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夢幻開現師 ―夢の守り人―  作者: ks21
第八章:「鬼哭餓亂城・籠城編」
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第77話「お菓子の城の終わり」

南方の間に広がるのは、甘い匂いに満ちた子ども部屋。


だが、そこにあるのは楽しい遊びではない。

お菓子の獣、継ぎ接ぎの怪物、そして無邪気にすべてを壊す四天王・シンシャ。


膨らんだ身体でなお立ち上がる杏樹と、誇り高く戦場に立つレイカ。

噛み合わないようで噛み合う二人が、甘く残酷な悪夢に挑む。


お菓子の城で、南方の間の戦いが決着する。

 南方の間。


 甘い匂いが充満する子ども部屋のような空間で、杏樹とレイカはシンシャの猛攻に晒されていた。


 床には、砕けた玩具。

 裂けたぬいぐるみ。

 溶けかけた飴細工。

 そして、あちらこちらに甘ったるい爆炎の跡が刻まれている。


 可愛らしいはずの部屋は、今や悪趣味な戦場と化していた。


「そおおお――れえええ!!」


 間延びしたシンシャの声が響く。


 だが、その声とは裏腹に、振り下ろされる巨大なぺろぺろキャンディーの一撃は、あまりにも凶悪だった。


 ドンッ!!


 床が砕ける。


 衝撃で玩具が跳ね、菓子でできた家具が粉々に吹き飛んだ。


「ちょ、ちょっと! あれは何なんですの!?」


 レイカが全力で逃げながら叫ぶ。


「わたしも分かんないよ! でも多分、この事件の黒幕の一人!!」


 杏樹も丸々と膨らんだ《篥歯》の身体で、必死に跳ねるように逃げ回る。


「もおおお! せっかく“お友達”も増えたんだから、逃げないでよ~」


 シンシャは頬を膨らませながら、巨大な飴をぶんぶんと振り回す。


 可愛らしい仕草。

 無邪気な声。

 だが、その一撃一撃が、まともに受ければ即座に叩き潰されるだけの威力を持っていた。


「む、無理ですわ! その物騒な得物を下ろしていただかない限り、話し合いの余地はありませんことよ!!」


「ええ~? それじゃあ楽しくないじゃ~ん」


「楽しくなくて結構ですわ!!」


 レイカの叫びなど、シンシャにはまるで届かない。


 彼女は楽しそうに笑いながら、さらに二人を追い立てる。


「無駄だよ、レイカ!」


 杏樹が叫ぶ。


「あれ、人の姿してるけど、中身はちゃんと“怪物”だから!!」


「見れば分かりますわ!!」


 逃げ続ける二人に痺れを切らしたのか、シンシャはふと足を止めた。


「も~、追いかけっこばっかりじゃつまんないなあ」


 そう言って、彼女はポケットの中をがさごそとまさぐる。


「なら、こっちからやっちゃうよ!」


 取り出したのは、動物の形をしたクッキーだった。


 うさぎ。

 くま。

 犬。

 ライオン。


 可愛らしい焼き菓子たちを、シンシャはぽいっと床へ放り投げる。


 次の瞬間。


 ボンッ!!


 白い煙が弾け、クッキーたちは等身大の獣へと姿を変えた。


 砂糖でできた牙。

 チョコで塗られた爪。

 アイシングで描かれた無表情な瞳。


 甘い匂いを漂わせながら、菓子の獣たちは一斉に杏樹とレイカへ牙を剥く。


「なら、致し方ありませんわね!!」


 レイカが《英傑月誅》を構える。


「うん!」


 杏樹もデガ喇叭を握りしめる。


「やるっきゃないっしょ!!」


 二人は同時に振り返った。


 金色の月輪と、泡を放つ喇叭。


 襲い来る菓子の獣たちを前に、杏樹とレイカは背中合わせに構える。


「ガアアアアアアアアア!!」


 焼き菓子でできた動物たちが、一斉に二人へ襲いかかった。


英傑月誅(サルサ・ゲッチュー)!!」


 レイカの手から放たれた金色のチャクラムが、鮮やかな弧を描く。


 飛び出してきたライオン型のクッキーが、その一閃で真っ二つに裂かれた。


 砕けた焼き菓子の欠片が、甘い匂いを撒き散らしながら床へ散る。


「パオオオオン!!」


 ライオンが崩れた直後、今度は象型のクッキーが巨体を揺らして突進してきた。


 砂糖で固められた巨大な鼻が、鞭のように振り上げられる。


泡連弾(ほうれんだん)!!」


 杏樹は即座にデガ喇叭を構え、その鼻先へ泡弾を撃ち込んだ。


 ぱん、ぱん、ぱんっ!!


 泡弾が鼻を正確に打ち抜き、象型クッキーの動きがわずかに鈍る。


「今ですわ!」


 レイカが腕を振る。


英傑往還(サルサ・ルヴィアン)!!」


 飛び去ったはずの《英傑月誅》が、レイカの風に乗って軌道を変えた。


 金色の月輪は背後から回り込み、象型クッキーの胴体を横一文字に切り裂く。


 ばきんっ!!


 重たい音を立てて、巨体が砕け散った。


「もう! さっさとやっちゃってよ~!!」


 シンシャが頬を膨らませ、足をばたつかせる。


 その命令に応えるように、菓子の獣の群れから一匹の影が飛び出した。


 速い。


 他の獣とは比べものにならない速度で、床を蹴って迫ってくる。


 狼型のクッキーだった。


「くっ……!」


 レイカが目を細める。


「だめですわ! 私では捉えきれません!!」


「オッケー! なら、わたしが――」


 杏樹は反射的にデガ喇叭を構えようとした。


 だが、完全に失念していた。


 今の自分の身体が、いつものように動かないことを。


「お、おお!?」


 狙いを定めようとした瞬間、膨れた身体がぐらりと揺れる。


 動作が重い。

 反応が遅い。

 踏ん張りが利かない。


 その一瞬の遅れを、狼型クッキーは見逃さなかった。


「ガルッ!!」


「ひゃっ!?」


 狼は杏樹の首根っこを咥えると、そのまま引きずるように駆け出した。


「ありゃああああああ――!!」


「あ、杏樹さ~~ん!!」


 レイカの叫びも虚しく、狼型クッキーは丸々と膨らんだ杏樹をずるずると引きずっていく。


「こ、このおおお!!」


 杏樹は反撃しようと身をよじる。


 しかし、身体が重すぎて思うように動けない。


 デガ喇叭を構えようにも、狼の牙が首根っこをがっちりと押さえている。


「ちょ、待っ、これ、思ったより屈辱的なんだけど!!」


『まったく、世話が焼けますね』


 その時、深紅の慧珠が鋭く光った。


 梓の支援が、狼型クッキーを横から打つ。


 ドンッ!!


