第75話「反撃の幕」
鬼哭餓亂城に満ちる悪意により、追い込まれていく黒の部隊。
亜子、杏樹、理恵、和泉。
それぞれが四天王の力に傷つき、絶望の淵へと追い詰められていく。
だが、彼らはまだ折れていない。
そして、断たれたはずの支援が再び届く時――。
鬼の居城に、反撃の幕が上がる。
魑魅魍魎が跋扈する、鬼哭餓亂城――。
「いったい、どれだけ湧いて出てくるんだ!?」
「弱音を吐く前に、手を動かせ!!」
城内各所では、合同訓練に参加していた若き開現師たちが、指導官たちとともに悪鬼の群れへ応戦していた。
だが、状況はあまりにも悪い。
「現実との連絡は!?」
「だめです! 何度試しても反応がありません!!」
護衛として同行していた聖斂隊の隊員たちの顔にも、焦りの色が浮かんでいる。
現実との接続は断たれた。
観測師からの支援も届かない。
助けが来る保証など、どこにもない。
それでも――誰一人として、戦うことをやめてはいなかった。
「くそ……! だが、持ちこたえるしかない!!」
指導官の一人が声を張り上げる。
「必ず助けは来る! 我々は、一人でも多く守るんだ!!」
「了解!!」
混乱の中、わずかな希望に縋りながら、誰もが懸命に刃を振るう。
しかし、戦況は悪化する一方だった。
そしてそれは、東西南北に分かたれた四天王の領域で戦う黒の部隊もまた、例外ではなかった。
* * *
「へえ、意外~」
北方の間。
無数のモニターが明滅するその空間で、シナバーは愉しげにスマホを弄っていた。
「何を言っても刺さらないタイプかと思ってたけど……まさか“無能”なんて、ありふれた言葉に反応するなんてさ」
にたり、と口元が歪む。
シナバーが再びスマホへ音声を入力する。
「無能」
モニターに映し出された文字が、ナイフとなって飛ぶ。
だが、先ほどまでの攻撃とは違った。
文字の刃は、亜子へ向かって飛んだように見えた次の瞬間、ふっと消える。
そして――。
ぶしゅっ。
「……っ」
気づいた時には、亜子の左肩が斬り裂かれていた。
外から飛んできたのではない。
防御をすり抜けたのでもない。
その言葉は、亜子の内側から刃となって現れたのだ。
「案外かわいいじゃない」
シナバーは、傷ついた亜子を見て満悦そうに笑う。
「その顔。そういう反応、できるんだ」
「……まあ、奇妙な能力だけど」
亜子は左肩から流れる血を一瞥し、それでも表情を崩さなかった。
「さっきより、威力が落ちてるんじゃない?」
その問いに、シナバーはさらに笑みを深くする。
「そりゃ当然でしょ。どれだけ刺さる言葉でも、同じものを何回も重ねたら慣れちゃうもん」
軽い口調。
だが、その瞳の奥には確信が宿っていた。
「でもさ――」
シナバーの指が、スマホの画面をなぞる。
「一個見つかれば、そこから掘れるんだよね」
モニターに映る無数の文字列が、ざわざわと揺らめく。
無能。
役立たず。
いらない。
邪魔。
足手まとい。
それらが、まるで検索結果のように画面を流れていく。
「“無能”に反応するってことはさ。あんた、自分の価値をそこに置いてるんでしょ?」
亜子は、無言で銃口を向ける。
だが、シナバーはもう止まらない。
「あんた――」
スマホを口元へ寄せ、甘く、いやらしく囁く。
「何のために、戦ってんの?」
瞬間。
右肩。
左脇腹。
太腿。
見えない斬撃が、亜子の身体を切り裂いた。
「ぐ……っ」
膝が、わずかに沈む。
言葉は、もう外から飛んできていない。
撃ち落とすことも、防ぐこともできない。
内側から、傷口を選んで切り刻んでくる。
