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夢幻開現師 ―夢の守り人―  作者: ks21
第八章:「鬼哭餓亂城・籠城編」
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第78話「血染めの舞台」

西方の間に広がるのは、観客なき豪奢な劇場。


血を操り、戦う者の理性を熱狂へと沈める四天王・バーミリオン。

理恵、芦谷、梓は連携によってその舞台を終わらせようとする。


だが、血に染まった舞台は、簡単には幕を下ろさない。

一度訪れたはずの終幕は、さらなる悲劇の第二幕へと変わっていく。


そして、追い詰められた理恵の中で、静かに“何か”が目を覚ます。

 西方の間。


 そこは、豪奢な劇場のような空間だった。


 赤い緞帳。

 金色の装飾。

 磨き上げられた舞台。

 そして、観客のいない客席。


 本来ならば、喝采と音楽に満たされるはずの場所。


 だが今、その舞台に響いているのは、狂気に染まった足音と、剣戟の音だった。


 理恵へ襲いかかった東京校の三人を、芦谷の金鵄鳥(きんしちょう)の音色が縫い止める。


「來瀬川さん、今だ!!」


「畏まりました!」


 理恵は素早く三人へ踏み込み、立華鉢頭摩鋏(りっかはずまぎょう)の峰で、それぞれの急所を打った。


「ぐっ……!」


「あ……」


 戦いへの衝動に突き動かされていた三人の身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。


 理恵はすぐに三人の前へ立ち、彼らを庇うようにバーミリオンへ視線を向けた。


「いったい、何があったのですか?」


 その問いに、芦谷は苦虫を噛み潰したような表情で答える。


「分からない。ここへ来てから、俺たちは悪鬼の群れに追われ続けていた。ようやくこの部屋に辿り着いたと思ったら、奴と対峙した途端、急に三人が暴れ出したんだ」


『おそらく、毒に近いものが彼らを極度の興奮状態にさせたのでしょうね』


 三人の浄化を続けていた梓が、深紅の慧珠越しに告げる。


「毒?」


 芦谷が眉をひそめる。


「梓の見立ては、おそらく当たっています」


 理恵は静かに言った。


「彼らは敵味方の区別を失い、戦いへの衝動だけで動かされていた。バーミリオンの能力によって、理性を奪われていたのでしょう」


 そう言いつつ、理恵はバーミリオンへ鋭い視線を向ける。


「かく言う私も、梓や芦谷先生が来られなければ、どうなっていたか分かりません」


 そんな理恵たちを見て、バーミリオンは不敵に笑っていた。


「いやあ、素晴らしい!」


 声高らかに、バーミリオンは芝居がかった仕草で拍手を送る。


「戦う者たちの友情。互いを庇い合う姿。なるほど、これはこれで美しい」


 そこで、彼女は口元を歪めた。


「しかし、残念だ。僕はね、仲間同士が殺し合い、生き残った者が後悔に沈むような――そんな悲劇(トラジェディー)も嫌いではないんだがね」


 その瞳には、相手を嘲笑するような嗜虐性が宿っていた。


「……いったい、奴は何者なんだ?」


 三人の呼吸と意識が落ち着いてきたことを確かめると、芦谷も理恵と並び、バーミリオンと対峙する。


「恐らく……“朱天”の部下。いえ、“分け身”に近い存在でしょうね」


 理恵の言葉に、バーミリオンは初めてわずかに目を見開いた。


「へえ……そこまで分かっているなんて、さすがは“紫苑の令嬢”さんだ」


「当然です」


 理恵は一歩も引かずに答える。


「貴方の能力が、自身の血を媒介としたものであるなら、私の中にも一時的に“貴方の血”が流れたということ」


 紫紺の光を宿した瞳が、きっと細められる。


「あれほどの“汚れた者の血”が、そうそうあるわけがないでしょう?」


「……」


 理恵の言葉に、バーミリオンはすぐには答えなかった。


 だが、その瞳の奥に揺らめく怒りの炎までは隠せない。


「なるほど……」


 やがて、バーミリオンは静かにサーベルを構え直した。


「なら、いよいよ君たちを始末する時が来たようだ」


 サーベルの切っ先が、理恵たちへ向けられる。


「その言葉、そっくりそのままお返しします」


 理恵もまた、立華鉢頭摩鋏の刀身を構えた。


「ここまでのことをされて……俺たち開現師が黙っておくと思うなよ」


 芦谷の声にも、静かな怒りが滲んでいた。


 一瞬の沈黙。


 そして――。


 ダンッ!!


 次の瞬間、劇場全体に激しい衝撃音が鳴り響いた。


 理恵とバーミリオンの刃が、舞台の中央で激しく噛み合う。


「やっぱり!」


 刀身をぶつけ合いながら、バーミリオンは嬉しそうに笑った。


「仲間のおかげで、随分と動きがよくなったじゃないか!!」


 理恵は答えない。


 ただ、双剣を振るい、鋭く踏み込む。


 だが――。


「しかし、僕の能力に気を取られるあまり――」


 バーミリオンのサーベルが、理恵のわずかな迷いを突くように滑り込む。


「君の刃から、さっきまでの切れ味が消えているよ」


 鋭い突きが飛ぶ。


 理恵はそれを辛うじて受け流した。


 だが、たしかにバーミリオンの言う通りだった。


 理恵の攻撃には、先ほどまでの冴えがない。


 血を浴びれば、興奮作用に呑まれる。


 傷を与えれば、相手の再生と覚醒を助ける。


 斬れば危険。


 だが、斬らねば勝てない。


 その矛盾が、理恵の剣を鈍らせていた。


「しかし!」


 その刹那、芦谷の声が劇場に響いた。


「今度は俺もいることを、忘れちゃあ困るなあ!!」


 芦谷が、手にした金鵄鳥を高く掲げる。


 ピィィィイイイイ――!!