「キャイイン!!」


 衝撃を受けた狼が、杏樹を咥えたまま体勢を崩した。


「よっしょあああ!!」


 転がる勢いを利用し、杏樹は無理やり身体を捻る。


 そして、至近距離からデガ喇叭を構えた。


「お返しだよ!!」


 ぱんっ!!


 泡弾が狼型クッキーの顔面を撃ち抜く。


 狼は甲高い悲鳴を上げ、焼き菓子の欠片となって砕け散った。


「ふう、ふう……危なかった」


 杏樹は床に転がったまま、荒い息を吐く。


「ありがとう、梓さん」


『礼は後で結構です。今は、目の前に集中してください』


「はいはい……分かってますって」


 杏樹はよろよろと起き上がり、再びデガ喇叭を握りしめた。


 その隣へ、レイカが月輪を構えて並ぶ。


「まったく、見ているこちらの心臓に悪いですわ」


「ごめんごめん。でも、まだやれるよ」


「当然ですわ。ここで倒れるなど、わたくしたちの性に合いませんもの」


 二人は視線を交わし、再び前を向く。


 甘い香りのする獣たちは、なおも群れを成して杏樹とレイカを睨んでいた。


「もおお~! これじゃあ、意味ないじゃん……」


 シンシャは頬を膨らませる。


 そして、すぐに何かを思いついたように目を輝かせた。


「ようし、それなら!」


 手にした巨大な飴を、高く振り上げる。


「そう~れえええ!!」


 バゴオオオッ!!


 次の瞬間、シンシャは自ら生み出した菓子の獣たちを、ためらいもなく粉砕した。


 砕け散るクッキーの脚。

 割れるチョコレートの角。

 崩れるビスケットの胴体。


 床一面に、甘い破片が散らばっていく。


 獣たちの鳴き声が、短い悲鳴のように弾けて消えた。


「つくりましょ〜♪ つくりましょ〜♪」


 シンシャは楽しげに歌いながら、ポケットからホイップクリームを取り出した。


 白いクリームが、べたり、と砕けた獣たちをつなぎ止める。


 足。

 腕。

 胴。

 顔。


 それぞれ別の獣だったものが、まるで壊れた玩具を無理やり直すように、次々と継ぎ合わされていく。


「わくわく♪ な〜にができるかな〜?」


 シンシャは、工作を楽しむ子どものように笑っていた。


 だが、出来上がっていくものは、到底かわいいなどと言えるものではなかった。


 ライオンの顔に、象の鼻。

 ウサギの耳に、鳥の翼。

 熊の腕に、馬の脚。


 別々の形を持っていた菓子の獣たちは、ホイップクリームによって強引に接着され、ひとつの歪な塊へ変わっていく。


 甘い匂い。

 白いクリーム。

 色とりどりの菓子。


 そのすべてが、吐き気を催すほど悪趣味な悪夢へと変貌していた。


「できました〜♪」


 シンシャは満面の笑顔で、杏樹とレイカを見た。


「プリティーキメラちゃ〜ん!!」


 それは、甘い香りをまとった怪物だった。


 無数の動物たちが、別々の口で鳴き叫ぶ。


 ライオンの咆哮。

 象の悲鳴。

 鳥の甲高い鳴き声。


 それらが混じり合い、耳障りな不協和音となって南方の間に響き渡る。


「……杏樹さん」


「うん、わかってる」


 二人の表情から、笑みが消えていた。


 そこにあるのは、恐怖ではない。


 嫌悪だけでもない。


 許せないものを見た者だけが抱く、静かな怒りだった。


「あいつは、許しちゃダメなやつだよ」


 杏樹の言葉に、レイカも深く頷く。


「ええ~? なんでよ!」


 シンシャは、本気で不思議そうに首を傾げた。


「こんなにおもしろいのに!」


 その声に、悪意はなかった。


 だからこそ、異常だった。


 自分が何をしたのか。

 それがどれほど歪んでいるのか。


 目の前の少女は、まるで理解していない。


「貴方……」


 レイカの声に、怒りが滲む。


「こんな恐ろしいことをして、何も思わないんですの!?」


 その言葉に、シンシャの笑顔がすっと消えた。


「はあ?」


 怒っているというより、本当に理解できないものを見る顔だった。


「何言ってんの、あんた?」


「あんたのやってることは、許せることじゃないでしょ!」


 杏樹がデガ喇叭を構え直す。


 シンシャは、さらに不機嫌そうに顔を歪めた。


「意味わかんない」


 その声から、甘さが消える。


「コイツラは所詮、ただのお菓子なんだよ?」


 その一言で、杏樹の瞳に宿る怒りが、さらに強くなった。


 レイカもまた、英傑月誅を構える。


 金色の月輪が、静かに光を帯びる。


「わかんない?」


 杏樹は、静かに言った。


 その周囲に、水の泡が浮かび上がる。


 先ほどまでの軽い調子はない。


 真っ直ぐに、シンシャを見据えている。


「こんなことを笑ってできるような奴とは――」


 泡が弾ける。


 デガ喇叭の砲口が、シンシャへ向いた。


「絶対、友達にはなれないってこと!!」


 その言葉を合図に、南方の間の空気が変わった。


 甘い遊びは、終わった。


 ここから先は、ただの戦いだった。


     * * *


「ガオオオオカアアアアアア!!!」


「アハハ! わたしたちのコンビに敵うかな?」


 シンシャとプリティーキメラが、同時に襲い掛かる。


 ドンッ!!


 ドゴオオオオオオ!!


 巨大な飴と、菓子でできた怪物の四肢が、南方の間を激しく揺らした。


英傑回遊(サルサ・トゥルア)!!」


 レイカは《英傑月誅》を両手に保持したまま、金色の刀身を閃かせる。


 その動きは、まるで舞踏。


 高速で回転しながら、キメラの足元へ斬り込む。


 ザンッ!!


 金色の月輪が、キメラの脚の一つを切り崩した。


 だが、相手は多脚の異形。


 一本や二本の脚を失った程度では、態勢を崩すには至らない。


「ギャアアオオオ!!」


 今度は、キリンの首が鞭のように振るわれた。


「甘いですわ!!」


 レイカは地を蹴り、身体を高速回転させる。


 首の一撃をすり抜けるようにかわしながら、その長い首筋へ《英傑月誅》を走らせた。


 斬ッ!!


 金色の弧が、キリンの首を斬り裂く。


 その勢いのまま、レイカの身体は上空へ舞い上がった。


(これなら、何とかなりそうですわね!!)