「さあ」
シナバーの瞳が、嗜虐に濡れて怪しく光る。
「ゆっくり甚振ってあげる♪」
北方の間に、モニターのノイズが響く。
そのすべてが、亜子の心の奥を覗き込むように、青白く明滅していた。
* * *
「ふッ、ひッ……!」
杏樹は、丸々と膨らんだ身体に鞭打って、必死に走っていた。
だが、先ほどまでのような軽快な動きはない。
悪鬼《篥歯》の小さくしなやかな身体は、今や不自然なほど膨れ上がり、跳ぶたび、走るたび、全身が重たく揺れる。
「お~い、待ってよ~」
背後から、間延びした少女の声が響く。
先ほどまで怒り狂っていたシンシャは、すっかり元の調子を取り戻していた。
いや、むしろその無邪気さが戻った分だけ、余計に不気味だった。
「ま、待てるわけないでしょ!? どうせ捕まったら、ぼこぼこにするくせに!!」
息を切らしながらも、杏樹は何とかシンシャとの距離を保とうとする。
「ええ~? いいじゃん、べつに~」
シンシャは、手にした巨大なぺろぺろキャンディーをぶんぶんと振り回す。
その見た目は、どこまでも甘く、どこまでも可愛らしい。
だが、床に刻まれた巨大な亀裂が、それが単なる菓子などではないことを証明していた。
(くそ……! あの子の能力なんだろうけど……まずいな、これは)
杏樹は歯を食いしばる。
(《篥歯》の機動力が、完全に殺されちゃってる!!)
速さで翻弄するはずの転身形態。
その最大の強みを、丸々と膨れた身体が奪っている。
「も~、なら――」
シンシャが、ふいに膝を沈めた。
「いっきに、やっちゃうよ!!」
次の瞬間、彼女の身体が跳ね上がる。
距離が、一気に詰まった。
「うらあっ!!」
ドゴオオオオオッ!!
巨大なキャンディーが振り下ろされ、床を粉砕する。
可愛らしい見た目とは裏腹に、その威力は凶悪そのものだった。
「泡連弾ッ!!」
叩き潰される寸前、杏樹は咄嗟に自分の足元へ泡弾を撃ち込んだ。
弾けた泡の衝撃で、身体が跳ね上がる。
「うわっと!?」
なんとか直撃を避け、杏樹は宙を舞う。
そして、床へ着地した瞬間――。
シンシャが、けらけらと笑い始めた。
「あ~あ。そこ、気をつけてね――」
笑いながら、彼女は杏樹の足元を指さす。
「そこに、“ボンボン”置いちゃってるからさ」
「え?」
杏樹が足元を見る。
床の隙間。
人形の陰。
玩具の下。
そこに、丸いチョコレート菓子――ウィスキーボンボンが、いくつも埋め込まれていた。
そして、杏樹の片足が、その一つを踏み抜いている。
カチッ……。
乾いた音が鳴った。
「ちゃおー」
シンシャが、にこりと笑う。
次の瞬間。
カッ!!
足元のウィスキーボンボンが、眩い光を放った。
ドガアアアアアアン!!!
爆発。
激しい閃光と熱風が、杏樹の身体を呑み込む。
さらに、地中に埋め込まれていた他のボンボンが連鎖し、次々と爆ぜていった。
ドンッ!
ドンッ!
ドゴオッ!!
甘い匂いを撒き散らしながら、爆炎が南方の間を蹂躙する。
やがて、舞い上がった砂塵と煙が薄れていく。
その中心に、杏樹は倒れていた。
全身には、薄い透明な膜が張られている。
咄嗟に展開した泡の防御膜が、かろうじて直撃を和らげたのだ。
「く……くそ……まったく……!」
杏樹は歯を食いしばる。
腕が震える。
足が重い。
身体中が痛い。
それでも、彼女は地面に手をつき、立ち上がろうとした。
そんな杏樹を、シンシャはにこにこと見つめている。
「あ~あ」
悪びれた様子など、欠片もない。
「かわいいネズミちゃんが、ボロボロだよ~」
その笑顔へ向かって――
パンッ!!