 鋭く、耳障りな音色が、劇場全体を貫いた。


「くッ……!?」


 金切り声にも似たその音は、バーミリオンの鼓膜を直接揺さぶる。


 美しい舞台に似つかわしくない、不快で、鋭く、神経を逆撫でする音。


 その一瞬、バーミリオンの動きが鈍った。


「そこです!」


 理恵は、その隙を逃さない。


 紫紺の双剣が、鋭い軌跡を描く。


 ザンッ!!


 バーミリオンの胸元を、理恵の一閃が深く斬り裂いた。


「あらら!」


 鮮血が舞う。


 だが、バーミリオンは痛みに顔を歪めながらも、なお笑みを崩さなかった。


「調子に乗っちゃって! 斬っても意味がないと、教えたと思うんだけどね!!」


 裂けた傷口から、再び赤い血が飛び散る。


 その血が空中へ弾けた瞬間――。


『私も居りますことを、お忘れでしょうか?』


「!?」


 深紅の慧珠が、淡く光った。


 梓が展開した結界が、飛び散った鮮血を包み込む。


 血は空中で行き場を失い、理恵たちの身体へ触れることなく、淡い光の中で封じ込められた。


「なるほど……!」


 芦谷の瞳が鋭くなる。


「血を封じれば、あいつの覚醒作用も抑えられるってわけか!」


『長くは持ちません。畳みかけるなら、今です』


「十分だ!」


 芦谷は金鵄鳥を握りしめる。


「ここで一気に押し切る!!」


 その言葉と同時に、芦谷の身体を光が包み込んだ。


悪鬼転身(あっきてんしん)――《鳶法師(とびほうし)》!!」


 眩い光が弾ける。


 次の瞬間、芦谷の肉体は大きく変貌していた。


 山伏装束をまとった、巨大な鳶。


 鋭い嘴。

 広げられた翼。

 法衣のように風を孕む羽毛。


 その姿は、鳥でありながら法師の威厳を纏う、異形の悪鬼だった。


天羽扇(あまのはばたき)!!」


 鳶法師となった芦谷が、大きく翼を振るう。


 ばさり、と空気が裂けた。


 舞い散った羽が、次の瞬間、鋭利な刃へと変わる。


 無数の羽刃が、雨のようにバーミリオンへ降り注いだ。


「くッ……!」


 バーミリオンはサーベルを振るい、迫る羽を弾き落とす。


 だが、すべては落としきれない。


 ザシュッ!


 ザシュザシュッ!!


 数本の羽刃が、バーミリオンの肩に、腕に、脇腹に深々と突き刺さった。


「まったく……」


 血を流しながらも、バーミリオンはなお笑っている。


「徒党を組んだからといって、随分と調子に乗ってくれるじゃないか」


 だが、その笑みに、先ほどまでの余裕はない。


 理恵はそれを見逃さなかった。


(ここで、叩き込む――!)


 ピィィィイイイイ――!!