 だが――。


「ま、一体だけだったらね♪」


「!?」


 シンシャの声が、すぐ横から聞こえた。


 ゴンッ!!


 次の瞬間、レイカの身体に凄まじい衝撃が走る。


 何が起きたのかを理解するよりも早く、彼女の身体は弾き飛ばされていた。


郷泡霧(ごうほうむ)!!」


 杏樹が即座にデガ喇叭を構える。


 ボヨンッ。


 地面へ叩きつけられる寸前、柔らかな泡がレイカの身体を受け止め、衝撃を吸収した。


「た、助かりましたわ……!」


 レイカは泡の上で体勢を立て直し、息を整える。


「藤本さんも、ありがとうございます」


 シンシャの一撃が直撃する直前、梓の慧珠が障壁を張っていた。


 それがなければ、今の一撃で致命傷になっていてもおかしくなかった。


『いえ。しかし、今ので同じ防御は難しくなりました』


 梓の声に、わずかな緊張が混じる。


 見れば、深紅の慧珠には細かなひびが走っていた。


 支援も無限ではない。


 次に同じ一撃を受ければ、今度こそ防ぎきれない。


「ほらほらー! まだまだ行くよ~!!」


 シンシャが巨大な飴を振り上げる。


 同時に、プリティーキメラも複数の口を開き、奇怪な咆哮を上げた。


 逃げ場を潰すように、二つの脅威が迫る。


夢無々霧里(むむむむり)!!」


 杏樹のデガ喇叭から、白い霧が一気に噴き出した。


 もくもくと広がる濃霧が、南方の間一帯を包み込む。


「なに~これえええ! なんにも見えないよ~!!」


 視界を奪われたシンシャが、苛立たしげに飴をぶんぶんと振り回す。


 ガンッ!!


 ガンガンッ!!


 その一撃は、すぐ隣に立っていたプリティーキメラへ命中した。


 菓子でできた身体の一部が、ぼろぼろと崩れ落ちる。


「……」


 キメラは、複数の顔でじっとシンシャを見た。


「……なによ」


 沈黙。


「あんたも探しなさいよ!!」


 シンシャは苛立ちをぶつけるように、キメラを乱暴に蹴り飛ばした。


 その濃霧の中。


(この“状態”じゃあ、まともに戦えない……)


 杏樹は自分の丸く膨らんだ腹を見下ろした。


 篥歯の機動力は、完全に殺されている。


 いつものように跳べない。

 いつものように走れない。

 いつものように、相手の隙を突けない。


 このままでは、ただの的だ。


(――なら!!)


 杏樹は顔を上げる。


「レイカ、ちょっと時間稼いでくれない?」


「はあ!? この状況で何を言っておりますの!?」


 霧の向こうから、レイカの抗議の声が返ってくる。


 だが、彼女はすぐに言葉を止めた。


 杏樹の瞳を見たからだ。


 そこにあったのは、焦りではない。


 諦めでもない。


 覚悟。


 そして、勝利を掴みにいくための貪欲さだった。


「……分かりましたわ」


 レイカは、英傑月誅を握り直す。


「ですが、それほど長い時間は稼げませんことよ!!」


「うん、分かってる!」


 杏樹は短く頷く。


「こっちも、なる早でやるから!!」


「なる早って……本当に締まりませんわね!」


 そう言いながらも、レイカは霧の中を駆け出した。


 やがて、白く覆っていた霧が少しずつ薄れていく。


「あっれ~?」


 シンシャが、巨大な飴を肩に担いで周囲を見回す。


「みんな、どこ行っちゃったの~?」


 その声に応えるように――。


「オーッホッホッホッ!!」


 高らかな笑い声が、南方の間に響き渡った。


 視線を向けた先。


 巨大なおもちゃ箱の上に、金色の月輪を携えたレイカが立っていた。


「この大明寺レイカ、ここにおりましてよ!!」


 堂々と胸を張り、金髪をなびかせるその姿は、まるで舞台の上に立つ主役そのものだった。


「むう~! 見つけた!」


 シンシャが頬を膨らませる。


「さあ、プリティーキメラちゃん! やっちゃって~!!」


 命令に従い、プリティーキメラが複数の脚で床を蹴った。


 ドドドドドッ!!


 甘い破片を撒き散らしながら、歪な巨体が一直線にレイカへと突進する。


「真正面から来るとは、随分と単純ですわね!」


 レイカは両手に英傑月誅を構えた。


英傑月誅(サルサ・ゲッチュー)!!」


 放たれた金色の月輪が鋭い弧を描き、プリティーキメラの脚を斬り裂く。


 ザンッ!!


 ビスケットの脚が砕け、チョコレートの爪が弾け飛ぶ。


 だが、それでもプリティーキメラは止まらない。


 砕かれた脚の代わりに、別の獣の脚が床を掴み、強引に前へ出る。


「やはり、厄介ですわね……!」


 レイカはおもちゃ箱の上から跳び、追撃をかわそうとするが――。


「パオオオオン!!」


 象の頭部が鼻を高く掲げ、何かをレイカへ向けて勢いよく噴射した。


「きゃっ!?」


 白く粘つくものが、レイカの全身へべたりと張りつく。


「こ、これは――ホイップ!?」


 真っ白なホイップクリームが、どろりと重たくまとわりつき、レイカの身体の自由を奪っていく。


「こ、こんなもの!!」


 振り払おうとするものの、想像以上に重い。


 その一瞬の隙を、プリティーキメラは見逃さなかった。


 グオオオオオオッ!!


 振り上げられた象の鼻が、そのままレイカへ叩きつけられる。


「ぐッ!?」


 まともに受ければ致命打。


 だが、レイカは咄嗟に腕を交差させ、防御姿勢を取っていた。


(ですが、防御は間に合いましたわ!!)


 重い衝撃が全身を貫く。


 それでも、どうにか致命傷は避ける。


「で~も~、まだこっちもあるよ!」


 吹き飛ばされた先では、すでにシンシャが巨大なぺろぺろキャンディーを構えていた。


 飛んできたレイカを、そのまま打ち返すつもりなのだ。


「あ、甘いですわね! 我が英傑月誅は――“二度”舞いますわ!!」


 ギュルルルルル――!!


 すでに一度放たれた月輪は旋回し、シンシャの背後へと迫っていた。


「おおっと!」


 だが、シンシャはそれを軽々と躱す。


「あ~あ。黙ってれば不意打ちになったのに~」


「いえ、これで結構でしてよ!」


 躱された月輪は、そのままレイカへと向かい――。


 斬ッ!!