一発の泡弾が飛んだ。
シンシャは、それを片手でぱしりと掴み潰す。
「……なに?」
その声から、ほんの少しだけ甘さが消えた。
シンシャは、明らかに苛立った目で前方を睨みつける。
そこには、震える身体を無理やり持ち上げた杏樹がいた。
「ま、まだ……」
膨れた身体。
傷だらけの手足。
乱れた呼吸。
それでも、杏樹の瞳だけは折れていなかった。
「終わってないぞ……!」
デガ喇叭を握る手に、力がこもる。
「あんたみたいなやつに……や、やられてるようじゃ……」
杏樹は、息を吸う。
痛みを押し殺し、震えを飲み込み、叫ぶ。
「みんなに笑われちゃうもん!!」
その言葉は、決して格好良いものではなかった。
だが、杏樹らしかった。
意地っ張りで、負けず嫌いで、仲間に置いていかれたくなくて。
だからこそ、どれだけ無様でも立ち上がる。
その瞳を見て、シンシャはつまらなさそうに口を尖らせた。
「あっそ……」
甘い部屋の中で、少女の声だけが冷たく落ちる。
「じゃあ、もっとぐちゃぐちゃにしてあげる」
南方の間に、再び甘ったるい悪意が満ちていった。
* * *
「はあ……はあ……」
理恵は、震える手で再び立華鉢頭摩鋏の柄を握り直した。
当初は、理恵が圧倒しているかに見えた。
だが今や、戦いの主導権は完全にバーミリオンへ移りつつあった。
「いやいや、これはこれは」
バーミリオンは、さっと髪をかき上げながら天を仰ぐ。
「なんてことだ! あの美しい姫を、こんな姿にしてしまうなんて……僕は、なんて罪な男だ!!」
芝居がかった仕草で拳を胸に当てる。
すると、劇場のあちこちから黄色い歓声が飛んだ。
だが――。
ガンッ!!
理恵の振るった刀身が、舞台の床を深く斬り裂く。
その一撃だけで、うるさかった歓声が一気に止んだ。
「あらあら、ご立腹のようだね」
呆れたように、バーミリオンは首を振る。
「まだ、戦いは終わっていませんわ」
「当然だね」
理恵の言葉に、バーミリオンもまたサーベルを構える。
次の瞬間、二人の姿が消えた。
ガン、ガン、ガンッ!!
舞台。
天井。
観客席。
あらゆる場所で、刃と刃が激しくぶつかり合う音が響き渡る。
そして、宙で二人の刀身が噛み合った。
「はあああああ!!」
理恵が力任せに双剣を振り抜く。
その衝撃に、バーミリオンの身体が弾き飛ばされた。
だが、理恵は止まらない。
弾丸のように空を蹴り、バーミリオンへ追いすがる。
「まだまだ!!」
バーミリオンがサーベルを突き立てた。
その切っ先が、理恵の左頬を掠める。
赤い血が細く流れた。
だが、理恵はそれを気にもしない。
そのまま一気に刀身を振るう。
斬ッ!!
バーミリオンの身体を、袈裟懸けに斬り裂いた。
理恵の視界に、赤い血飛沫が散る。
しかし次の瞬間、その傷は瞬く間に塞がっていく。
「この――!?」
さらに追撃をかけようとした理恵の肩口へ、サーベルの切っ先が突き刺さった。
「くッ!?」
咄嗟に後方へ跳んだことで致命傷は避ける。
だが、気づけば理恵の全身には無数の傷が刻まれていた。
「はあ……はあ……」
肩で息を切る。
血が流れている。
身体が熱い。
心臓が、異常なほど速く打っている。
(……おかしい)
理恵は、この戦いが始まってから起きていた異変を、ようやく明確に捉え始めていた。
(確かに、敵の再生速度は常軌を逸しています)
だが、異変の核はそこではない。
(問題は――私の方)
理恵は、自身の震える手を見る。
(彼女と戦い始めてから、異常な興奮が私の思考を支配している)
今も、ようやく一呼吸置いたことで思考を整理できているだけだ。
だが彼女の精神の大半は、すでに“闘い”へ傾いていた。
もちろん、戦いにおいて闘争本能を燃やすことは重要だ。
だが今、理恵を支配しているこれは、明らかに度を越えている。
心臓が早鐘のように脈打つ。
脳へ血が流れ込む感覚すら分かる。
視界は冴えているはずなのに、思考はひどく偏っている。