 鳶法師の叫びが、再び劇場を震わせる。


 金鵄鳥の音色とはまた違う、悪鬼そのものが放つ鋭い鳴き声。


 その音が、バーミリオンの動きを一瞬縛った。


「それは……不快だよ!!」


 バーミリオンは顔を歪める。


 そして、自身の身体に突き刺さった羽刃を乱暴に引き抜いた。


 血が飛ぶ。


 だが、その血すら彼女にとっては武器の一部。


 バーミリオンは引き抜いた羽を、芦谷へ向かって投げ返した。


「なッ!?」


 さらに追撃をかけようとしていた芦谷は、反応が遅れる。


 羽刃が、一直線に彼の胸元へ迫った。


蕣花縛塊(しゅんかばっかい)!!」


 ズルッ――。


 寸前で、床から伸びた蔓が芦谷の身体へ絡みつく。


 理恵の咲かせた蔓が、強引に芦谷を後方へ引き寄せた。


 投げ返された羽刃は、芦谷の羽毛を数本掠めながら、背後の舞台壁へ突き刺さる。


「す、すまない……助かったよ」


「いえ。ですが、やはり敵は通常ではありません」


 理恵は、静かにバーミリオンを見据える。


「単純な力押しでは、通用しないでしょう」


「そのようだな」


 芦谷も翼を畳み、息を整える。


「俺の金鵄鳥の音も、すでに馴化が始まっているようだ」


 二人が距離を取ったことで、バーミリオンは体勢を整える。


 胸元。

 肩。

 脇腹。


 羽刃が突き刺さっていた箇所からは、なお血が滴っていた。


「なるほど」


 バーミリオンは一本ずつ羽を抜きながら、涼しげに笑った。


「随分と調子が出てきたようだね」


 だが、その傷はすぐには塞がらない。


 先ほどまでなら瞬く間に再生していたはずの傷口が、わずかに開いたまま残っている。


「しかし、さっきの連携は、そう何度も使えないようだ」


 バーミリオンの視線が、深紅の慧珠へ向いた。


 血を封じるために結界を張り続けていた梓の光は、明らかに弱まっている。


 慧珠の輝きも、先ほどより鈍い。


『……問題ありません。必ず、相手の能力を封じてみせます』


 梓は即座に答える。


 だが、その声には隠しきれない疲労が滲んでいた。


「くそッ……」


 芦谷が低く吐き捨てる。


「奴は不死身ってことなのか?」


 理恵たちが必死に畳みかけても、バーミリオンは倒れない。


 斬られ、刺され、音で動きを止められても、なお立っている。


 だが、理恵だけは違うものを見ていた。


「いいえ」


 理恵は静かに首を振る。


「決して、無駄ではありません」


「何?」


 芦谷が理恵を見る。


 理恵は、バーミリオンの胸元を指さした。


「先ほどの私の一撃……まだ完全には修復できていません」


 その言葉は、芦谷だけでなく、バーミリオン自身にも向けられていた。


「……」


 バーミリオンの笑みが、わずかに薄くなる。


 理恵の言う通りだった。


 他の傷に比べ、胸元の深い斬撃だけは明らかに塞がりが遅い。


 血の覚醒作用によって再生力を高めている。


 だが、それは無限ではない。


「まあ」


 バーミリオンは、再び芝居がかった笑みを浮かべる。


「さすがに何でもありでは、舞台として面白くないだろう?」


「なるほどな」


 芦谷が目を細める。


「あの高速再生にも、限度はあるってことか」


「ええ」


 理恵は立華鉢頭摩鋏を握り直す。


「ですので、このまま押せば――」


 勝利への糸口が見えた。


 そう思われた、その時。


「いや」


 芦谷は低く告げた。


「残念だが、そう簡単な話じゃないみたいだ」


「それは、どういうことでしょうか?」


 理恵が問い返す。


 芦谷は、バーミリオンを見据えたまま答えた。


「さっきの攻防で、俺の金鵄鳥の音がもう効きにくくなり始めていた」


 その指摘通り、バーミリオンはすでに芦谷の音に馴化しつつある。


 最初は動きを止められた。


 次は鈍った。


 だが、三度目には、ほとんど無理やり動いてみせた。


「それに……梓さんも、同じことを何度もできる状態じゃない」


 芦谷の視線が、浮かぶ慧珠へ向かう。


『問題ありません。必ず相手の能力を――』


「梓」


 理恵が静かに名を呼んだ。


 その声音に、梓は言葉を止める。


「あなたに無理をさせれば、他の皆さんにも影響が出ます。ここで消耗しきるわけにはいきません」


『ですが、お嬢様……』


「だからこそ」


 芦谷が言葉を引き継いだ。


「次で必ず仕留める。それで構わないね?」


 理恵は、短く息を吐いた。


 紫紺の瞳に、静かな覚悟が宿る。


「ええ」


 双剣の切っ先が、舞台の光を受けて鈍く輝く。


「これ以上の長期戦は避けなければなりません」


「なら、俺が奴を引きつける」


 芦谷は翼を大きく広げる。


「來瀬川さん。君が、仕留めてくれ」


「……承知しました」


 理恵は静かに頷いた。


 そして、わずかに姿勢を低くする。


 まるで一輪の花が、咲く直前に力を溜めるように。


「では、行くぞ!!」


 鳶法師となった芦谷が、舞台の空へ舞い上がる。


「へえ!」


 バーミリオンはサーベルを構え、口元を歪めた。


「今度は小鳥ちゃんがお相手かい?」


「ああ!」


 芦谷は空中で羽を広げる。


「せっかくだから、相手をしてもらおうか!!」


 再び、無数の羽が舞う。


 鋭い羽刃が、四方からバーミリオンへ襲いかかった。


「まったく」


 バーミリオンは軽やかにサーベルを振るう。


「芸がないね、君は!!」


 ギンッ!


 ギギンッ!!


 放たれた羽刃は、ことごとく切り落とされていく。


 だが、芦谷は攻撃の手を止めない。


「まだまだッ!!」


 翼を振るい、さらに羽を飛ばす。


 数で押し、角度を変え、空中から間合いを支配する。


 だが。


「だから、まだ分からないのかい?」


 バーミリオンが、ふっと姿勢を沈めた。


 次の瞬間、舞台を蹴る。


 赤い軌跡が走る。


 彼女は羽刃の雨を掻い潜り、一気に芦谷の懐へ踏み込んできた。


「そこ!!」


 ピィィィイイイイ――!!


 芦谷の雄叫びが、バーミリオンを真正面から貫く。


 だが――。


「まったく、芸がない!!」


 バーミリオンは歯を食いしばりながらも、ほとんど怯まなかった。


 音の衝撃を受け流すように、わずかに身体を傾ける。


 そして、そのままサーベルを振り抜いた。


 ザンッ!!