 計算され尽くした軌道で、レイカの身体のすぐ脇を通過。


 彼女にまとわりついていたホイップだけを、鮮やかに切り裂いた。


 着地と同時に、レイカは戻ってきた英傑月誅を掴み取る。


「もう~! ちゃんと戦ってよ!!」


 痺れを切らしたシンシャが声を荒げる。


 その声に呼応するように、プリティーキメラのいくつもの首が一斉にレイカへ向いた。


「来ますわ!!」


 レイカが距離を取ろうとした、その時だった。


「ゴゴゴゴゴゴゴッ!!」


 ライオン。

 狼。

 山羊。


 無理やり繋ぎ合わされた獣たちの口が一斉に開き、今度は茶色い液体を吐き出した。


「あ、あれは――チョコレート!?」


 大量のチョコレートが濁流となって押し寄せてくる。


「ま、まずいですわ!?」


 飲み込まれる寸前、レイカは咄嗟に上空へ跳び上がり、近くの棚の上へと着地した。


 だが――。


「いたッ!?」


 避けきれなかった飛沫の一部が、右腕に付着していた。


 じゅっ、と皮膚が焼ける音がする。


 チョコレートは異常なほどに熱せられており、すぐに払い落としたものの、右腕には赤く痛々しい痕が残っていた。


「あっちゃ~。上手によけられなかったんだね」


 シンシャが煽るように笑う。


(しょ、正直……きついですわね)


 腫れ上がった右腕から、ずきずきとした痛みが走る。


 呼吸も乱れ始めている。


 だが、それでも。


「ですが……」


 レイカは再び、英傑月誅を握り締めた。


「頼まれた以上、この“大明寺レイカ”――一切、逃げも隠れもいたしませんわ!!」


 高らかに言い放ち、彼女は静かに瞳を閉じる。


 呼吸を整え、己の精神を統一していく。


「んん~? 何するつもり~? どうせ、何やったって意味ないよ~」


 シンシャの言葉など意に介さず、レイカは自身の内に眠る悪鬼へと意識を沈めていった。


「あまり呼びたくはなかったのですが……」


 その声には、わずかな迷いと、それ以上の覚悟が滲んでいる。


「“あなた”に懸けます!」


 瞬間。


 レイカの全身が、まばゆい光に包まれた。


「ええ!? な、なに!!」


 シンシャが思わず目を見開く。


悪鬼召喚(あっきしょうかん)――《分福狐狸(フェイジェルタン)》!!」


 光の中から、ゆっくりとその姿が現れる。


 それは、大きな砂時計を抱えた、狸のような悪鬼だった。


 ころんと丸い体。

 どこか愛嬌のある顔立ち。

 もふりとした毛並み。


 見る者によっては、凶悪さより先に“かわいい”が来そうな姿である。


「ぐ~……ぐぐぐ……」


 しかも。


 分福狐狸は、気持ちよさそうに寝息を立てていた。


「……」


「……」


「……は?」


 その場にいた誰もが、一瞬、思考を停止した。


 シンシャも。

 プリティーキメラも。

 そして、張本人たるレイカでさえも。


 ただ、砂時計を抱えた狸が、すやすやと眠っている。


 起死回生の切り札としては、あまりにも締まらない光景だった。


「…………」


 やがて、レイカのこめかみに、ぴくりと青筋が浮かぶ。


「ちょっと――」


 彼女はひくりと口元を引きつらせながら、眠る悪鬼を見下ろした。


「こんな時くらい、起きなさいませええええええっ!!!」


 怒りに肩を震わせるレイカの横で、分福狐狸は相変わらず気持ちよさそうに寝息を立てていた。


「ぐ~……ぐぐぐ……」


「寝ている場合ではありませんわよおおおお!!」


 レイカの叫びも、当然のように届かない。


 その光景に、シンシャの頬がぷくっと膨らむ。


「うう~、バカにして!」


 彼女は巨大な飴を振り上げ、プリティーキメラへ命じた。


「やっちゃえ!!」


 プリティーキメラの複数の口が、一斉に開く。


 ゴゴゴゴゴゴッ!!


 体内で高温まで熱せられたチョコレートが、濁流となってレイカへ吐き出された。


「ちょ、ちょっと!?」


 レイカは咄嗟に分福狐狸を抱き上げ、そのまま走り出す。


「なぜ、わたくしが貴方を抱えて逃げなければなりませんの!?」


「ぐ~……」


「聞いておりませんわね!?」


 背後では、熱を帯びたチョコレートが床や壁へ飛び散っていた。


 じゅう、と嫌な音を立てて、付着した場所が溶けていく。


 あれをまともに浴びれば、ただでは済まない。


「ああ~? そこ、気をつけてね~」


 シンシャの間延びした声が響く。


 次の瞬間、走り抜けようとしたレイカの身体が、ぐっと後ろへ引っ張られた。


「い、いったい何ですの!?」


 足元を見る。


 床にべったりと張りついたガムが、レイカの靴に絡みついていた。


「ごめんね~。ガム、捨てちゃってた~♪」


「それは謝罪ではなく、完全なる悪意ですわ!!」


 レイカは分福狐狸を片腕に抱えたまま、必死に足を引き抜こうとする。


「くっ……取れませんわ……!」


 粘つくガムは、伸びるばかりでなかなか剥がれない。


 その間にも、プリティーキメラがじりじりと迫ってくる。


「や、やっと取れましたわ!」


 ようやくガムから足が外れた。


 だが、顔を上げた瞬間――。


 目の前には、プリティーキメラの爛々と光る瞳があった。


「こ、このおお!!」


 レイカは英傑月誅を投げようと腕を振り上げる。


 しかし、それよりも早く、キメラの口々がかっと開いた。


 熱されたチョコレートが、今まさに放たれようとしている。


(し、しまった……! 間に合いませんわ!!)


 レイカが、覚悟を決めたその瞬間だった。


 カッ!!


 腕の中で眠っていた分福狐狸の目が、唐突に開いた。


 その瞳に、金色の光が宿る。


 刹那――。


 プリティーキメラの動きが、完全に止まった。


 チョコレートを吐き出そうと開かれた口。

 振り上げられた爪。

 床を蹴る脚。


 そのすべてが、時を切り取られたかのように硬直していた。


「……今ですのね!」


 レイカは即座に反応する。


英傑月誅(サルサ・ゲッチュー)!!」


 腕から放たれた月輪が、金色の軌跡を描いて飛ぶ。


 斬ッ!!


 正面にあったライオンの首が、鮮やかに斬り飛ばされた。


「ガオオオオオオオン!!」


 時が動き出した瞬間、プリティーキメラが怒り狂ったように咆哮する。


 複数の口が叫び、複数の脚が床を蹴る。


 一斉にレイカへ襲い掛かろうとした、その時。


「《四魂球(しこんきゅう)》!!」


 四つの水晶玉が、濃霧の奥から飛来した。


 それらはそれぞれ別方向からプリティーキメラの胴体へ直撃する。


 ゴゴゴゴゴゴゴッ!!


