第77話「お菓子の城の終わり」
南方の間に広がるのは、甘い匂いに満ちた子ども部屋。
だが、そこにあるのは楽しい遊びではない。
お菓子の獣、継ぎ接ぎの怪物、そして無邪気にすべてを壊す四天王・シンシャ。
膨らんだ身体でなお立ち上がる杏樹と、誇り高く戦場に立つレイカ。
噛み合わないようで噛み合う二人が、甘く残酷な悪夢に挑む。
お菓子の城で、南方の間の戦いが決着する。
南方の間。
甘い匂いが充満する子ども部屋のような空間で、杏樹とレイカはシンシャの猛攻に晒されていた。
床には、砕けた玩具。
裂けたぬいぐるみ。
溶けかけた飴細工。
そして、あちらこちらに甘ったるい爆炎の跡が刻まれている。
可愛らしいはずの部屋は、今や悪趣味な戦場と化していた。
「そおおお――れえええ!!」
間延びしたシンシャの声が響く。
だが、その声とは裏腹に、振り下ろされる巨大なぺろぺろキャンディーの一撃は、あまりにも凶悪だった。
ドンッ!!
床が砕ける。
衝撃で玩具が跳ね、菓子でできた家具が粉々に吹き飛んだ。
「ちょ、ちょっと! あれは何なんですの!?」
レイカが全力で逃げながら叫ぶ。
「わたしも分かんないよ! でも多分、この事件の黒幕の一人!!」
杏樹も丸々と膨らんだ《篥歯》の身体で、必死に跳ねるように逃げ回る。
「もおおお! せっかく“お友達”も増えたんだから、逃げないでよ~」
シンシャは頬を膨らませながら、巨大な飴をぶんぶんと振り回す。
可愛らしい仕草。
無邪気な声。
だが、その一撃一撃が、まともに受ければ即座に叩き潰されるだけの威力を持っていた。
「む、無理ですわ! その物騒な得物を下ろしていただかない限り、話し合いの余地はありませんことよ!!」
「ええ~? それじゃあ楽しくないじゃ~ん」
「楽しくなくて結構ですわ!!」
レイカの叫びなど、シンシャにはまるで届かない。
彼女は楽しそうに笑いながら、さらに二人を追い立てる。
「無駄だよ、レイカ!」
杏樹が叫ぶ。
「あれ、人の姿してるけど、中身はちゃんと“怪物”だから!!」
「見れば分かりますわ!!」
逃げ続ける二人に痺れを切らしたのか、シンシャはふと足を止めた。
「も~、追いかけっこばっかりじゃつまんないなあ」
そう言って、彼女はポケットの中をがさごそとまさぐる。
「なら、こっちからやっちゃうよ!」
取り出したのは、動物の形をしたクッキーだった。
うさぎ。
くま。
犬。
ライオン。
可愛らしい焼き菓子たちを、シンシャはぽいっと床へ放り投げる。
次の瞬間。
ボンッ!!
白い煙が弾け、クッキーたちは等身大の獣へと姿を変えた。
砂糖でできた牙。
チョコで塗られた爪。
アイシングで描かれた無表情な瞳。
甘い匂いを漂わせながら、菓子の獣たちは一斉に杏樹とレイカへ牙を剥く。
「なら、致し方ありませんわね!!」
レイカが《英傑月誅》を構える。
「うん!」
杏樹もデガ喇叭を握りしめる。
「やるっきゃないっしょ!!」
二人は同時に振り返った。
金色の月輪と、泡を放つ喇叭。
襲い来る菓子の獣たちを前に、杏樹とレイカは背中合わせに構える。
「ガアアアアアアアアア!!」
焼き菓子でできた動物たちが、一斉に二人へ襲いかかった。
「英傑月誅!!」
レイカの手から放たれた金色のチャクラムが、鮮やかな弧を描く。
飛び出してきたライオン型のクッキーが、その一閃で真っ二つに裂かれた。
砕けた焼き菓子の欠片が、甘い匂いを撒き散らしながら床へ散る。
「パオオオオン!!」
ライオンが崩れた直後、今度は象型のクッキーが巨体を揺らして突進してきた。
砂糖で固められた巨大な鼻が、鞭のように振り上げられる。
「泡連弾!!」
杏樹は即座にデガ喇叭を構え、その鼻先へ泡弾を撃ち込んだ。
ぱん、ぱん、ぱんっ!!
泡弾が鼻を正確に打ち抜き、象型クッキーの動きがわずかに鈍る。
「今ですわ!」
レイカが腕を振る。
「英傑往還!!」
飛び去ったはずの《英傑月誅》が、レイカの風に乗って軌道を変えた。
金色の月輪は背後から回り込み、象型クッキーの胴体を横一文字に切り裂く。
ばきんっ!!
重たい音を立てて、巨体が砕け散った。
「もう! さっさとやっちゃってよ~!!」
シンシャが頬を膨らませ、足をばたつかせる。
その命令に応えるように、菓子の獣の群れから一匹の影が飛び出した。
速い。
他の獣とは比べものにならない速度で、床を蹴って迫ってくる。
狼型のクッキーだった。
「くっ……!」
レイカが目を細める。
「だめですわ! 私では捉えきれません!!」
「オッケー! なら、わたしが――」
杏樹は反射的にデガ喇叭を構えようとした。
だが、完全に失念していた。
今の自分の身体が、いつものように動かないことを。
「お、おお!?」
狙いを定めようとした瞬間、膨れた身体がぐらりと揺れる。
動作が重い。
反応が遅い。
踏ん張りが利かない。
その一瞬の遅れを、狼型クッキーは見逃さなかった。
「ガルッ!!」
「ひゃっ!?」
狼は杏樹の首根っこを咥えると、そのまま引きずるように駆け出した。
「ありゃああああああ――!!」
「あ、杏樹さ~~ん!!」
レイカの叫びも虚しく、狼型クッキーは丸々と膨らんだ杏樹をずるずると引きずっていく。
「こ、このおおお!!」
杏樹は反撃しようと身をよじる。
しかし、身体が重すぎて思うように動けない。
デガ喇叭を構えようにも、狼の牙が首根っこをがっちりと押さえている。
「ちょ、待っ、これ、思ったより屈辱的なんだけど!!」
『まったく、世話が焼けますね』
その時、深紅の慧珠が鋭く光った。
梓の支援が、狼型クッキーを横から打つ。
ドンッ!!