「ぐっ!?」


 鳶法師となった芦谷の脇腹を、鋭い刃が切り裂いた。


 だが、金鵄鳥の音が完全に無意味だったわけではない。


 踏み込みが、わずかに浅い。


 刃は深く入りきらず、致命傷を避けていた。


「うおオオオ!」


 芦谷は痛みを押し殺し、翼をさらに広げる。


「《羽刃斬(はばきり)》!!」


 その翼が、刃のように鋭く光る。


 羽根の一枚一枚が、研ぎ澄まされた刃へと変わった。


 芦谷はその身ごと、バーミリオンへ突撃する。


 守りではない。


 足止めでもない。


 理恵の一撃へ繋げるため、自らを刃に変えた突攻だった。


 しかし――。


「ははは。自分の身を挺して仲間の道を開く。確かに、美しい」


 ぽた、ぽた、と。


 赤い血がステージを染めていく。


「だが、それはあまりにも“古典的”すぎるね」


 バーミリオンのサーベルの切っ先は、芦谷の翼を貫いていた。


「う……ぐッ!?」


 芦谷の全身へ、焼けるような痛みが駆け抜ける。


 翼を貫かれた衝撃で、鳶法師の身体が大きく軋んだ。


「まったく」


 バーミリオンは、呆れたように肩をすくめる。


「君ごときの突撃を止めるために、僕がわざわざ能力を使うと思っていたのかい?」


 そう言って、彼女はサーベルを握る手にぐっと力を込めた。


 ぎり、と。


 刀身が、翼の内側でねじれる。


「ぐうッ……!」


「フフ。情けないとは思わないのかい?」


 バーミリオンは、芦谷の苦悶を愉しむように目を細めた。


「若人ばかりに負担をかけて、自分はその程度の足止めしかできないなんてさ」


 ぎりぎりと、さらに刀身が食い込む。


 その笑みは、劇場の主役が観客へ向ける優雅なものではない。


 相手の痛みを味わい、追い詰め、踏みにじることを愉しむ者の笑みだった。


 彼女もまた、他の四天王と同じ。


 その根にあるのは、他者をいたぶらずにはいられない悪意だった。


「はは……」


「何を笑っているんだい?」


 こんな状況でなお笑う芦谷に、バーミリオンの表情がわずかに歪む。


 芦谷は血を吐くように息を漏らしながら、それでも笑っていた。


「あんたが……そういうサディスティックな奴で、助かったよ」


「……何?」


 芦谷が、残った片翼をゆっくりと持ち上げる。


 羽の先に、淡い光が宿る。


「まだ、何か――」


 バーミリオンが警戒し、サーベルを引き抜こうとした。


 だが、芦谷の狙いは攻撃ではなかった。


「こういうことだ!!」


 次の瞬間。


 芦谷は、自らの片翼を振り下ろした。


 ザンッ!!


 斬ったのは、バーミリオンではない。


 自分自身の翼だった。


「ま、まさか――!?」


 さしものバーミリオンも、一瞬理解が遅れた。


 貫かれた翼を、自ら断つ。


 それは逃げるためではない。


 バーミリオンの視線とサーベルを、自分に縫い止めるため。


 そして、その一瞬の死角を作るため。


 翼を失った芦谷の身体が、力なく地上へ落下していく。


「大人だってな……」


 落ちながら、芦谷は血の滲む声で笑った。


「それなりのプライドってのは、あるもんさ――」


 そして、天へ向かって叫ぶ。


「今だ! やれ!!」


「まさかッ!?」


 バーミリオンが振り向いた時。


 すでに、決着は動き出していた。


「――芦谷先生、ありがとうございます」


 舞台の光を受け、紫紺の影が舞う。


 立華鉢頭摩鋏を手にした理恵が、バーミリオンの懐へ入っていた。


「くッ!? まだああああ――!」


 最後の抵抗とばかりに、バーミリオンはサーベルを引き戻し、理恵を貫こうとする。


 だが、遅い。


 芦谷が作った一瞬。

 梓が封じた血。

 そして、理恵が見極めた再生の限界。


 そのすべてが、この一撃へと結ばれていた。


「いえ」


 理恵の瞳に、紫紺の光が宿る。


「これで“終幕”です」


 立華鉢頭摩鋏の双刃が交差する。


 舞台の上に、鬼母神の影が舞う。


 淡く、静かに。


 けれど、確かに死を告げる花のように。


鬼ノ刻(おにのこく)――」


 理恵の声が、劇場に澄んで響く。


「《追想》!!」


 交差した紫紺の斬撃が、バーミリオンの身体を深く刻んだ。


 ザンッ!!