斬りたい。
倒したい。
押し切りたい。
その衝動が、彼女本来の繊細な戦闘を崩していた。
刀身の軌跡はわずかに大振りになり、あと一歩と無理に踏み込んでしまう。
だから、敵の反撃を受ける。
(このままでは……押し切られる)
「フフフ……」
ぼんやりとした思考の奥で、バーミリオンの笑い声が響いた。
「……何でしょうか?」
「ああ、ごめんごめん」
バーミリオンは、肩をすくめる。
「でも、さすがだね。そんな“状態”で、僕の能力の核心に気づき始めるとは」
さっと髪をかき上げる。
「そう。君が気づいた通り、僕の能力の本質はこの再生力ではない。まあ、これは副次的なものだと思ってもらえればいい」
そう言うと、バーミリオンは自身のサーベルの刀身を握った。
鋭い刃が掌を裂き、赤い血が刀身を濡らす。
だが、彼女が手を離した時には、すでに傷は塞がっていた。
残ったのは、刀身にこびりついた血だけ。
「僕の血には――」
「毒性……いえ、興奮作用のようなものがあるのでしょう?」
「……なんだい。そこまで分かっていたのかい」
台詞を奪われたバーミリオンは、つまらなそうに唇を尖らせた。
「気づいての通り、僕の血には一種の“覚醒作用”があるのさ」
理恵は、すでに分かっていた。
自身の異常が始まったのは、バーミリオンの血を浴びてからだ。
「それは、この僕自身にも作用している。だから再生速度が一気に跳ね上がっているのさ」
バーミリオンは、くるりと回って大袈裟にポーズを決める。
「さらに! 僕はこの覚醒作用に強い耐性がある。だから相手だけが勝手に興奮して、自滅してくれるという寸法なのさ!!」
だが、理恵は冷めた眼差しでそれを見つめていた。
「貴女の寒い小芝居のおかげで、少し興奮が冷めました」
バーミリオンは、黙った。
その沈黙が怒りであることは、明らかだった。
「は……言ってくれるじゃないか」
バーミリオンは、ぱちんと指を鳴らす。
「なら、こんな余興はどうだい?」
その瞬間、舞台の奥から三つの影が現れた。
男が二人。
女が一人。
理恵は、目を細める。
「貴方たちは、たしか――」
記憶の中に、彼らの顔があった。
「東京校の……」
杏樹がかつて通っていた東京校の選抜メンバー。
篠宮 迅。
白峰 紗良。
九条 岳。
だが、三人の様子は明らかに異常だった。
瞳は見開かれ、焦点が合っていない。
呼吸は荒く、身体は小刻みに震えている。
まるで戦いへの衝動だけで動く人形のようだった。
「彼らは、僕の血の中毒性に抗えなくてね」
バーミリオンは愉しげに笑う。
「今や、戦いを止められないバーサーカー状態というわけさ」
三人の瞳が、かっと見開かれる。
次の瞬間、彼らは一斉に理恵へ襲いかかった。
「くッ!? 蕣花縛塊!!」
理恵は咄嗟に技を放とうとする。
だが、うまく力が込められない。
舞台から生えた蔓は、本来の軌道を外れ、四方へばらばらに伸びてしまう。
「さあ、どうする? 紫苑の令嬢さん」
バーミリオンの声が、甘く劇場に響く。
迫る三人。
熱に浮かされた身体。
鈍り始めた判断。
理恵は必死に、事態の打開策を探ろうとする。
だが――。
彼女の思考は、すでに三人と同じように、戦いへの渇きに侵され始めていた。
* * *
「があっ!? ぐッ……!」
荒れ狂う死灰の攻撃が、和泉の身体をじりじりと削っていく。
距離を取ろうとすれば、そこへ死灰が滑り込む。
迎撃しようとすれば、煙の身体を霧散させて刃を逃れる。
まるで、こちらの呼吸の隙間に牙を差し込んでくるようだった。
「ちッ……面倒だな」
和泉が舌打ちする。
その瞬間、白煙の獣が床を蹴った。
「ガアアアアアア!!」
裂けた口が、和泉の胴へ喰らいつこうと迫る。
だが――。
「さすがに、これだけやられたら」
和泉の瞳が、鋭く細まる。
「お前の動きも読めてくる」
彼は鬼焔操流の業火を、自身の右脚へ絡ませた。
ボッ!!