「キャイイン!!」
衝撃を受けた狼が、杏樹を咥えたまま体勢を崩した。
「よっしょあああ!!」
転がる勢いを利用し、杏樹は無理やり身体を捻る。
そして、至近距離からデガ喇叭を構えた。
「お返しだよ!!」
ぱんっ!!
泡弾が狼型クッキーの顔面を撃ち抜く。
狼は甲高い悲鳴を上げ、焼き菓子の欠片となって砕け散った。
「ふう、ふう……危なかった」
杏樹は床に転がったまま、荒い息を吐く。
「ありがとう、梓さん」
『礼は後で結構です。今は、目の前に集中してください』
「はいはい……分かってますって」
杏樹はよろよろと起き上がり、再びデガ喇叭を握りしめた。
その隣へ、レイカが月輪を構えて並ぶ。
「まったく、見ているこちらの心臓に悪いですわ」
「ごめんごめん。でも、まだやれるよ」
「当然ですわ。ここで倒れるなど、わたくしたちの性に合いませんもの」
二人は視線を交わし、再び前を向く。
甘い香りのする獣たちは、なおも群れを成して杏樹とレイカを睨んでいた。
「もおお~! これじゃあ、意味ないじゃん……」
シンシャは頬を膨らませる。
そして、すぐに何かを思いついたように目を輝かせた。
「ようし、それなら!」
手にした巨大な飴を、高く振り上げる。
「そう~れえええ!!」
バゴオオオッ!!
次の瞬間、シンシャは自ら生み出した菓子の獣たちを、ためらいもなく粉砕した。
砕け散るクッキーの脚。
割れるチョコレートの角。
崩れるビスケットの胴体。
床一面に、甘い破片が散らばっていく。
獣たちの鳴き声が、短い悲鳴のように弾けて消えた。
「つくりましょ〜♪ つくりましょ〜♪」
シンシャは楽しげに歌いながら、ポケットからホイップクリームを取り出した。
白いクリームが、べたり、と砕けた獣たちをつなぎ止める。
足。
腕。
胴。
顔。
それぞれ別の獣だったものが、まるで壊れた玩具を無理やり直すように、次々と継ぎ合わされていく。
「わくわく♪ な〜にができるかな〜?」
シンシャは、工作を楽しむ子どものように笑っていた。
だが、出来上がっていくものは、到底かわいいなどと言えるものではなかった。
ライオンの顔に、象の鼻。
ウサギの耳に、鳥の翼。
熊の腕に、馬の脚。
別々の形を持っていた菓子の獣たちは、ホイップクリームによって強引に接着され、ひとつの歪な塊へ変わっていく。
甘い匂い。
白いクリーム。
色とりどりの菓子。
そのすべてが、吐き気を催すほど悪趣味な悪夢へと変貌していた。
「できました〜♪」
シンシャは満面の笑顔で、杏樹とレイカを見た。
「プリティーキメラちゃ〜ん!!」
それは、甘い香りをまとった怪物だった。
無数の動物たちが、別々の口で鳴き叫ぶ。
ライオンの咆哮。
象の悲鳴。
鳥の甲高い鳴き声。
それらが混じり合い、耳障りな不協和音となって南方の間に響き渡る。
「……杏樹さん」
「うん、わかってる」
二人の表情から、笑みが消えていた。
そこにあるのは、恐怖ではない。
嫌悪だけでもない。
許せないものを見た者だけが抱く、静かな怒りだった。
「あいつは、許しちゃダメなやつだよ」
杏樹の言葉に、レイカも深く頷く。
「ええ~? なんでよ!」
シンシャは、本気で不思議そうに首を傾げた。
「こんなにおもしろいのに!」
その声に、悪意はなかった。
だからこそ、異常だった。
自分が何をしたのか。
それがどれほど歪んでいるのか。
目の前の少女は、まるで理解していない。
「貴方……」
レイカの声に、怒りが滲む。
「こんな恐ろしいことをして、何も思わないんですの!?」
その言葉に、シンシャの笑顔がすっと消えた。
「はあ?」
怒っているというより、本当に理解できないものを見る顔だった。
「何言ってんの、あんた?」
「あんたのやってることは、許せることじゃないでしょ!」
杏樹がデガ喇叭を構え直す。
シンシャは、さらに不機嫌そうに顔を歪めた。
「意味わかんない」
その声から、甘さが消える。
「コイツラは所詮、ただのお菓子なんだよ?」
その一言で、杏樹の瞳に宿る怒りが、さらに強くなった。
レイカもまた、英傑月誅を構える。
金色の月輪が、静かに光を帯びる。
「わかんない?」
杏樹は、静かに言った。
その周囲に、水の泡が浮かび上がる。
先ほどまでの軽い調子はない。
真っ直ぐに、シンシャを見据えている。
「こんなことを笑ってできるような奴とは――」
泡が弾ける。
デガ喇叭の砲口が、シンシャへ向いた。
「絶対、友達にはなれないってこと!!」
その言葉を合図に、南方の間の空気が変わった。
甘い遊びは、終わった。
ここから先は、ただの戦いだった。
* * *
「ガオオオオカアアアアアア!!!」
「アハハ! わたしたちのコンビに敵うかな?」
シンシャとプリティーキメラが、同時に襲い掛かる。
ドンッ!!
ドゴオオオオオオ!!
巨大な飴と、菓子でできた怪物の四肢が、南方の間を激しく揺らした。
「英傑回遊!!」
レイカは《英傑月誅》を両手に保持したまま、金色の刀身を閃かせる。
その動きは、まるで舞踏。
高速で回転しながら、キメラの足元へ斬り込む。
ザンッ!!
金色の月輪が、キメラの脚の一つを切り崩した。
だが、相手は多脚の異形。
一本や二本の脚を失った程度では、態勢を崩すには至らない。
「ギャアアオオオ!!」
今度は、キリンの首が鞭のように振るわれた。
「甘いですわ!!」
レイカは地を蹴り、身体を高速回転させる。
首の一撃をすり抜けるようにかわしながら、その長い首筋へ《英傑月誅》を走らせた。
斬ッ!!
金色の弧が、キリンの首を斬り裂く。
その勢いのまま、レイカの身体は上空へ舞い上がった。
(これなら、何とかなりそうですわね!!)
だが――。
「ま、一体だけだったらね♪」
「!?」
シンシャの声が、すぐ横から聞こえた。
ゴンッ!!