 血の花が散る。


 紫紺の軌跡が、舞台の上で美しく結ばれる。


「な……」


 バーミリオンの目が、見開かれた。


「馬鹿な……僕が……この僕が……?」


 驚異的な再生力を誇ったその身体も、この一撃には耐えきれなかった。


 胸元から走った斬撃が、先ほど塞がりきっていなかった傷と重なり、再生の流れを完全に断ち切る。


 サーベルが、彼女の手から滑り落ちた。


 カラン、と。


 乾いた音が、劇場に響く。


「こんな……幕引きなど……」


 バーミリオンの身体が、力を失っていく。


 豪奢な衣装が血に染まり、舞台の照明を受けて赤く揺れた。


「美しく……ない……」


 最後まで芝居がかった声で、彼女はそう呟いた。


 そして、そのまま力なくステージへ崩れ落ちた。


 西方の間に、静寂が落ちる。


 華やかな劇場の照明だけが、倒れたバーミリオンを無情に照らしていた。


『これで、終わりましたね』


 深紅の慧珠から、安堵した梓の声が響く。


「いえ」


 理恵は静かに息を吐いた。


「これも、芦谷先生と梓が来てくれたおかげです」


 そう言って、理恵は急ぎ芦谷の元へ向かおうとする。


 だが――。


「来るなああああああああ!!」


 元の姿へ戻った芦谷が、失った片腕を押さえながら叫んだ。


 鳶法師として断った片翼。


 それは、人の姿へ戻った芦谷の片腕そのものでもあった。


「あ、芦谷先生!? いったい――」


 その瞬間。


 理恵も、ようやく自分自身の異変に気づいた。


 戦いは終わった。


 バーミリオンは倒れた。


 それなのに、心臓の鼓動が収まらない。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 血が、熱い。


 視界が、妙に鮮明だ。


 全身の神経が剥き出しになったように、わずかな物音にすら反応してしまう。


 まだ、戦いたい。


 まだ、斬りたい。


 まだ、この舞台で踊り続けたい。


 そんな衝動が、理恵の内側から沸き上がってくる。


「……っ!?」


 理恵は、自分の口元へ手を当てた。


 指先に、赤いものが付着する。


 鼻血。


 興奮状態に晒され続けた身体が、すでに悲鳴を上げ始めていた。


 それは、芦谷も同じだった。


「く、くそ……っ!? なんだ、これは……!」


 芦谷はぎりぎりと歯を食いしばり、床に爪を立てる。


 失った腕の痛みなど、とっくに意識の外へ追いやられていた。


 それよりも強い。


 傷の痛みすら凌駕するほどの闘争本能が、彼の思考を塗り潰そうとしている。


 今にも、目の前のすべてへ襲いかかりたい。


 そんな願望が、理性の底を突き破ろうとしていた。


『ま、まさか……これは!?』


 梓が異変に気づいた、その時だった。


「アハハハハハハハハ!!」


 倒れていたはずのバーミリオンが、笑った。


 最初は小さく。


 やがて、劇場全体へ響き渡るほど高らかに。


「まさに、真の演劇とは偶然から生まれるものさ!!」


 バーミリオンは、ゆっくりと身を起こした。


 胸元には、理恵の《追想》によって刻まれた深い傷が残っている。


 だが、その顔に浮かんでいるのは苦痛ではない。


 恍惚。

 歓喜。

 限界を越えた興奮。


 バーミリオンのテンションは、もはや最高潮に達していた。


『そ、そんな……! お嬢様の技を受けたはずなのに……!』


「ああ、そうだね!」


 バーミリオンは両腕を広げ、舞台の中央で天を仰ぐ。


「確かに、僕は君の一撃を受けた! あれは素晴らしかった! 美しく、鋭く、そして残酷なまでに正確だった!!」


 彼女は胸元の傷を指でなぞる。


 そこから赤い血が滲む。


「正直に言おう。危なかったよ。あと少し深ければ、僕という演者はここで幕を下ろしていたかもしれない」


 だが。


 次の瞬間、バーミリオンの笑みが狂気を帯びた。


「でも! 僕は生き残った!!」


 その叫びに呼応するように、劇場の照明が赤く明滅する。


「生き残るべくしてね!!」


「ブッ……!」


「がはッ……!」


 その直後。


 理恵と芦谷が、同時に大量の血を吐いた。


『お、お嬢様!!』


 梓の声が悲鳴に近くなる。


 理恵は口元を押さえ、片膝をついた。


 頬は赤く染まり、瞳は血走っている。


 芦谷もまた、荒い息を吐きながら身体を震わせていた。


 戦闘への衝動。

 異常な心拍。

 全身を駆け巡る熱。


 それは、先ほどまでとは比べものにならないほど濃く、深く、二人を侵していた。


「まったく」


 バーミリオンは笑う。


「僕の血を直接浴びなければ能力が発動しない、とは言ったかもしれない」


 彼女は、サーベルを拾い上げる。


