷の杭が打ち込まれた。
あれは、開現師の目ではない。
人の目でもない。
もっと深く、もっと暗く、もっと救いのないもの。
相手を倒すためではなく、相手を壊すためだけに開いた、鬼の瞳だった。
「そんなこけおどしで、僕を舞台から降ろせると思うなあああ!!」
恐怖を振り払うように叫び、バーミリオンはサーベルを握り締める。
これまでにないほど感情を荒げながら、黒百合戀母となった理恵へ向かって突き出した。
だが――。
ブシュッ!!
舞ったのは、理恵の血ではなかった。
バーミリオンの腕だった。
「……え?」
刹那。
バーミリオンの思考は追いつかなかった。
痛みすら、まだ届いていない。
ただ、サーベルを握っていたはずの腕が宙を舞い、赤い軌跡を描いてステージへ落ちていく。
その光景を見て。
ようやく、彼女は理解した。
斬られたのは、自分だ。
「ああああああああ!!」
次の瞬間、強烈な痛みが全身を駆け巡った。
それは、バーミリオンが生まれて初めて味わう種類の痛みだった。
これまで受けてきた攻撃とは違う。
傷つけるための一撃ではない。
倒すための一撃でもない。
相手を確実に殺すための、冷たく、容赦のない一手。
「っつつううう……!!」
痛みに視界が歪む。
だが、その揺れる視界の中から、黒き鬼女の姿はすでに消えていた。
「どこに――」
言い切るより早く、背後に気配が立つ。
バーミリオンは歯を食いしばり、残った腕に再びサーベルを呼び出した。
四天王としての意地。
演者としての誇り。
そして何より、目の前の怪物に呑まれることへの拒絶。
それらが、彼女の最後の戦意を激しく燃やした。
「舐めるなああああ!!」
振り向きざま、背後に現れた黒百合戀母へ向けて、サーベルを突き出す。
グサッ!!
決死の一閃は、黒百合戀母の右肩へ突き立てられた。
確かに、肉を貫いた。
確かに、刃は届いた。
だが。
黒百合戀母は、止まらなかった。
「……っ」
垂れた髪の奥で、理恵の口元が歪む。
笑っている。
肩を貫かれながら。
血を流しながら。
何一つ痛みを感じていないかのように。
「うああああああ!!」
次の瞬間、バーミリオンの腹部へ、立華鉢頭摩鋏の刀身が深く突き立てられた。
痛覚が、爆ぜる。
「ああああああ!」
さらに黒百合戀母は、その刀身を抜かない。
むしろ、ゆっくりと捻る。
傷の内側を抉るように、逃げ場のない痛みを刻み込んでいく。
「あ、ああ……や、やめ……!」
あまりの激痛に、バーミリオンはついにサーベルから手を離した。
それを待っていたかのように、黒百合戀母は突き立てていた刀身を力任せに抜き放つ。
そして、黒き剣閃が舞台を走った。
「いやあああああああ!!」
放たれる斬撃は、ただ速いだけではない。
ただ重いだけでもない。
斬るたびに、相手が最も苦しむ角度を正確に選び取っている。
皮膚を裂く場所。
筋を断つ深さ。
痛みが最も鋭く響く瞬間。
そのすべてを、黒百合戀母は本能で知っているかのようだった。
舞うように。
歌うように。
祈るように。
けれど、そのすべては殺意でできていた。
「な、なんだこれは……」
赤い霧が黒百合戀母へ引き寄せられたことで、芦谷の思考にわずかな冷静さが戻っていた。
だが、その目の前で繰り広げられる光景を、彼は理解できなかった。
そこにあるのは、戦闘ではなかった。
技の応酬でもない。
力と力のぶつかり合いですらない。
一方的な蹂躙だった。
「あ、ああ……ああああ……」
バーミリオンは、弱々しく声を漏らす。
先ほどまで舞台の主役を気取っていた者の姿は、そこにはなかった。
残った腕で頭を抱え、必死に身体を丸めている。
だが、その上から、黒き般若は何度も刀身を振り下ろした。
斬られるたびに、バーミリオンの再生は機能を鈍らせていく。
いや、違う。
機能していないのではない。
黒百合戀母の刃が、再生の流れそのものを切り刻んでいるのだ。
『あれが……』
今や、ただ見守ることしかできない梓が、震える声で呟く。
『あれこそが、お嬢様の深化覚醒……』
「あれが、力だと……?」
芦谷は、信じられないものを見るように呟いた。
「あれが、彼女の本質だというのか……?」
そこには、紫苑の令嬢などいなかった。
凛とした理恵も。
仲間を守ろうとした理恵も。
静かに礼を尽くす理恵も。
今はもう、いない。
そこに立っているのは、黒き殺意だけで動く鬼女だった。
やがて、バーミリオンの身体が力を失っていく。
豪奢な衣装は裂かれ、ステージには赤黒い血が広がっていた。
黒百合戀母は、その上に静かにまたがる。
そして、立華鉢頭摩鋏の刀身を、バーミリオンの首筋へ突き立てた。
「ひいぃぃぃ……!」
バーミリオンの瞳が、恐怖に見開かれる。
「お、お願いだ……一思いに……一思いにやってくれ……!」
先ほどまでの威厳は、もはや微塵もない。
演者としての誇りも。
四天王としての余裕も。
すべて、剥がれ落ちていた。
だが、黒百合戀母は応えない。
突き立てた刀身を、ゆっくりと閉じていく。
ぎり。
ぎり。
紫紺の刃が、少しずつ終幕へ近づいていく。
「い、いや……いやだ……!」
バーミリオンは必死にもがこうとする。
だが、黒百合戀母に押さえ込まれ、身をよじることすらできない。
動けば動くほど、終幕は近づいていく。
逃げられない。
終われない。
それなのに、終わりだけが近づいてくる。
「ギリ……ギリ……」
その時。
舞台に、小さな声が響いた。
少女のような声。
幼いわらべ歌のような響き。
見ると、垂れた髪の奥で、黒百合戀母が笑っていた。
「ギリ……ギリ……ギリ……ギリ……」
けらけらと。
楽しそうに。
子どもが遊び歌を口ずさむように。
黒百合戀母は、刀身をゆっくりと閉じていく。
「いやあああああ!! こんな幕引きは……こんな死に方はあああああ!!」
バーミリオンは必死にもがく。
けれど、もがけばもがくほど、終幕は容赦なく近づいていく。
「ギリ……ギリ……ギリ……ギリ……」
鋏の音。
少女の笑い声。
首狩り雀の、カチカチという不快音。
それらが重なり、西方の間に響き渡る。
やがて――。
バチン。
乾いた音が、劇場に落ちた。
その瞬間。
舞台の赤い照明が、ふっと消える。
西方の間に、沈黙が戻った。
戦いは、終わった。
次回予告
西方の間に、赤い照明が消えた。
血を操る四天王・バーミリオンは倒れ、
理恵たちは、ようやく戦いの終幕を迎えた――はずだった。
だが、黒き鬼女はまだ眠らない。
《黒百合戀母》の力に呑まれた理恵は、次なる獲物を求めて立ち上がる。
傷つき、片腕を失った芦谷。
限界を超えてなお、四つの戦場を支え続ける梓。
そして、その暴走を止めるために現れる、もう一人の來瀬川。
戦いの勝利は、静かな余韻だけを残してはくれない。
次回、
第79話「黒き鬼女の余韻」
西方の間に残されたのは、勝利の安堵ではなく、黒き鬼女の爪痕だった。