次の瞬間、レイカの身体に凄まじい衝撃が走る。
何が起きたのかを理解するよりも早く、彼女の身体は弾き飛ばされていた。
「郷泡霧!!」
杏樹が即座にデガ喇叭を構える。
ボヨンッ。
地面へ叩きつけられる寸前、柔らかな泡がレイカの身体を受け止め、衝撃を吸収した。
「た、助かりましたわ……!」
レイカは泡の上で体勢を立て直し、息を整える。
「藤本さんも、ありがとうございます」
シンシャの一撃が直撃する直前、梓の慧珠が障壁を張っていた。
それがなければ、今の一撃で致命傷になっていてもおかしくなかった。
『いえ。しかし、今ので同じ防御は難しくなりました』
梓の声に、わずかな緊張が混じる。
見れば、深紅の慧珠には細かなひびが走っていた。
支援も無限ではない。
次に同じ一撃を受ければ、今度こそ防ぎきれない。
「ほらほらー! まだまだ行くよ~!!」
シンシャが巨大な飴を振り上げる。
同時に、プリティーキメラも複数の口を開き、奇怪な咆哮を上げた。
逃げ場を潰すように、二つの脅威が迫る。
「夢無々霧里!!」
杏樹のデガ喇叭から、白い霧が一気に噴き出した。
もくもくと広がる濃霧が、南方の間一帯を包み込む。
「なに~これえええ! なんにも見えないよ~!!」
視界を奪われたシンシャが、苛立たしげに飴をぶんぶんと振り回す。
ガンッ!!
ガンガンッ!!
その一撃は、すぐ隣に立っていたプリティーキメラへ命中した。
菓子でできた身体の一部が、ぼろぼろと崩れ落ちる。
「……」
キメラは、複数の顔でじっとシンシャを見た。
「……なによ」
沈黙。
「あんたも探しなさいよ!!」
シンシャは苛立ちをぶつけるように、キメラを乱暴に蹴り飛ばした。
その濃霧の中。
(この“状態”じゃあ、まともに戦えない……)
杏樹は自分の丸く膨らんだ腹を見下ろした。
篥歯の機動力は、完全に殺されている。
いつものように跳べない。
いつものように走れない。
いつものように、相手の隙を突けない。
このままでは、ただの的だ。
(――なら!!)
杏樹は顔を上げる。
「レイカ、ちょっと時間稼いでくれない?」
「はあ!? この状況で何を言っておりますの!?」
霧の向こうから、レイカの抗議の声が返ってくる。
だが、彼女はすぐに言葉を止めた。
杏樹の瞳を見たからだ。
そこにあったのは、焦りではない。
諦めでもない。
覚悟。
そして、勝利を掴みにいくための貪欲さだった。
「……分かりましたわ」
レイカは、英傑月誅を握り直す。
「ですが、それほど長い時間は稼げませんことよ!!」
「うん、分かってる!」
杏樹は短く頷く。
「こっちも、なる早でやるから!!」
「なる早って……本当に締まりませんわね!」
そう言いながらも、レイカは霧の中を駆け出した。
やがて、白く覆っていた霧が少しずつ薄れていく。
「あっれ~?」
シンシャが、巨大な飴を肩に担いで周囲を見回す。
「みんな、どこ行っちゃったの~?」
その声に応えるように――。
「オーッホッホッホッ!!」
高らかな笑い声が、南方の間に響き渡った。
視線を向けた先。
巨大なおもちゃ箱の上に、金色の月輪を携えたレイカが立っていた。
「この大明寺レイカ、ここにおりましてよ!!」
堂々と胸を張り、金髪をなびかせるその姿は、まるで舞台の上に立つ主役そのものだった。
「むう~! 見つけた!」
シンシャが頬を膨らませる。
「さあ、プリティーキメラちゃん! やっちゃって~!!」
命令に従い、プリティーキメラが複数の脚で床を蹴った。
ドドドドドッ!!
甘い破片を撒き散らしながら、歪な巨体が一直線にレイカへと突進する。
「真正面から来るとは、随分と単純ですわね!」
レイカは両手に英傑月誅を構えた。
「英傑月誅!!」
放たれた金色の月輪が鋭い弧を描き、プリティーキメラの脚を斬り裂く。
ザンッ!!
ビスケットの脚が砕け、チョコレートの爪が弾け飛ぶ。
だが、それでもプリティーキメラは止まらない。
砕かれた脚の代わりに、別の獣の脚が床を掴み、強引に前へ出る。
「やはり、厄介ですわね……!」
レイカはおもちゃ箱の上から跳び、追撃をかわそうとするが――。
「パオオオオン!!」
象の頭部が鼻を高く掲げ、何かをレイカへ向けて勢いよく噴射した。
「きゃっ!?」
白く粘つくものが、レイカの全身へべたりと張りつく。
「こ、これは――ホイップ!?」
真っ白なホイップクリームが、どろりと重たくまとわりつき、レイカの身体の自由を奪っていく。
「こ、こんなもの!!」
振り払おうとするものの、想像以上に重い。
その一瞬の隙を、プリティーキメラは見逃さなかった。
グオオオオオオッ!!
振り上げられた象の鼻が、そのままレイカへ叩きつけられる。
「ぐッ!?」
まともに受ければ致命打。
だが、レイカは咄嗟に腕を交差させ、防御姿勢を取っていた。
(ですが、防御は間に合いましたわ!!)
重い衝撃が全身を貫く。
それでも、どうにか致命傷は避ける。
「で~も~、まだこっちもあるよ!」
吹き飛ばされた先では、すでにシンシャが巨大なぺろぺろキャンディーを構えていた。
飛んできたレイカを、そのまま打ち返すつもりなのだ。
「あ、甘いですわね! 我が英傑月誅は――“二度”舞いますわ!!」
ギュルルルルル――!!
すでに一度放たれた月輪は旋回し、シンシャの背後へと迫っていた。
「おおっと!」
だが、シンシャはそれを軽々と躱す。
「あ~あ。黙ってれば不意打ちになったのに~」
「いえ、これで結構でしてよ!」
躱された月輪は、そのままレイカへと向かい――。
斬ッ!!