「けれど、それが“液状の血”に限るなんて、僕は一言も言っていないはずだよ?」


『まさか……』


 梓の慧珠が、周囲の空気を解析するように淡く光る。


 そして、気づいた。


 劇場の空気中に漂う、赤い微粒子。


 これまでの攻防で舞台中に飛び散ったバーミリオンの血。


 それが、霧のように。

 塵のように。

 細かな粒子となって、西方の間全体へ漂っていた。


『血液が……粒子化して、大気中に……!?』


「正解だ」


 バーミリオンは、満足そうに拍手を送る。


「僕は、自身の血を操ることができる。血流も、濃度も、拡散も、凝固もね」


 彼女の傷口から滲んだ血が、ふわりと宙に浮かぶ。


 それは糸のように伸び、やがて赤い霧となって舞台へ広がっていく。


「その血によって、僕は驚異的な回復速度を保っていた。さらに――」


 バーミリオンは、ばっと両手を広げた。


「血の濃度を操作すれば、たとえ粒子となっても、強い覚醒作用を保持できる!!」


『まさか、これほど微量なものでも……!?』


「もちろん、普通ならここまで強くは作用しない」


 バーミリオンは、頭を抱えるようにして笑った。


「でも、今は違う。今の僕は、さっきまでの僕じゃない!!」


 その言葉に、梓の慧珠が小さく震えた。


『……まさか』


 梓は、嫌な答えへ辿り着く。


『北方と南方の四天王が倒されたことで……力が、残った個体へ戻っている……?』


「そう!!」


 バーミリオンは、歓喜に目を輝かせる。


「僕たちは、朱天の“並行同位体”!! つまり、根源を同じくする存在!!」


 劇場全体を包む赤い霧が、さらに濃くなる。


「元の朱天から分かたれたことで、僕たちの力はそれぞれに分散されていた。アカネ、シンシャ、シナバー、そして僕。それぞれが別の形で、朱天の一側面を担っていたのさ」


 バーミリオンの胸元の傷が、じゅくり、と音を立てる。


 裂けた肉が、ゆっくりと寄り合っていく。


「だが、北方と南方の同位体が消えた今――」


 傷が塞がる。


 血が戻る。


 赤い霧が、バーミリオンの身体へ吸い込まれていく。


「その力の一部が、残された僕たちへ回帰している!!」


 バーミリオンは高らかに笑った。


「アハハハハハハ!! 素晴らしい! 素晴らしいよ!! 仲間の死すら、舞台を彩る最高の演出になるなんて!!」


 その言葉の直後。


 理恵の《追想》によって刻まれた胸元の傷が、完全に塞がった。


『そんな……』


 梓の声に、初めて明確な絶望が混じる。


 バーミリオンは、サーベルをくるりと回す。


 その姿は、先ほどまでよりもはるかに危うく、美しく、そして禍々しかった。


「さあ、第二幕といこうじゃないか」


 赤い霧が、舞台の上で渦を巻く。


 その中心で、バーミリオンは恍惚とした笑みを浮かべた。


「僕の血に酔い、戦いに溺れ、互いを壊し合う――そんな最高の悲劇(トラジェディー)を、ここから始めよう」


     * * *


 理恵は、血に染まっていく意識の中で、かつての記憶を追想していた。


 ――かつて、私の家族は、それほど悪くなかった。


 確かに、他の家と比べたことがないから、はっきりとは分からない。


 けれど。


 少なくとも、今よりはずっと仲が良かったと思う。


 私は、姉と梓と一緒にいる時間が、何よりも嬉しかった。


 特に、姉様への憧れは、子どもながらに相当なものだったと思う。


 姉様も、きっと辟易していたでしょう。


 それでも。


 父と母。

 姉様。

 そして、梓。


 大切な人たちと一緒にいられることが、嬉しかった。


 これからもずっと、ずっと。

 こんな時間が当たり前のように続いていくのだと、そう思っていた。


 けれど。


 それは、あっけなく終わりを告げてしまう。


 そう。


 私自身が、壊してしまったのだから――。


『……さ、ま! ……嬢様!!』


 消えかかる理性の中で、梓の声が木霊する。


『お嬢様! お気を確かに!!』


 震える梓の声が、はっきりと聞こえてきた。


 今や、芦谷だけではない。


 浄化されたはずの東京校の三人もまた、目を覚まし、血走った瞳で身体を震わせている。


 バーミリオンの言葉通り、時間が経てば経つほど、血の毒性は強くなっているらしい。


 理恵は、暴走しかかる思考の奥で、この絶望的な状況を冷静に見つめていた。


 だが、冷静に見れば見るほど、この現状がどれほど救いようのないものなのかも分かってしまう。


 ひとたび闘争本能に火がつけば、誰彼構わず襲いたくなる衝動を抑えられない。


 理性は削られ、判断は濁り、身体は勝手に戦いを求める。


 このままでは、仲間同士で殺し合う。


 バーミリオンの望む悲劇(トラジェディー)が、ここで完成してしまう。


(……ならば)