 凄まじい衝撃が、巨体を内部から揺さぶった。


 プリティーキメラは、不協和音のような悲鳴を上げながら、床へ倒れ込んだ。


「お待たせしました!」


 高らかな声が響く。


 視線を向ければ、巨大なベッドの上に杏樹が立っていた。


 丸々と膨れていた身体は、元のしなやかな姿を取り戻している。


「杏樹ちゃん、復活だよ!!」


「遅いですわよ、杏樹さん!」


「ごめんごめん! でも、ここからは――」


 杏樹は勢いよくベッドの上から飛び降りた。


「わたしも全開で――」


 だが。


「ぬわああああああああ!?」


 予想以上に加速がついたらしく、杏樹は落下しながら悲鳴を上げていた。


「ちょ、ちょっと待っ、速い速い速い!!」


「何をしておりますの!?」


「し、四魂球!!」


 墜落寸前、四つの水晶玉が杏樹の身体の下へ滑り込む。


 ボヨンッ、という鈍い音とともに、何とか地面への直撃は避けられた。


 ただし――。


「だ、大丈夫ですの、杏樹さん?」


「だ、だいびょうぶ……」


 どうやら水晶玉に顔面から突っ込んだらしく、杏樹は鼻の頭を赤く腫らしながら、それでも震える親指を立ててみせる。


「ふぅん……」


 その様子を見ていたシンシャが、無機質な表情のまま二人の前へ歩み出た。


「な~んだ。ちょっとは遊べそうじゃん」


 その背後で、


「ブオオオオオオ!!」


 主に倣うように、配下のプリティーキメラもまた、砕けかけた身体を無理やり起こし、杏樹とレイカを睨みつける。


 だが、シンシャはそんなキメラを一瞥すると、心底つまらなさそうにため息をついた。


「……はあ~。もう、あきちゃったよ」


 そう呟き、手にしていた飴をくるりと弄ぶ。


 そして――。


「あきたら~~ぽいっ!!」


 子どもが玩具を投げ捨てるような気安さで、シンシャは思いきり腕を振り抜いた。


 ドゴッ!!


 凄まじい音が響く。


 その一撃で、プリティーキメラの身体はついに限界を迎えた。


 ライオンの頭が弾け飛ぶ。

 象の鼻がひしゃげて崩れる。

 鳥の翼が砕け散り、

 熊の腕が宙を舞う。


 無理やり継ぎ接ぎされた菓子の獣は、最後にいくつもの断末魔を重ねるような悲鳴をあげ――そのまま粉々に爆ぜた。


風の壁(ミュール・デ・ヴォン)!!」


 飛び散る破片を前に、レイカが即座に英傑月誅を前方で回転させる。


 巻き起こった風が一枚の壁となって二人の前に立ちはだかり、飛来する首や腕や破片を容赦なく粉砕していく。


 甘い欠片が、ぱらぱらと床へ降り積もった。


 その光景を見つめながら、杏樹の握るデガ喇叭に、ぐっと力がこもる。


「も~! 何にも役に立たないじゃん!!」


 シンシャは頬を膨らませ、ぷんぷんと怒っていた。


 その姿はまるで、癇癪を起こした子どもそのものだ。


 だが――。


 杏樹の胸の内で膨れ上がるものもまた、怒りだった。


「……やっぱり、許せないな」


「ん~? なんか言った~??」


 シンシャがわざとらしく耳に手を当て、杏樹を挑発する。


 杏樹は真っ直ぐにその目を見返した。


「あんたみたいに、仲間を何とも思わないやつは――絶対に許せないって言ってんの!!」


 その叫びに、シンシャはぴくりと反応し、耳を塞ぐ。


 次の瞬間。


 愛らしく整っていたその顔が、ぐにゃりと歪んだ。


「うっせえええなあああ!! てめえええええ!!」


 目は大きく見開かれ、口元は吊り裂けんばかりに歪む。


 白い牙が剥き出しになり、その奥から粘つくような怒気が噴き出していた。


「ああ!? 何が“仲間”だあああ!?」


 シンシャは地団駄を踏みながら喚く。


「“あれ”は、あたしが生んだ“物”なの!!

 どう扱うかは、作ったやつの自由なの!!」


 鬼の形相。


 だが、その言い分はあまりにも幼稚で、あまりにも身勝手だった。


 まるで壊した玩具を惜しみもしない子どもが、そのまま怪物になったような醜さ。


 そのちぐはぐさこそが、シンシャという悪鬼の本質を何より雄弁に物語っていた。


「もおおお~!! あんたたち、絶対ぶっころす!!」


 怒りのあまり、ついに泣き声混じりで喚き始めたシンシャが、二人へ向かって突っ込んでくる。


「来ますわ!!」


「うん!!」


     * * *


 シンシャは巨大なキャンディーを頭上高く振り上げ、そのまま力任せに叩き下ろした。


 ドゴオオオオンッ!!


 凄まじい衝撃が床板を砕き、木片と甘い欠片が宙へ舞い上がる。


 だが、杏樹とレイカは左右へ飛び、寸前でその一撃を回避した。


泡連弾(ほうれんだん)!!」


 着地と同時に、杏樹がデガ喇叭から泡弾を連射する。


「マシュマロガード!!」


 シンシャはポケットからマシュマロを取り出して前方へ放る。


 ぽよん、と膨らんだ巨大なマシュマロが盾となり、飛来した泡弾を次々と呑み込んでいく。


「――からの!」


 にたり、とシンシャの口元が歪む。


「コンペイガン!!」


 吸収された泡が、鋭い金平糖の弾丸へと変じた。


 キラキラと甘ったるく光りながら、それらは一斉に杏樹たちへ撃ち返される。


英傑月誅(サルサ・ゲッチュー)!!」


 そこへ、レイカの放った金色の月輪が閃いた。


 ギィンッ!!


 回転する刃が金平糖弾をまとめて切り裂き、そのまま勢いを殺さずシンシャへと飛んでいく。


「へん! そんなへなちょこ攻撃、大丈夫だもん!!」


 シンシャは頬を膨らませながら、再びポケットへ手を突っ込んだ。


 取り出したのは、色とりどりのグミ。


 それを無造作に放り投げると――。


 ぶわっ、とグミが一気に広がり、シンシャの全身へまとわりつく。


「グミグミアーマー!!」


 瞬く間に形成されたのは、半透明にぬめり光るグミの鎧だった。


 直後、レイカの英傑月誅がその胴へ直撃する。


 だが――。


 ぶよんっ!!