計算され尽くした軌道で、レイカの身体のすぐ脇を通過。
彼女にまとわりついていたホイップだけを、鮮やかに切り裂いた。
着地と同時に、レイカは戻ってきた英傑月誅を掴み取る。
「もう~! ちゃんと戦ってよ!!」
痺れを切らしたシンシャが声を荒げる。
その声に呼応するように、プリティーキメラのいくつもの首が一斉にレイカへ向いた。
「来ますわ!!」
レイカが距離を取ろうとした、その時だった。
「ゴゴゴゴゴゴゴッ!!」
ライオン。
狼。
山羊。
無理やり繋ぎ合わされた獣たちの口が一斉に開き、今度は茶色い液体を吐き出した。
「あ、あれは――チョコレート!?」
大量のチョコレートが濁流となって押し寄せてくる。
「ま、まずいですわ!?」
飲み込まれる寸前、レイカは咄嗟に上空へ跳び上がり、近くの棚の上へと着地した。
だが――。
「いたッ!?」
避けきれなかった飛沫の一部が、右腕に付着していた。
じゅっ、と皮膚が焼ける音がする。
チョコレートは異常なほどに熱せられており、すぐに払い落としたものの、右腕には赤く痛々しい痕が残っていた。
「あっちゃ~。上手によけられなかったんだね」
シンシャが煽るように笑う。
(しょ、正直……きついですわね)
腫れ上がった右腕から、ずきずきとした痛みが走る。
呼吸も乱れ始めている。
だが、それでも。
「ですが……」
レイカは再び、英傑月誅を握り締めた。
「頼まれた以上、この“大明寺レイカ”――一切、逃げも隠れもいたしませんわ!!」
高らかに言い放ち、彼女は静かに瞳を閉じる。
呼吸を整え、己の精神を統一していく。
「んん~? 何するつもり~? どうせ、何やったって意味ないよ~」
シンシャの言葉など意に介さず、レイカは自身の内に眠る悪鬼へと意識を沈めていった。
「あまり呼びたくはなかったのですが……」
その声には、わずかな迷いと、それ以上の覚悟が滲んでいる。
「“あなた”に懸けます!」
瞬間。
レイカの全身が、まばゆい光に包まれた。
「ええ!? な、なに!!」
シンシャが思わず目を見開く。
「悪鬼召喚――《分福狐狸》!!」
光の中から、ゆっくりとその姿が現れる。
それは、大きな砂時計を抱えた、狸のような悪鬼だった。
ころんと丸い体。
どこか愛嬌のある顔立ち。
もふりとした毛並み。
見る者によっては、凶悪さより先に“かわいい”が来そうな姿である。
「ぐ~……ぐぐぐ……」
しかも。
分福狐狸は、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「……」
「……」
「……は?」
その場にいた誰もが、一瞬、思考を停止した。
シンシャも。
プリティーキメラも。
そして、張本人たるレイカでさえも。
ただ、砂時計を抱えた狸が、すやすやと眠っている。
起死回生の切り札としては、あまりにも締まらない光景だった。
「…………」
やがて、レイカのこめかみに、ぴくりと青筋が浮かぶ。
「ちょっと――」
彼女はひくりと口元を引きつらせながら、眠る悪鬼を見下ろした。
「こんな時くらい、起きなさいませええええええっ!!!」
怒りに肩を震わせるレイカの横で、分福狐狸は相変わらず気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「ぐ~……ぐぐぐ……」
「寝ている場合ではありませんわよおおおお!!」
レイカの叫びも、当然のように届かない。
その光景に、シンシャの頬がぷくっと膨らむ。
「うう~、バカにして!」
彼女は巨大な飴を振り上げ、プリティーキメラへ命じた。
「やっちゃえ!!」
プリティーキメラの複数の口が、一斉に開く。
ゴゴゴゴゴゴッ!!
体内で高温まで熱せられたチョコレートが、濁流となってレイカへ吐き出された。
「ちょ、ちょっと!?」
レイカは咄嗟に分福狐狸を抱き上げ、そのまま走り出す。
「なぜ、わたくしが貴方を抱えて逃げなければなりませんの!?」
「ぐ~……」
「聞いておりませんわね!?」
背後では、熱を帯びたチョコレートが床や壁へ飛び散っていた。
じゅう、と嫌な音を立てて、付着した場所が溶けていく。
あれをまともに浴びれば、ただでは済まない。
「ああ~? そこ、気をつけてね~」
シンシャの間延びした声が響く。
次の瞬間、走り抜けようとしたレイカの身体が、ぐっと後ろへ引っ張られた。
「い、いったい何ですの!?」
足元を見る。
床にべったりと張りついたガムが、レイカの靴に絡みついていた。
「ごめんね~。ガム、捨てちゃってた~♪」
「それは謝罪ではなく、完全なる悪意ですわ!!」
レイカは分福狐狸を片腕に抱えたまま、必死に足を引き抜こうとする。
「くっ……取れませんわ……!」
粘つくガムは、伸びるばかりでなかなか剥がれない。
その間にも、プリティーキメラがじりじりと迫ってくる。
「や、やっと取れましたわ!」
ようやくガムから足が外れた。
だが、顔を上げた瞬間――。
目の前には、プリティーキメラの爛々と光る瞳があった。
「こ、このおお!!」
レイカは英傑月誅を投げようと腕を振り上げる。
しかし、それよりも早く、キメラの口々がかっと開いた。
熱されたチョコレートが、今まさに放たれようとしている。
(し、しまった……! 間に合いませんわ!!)
レイカが、覚悟を決めたその瞬間だった。
カッ!!
腕の中で眠っていた分福狐狸の目が、唐突に開いた。
その瞳に、金色の光が宿る。
刹那――。
プリティーキメラの動きが、完全に止まった。
チョコレートを吐き出そうと開かれた口。
振り上げられた爪。
床を蹴る脚。
そのすべてが、時を切り取られたかのように硬直していた。
「……今ですのね!」
レイカは即座に反応する。
「英傑月誅!!」
腕から放たれた月輪が、金色の軌跡を描いて飛ぶ。
斬ッ!!
正面にあったライオンの首が、鮮やかに斬り飛ばされた。
「ガオオオオオオオン!!」
時が動き出した瞬間、プリティーキメラが怒り狂ったように咆哮する。
複数の口が叫び、複数の脚が床を蹴る。
一斉にレイカへ襲い掛かろうとした、その時。
「《四魂球》!!」
四つの水晶玉が、濃霧の奥から飛来した。
それらはそれぞれ別方向からプリティーキメラの胴体へ直撃する。
ゴゴゴゴゴゴゴッ!!