 絶望の中で、ただ一つだけ、理恵を支えているものがあった。


 大切な仲間たちへの想い。


 そして、ここで負けてはならないという使命感。


 それだけが、理恵を理恵たらしめている最後の牙城だった。


「――致し方、ありませんね」


 本能のままに暴れ出すかと思われた理恵が、静かに立ち上がる。


 その姿に、バーミリオンも気づいた。


「おやおや。この状況で、ついに姫君の心も壊れてしまったかな?」


 嘲るように言った、その直後。


 バーミリオンの背筋に、冷たいものが走った。


 それは、棘のように小さな違和感だった。


 けれど、その違和感は次第に強烈な痛みへ変わり、脳天を内側から貫くような寒気となって広がっていく。


「……何だ?」


 バーミリオンの笑みが、わずかに歪む。


「これ以上、何をしてももう手遅れだ!!」


 だが、理恵にはその言葉さえ届いていないようだった。


 そして、その時。


 バーミリオンは初めて見る。


 ぼう、と立ち尽くす理恵の顔を。


「……!?」


 彼女は、笑っていた。


 美しい顔に浮かんだ笑みは、吸い込まれそうになるほど妖艶だった。


 だが、同時に。


 異常なほど、恐ろしかった。


 人の笑みではない。


 怒りでも、悲しみでも、狂喜でもない。


 ただ、何かが決定的に外れてしまった者だけが浮かべる、静かで美しい破滅の笑み。


「もう、眠りについてもらうよ!!」


 バーミリオンは急ぎサーベルを抜き、理恵へ斬りかかろうとする。


 だが――。


 時、すでに遅い。


『お嬢様! おやめください!!』


 梓の悲痛な声が響く。


 しかし、もう理恵には届かない。


 混乱する舞台の上で、ただ一人。


 理恵の声だけが、はっきりと響いた。


「――おいでなさい、《首狩り雀(くびかりすずめ)》」


 その瞬間。


 舞台上に、カチ、カチ、と不快な音が響いた。


 それは、いつの間にか理恵の肩に止まっていた。


 バーミリオンの目にも、はっきりと映る。


 雀の姿をした、小さな異形。


 だが、その頭部は鳥のものではない。


 鋭く、冷たく、無機質な鋏。


 首狩り雀と呼ばれるそれは、胴体と鋏となった頭部のつなぎ目から、じくじくと黒ずんだ血を滴らせていた。


 カチ。

 カチ。

 カチ。


 しきりに鋏を開閉させる音が、劇場の静寂を裂いていく。


 それが、この舞台に響く不快音の正体だった。


 さらに、いつの間にか理恵の衣装は、白い死装束へと変わっていた。


 純白。


 清らかで、儚く、葬送を思わせる白。


 その白の中に立つ理恵は、まるで生者ではなかった。


「悪鬼招来――」


 その瞬間、首狩り雀が小さな翼をはためかせ、宙へ浮かぶ。


「――《黒百合戀母(くろゆりれんぼ)》」


 理恵の唇が、ゆっくりとその名を紡いだ。


 すっと、首狩り雀が理恵の細く白い首筋へ近づく。


 そして。


 鋏の頭部が、彼女の首を撫でた。


 次の瞬間、理恵の首筋に大きな横線が走る。


 どっと、血が溢れ出した。


 それは、あの儚げな理恵から流れ出たとは思えないほど、黒く、どろりと濁った血だった。


 絶え間なく流れ落ちる黒い血が、白い死装束へ零れていく。


 ぽた、ぽた。


 白が、黒に染まる。


 清らかな装束が、じわじわと穢れていく。


 やがて、純白だった衣は完全に黒く染まり、黒装束へと変わった。


 理恵の美しい黒髪が、だらりと垂れ、彼女の顔を覆う。


 その隙間から覗く口元には、なおも薄い笑みが浮かんでいた。


 ――まさに、般若か。


 あるいは、鬼母神か。


 今や、可憐な令嬢はそこにはいない。


 黒き殺意だけによって立つ鬼女が、そこにいた。


     * * *


 対峙していたバーミリオンは、その異様な変貌に一瞬、思考を止めた。


 白い死装束が黒く染まり、長い黒髪が顔を覆う。


 その肩で、首狩り雀がカチ、カチ、と鋏を鳴らしている。


 そして。


 ふわり、と髪が揺れた隙間から、理恵の瞳が見えた。


「……っ!」


 その瞬間、バーミリオンの背筋に氷の杭が打ち込まれた。


 あれは、開現師の目ではない。


 人の目でもない。


 もっと深く、もっと暗く、もっと救いのないもの。


 相手を倒すためではなく、相手を壊すためだけに開いた、鬼の瞳だった。


「そんなこけおどしで、僕を舞台から降ろせると思うなあああ!!」


 恐怖を振り払うように叫び、バーミリオンはサーベルを握り締める。


 これまでにないほど感情を荒げながら、黒百合戀母となった理恵へ向かって突き出した。


 だが――。


 ブシュッ!!


 舞ったのは、理恵の血ではなかった。


 バーミリオンの腕だった。


「……え?」


 刹那。


 バーミリオンの思考は追いつかなかった。


 痛みすら、まだ届いていない。


 ただ、サーベルを握っていたはずの腕が宙を舞い、赤い軌跡を描いてステージへ落ちていく。


 その光景を見て。


 ようやく、彼女は理解した。


 斬られたのは、自分だ。


「ああああああああ!!」


 次の瞬間、強烈な痛みが全身を駆け巡った。


 それは、バーミリオンが生まれて初めて味わう種類の痛みだった。


 これまで受けてきた攻撃とは違う。


 傷つけるための一撃ではない。


 倒すための一撃でもない。


 相手を確実に殺すための、冷たく、容赦のない一手。


「っつつううう……!!」


 痛みに視界が歪む。


 だが、その揺れる視界の中から、黒き鬼女の姿はすでに消えていた。


「どこに――」


 言い切るより早く、背後に気配が立つ。


 バーミリオンは歯を食いしばり、残った腕に再びサーベルを呼び出した。


 四天王としての意地。


 演者としての誇り。


 そして何より、目の前の怪物に呑まれることへの拒絶。


 それらが、彼女の最後の戦意を激しく燃やした。


「舐めるなああああ!!」


 振り向きざま、背後に現れた黒百合戀母へ向けて、サーベルを突き出す。


 グサッ!!