 鈍い音を立てて刃は弾かれ、月輪はそのまま大きく軌道を逸らされる。


「なっ――!?」


 レイカの目が見開かれる。


 グミの鎧は斬撃を受け止めるだけでなく、その弾力で衝撃そのものを逃がしていた。


「アハハ! どう!? すごいでしょ!

 これなら、ぜーんぶへっちゃらなんだから!!」


 甘ったるい声色とは裏腹に、その防御はあまりにも厄介だった。


 杏樹はデガ喇叭を握り直し、レイカは跳ね返された英傑月誅を手元へ呼び戻す。


 甘いだけの遊びは、もう終わっている。


 目の前にいるのは、ただのお菓子好きの子どもではない。


 無邪気に人を壊し、

 無邪気に命を弄ぶ、

 れっきとした“怪物”だ。


「今度は、こっちからいくぞおおおおお!!」


 シンシャは巨大なぺろぺろキャンディーをぶんぶんと振り回しながら、自らの身体ごと回転して突っ込んでくる。


「四魂球! いっけえええええ!!」


 杏樹の号令とともに、宙に浮かぶ四つの球が一斉に飛んだ。


 ガンッ!!


 四魂球はキャンディーへ真正面から激突し、その飴の塊を粉々に砕く。


「あらら~、壊れちゃったじゃんか」


 シンシャは砕けた棒の先を見下ろす。


 だが次の瞬間には、まるで気にもしていないようにそれをぽいと捨て、不敵に笑った。


「でも、ぜんぜん問題な~し♪」


 そう言うと、彼女は再びポケットをまさぐる。


「ジャジャジャジャーン! 伝説のアイスバー!!」


 取り出したのは、一本のアイスバー。


 だが、それはただの菓子ではなかった。


 刀身のように長く巨大化した氷菓からは、白い冷気が絶えず溢れ出している。


「ほいさ~、いっくよおおおお!!」


 ブンッ!!


 シンシャがその“氷の大剣”を振り回した瞬間、凄まじい風圧とともに、刺すような冷気が杏樹とレイカを襲った。


「っ、くぅ!?」


「な、何ですの!?」


 二人が咄嗟に身を退く。


 直後、彼女たちが立っていた場所は、床ごと一瞬で白く凍りついていた。


「ほらほら~、まだまだいくよ!」


 シンシャが無邪気に笑いながらアイスバーを振るうたび、冷気の奔流が辺り一面を呑み込んでいく。


 床は霜に覆われ、

 壁は白く凍てつき、

 空気そのものが重たく冷え込んでいく。


「このおおお! 英傑月誅(サルサ・ゲッチュー)!!」


 レイカが月輪を放つ。


 黄金の刃は一直線にシンシャへ迫る――はずだった。


「えいっ!!」


 シンシャがアイスバーを振り下ろした。


 瞬間、月輪は空中で霜をまとい、動きを鈍らせる。


「なっ――」


 凍りついた月輪は、そのまま床へ落ちた。


 パリンッ!!


 甲高い破砕音。


 月輪は砕け散り、無残な欠片となって飛び散った。


「ま、まさか……!?」


 レイカの瞳に動揺が走る。


 その隙を、シンシャは見逃さない。


 氷の大剣を構えたまま、一気に間合いを詰める。


(し、しまっ――)


 ほんのわずかな硬直。


 されど、致命の一瞬だった。


 反応が、間に合わない。


「れ、レイカ!!」


 杏樹が必死に駆ける。


 だが、あと一歩届かない。


 ――その時だった。


 カッ!!


 レイカの腕に抱かれていた分福狐狸が、不意に目を開く。


 その瞬間、振りかぶっていたシンシャの動きが、ぴたりと止まった。


「四魂球!!」


 杏樹はその一瞬を逃さない。


 二つの球が停止したシンシャの脇腹へ叩き込まれ、その小さな身体を大きく吹き飛ばした。


「きゃあああっ!?」


 一方、残る二つの球の上に乗った杏樹が、何とかレイカの身体を抱え上げる。


「お、重いいい……!」


 歯を食いしばりながらも、杏樹はどうにかレイカを救い出した。


「い、いったい何が……?」


 助けられたレイカは、呆然と呟く。


 だが、その腕の中では、分福狐狸が何事もなかったかのように、再びすやすやと寝息を立てていた。


「ああ~!? 何がどうなってんの!!」


 当然、シンシャもまた驚愕を隠せない。


 だが、その混乱もすぐに苛立ちへと変わる。


「ふん! もう、あきたから、一気に終わりにしちゃうもんね!!」


 その言葉とともに、シンシャの内側から膨大な瘴気が溢れ出した。


「今度は何をするつもり……?」


 杏樹たちが身構える中、南方の間――もともとは子ども部屋だったその空間そのものが、ぐにゃりと歪み始める。


 椅子は、チョコレートクッキーへ。

 ベッドは、ぷるぷると揺れる巨大なゼリーへ。

 机は、甘い香りを放つホットケーキへ。


 壁も、床も、天井すらも。


 現実の輪郭を失い、悪夢めいた“お菓子の世界”へと塗り替えられていく。


「さあ!」


 シンシャは両手を広げ、狂喜に満ちた笑みを浮かべた。


「お菓子のお城で、一気にやられちゃいなあああ!!」


 シンシャの叫びと同時に、南方の間全体が甘ったるく歪む。


 その直後。


 空中にいた杏樹たちの背後から、ざざざざざ、と何かが崩れ落ちるような音が響いた。


「……え?」


 二人が振り返る。


 そこには、大量の砂糖が雪崩のように押し寄せていた。


「や、やば――」


 杏樹は必死に逃げようとする。


 だが、間に合わない。


 白い砂糖の濁流が、杏樹とレイカの身体を容赦なく呑み込んだ。


「出て来い……よっと!!」


 シンシャが巨大なアイスバーを振りかぶる。


 そして、流れてきた砂糖の山ごと一気に薙ぎ払った。


 ガンッ!!