凄まじい衝撃が、巨体を内部から揺さぶった。
プリティーキメラは、不協和音のような悲鳴を上げながら、床へ倒れ込んだ。
「お待たせしました!」
高らかな声が響く。
視線を向ければ、巨大なベッドの上に杏樹が立っていた。
丸々と膨れていた身体は、元のしなやかな姿を取り戻している。
「杏樹ちゃん、復活だよ!!」
「遅いですわよ、杏樹さん!」
「ごめんごめん! でも、ここからは――」
杏樹は勢いよくベッドの上から飛び降りた。
「わたしも全開で――」
だが。
「ぬわああああああああ!?」
予想以上に加速がついたらしく、杏樹は落下しながら悲鳴を上げていた。
「ちょ、ちょっと待っ、速い速い速い!!」
「何をしておりますの!?」
「し、四魂球!!」
墜落寸前、四つの水晶玉が杏樹の身体の下へ滑り込む。
ボヨンッ、という鈍い音とともに、何とか地面への直撃は避けられた。
ただし――。
「だ、大丈夫ですの、杏樹さん?」
「だ、だいびょうぶ……」
どうやら水晶玉に顔面から突っ込んだらしく、杏樹は鼻の頭を赤く腫らしながら、それでも震える親指を立ててみせる。
「ふぅん……」
その様子を見ていたシンシャが、無機質な表情のまま二人の前へ歩み出た。
「な~んだ。ちょっとは遊べそうじゃん」
その背後で、
「ブオオオオオオ!!」
主に倣うように、配下のプリティーキメラもまた、砕けかけた身体を無理やり起こし、杏樹とレイカを睨みつける。
だが、シンシャはそんなキメラを一瞥すると、心底つまらなさそうにため息をついた。
「……はあ~。もう、あきちゃったよ」
そう呟き、手にしていた飴をくるりと弄ぶ。
そして――。
「あきたら~~ぽいっ!!」
子どもが玩具を投げ捨てるような気安さで、シンシャは思いきり腕を振り抜いた。
ドゴッ!!
凄まじい音が響く。
その一撃で、プリティーキメラの身体はついに限界を迎えた。
ライオンの頭が弾け飛ぶ。
象の鼻がひしゃげて崩れる。
鳥の翼が砕け散り、
熊の腕が宙を舞う。
無理やり継ぎ接ぎされた菓子の獣は、最後にいくつもの断末魔を重ねるような悲鳴をあげ――そのまま粉々に爆ぜた。
「風の壁!!」
飛び散る破片を前に、レイカが即座に英傑月誅を前方で回転させる。
巻き起こった風が一枚の壁となって二人の前に立ちはだかり、飛来する首や腕や破片を容赦なく粉砕していく。
甘い欠片が、ぱらぱらと床へ降り積もった。
その光景を見つめながら、杏樹の握るデガ喇叭に、ぐっと力がこもる。
「も~! 何にも役に立たないじゃん!!」
シンシャは頬を膨らませ、ぷんぷんと怒っていた。
その姿はまるで、癇癪を起こした子どもそのものだ。
だが――。
杏樹の胸の内で膨れ上がるものもまた、怒りだった。
「……やっぱり、許せないな」
「ん~? なんか言った~??」
シンシャがわざとらしく耳に手を当て、杏樹を挑発する。
杏樹は真っ直ぐにその目を見返した。
「あんたみたいに、仲間を何とも思わないやつは――絶対に許せないって言ってんの!!」
その叫びに、シンシャはぴくりと反応し、耳を塞ぐ。
次の瞬間。
愛らしく整っていたその顔が、ぐにゃりと歪んだ。
「うっせえええなあああ!! てめえええええ!!」
目は大きく見開かれ、口元は吊り裂けんばかりに歪む。
白い牙が剥き出しになり、その奥から粘つくような怒気が噴き出していた。
「ああ!? 何が“仲間”だあああ!?」
シンシャは地団駄を踏みながら喚く。
「“あれ”は、あたしが生んだ“物”なの!!
どう扱うかは、作ったやつの自由なの!!」
鬼の形相。
だが、その言い分はあまりにも幼稚で、あまりにも身勝手だった。
まるで壊した玩具を惜しみもしない子どもが、そのまま怪物になったような醜さ。
そのちぐはぐさこそが、シンシャという悪鬼の本質を何より雄弁に物語っていた。
「もおおお~!! あんたたち、絶対ぶっころす!!」
怒りのあまり、ついに泣き声混じりで喚き始めたシンシャが、二人へ向かって突っ込んでくる。
「来ますわ!!」
「うん!!」
* * *
シンシャは巨大なキャンディーを頭上高く振り上げ、そのまま力任せに叩き下ろした。
ドゴオオオオンッ!!
凄まじい衝撃が床板を砕き、木片と甘い欠片が宙へ舞い上がる。
だが、杏樹とレイカは左右へ飛び、寸前でその一撃を回避した。
「泡連弾!!」
着地と同時に、杏樹がデガ喇叭から泡弾を連射する。
「マシュマロガード!!」
シンシャはポケットからマシュマロを取り出して前方へ放る。
ぽよん、と膨らんだ巨大なマシュマロが盾となり、飛来した泡弾を次々と呑み込んでいく。
「――からの!」
にたり、とシンシャの口元が歪む。
「コンペイガン!!」
吸収された泡が、鋭い金平糖の弾丸へと変じた。
キラキラと甘ったるく光りながら、それらは一斉に杏樹たちへ撃ち返される。
「英傑月誅!!」
そこへ、レイカの放った金色の月輪が閃いた。
ギィンッ!!
回転する刃が金平糖弾をまとめて切り裂き、そのまま勢いを殺さずシンシャへと飛んでいく。
「へん! そんなへなちょこ攻撃、大丈夫だもん!!」
シンシャは頬を膨らませながら、再びポケットへ手を突っ込んだ。
取り出したのは、色とりどりのグミ。
それを無造作に放り投げると――。
ぶわっ、とグミが一気に広がり、シンシャの全身へまとわりつく。
「グミグミアーマー!!」
瞬く間に形成されたのは、半透明にぬめり光るグミの鎧だった。
直後、レイカの英傑月誅がその胴へ直撃する。
だが――。
ぶよんっ!!