炎を纏った蹴撃が、襲い来る死灰の顔面へ叩き込まれる。
「ギャインッ!!」
激しい熱を帯びた一撃を受け、死灰の身体が後方へ弾き飛ばされた。
「さすが、“赤き烈火”といったところかしら」
アカネは煙管を咥え、ゆっくりと煙をくゆらせる。
「私の灰すら、その業火の熱で昇華させるなんて」
「まあ、やられっぱなしってのは性に合わないんでな」
戦いの中で、和泉は再び自らの業火を操る糸口を掴み始めていた。
乱れていた呼吸が、少しずつ戻る。
暴れかけていた炎が、再び和泉の意志へ従い始める。
(それにしても――末恐ろしい子)
アカネは、眼前の少年へ視線を向けた。
(本来なら、時間が経てば経つほど気力と体力は削られ、動きは鈍る。なのに――)
煙管を握る手に、わずかに力がこもる。
(この子は、戦いの中でさらに鋭さを増していく)
点火針を手にした和泉が、アカネへ迫る。
ギンッ!!
振り上げられた刀身を、アカネは煙管の柄で受け止めた。
「まったく、君という子は……!」
「何、後ろから見下してんだよ」
和泉の声が低く響く。
「こっちは、やっと火が着いてきたところだぜ」
点火針の刀身に、業火が纏わりつく。
ゴオオオッ!!
激しい火柱とともに、和泉はアカネを押し込んだ。
「いつまでも“狩る側”だなんて――」
炎が爆ぜる。
「錯覚してんじゃねえええ!!」
アカネの身体が弾き飛ばされ、部屋の襖を突き破った。
「さあ、立ちな」
和泉は点火針を肩に担ぐように構える。
「まだ、こっちはエンジンがかかったばかりなんだからよ」
だが。
突き破られた襖の奥から、どっと瘴気が押し寄せてきた。
「「「ガアアアアア!!」」」
無数の悪鬼が、部屋の奥から雪崩れ込むように襲いかかってくる。
「どけえええ!!」
和泉の怒号とともに、業火が噴き上がった。
「「「ギャアアアアアア!!」」」
悪鬼たちは圧倒的な火の海に呑まれ、一瞬にして消し炭と化す。
「こんなもんで足止めしようったって――」
言いかけて、和泉は気づいた。
違う。
これこそが、アカネの狙いだった。
鬼焔操流によって燃え尽きた悪鬼たちの灰が、黒く舞い上がる。
その灰は宙で渦を巻き、襖の奥へ吸い寄せられていった。
そして、奥の部屋。
そこでは、アカネが静かに和泉を待っていた。
「た、助けてくれええええ!!」
部屋の中には、アカネの他に複数の男女が倒れていた。
須山たち登山客。
この大江山で、鬼哭餓亂城に囚われた者たち。
彼らは瘴気に当てられ、正気と狂気の狭間で震えていた。
虚ろな目で、和泉へ手を伸ばしてくる。
「助けて……」
「ここから出してくれ……」
「お願い、お願いだから……!」
「こ、これは……」
和泉の足が止まる。
その戸惑いを見て、アカネは妖艶に笑った。
「彼らは、君たちが来る前に捕らえた登山客よ」
アカネは、そのうちの一人の女性の髪を掴み、無造作に引き寄せていた。
「お、お願いぃぃ……! た、助けてぇぇ……!」
女性は涙をこぼしながら、目の前の和泉へ助けを求める。
喉が震えている。
指が震えている。
それでも、必死に生きようとしていた。
「……彼女を放せ」
和泉の声が、低く沈む。
だがアカネは、さらに愉悦の色を濃くした。
「あら。この状況が分かっていないのかしら?」
その言葉に、和泉は躊躇なく深化覚醒を解いた。
業火が弱まる。
「それだけじゃないわ」
アカネは煙管の先で、和泉の手を指した。
「それもよ」
指し示されたのは、和泉の手に握られた点火針だった。
「……」
和泉は何も言わない。
ただ、点火針から手を放した。
床へ落ちた点火針は、淡い光となって消える。
「まったく」
アカネは楽しげに肩をすくめる。
「君たち開現師とは、つくづく困った生き物ね」
宙に舞っていた黒き灰が、和泉の背後へと降り注いでいく。
そこにいたのは、死灰。
悪鬼たちの残滓を取り込んだ白煙の獣は、黒い体毛を生やし、さらに禍々しい姿へ変わっていた。
首は三つ。
六つの瞳が、和泉を見下ろす。
「――やりなさい」
アカネの命に従い、死灰が鋭く伸びた爪を振り下ろした。
ザシュッ!!