 決死の一閃は、黒百合戀母の右肩へ突き立てられた。


 確かに、肉を貫いた。


 確かに、刃は届いた。


 だが。


 黒百合戀母は、止まらなかった。


「……っ」


 垂れた髪の奥で、理恵の口元が歪む。


 笑っている。


 肩を貫かれながら。


 血を流しながら。


 何一つ痛みを感じていないかのように。


「うああああああ!!」


 次の瞬間、バーミリオンの腹部へ、立華鉢頭摩鋏の刀身が深く突き立てられた。


 痛覚が、爆ぜる。


「ああああああ!」


 さらに黒百合戀母は、その刀身を抜かない。


 むしろ、ゆっくりと捻る。


 傷の内側を抉るように、逃げ場のない痛みを刻み込んでいく。


「あ、ああ……や、やめ……!」


 あまりの激痛に、バーミリオンはついにサーベルから手を離した。


 それを待っていたかのように、黒百合戀母は突き立てていた刀身を力任せに抜き放つ。


 そして、黒き剣閃が舞台を走った。


「いやあああああああ!!」


 放たれる斬撃は、ただ速いだけではない。


 ただ重いだけでもない。


 斬るたびに、相手が最も苦しむ角度を正確に選び取っている。


 皮膚を裂く場所。

 筋を断つ深さ。

 痛みが最も鋭く響く瞬間。


 そのすべてを、黒百合戀母は本能で知っているかのようだった。


 舞うように。


 歌うように。


 祈るように。


 けれど、そのすべては殺意でできていた。


「な、なんだこれは……」


 赤い霧が黒百合戀母へ引き寄せられたことで、芦谷の思考にわずかな冷静さが戻っていた。


 だが、その目の前で繰り広げられる光景を、彼は理解できなかった。


 そこにあるのは、戦闘ではなかった。


 技の応酬でもない。


 力と力のぶつかり合いですらない。


 一方的な蹂躙だった。


「あ、ああ……ああああ……」


 バーミリオンは、弱々しく声を漏らす。


 先ほどまで舞台の主役を気取っていた者の姿は、そこにはなかった。


 残った腕で頭を抱え、必死に身体を丸めている。


 だが、その上から、黒き般若は何度も刀身を振り下ろした。


 斬られるたびに、バーミリオンの再生は機能を鈍らせていく。


 いや、違う。


 機能していないのではない。


 黒百合戀母の刃が、再生の流れそのものを切り刻んでいるのだ。


『あれが……』


 今や、ただ見守ることしかできない梓が、震える声で呟く。


『あれこそが、お嬢様の深化覚醒……』


「あれが、力だと……?」


 芦谷は、信じられないものを見るように呟いた。


「あれが、彼女の本質だというのか……?」


 そこには、紫苑の令嬢などいなかった。


 凛とした理恵も。

 仲間を守ろうとした理恵も。

 静かに礼を尽くす理恵も。


 今はもう、いない。


 そこに立っているのは、黒き殺意だけで動く鬼女だった。


 やがて、バーミリオンの身体が力を失っていく。


 豪奢な衣装は裂かれ、ステージには赤黒い血が広がっていた。


 黒百合戀母は、その上に静かにまたがる。


 そして、立華鉢頭摩鋏の刀身を、バーミリオンの首筋へ突き立てた。


「ひいぃぃぃ……!」


 バーミリオンの瞳が、恐怖に見開かれる。


「お、お願いだ……一思いに……一思いにやってくれ……!」


 先ほどまでの威厳は、もはや微塵もない。


 演者としての誇りも。


 四天王としての余裕も。


 すべて、剥がれ落ちていた。


 だが、黒百合戀母は応えない。


 突き立てた刀身を、ゆっくりと閉じていく。


 ぎり。


 ぎり。


 紫紺の刃が、少しずつ終幕へ近づいていく。


「い、いや……いやだ……!」


 バーミリオンは必死にもがこうとする。


 だが、黒百合戀母に押さえ込まれ、身をよじることすらできない。


 動けば動くほど、終幕は近づいていく。


 逃げられない。


 終われない。


 それなのに、終わりだけが近づいてくる。


「ギリ……ギリ……」


 その時。


 舞台に、小さな声が響いた。


 少女のような声。


 幼いわらべ歌のような響き。


 見ると、垂れた髪の奥で、黒百合戀母が笑っていた。


「ギリ……ギリ……ギリ……ギリ……」


 けらけらと。


 楽しそうに。


 子どもが遊び歌を口ずさむように。


 黒百合戀母は、刀身をゆっくりと閉じていく。


「いやあああああ!! こんな幕引きは……こんな死に方はあああああ!!」


 バーミリオンは必死にもがく。


 けれど、もがけばもがくほど、終幕は容赦なく近づいていく。


「ギリ……ギリ……ギリ……ギリ……」


 鋏の音。


 少女の笑い声。


 首狩り雀の、カチカチという不快音。


 それらが重なり、西方の間に響き渡る。


 やがて――。


 バチン。


 乾いた音が、劇場に落ちた。


 その瞬間。


 舞台の赤い照明が、ふっと消える。


 西方の間に、沈黙が戻った。


 戦いは、終わった。

次回予告


西方の間に、赤い照明が消えた。


血を操る四天王・バーミリオンは倒れ、

理恵たちは、ようやく戦いの終幕を迎えた――はずだった。


だが、黒き鬼女はまだ眠らない。


《黒百合戀母》の力に呑まれた理恵は、次なる獲物を求めて立ち上がる。

傷つき、片腕を失った芦谷。

限界を超えてなお、四つの戦場を支え続ける梓。

そして、その暴走を止めるために現れる、もう一人の來瀬川。


戦いの勝利は、静かな余韻だけを残してはくれない。


次回、

第79話「黒き鬼女の余韻」


西方の間に残されたのは、勝利の安堵ではなく、黒き鬼女の爪痕だった。

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