鈍い音を立てて刃は弾かれ、月輪はそのまま大きく軌道を逸らされる。
「なっ――!?」
レイカの目が見開かれる。
グミの鎧は斬撃を受け止めるだけでなく、その弾力で衝撃そのものを逃がしていた。
「アハハ! どう!? すごいでしょ!
これなら、ぜーんぶへっちゃらなんだから!!」
甘ったるい声色とは裏腹に、その防御はあまりにも厄介だった。
杏樹はデガ喇叭を握り直し、レイカは跳ね返された英傑月誅を手元へ呼び戻す。
甘いだけの遊びは、もう終わっている。
目の前にいるのは、ただのお菓子好きの子どもではない。
無邪気に人を壊し、
無邪気に命を弄ぶ、
れっきとした“怪物”だ。
「今度は、こっちからいくぞおおおおお!!」
シンシャは巨大なぺろぺろキャンディーをぶんぶんと振り回しながら、自らの身体ごと回転して突っ込んでくる。
「四魂球! いっけえええええ!!」
杏樹の号令とともに、宙に浮かぶ四つの球が一斉に飛んだ。
ガンッ!!
四魂球はキャンディーへ真正面から激突し、その飴の塊を粉々に砕く。
「あらら~、壊れちゃったじゃんか」
シンシャは砕けた棒の先を見下ろす。
だが次の瞬間には、まるで気にもしていないようにそれをぽいと捨て、不敵に笑った。
「でも、ぜんぜん問題な~し♪」
そう言うと、彼女は再びポケットをまさぐる。
「ジャジャジャジャーン! 伝説のアイスバー!!」
取り出したのは、一本のアイスバー。
だが、それはただの菓子ではなかった。
刀身のように長く巨大化した氷菓からは、白い冷気が絶えず溢れ出している。
「ほいさ~、いっくよおおおお!!」
ブンッ!!
シンシャがその“氷の大剣”を振り回した瞬間、凄まじい風圧とともに、刺すような冷気が杏樹とレイカを襲った。
「っ、くぅ!?」
「な、何ですの!?」
二人が咄嗟に身を退く。
直後、彼女たちが立っていた場所は、床ごと一瞬で白く凍りついていた。
「ほらほら~、まだまだいくよ!」
シンシャが無邪気に笑いながらアイスバーを振るうたび、冷気の奔流が辺り一面を呑み込んでいく。
床は霜に覆われ、
壁は白く凍てつき、
空気そのものが重たく冷え込んでいく。
「このおおお! 英傑月誅!!」
レイカが月輪を放つ。
黄金の刃は一直線にシンシャへ迫る――はずだった。
「えいっ!!」
シンシャがアイスバーを振り下ろした。
瞬間、月輪は空中で霜をまとい、動きを鈍らせる。
「なっ――」
凍りついた月輪は、そのまま床へ落ちた。
パリンッ!!
甲高い破砕音。
月輪は砕け散り、無残な欠片となって飛び散った。
「ま、まさか……!?」
レイカの瞳に動揺が走る。
その隙を、シンシャは見逃さない。
氷の大剣を構えたまま、一気に間合いを詰める。
(し、しまっ――)
ほんのわずかな硬直。
されど、致命の一瞬だった。
反応が、間に合わない。
「れ、レイカ!!」
杏樹が必死に駆ける。
だが、あと一歩届かない。
――その時だった。
カッ!!
レイカの腕に抱かれていた分福狐狸が、不意に目を開く。
その瞬間、振りかぶっていたシンシャの動きが、ぴたりと止まった。
「四魂球!!」
杏樹はその一瞬を逃さない。
二つの球が停止したシンシャの脇腹へ叩き込まれ、その小さな身体を大きく吹き飛ばした。
「きゃあああっ!?」
一方、残る二つの球の上に乗った杏樹が、何とかレイカの身体を抱え上げる。
「お、重いいい……!」
歯を食いしばりながらも、杏樹はどうにかレイカを救い出した。
「い、いったい何が……?」
助けられたレイカは、呆然と呟く。
だが、その腕の中では、分福狐狸が何事もなかったかのように、再びすやすやと寝息を立てていた。
「ああ~!? 何がどうなってんの!!」
当然、シンシャもまた驚愕を隠せない。
だが、その混乱もすぐに苛立ちへと変わる。
「ふん! もう、あきたから、一気に終わりにしちゃうもんね!!」
その言葉とともに、シンシャの内側から膨大な瘴気が溢れ出した。
「今度は何をするつもり……?」
杏樹たちが身構える中、南方の間――もともとは子ども部屋だったその空間そのものが、ぐにゃりと歪み始める。
椅子は、チョコレートクッキーへ。
ベッドは、ぷるぷると揺れる巨大なゼリーへ。
机は、甘い香りを放つホットケーキへ。
壁も、床も、天井すらも。
現実の輪郭を失い、悪夢めいた“お菓子の世界”へと塗り替えられていく。
「さあ!」
シンシャは両手を広げ、狂喜に満ちた笑みを浮かべた。
「お菓子のお城で、一気にやられちゃいなあああ!!」
シンシャの叫びと同時に、南方の間全体が甘ったるく歪む。
その直後。
空中にいた杏樹たちの背後から、ざざざざざ、と何かが崩れ落ちるような音が響いた。
「……え?」
二人が振り返る。
そこには、大量の砂糖が雪崩のように押し寄せていた。
「や、やば――」
杏樹は必死に逃げようとする。
だが、間に合わない。
白い砂糖の濁流が、杏樹とレイカの身体を容赦なく呑み込んだ。
「出て来い……よっと!!」
シンシャが巨大なアイスバーを振りかぶる。
そして、流れてきた砂糖の山ごと一気に薙ぎ払った。
ガンッ!!