「ぐっ……!?」
背中を斬り裂かれた和泉が、床へ倒れ込む。
「さあ、起きなさい」
アカネの声は甘い。
「まだ、余興は終わっていなくてよ?」
すると、まだ宙を漂っていた黒き灰が、囚われていた女性へ降り注いだ。
「お願いぃぃ! や、やめ――ぐぐッ!!」
灰は、口から。
鼻から。
耳から。
女性の内側へ、無理やり潜り込んでいく。
「あ……ああ……!」
悲鳴が途切れる。
身体が痙攣する。
肌が黒く染まっていく。
やがて、女性の声は完全に消えた。
黒き灰が、その身体を覆い尽くす。
「ま、まさか……!?」
和泉の喉から、掠れた声が漏れた。
灰が晴れていく。
そこに現れたのは、先ほどまでの女性ではなかった。
和泉が知っている顔。
忘れようとしても、忘れられない顔。
「やあ、おはよう――」
アカネが、すっとその女の髪を撫でる。
「――澪音」
目の前に立つ女は、アカネと瓜二つの顔。
だが、その姿は灰原澪音そのものだった。
「き、貴様あああああ!!」
和泉の内で、怒りが爆ぜる。
それは炎ではない。
もっと黒く、もっと熱いものだった。
「何をそんなにむきになっているの?」
アカネは心底不思議そうに首を傾げる。
「私は君のためを思って、澪音を“生き返らせた”んじゃない」
その笑みが、さらに深まる。
「それに、君も分かっていたでしょう?」
アカネは煙管を咥え、ふっと煙を吐く。
「これほど長く瘴気に当てられていた人間が、もう元には戻れないことくらい」
煙が、倒れていた人々へ降りかかる。
「う……うぐっ……!」
「ああ……あああ……!」
彼らの身体が、次々と異形へ変じていく。
人の形が崩れ、骨が軋み、皮膚が黒く歪む。
助けを求めていた者たちが、悪鬼へと変わっていく。
「ぐっ……ぐうう……!」
和泉は立ち上がろうとする。
だが、その身体を三つ首の死灰が押さえつけていた。
動けない。
助けられない。
目の前で、また奪われていく。
「いやあ、惨めだね。和泉百希夜」
アカネは、ゆっくりと和泉へ歩み寄る。
「いや――」
その声に、甘い毒が混じる。
「“運命の子”よ」
圧倒的な悪意が、和泉へ向けられていた。
そしてその悪意は、鬼哭餓亂城の奥深くから、黒の部隊の面々すべてへと絡みついていくのだった。
「くッ……!」
動こうにも、死灰の爪が和泉の身体へ深く食い込み、立ち上がることすらできない。
背中を押さえつけられたまま、和泉は床に爪を立てる。
目の前では、アカネが嗤っている。
その背後では、澪音の姿を模した人形が虚ろな瞳で立っている。
そして、さらに周囲では、囚われた登山客たちが悪鬼へと変じていく。
助けられない。
動けない。
また、目の前で奪われる。
和泉の脳裏に、一つの言葉がよぎった。
――死。
(最後のあがきか……いや、仕方ない)
和泉が覚悟を決めた、その瞬間だった。
『勝手に諦めないでください。あなたらしくありません』
「まさか……!?」
闇の中に、深紅の光が灯る。
それは、小さな慧珠だった。
深紅の光を宿したそれが、和泉の傍らで静かに輝いている。
「遅いじゃ……ないですか、梓さん」
『申し訳ありません。助っ人を探すのに、少々手間取りました』
次の瞬間。
ドンッ!!