 凄まじい衝撃音。


 砂糖の中に沈んでいた杏樹とレイカの身体が、勢いよく宙へ舞った。


「うがッ!?」


「ああっ!!」


 二人の身体が、クラッカーでできた床へ叩きつけられる。


 杏樹は歯を食いしばり、何とか立ち上がった。


 だが、その視線の先で、レイカの半身が白く凍りついていた。


「れ、レイカ……どうして……」


 吹き飛ばされる直前。


 レイカは杏樹を庇い、アイスバーの冷気をまともに受けていたのだ。


「あ、貴女がやられては……本当に勝ち目がなくなってしまうでしょう」


「……レイカ」


 その言葉に、杏樹は拳を握り締める。


 そして、再び立ち上がった。


「はあ~? もう無理だって!」


 シンシャはけらけらと笑う。


「見なよ、この状況を。あんたたちが勝てるなんて、万が一にもないよ~」


 だが、杏樹は臆さない。


 デガ喇叭を咥え、まっすぐにシンシャを睨んだ。


「本気?」


「本気も本気」


 杏樹は、短く息を吐く。


「大本気」


 その声音に、迷いはなかった。


「梓さん! レイカのこと、お願い!!」


『分かりました』


 深紅の慧珠が光を放つ。


 凍りついたレイカの身体が、少しずつ溶け始めた。


「なら!」


 シンシャがアイスバーを構える。


「一気にやっちゃうよ!!」


 踏み込んでくるシンシャを前に、杏樹が立ちはだかる。


夢無々霧里(むむむむり)!!」


 デガ喇叭から、ぶわっと濃霧が噴き出した。


 白い霧が、シンシャと杏樹たちを一気に包み込む。


「そんなもん! もう通用しないよおおお!!」


 シンシャの合図に合わせ、巨大なホットケーキの上から熱々のバターが零れ落ちた。


 じゅう、と床を焼く音。


 同時に立ち上った熱気が、杏樹の生み出した濃霧を一気に晴らしていく。


 だが。


 晴れた視界の中に、杏樹の姿はなかった。


「ちッ! また逃げた!!」


 シンシャが叫んだ、その瞬間。


 残っていた霧の一部が、ぶわっと膨らむ。


泡連爽弾(ほうれんそうだん)!!」


 側面から飛び出した杏樹が、デガ喇叭を構えていた。


 霰の弾丸が、シンシャへ向かって一斉に放たれる。


「おっそいんだよ!!」


 シンシャがアイスバーを振り下ろす。


 冷気に触れた氷の礫は、さらに分厚く凍りつき、その自重で床へ落ちていった。


 だが――。


「なッ!?」


 その中に、凍らずに突っ込んでくるものがあった。


 四つの水晶玉。


 泡連爽弾に紛れ込ませた、四魂球だった。


「ふん! でも、関係ないね!!」


 ボヨンッ!


 三つの球が、確かにシンシャの胴体へ命中する。


 しかし、グミの鎧がその衝撃を受け止め、弾力で逃がしてしまう。


「――いや、まだだあああ!!」


「!?」


 シンシャが目を見開く。


 最後の四魂球に背を押されるようにして、杏樹自身が突っ込んできていた。


「がぶへッ!?」


 杏樹の頭突きが、唯一グミの鎧をまとっていないシンシャの顔面へ直撃する。


 その勢いに、小柄な身体が大きく後ろへ吹き飛んだ。


「さあ!」


 杏樹はすぐさま立ち上がり、構え直す。


「まだまだこっから!!」


「よ、よくも根性かましてくれたなああああ!!」


 怒りに震えながら、シンシャが立ち上がる。


 その顔には、すでに先ほどまでの無邪気な笑みはない。


「ほうれ! ほうれ! こっちこっち!!」


 杏樹は毛むくじゃらの尻尾を振り、露骨にシンシャを煽った。


「ざっけんなよ、コラああああ!!」


 怒り狂ったシンシャが飛び込んでくる。


(ようし、怒れ怒れ!)


 杏樹の瞳が鋭く光る。


(怒った隙こそが……チャンス!!)


泡連弾(ほうれんだん)!!」


 向かってくるシンシャへ、杏樹は泡の弾丸を連射する。


「うおおおおおお!!」


 シンシャはマシュマロの盾で、それを次々と受け止めていった。


「っく! まだまだ!!」


 杏樹はさらに泡連弾を撃ち続ける。


「そんなへなちょこ攻撃が効くかよ!!」


 大量の泡を吸い込んだマシュマロの盾は、ぱんぱんに膨れ上がっていた。


「いや、これでいいの!」


 次の瞬間。


 デガ喇叭から、赤い泡が放たれる。


「はん! このまま叩き潰してやる!!」


 シンシャが巨大なアイスバーを振り上げる。


 その腕に装着されたマシュマロの盾へ、赤い泡が入り込んだ。


 瞬間――。


「今だ! ビビデバ弾、爆破!!」


 バアアアンッ!!


 強烈な爆発音が、南方の間に響き渡る。


 膨れ上がったマシュマロが内側から弾け飛び、白い破片と熱気が一気に撒き散らされた。


(こ、これは……水蒸気爆発か!?)


 シンシャは激しい衝撃を受ける。


 グミの鎧のおかげで致命傷こそ避けた。


 だが、衝撃を吸収しきれず、その鎧の大半が弾け飛んでいた。


「ちッ……」


 シンシャは残ったグミを乱暴に剥ぎ取る。


「使い物にならなくなっちまったな……」


 爆発のせいか、頭に上っていた血が少しだけ冷えたようだった。


 シンシャの瞳に、さっきまでとは違う冷たさが戻る。


「ふん。やるじゃないか」


 彼女は再び、巨大なアイスバーを構えた。


「ふん! そんな大振りな攻撃、避けちゃうから!!」


 杏樹が身構える。


 だが、シンシャはふっと笑った。


「あんた、さっき砂糖、飲んじゃったでしょ?」


「え――」


 瞬間、杏樹の身体が、ぼんっとさらに膨れ上がった。


「!?」


 シンシャの一撃を避けようとしていた杏樹の動きが、一気に鈍る。


 増量。


 強制的に膨らまされた身体が、彼女の反応速度を奪った。


「おりゃあああああ!!」


 ゴンッ!!


 大振りに振るわれたアイスバーが、ぱんぱんに膨らんだ杏樹の腹へ叩き込まれる。


「かはッ!?」


 凄まじい衝撃が、杏樹の全身を駆け巡った。


 大きく弾き飛ばされ、床を転がる。


 何とか立ち上がろうとした杏樹だったが、打たれた場所が白く凍り始めていた。


「はッ! まだ終わってねえぞ!!」


 さらに、シンシャが追撃へ走る。


「いって! 四魂球!!」


 振り下ろされる氷の刀身へ、四魂球の一つがぶつかる。


 だが、勢いは止まらない。


「このまま押し切ってやるよ!!」


 シンシャが力ずくでアイスバーを振り下ろす。


「まだまだ!!」


 杏樹の叫びとともに、二つ目の球が、最初の球へぶつかる。


 さらに三つ目。


 さらに四つ目。


 後からぶつかった球の衝撃が連鎖し、アイスバーの刀身に少しずつ亀裂を生んでいく。


「いっけえええええ!!」


 コン。


 最後の一個が、刀身を押し上げた。


 瞬間、亀裂が一気に反対側へ走る。


 ボキッ!!