凄まじい衝撃音。
砂糖の中に沈んでいた杏樹とレイカの身体が、勢いよく宙へ舞った。
「うがッ!?」
「ああっ!!」
二人の身体が、クラッカーでできた床へ叩きつけられる。
杏樹は歯を食いしばり、何とか立ち上がった。
だが、その視線の先で、レイカの半身が白く凍りついていた。
「れ、レイカ……どうして……」
吹き飛ばされる直前。
レイカは杏樹を庇い、アイスバーの冷気をまともに受けていたのだ。
「あ、貴女がやられては……本当に勝ち目がなくなってしまうでしょう」
「……レイカ」
その言葉に、杏樹は拳を握り締める。
そして、再び立ち上がった。
「はあ~? もう無理だって!」
シンシャはけらけらと笑う。
「見なよ、この状況を。あんたたちが勝てるなんて、万が一にもないよ~」
だが、杏樹は臆さない。
デガ喇叭を咥え、まっすぐにシンシャを睨んだ。
「本気?」
「本気も本気」
杏樹は、短く息を吐く。
「大本気」
その声音に、迷いはなかった。
「梓さん! レイカのこと、お願い!!」
『分かりました』
深紅の慧珠が光を放つ。
凍りついたレイカの身体が、少しずつ溶け始めた。
「なら!」
シンシャがアイスバーを構える。
「一気にやっちゃうよ!!」
踏み込んでくるシンシャを前に、杏樹が立ちはだかる。
「夢無々霧里!!」
デガ喇叭から、ぶわっと濃霧が噴き出した。
白い霧が、シンシャと杏樹たちを一気に包み込む。
「そんなもん! もう通用しないよおおお!!」
シンシャの合図に合わせ、巨大なホットケーキの上から熱々のバターが零れ落ちた。
じゅう、と床を焼く音。
同時に立ち上った熱気が、杏樹の生み出した濃霧を一気に晴らしていく。
だが。
晴れた視界の中に、杏樹の姿はなかった。
「ちッ! また逃げた!!」
シンシャが叫んだ、その瞬間。
残っていた霧の一部が、ぶわっと膨らむ。
「泡連爽弾!!」
側面から飛び出した杏樹が、デガ喇叭を構えていた。
霰の弾丸が、シンシャへ向かって一斉に放たれる。
「おっそいんだよ!!」
シンシャがアイスバーを振り下ろす。
冷気に触れた氷の礫は、さらに分厚く凍りつき、その自重で床へ落ちていった。
だが――。
「なッ!?」
その中に、凍らずに突っ込んでくるものがあった。
四つの水晶玉。
泡連爽弾に紛れ込ませた、四魂球だった。
「ふん! でも、関係ないね!!」
ボヨンッ!
三つの球が、確かにシンシャの胴体へ命中する。
しかし、グミの鎧がその衝撃を受け止め、弾力で逃がしてしまう。
「――いや、まだだあああ!!」
「!?」
シンシャが目を見開く。
最後の四魂球に背を押されるようにして、杏樹自身が突っ込んできていた。
「がぶへッ!?」
杏樹の頭突きが、唯一グミの鎧をまとっていないシンシャの顔面へ直撃する。
その勢いに、小柄な身体が大きく後ろへ吹き飛んだ。
「さあ!」
杏樹はすぐさま立ち上がり、構え直す。
「まだまだこっから!!」
「よ、よくも根性かましてくれたなああああ!!」
怒りに震えながら、シンシャが立ち上がる。
その顔には、すでに先ほどまでの無邪気な笑みはない。
「ほうれ! ほうれ! こっちこっち!!」
杏樹は毛むくじゃらの尻尾を振り、露骨にシンシャを煽った。
「ざっけんなよ、コラああああ!!」
怒り狂ったシンシャが飛び込んでくる。
(ようし、怒れ怒れ!)
杏樹の瞳が鋭く光る。
(怒った隙こそが……チャンス!!)
「泡連弾!!」
向かってくるシンシャへ、杏樹は泡の弾丸を連射する。
「うおおおおおお!!」
シンシャはマシュマロの盾で、それを次々と受け止めていった。
「っく! まだまだ!!」
杏樹はさらに泡連弾を撃ち続ける。
「そんなへなちょこ攻撃が効くかよ!!」
大量の泡を吸い込んだマシュマロの盾は、ぱんぱんに膨れ上がっていた。
「いや、これでいいの!」
次の瞬間。
デガ喇叭から、赤い泡が放たれる。
「はん! このまま叩き潰してやる!!」
シンシャが巨大なアイスバーを振り上げる。
その腕に装着されたマシュマロの盾へ、赤い泡が入り込んだ。
瞬間――。
「今だ! ビビデバ弾、爆破!!」
バアアアンッ!!
強烈な爆発音が、南方の間に響き渡る。
膨れ上がったマシュマロが内側から弾け飛び、白い破片と熱気が一気に撒き散らされた。
(こ、これは……水蒸気爆発か!?)
シンシャは激しい衝撃を受ける。
グミの鎧のおかげで致命傷こそ避けた。
だが、衝撃を吸収しきれず、その鎧の大半が弾け飛んでいた。
「ちッ……」
シンシャは残ったグミを乱暴に剥ぎ取る。
「使い物にならなくなっちまったな……」
爆発のせいか、頭に上っていた血が少しだけ冷えたようだった。
シンシャの瞳に、さっきまでとは違う冷たさが戻る。
「ふん。やるじゃないか」
彼女は再び、巨大なアイスバーを構えた。
「ふん! そんな大振りな攻撃、避けちゃうから!!」
杏樹が身構える。
だが、シンシャはふっと笑った。
「あんた、さっき砂糖、飲んじゃったでしょ?」
「え――」
瞬間、杏樹の身体が、ぼんっとさらに膨れ上がった。
「!?」
シンシャの一撃を避けようとしていた杏樹の動きが、一気に鈍る。
増量。
強制的に膨らまされた身体が、彼女の反応速度を奪った。
「おりゃあああああ!!」
ゴンッ!!
大振りに振るわれたアイスバーが、ぱんぱんに膨らんだ杏樹の腹へ叩き込まれる。
「かはッ!?」
凄まじい衝撃が、杏樹の全身を駆け巡った。
大きく弾き飛ばされ、床を転がる。
何とか立ち上がろうとした杏樹だったが、打たれた場所が白く凍り始めていた。
「はッ! まだ終わってねえぞ!!」
さらに、シンシャが追撃へ走る。
「いって! 四魂球!!」
振り下ろされる氷の刀身へ、四魂球の一つがぶつかる。
だが、勢いは止まらない。
「このまま押し切ってやるよ!!」
シンシャが力ずくでアイスバーを振り下ろす。
「まだまだ!!」
杏樹の叫びとともに、二つ目の球が、最初の球へぶつかる。
さらに三つ目。
さらに四つ目。
後からぶつかった球の衝撃が連鎖し、アイスバーの刀身に少しずつ亀裂を生んでいく。
「いっけえええええ!!」
コン。
最後の一個が、刀身を押し上げた。
瞬間、亀裂が一気に反対側へ走る。
ボキッ!!