和泉の上にのしかかっていた死灰が、巨大な衝撃に弾き飛ばされた。
「さあ! 待たせたね!!」
煙を裂いて現れた男が、牙王印を構えて笑う。
「淳さん!!」
大久保淳。
指導官代理が、ようやく東方の間へ辿り着いたのだ。
「百希夜君」
大久保は、和泉へ手を差し伸べる。
「怒っていい。でも、呑まれるな」
その言葉に、和泉の奥で荒れ狂っていた炎が、ほんのわずかに形を取り戻す。
「君の火は、あいつを喜ばせるためのものじゃないだろ?」
和泉は、奥歯を噛み締める。
そして、その手を掴んだ。
* * *
同時刻――西方の間。
理恵へ襲いかかろうとしていた東京校の三人の動きが、不意に止まった。
ぴたり、と。
まるで見えない糸に縛られたかのように、その足が止まる。
「まったく……」
低く、怒りを含んだ声が響く。
「うちの子らに、なんてことをしてくれてるんだ」
鳥笛を手にした芦谷祐介が、舞台の端に立っていた。
その眼差しは、普段の軽さを失っている。
怒り。
だが、生徒たちを案じる指導官としての、静かな怒りだった。
「あらら、邪魔が入ったか」
バーミリオンが肩をすくめる。
その間に、深紅の慧珠が理恵の周囲を回る。
『お嬢様、大変遅くなりました』
「いえ」
梓の慧珠から注がれる光が、理恵の傷をわずかに癒やしていく。
「完璧なタイミングですよ、梓」
完全には治らない。
身体には、まだ痛々しい傷が残っている。
だが、それでも十分だった。
『申し訳ございません。今の状態では、この程度しか……』
「十分です」
理恵は、ゆっくりと息を整える。
「それに、他の皆さんのところへも行っているのでしょう?」
『はい。他の三名も、お嬢様と同じく敵と応戦中です』
それを聞いた理恵の瞳に、再び紫紺の光が灯った。
「ならば、休んではいられませんね」
理恵は、立華鉢頭摩鋏を構え直す。
舞台の熱に侵されかけていた思考が、梓の声によってわずかに冷えた。
まだ、戦える。
まだ、折れていない。
「芦谷さん」
「分かってる」
芦谷は鳥笛を唇へ運ぶ。
「まずは、うちの連中を正気に戻す。それから――あの芝居がかった奴を黙らせる」
その音が、西方の間に鋭く響いた。
* * *
「《英傑月誅》!!」
二対の月輪が、南方の間を切り裂く。
金色の軌跡を描いたチャクラムが、シンシャの眼前を掠めた。
「もう! なんなの、急に!!」
シンシャが頬を膨らませる。
「なんなの、ではありませんわ!」
そこへ現れたのは、金髪碧眼の少女。
大明寺レイカだった。
「こちらだって、皆様とはぐれて困っておりましたのに! ようやく辿り着いたと思ったら、この有様ですの!?」
かなりご立腹らしい。
だが、彼女の視線が杏樹へ向いた瞬間、その表情が固まった。
「まあ、これで借りができましたわね、杏樹さ――」
言葉が、止まる。
そこにいたのは、丸々と膨らんだ一匹のげっ歯類のような姿。
悪鬼転身した杏樹だった。
「げえええっ!? い、いったいこの珍妙な生物は何なんですの!?」
「あのさ~」
杏樹はじとっとした目でレイカを睨む。
「人の姿かたちを見て、第一声がそれってどうなの?」
「人!? 今の貴女、人の範疇に入りますの!?」
「入るわ!! たぶん!!」
決して予断を許さない状況ではある。
だが、いつも通りすぎるレイカの態度を見て、杏樹の中にも少しだけいつもの調子が戻ってくる。
深紅の慧珠が、二人の間に浮かぶ。
『お二人とも、行けますか?』