 ついに、氷の刀身が砕けた。


「よ、よし――」


「へッ! これで勝ったと思うな!!」


 シンシャはポケットから何かを取り出し、杏樹の足元へ投げつけた。


 黄色い粒のようなもの。


 それが床へ落ちた瞬間、次々と弾け始める。


「ぽ、ポップコーン!?」


 ババババンッ!!


 爆裂の衝撃で、杏樹の身体が宙へ舞う。


「まだだよ!!」


 舞い上がった杏樹の下で、タケノコ型のチョコクッキーが一気に伸びた。


「ぐっ!?」


 杏樹はぎりぎりで身体を捻る。


 だが、そのうちの一本が横腹を抉った。


「さあ! そのブヨブヨの身体、真っ二つにしてあげる!!」


 シンシャはジェリービーンズを取り出す。


 それを細く引き伸ばし、鋭い太刀へと変えた。


泡連爽弾(ほうれんそうだん)!!」


 杏樹は、すかさず霰の弾丸を放つ。


「ちいい! 悪あがきを!!」


 さすがのシンシャも、防御用の兵装はほとんど失っていた。


 霰の弾丸が、腕を、脚を、肩を貫く。


 しかし、それでも彼女の一閃は止まらない。


 ザンッ!!


 迸る斬撃が、杏樹の右肩を切り裂いた。


「――っつ!!」


 その拍子に、デガ喇叭が杏樹の手からこぼれ落ちる。


「これで、最後だああああああ!!」


 シンシャがジェリービーンズの太刀を振り上げる。


「四魂球!!」


 四つの球がシンシャを狙って飛ぶ。


 だが――。


「甘い!!」


 シンシャは側転し、四魂球をかわした。


「おしかったねえええええ! でも、残念でしたああああ!!」


 勝ちを確信したシンシャが笑う。


 しかし。


 球はシンシャではなく、杏樹へ向かっていた。


「はあ!? 自分の技で自滅~? だっさ~♪」


「いや」


 杏樹が、不敵に笑う。


「これが狙い」


 四魂球が杏樹の身体へぶつかる。


 その衝撃で、杏樹の身体が一気に上空へ舞い上がった。


「な!? また逃げる気!?」


 シンシャは、反射的に上を見た。


 その一瞬。


 周囲への警戒が、完全に切れた。


「頼んだよ! レイカあああああ!!」


「……かしこまりましたわ」


 シンシャが気づいた時には、すでにレイカが懐へ入り込んでいた。


 凍傷と傷だらけの身体。


 それでも、彼女は最後の英傑月誅を、シンシャの腹部へ向けて構えていた。


「て、てめえええ――」


「吹き飛びなさい」


 月輪が強烈に回転する。


「《大旋風(トルナード)》!!」


 凄まじい風が、至近距離でシンシャの全身を包み込んだ。


 軽い身体が、宙へ吹き飛ばされる。


「これしきのことで、あたしを倒せると――!?」


 だが、シンシャは気づく。


 自分の頭上に、巨大な影があることに。


「さあ、これで終わりにするよ」


 そこには、ぱんぱんに膨れ上がった杏樹が待っていた。


「《武部沌落下ブブトンアタアアアアアアック》!!」


 四魂球が、杏樹の背を一斉に押し出す。


 そのまま、地表へ向けて凄まじい勢いで落下してくる。


(あれをまともに受ければ、ただじゃ済まない! ――でも!!)


 シンシャはジェリービーンズの太刀を握り締める。


「ギリギリ、ぶった切れるなああああ!!」


 わずかに。


 ほんのわずかに。


 杏樹とぶつかるよりも、シンシャが振り向きざまに斬る方が速い。


「勝ったあああああ!!」


 完全な勝利を確信した、その瞬間だった。


「だ、だめ……これでは……!!」


 レイカは何とか後押ししようとする。


 だが、これまでのダメージでもう立っていることすらままならない。


 もはや、これまで。


 そう思われた瞬間――。


 カッ!!


 分福狐狸が、目を開いた。


 刹那。


 シンシャの動きが止まる。


 それが、最後の決め手となった。


「いっけえええええ!!!」


 杏樹の身体が、シンシャへ激突した。


「なああああああああああ!!!」


 凄まじい衝撃が、シンシャの全身を貫く。


 もはや、反撃どころではない。


 そのまま一人と一匹は、地上へと墜落する。


 ドゴオオオオオオオオオオオオッ!!


 激突。


 クラッカーの床が叩き割られる。


 お菓子へ変えられた家具が砕け、壁が崩れ、南方の間そのものが激しく揺れた。


 土煙が晴れていく。


 床には、シンシャが倒れていた。


 そして。


 煙の中、最後に立っていたのは杏樹だった。


 杏樹はゆっくりと転身を解き、元の姿へ戻る。


「う、あ――」


 次の瞬間、糸が切れたようにその場へ倒れ込んだ。


「……や、やりましたわね」


 レイカが、かすれた声で言う。


「おうさ……」


 杏樹は床に倒れたまま、震える手で親指を立てた。


「“大明寺レイカ”と――」


 そして、にっと笑う。


「この“加藤杏樹”ならね!」


 そう言って、杏樹はウインクをした。


「まったくですわね」


 レイカも、痛みに顔をしかめながら、それでも微笑んだ。


 そんな二人の横で、分福狐狸はまた気持ちよさそうに寝息を立てている。


「ぐ~……ぐぐぐ……」


「最後まで、締まりませんわね……」


 レイカの呟きに、杏樹は小さく笑った。


 南方の間に、ようやく静けさが戻っていく。


 砕けた玩具。

 割れた菓子。

 崩れたお菓子の城。


 甘い匂いだけが、壊れた子ども部屋に残っていた。


 無邪気に笑い、無邪気に壊し、無邪気に命を弄んだ少女は、もう立ち上がらない。


 その悪夢を終わらせたのは、一人では届かなかった一撃。


 杏樹とレイカ。


 二人が互いを信じ、支え、最後まで諦めなかったからこそ届いた一撃だった。


 ここに、南方の間での戦いは終わりを告げた。

次回予告


南方の間で、杏樹とレイカはシンシャを撃破した。


しかし、鬼哭餓亂城の戦いはまだ終わらない。

西方の間では、理恵と芦谷が、血を操る四天王・バーミリオンと対峙する。


豪奢な劇場。

観客なき舞台。

戦う者の理性を熱狂へと沈める、血染めの毒。


芦谷と梓の支援を受け、理恵は一度バーミリオンを追い詰める。

だが、幕が下りたはずの舞台で、さらなる悲劇の第二幕が開こうとしていた。


次回、

第78話「血染めの舞台」


紫苑の令嬢の奥底で、黒き鬼女が目を覚ます。

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