ついに、氷の刀身が砕けた。
「よ、よし――」
「へッ! これで勝ったと思うな!!」
シンシャはポケットから何かを取り出し、杏樹の足元へ投げつけた。
黄色い粒のようなもの。
それが床へ落ちた瞬間、次々と弾け始める。
「ぽ、ポップコーン!?」
ババババンッ!!
爆裂の衝撃で、杏樹の身体が宙へ舞う。
「まだだよ!!」
舞い上がった杏樹の下で、タケノコ型のチョコクッキーが一気に伸びた。
「ぐっ!?」
杏樹はぎりぎりで身体を捻る。
だが、そのうちの一本が横腹を抉った。
「さあ! そのブヨブヨの身体、真っ二つにしてあげる!!」
シンシャはジェリービーンズを取り出す。
それを細く引き伸ばし、鋭い太刀へと変えた。
「泡連爽弾!!」
杏樹は、すかさず霰の弾丸を放つ。
「ちいい! 悪あがきを!!」
さすがのシンシャも、防御用の兵装はほとんど失っていた。
霰の弾丸が、腕を、脚を、肩を貫く。
しかし、それでも彼女の一閃は止まらない。
ザンッ!!
迸る斬撃が、杏樹の右肩を切り裂いた。
「――っつ!!」
その拍子に、デガ喇叭が杏樹の手からこぼれ落ちる。
「これで、最後だああああああ!!」
シンシャがジェリービーンズの太刀を振り上げる。
「四魂球!!」
四つの球がシンシャを狙って飛ぶ。
だが――。
「甘い!!」
シンシャは側転し、四魂球をかわした。
「おしかったねえええええ! でも、残念でしたああああ!!」
勝ちを確信したシンシャが笑う。
しかし。
球はシンシャではなく、杏樹へ向かっていた。
「はあ!? 自分の技で自滅~? だっさ~♪」
「いや」
杏樹が、不敵に笑う。
「これが狙い」
四魂球が杏樹の身体へぶつかる。
その衝撃で、杏樹の身体が一気に上空へ舞い上がった。
「な!? また逃げる気!?」
シンシャは、反射的に上を見た。
その一瞬。
周囲への警戒が、完全に切れた。
「頼んだよ! レイカあああああ!!」
「……かしこまりましたわ」
シンシャが気づいた時には、すでにレイカが懐へ入り込んでいた。
凍傷と傷だらけの身体。
それでも、彼女は最後の英傑月誅を、シンシャの腹部へ向けて構えていた。
「て、てめえええ――」
「吹き飛びなさい」
月輪が強烈に回転する。
「《大旋風》!!」
凄まじい風が、至近距離でシンシャの全身を包み込んだ。
軽い身体が、宙へ吹き飛ばされる。
「これしきのことで、あたしを倒せると――!?」
だが、シンシャは気づく。
自分の頭上に、巨大な影があることに。
「さあ、これで終わりにするよ」
そこには、ぱんぱんに膨れ上がった杏樹が待っていた。
「《武部沌落下》!!」
四魂球が、杏樹の背を一斉に押し出す。
そのまま、地表へ向けて凄まじい勢いで落下してくる。
(あれをまともに受ければ、ただじゃ済まない! ――でも!!)
シンシャはジェリービーンズの太刀を握り締める。
「ギリギリ、ぶった切れるなああああ!!」
わずかに。
ほんのわずかに。
杏樹とぶつかるよりも、シンシャが振り向きざまに斬る方が速い。
「勝ったあああああ!!」
完全な勝利を確信した、その瞬間だった。
「だ、だめ……これでは……!!」
レイカは何とか後押ししようとする。
だが、これまでのダメージでもう立っていることすらままならない。
もはや、これまで。
そう思われた瞬間――。
カッ!!
分福狐狸が、目を開いた。
刹那。
シンシャの動きが止まる。
それが、最後の決め手となった。
「いっけえええええ!!!」
杏樹の身体が、シンシャへ激突した。
「なああああああああああ!!!」
凄まじい衝撃が、シンシャの全身を貫く。
もはや、反撃どころではない。
そのまま一人と一匹は、地上へと墜落する。
ドゴオオオオオオオオオオオオッ!!
激突。
クラッカーの床が叩き割られる。
お菓子へ変えられた家具が砕け、壁が崩れ、南方の間そのものが激しく揺れた。
土煙が晴れていく。
床には、シンシャが倒れていた。
そして。
煙の中、最後に立っていたのは杏樹だった。
杏樹はゆっくりと転身を解き、元の姿へ戻る。
「う、あ――」
次の瞬間、糸が切れたようにその場へ倒れ込んだ。
「……や、やりましたわね」
レイカが、かすれた声で言う。
「おうさ……」
杏樹は床に倒れたまま、震える手で親指を立てた。
「“大明寺レイカ”と――」
そして、にっと笑う。
「この“加藤杏樹”ならね!」
そう言って、杏樹はウインクをした。
「まったくですわね」
レイカも、痛みに顔をしかめながら、それでも微笑んだ。
そんな二人の横で、分福狐狸はまた気持ちよさそうに寝息を立てている。
「ぐ~……ぐぐぐ……」
「最後まで、締まりませんわね……」
レイカの呟きに、杏樹は小さく笑った。
南方の間に、ようやく静けさが戻っていく。
砕けた玩具。
割れた菓子。
崩れたお菓子の城。
甘い匂いだけが、壊れた子ども部屋に残っていた。
無邪気に笑い、無邪気に壊し、無邪気に命を弄んだ少女は、もう立ち上がらない。
その悪夢を終わらせたのは、一人では届かなかった一撃。
杏樹とレイカ。
二人が互いを信じ、支え、最後まで諦めなかったからこそ届いた一撃だった。
ここに、南方の間での戦いは終わりを告げた。
次回予告
南方の間で、杏樹とレイカはシンシャを撃破した。
しかし、鬼哭餓亂城の戦いはまだ終わらない。
西方の間では、理恵と芦谷が、血を操る四天王・バーミリオンと対峙する。
豪奢な劇場。
観客なき舞台。
戦う者の理性を熱狂へと沈める、血染めの毒。
芦谷と梓の支援を受け、理恵は一度バーミリオンを追い詰める。
だが、幕が下りたはずの舞台で、さらなる悲劇の第二幕が開こうとしていた。
次回、
第78話「血染めの舞台」
紫苑の令嬢の奥底で、黒き鬼女が目を覚ます。