梓の声に、杏樹とレイカは同時に頷いた。
「うん! もちのろんだよ!!」
「当然ですわ! この“大明寺レイカ”が来たからには、もう安心ですわ!!」
シンシャは、そんな二人をつまらなそうに見つめていた。
しかしすぐに、満面の笑顔へ変わる。
「わあ~、お友達が増えてうれし~」
だが、次の瞬間。
その笑顔が、悪辣に歪んだ。
「まあ、何人増えようと、シンシャの手玉だけどね」
甘ったるい悪意が、再び南方の間を満たしていく。
* * *
北方の間。
見えぬ言葉の刃に、亜子は苦戦していた。
防ごうとしても、防げない。
撃ち落とそうとしても、撃ち落とせない。
シナバーの言葉は、外から飛んでくるのではなく、亜子の内側から刃となって突き上がってくる。
そのシナバーが、次の言葉をスマホへ吹き込もうとした瞬間だった。
銀色の一閃が、シナバーを襲う。
「――ッ!?」
シナバーは咄嗟に身を反らし、その刃を避けた。
「ああ!? いったい何者だ!!」
吐き捨てるような問いに、白き隊服の女が静かに立つ。
來瀬川真理。
その手には、巨大な鋏のヴァジュラ――立華鉢頭摩鋏が握られていた。
「藤本、状況を説明しなさい」
『現在、参加者および護衛に付いた方々を含め、大江山に発生した鬼夢へ取り込まれています』
深紅の慧珠から、梓の声が響く。
『今回の首謀者と思われる存在は、目の前の少女のほかに三名。他の三名も、すでに開現師たちと会敵中です』
真理はわずかに思考を巡らせる。
そして、すぐに結論を出した。
「つまり、ここから脱出することが第一優先」
鋏の切っ先を、シナバーへ向ける。
「その手がかりが、あんたということね」
「ああん?」
シナバーの顔が歪む。
「あんたは出てこられないように落としたと思ったんだけどなあ?」
その言葉に、真理は不敵に笑った。
「落ちる瞬間に、地面へこれを伸ばしていたのよ」
真理は、枯れた蔓枝を手元で揺らす。
それは奈落へ落ちる寸前、彼女が命綱として伸ばしたものだった。
「まあ、何にせよ」
真理の瞳が、鋭く細まる。
「あんたには“借り”がある。ここで全部返させてもらうわ」
その横へ、亜子も並び立った。
「大丈夫? 行けるかしら」
「ええ」
亜子は短く答える。
「梓さんに浄化してもらったから、もう大丈夫」
亜子は、真理の手にある立華鉢頭摩鋏を見る。
「あなたは――」
「細かいことは後」
真理は、視線をシナバーから外さない。
「まずは、あいつを倒すわよ」
亜子は一瞬だけ真理を見た。
そして、小さく頷く。
「了解」
* * *
絶望に思われた鬼哭餓亂城に、四つの光が走る。
北方には、白き鋏を携えた來瀬川真理。
南方には、金色の月輪を掲げた大明寺レイカ。
西方には、鳥笛を手にした芦谷祐介。
東方には、牙王印を構えた大久保淳。
黒の部隊は、まだ折れていない。
仲間を信じ、支えを受け、傷だらけのまま、それでも前を向く。
そして今。
鬼の居城にて、反撃の幕が上がる。
次回予告
反撃の幕が上がった鬼哭餓亂城。
北方の間では、亜子と真理がシナバーと対峙する。
言葉を刃に変え、人の心の傷を抉る四天王。
真理の力が戦況を押し返す中、シナバーは二人の“傷”を見つけ出していく。
無能。
負け犬。
疫病神。
誰一人救えない。
悪意の言葉が飛び交う北方の間で、亜子の怒りが静かに燃え上がる。
次回、
第76話「言葉の刃を砕くもの」
言葉の刃を砕くのは、怒りか、祈りか。




