第74話「四天王の本領」
四方の間で始まった、黒の部隊と四天王の戦い。
一撃を届かせ、流れを掴みかけた和泉たち。
だが、ここは悪鬼の巣窟――鬼哭餓亂城。
城に満ちる悪意は開現師たちを蝕み、四天王の本当の力を呼び覚ましていく。
ここから、戦いはさらに苛烈さを増していく。
四方の間にて、黒の部隊と四天王が激突する。
一時は絶望的と思われた状況の中、それでも和泉たちは、それぞれの一念によって絶望という名の壁を押し返そうとしていた。
だが、ここは鬼の居城――鬼哭餓亂城。
人の暗がりを煮詰め、そこに残った煮凝りが形を持って蠢く、悪鬼の巣窟である。
和泉たちの光の意志とは正反対の、どす黒い瘴気。
人を妬み、憎み、喰らい、踏みにじろうとする悪意。
それらは城の隅々にまで蔓延し、囚われた開現師たちの精神をじりじりと削っていく。
そして、悪鬼たちは力を増す。
黒く歪んだ悪意は、四天王たちの内に眠る力を、さらに深く呼び起こしていた。
* * *
東方の間。
爆ぜる赤き烈火を前に、アカネは追い込まれているかに見えた。
和泉は、アカネの退路を塞ぐように地獄の業火を放ち続ける。
床を這う炎。
襖を焼く火柱。
天井へ立ち昇る熱波。
東方の間は、すでに戦場というより、一つの炉と化していた。
だが、和泉の内には消えない不安の種がある。
この感覚は何だ。
この苛立ちは何だ。
まるで、自分の内側へ直接、汚泥を流し込まれているような不快感。
それでも和泉は、点火針を構えたままアカネを睨み据える。
「いったい、いつまで逃げ続けるつもりだ?」
低く問う。
だがアカネは、その顔にへばりついた笑みを絶やさない。
相手を嬲り、蹂躙し、壊すことを悦びとする漆黒の意志を内に抱えながら、表面上はどこまでも艶やかに取り繕っている。
その態度が、和泉の神経を逆撫でする。
沸騰しそうな怒りを押し殺しながらも、和泉は敵の次なる一手への警戒を解かなかった。
「ふふ……。やはり、貴方と戦うなら、それ相応の力は出さないといけないようね」
アカネは手にした煙管をゆっくりと口へ運び、にい、と笑みを深めた。
「ふふふううう――」
長く、甘く、嫌に湿った吐息。
煙管からくゆる白煙が、彼女の肉体へ絡みついていく。
白い煙はゆらゆらと漂いながら、やがて背後で一つの塊となった。
意志を持つように。
肉を得るように。
形を、成していく。
「では、ここからは“私たち”の力の一端を、お見せしましょうか」
その姿を見た瞬間、和泉の内なる炎が一気に燃え上がった。
「てめえ……!」
アカネの背後に模られたそれ。
裂けた口。
獣じみた四肢。
煙を涎のように垂らす顎。
それは、かつて澪音が使役していた悪鬼――“カロン”を思わせる姿だった。
だが、違う。
これは、あの時の“死灰”とは違う。
澪音が使役していたものが影ならば、目の前のそれは本体に近い。
ずっと大きい。
ずっと濃い。
そして、ずっと禍々しい。
「これが、本物の死灰」
アカネが、愛おしげに告げる。
白煙で形作られたその獣は、床に爪を立てるように身を沈めた。
煙でありながら、そこには確かな質量があるように見える。
裂けた口から、また白煙が涎のように滴った。
「行きなさい」
アカネが煙管の先を、すっと和泉へ向ける。
その瞬間、死灰の姿がふっと掻き消えた。
「――ッ!」
次の刹那。
ガアアアッ!!
和泉の左半身に、鋭い痛みが走った。
「つっ……!!」
見れば、頭部だけとなった死灰が、和泉の脇腹へ喰らいついていた。
和泉の意志に従い、業火が即座に白煙の獣へ襲いかかる。
だが、炎に包まれる寸前、死灰は霧散した。
煙へ戻り、熱を逃がし、少し離れた位置で再び獣の姿を取る。
(――まずいな)
煙そのものである死灰に、物理的な攻撃は通りにくい。
それは、和泉も痛いほど知っている。
だが、問題はそれだけではなかった。
(ここの瘴気に当てられて……うまく制御できねえ)
鬼焔操流を精密に操るには、極めて繊細な集中が必要になる。
だが、この悪鬼の居城に満ちる粘ついた悪意が、和泉の神経を締めつけていた。
思考が熱を帯びる。
怒りが先に走る。
炎が、意志よりもわずかに早く暴れようとする。
とてもではないが、いつものように業火を細かく制御できる状態ではない。
「ならば――!」
和泉は、迷いを断ち切るように一気に業火を燃え上がらせた。
制御できないなら、押し潰す。
逃げ場ごと焼き尽くす。
「なるほど……」
アカネが薄く笑う。
「無意味なことに意識を割くより、勢いで押し潰そうというのね」
東方の間は、一瞬にして火の海と化した。
床も、壁も、襖も、天井も。
すべてが赤く燃え上がる。
だがアカネは、なお笑っている。
「でも、その程度で私たちを捕らえることはできないわ――」
彼女が煙管から吐いた煙が、細く、長く、空中に道を編んだ。
白煙は足場となり、火の海を渡る蜘蛛の糸のように張り巡らされる。
そして、その煙の道を白き巨獣が駆けた。
火の海の上を、煙の獣が走る。
「捕らえろ!!」
和泉が吠える。
火の海から炎の波が巻き上がり、迫る死灰を呑み込まんとする。
だが、一手早い。
死灰が煙の足場を蹴り、和泉の間合いへ飛び込む。
和泉は点火針を振りかざした。
「炎上ッ!!」
その刀身から、巨大な炎の柱が伸びる。
紅蓮の刃が、迫る死灰の身体を両断した――かに見えた。
だが。
死灰は自らの身体を上下に分離させ、炎の刃をすり抜けた。
「なッ!?」
意表を突かれた和泉の視界の端で、分離した下半身が大きくしなった。
煙でできた尾が、鞭のように振るわれる。
ドゴッ!!
重い衝撃が、和泉の胴を叩いた。
「ぐっ……!」
弾き飛ばされた和泉の身体が、襖を突き破り、隣の部屋へ転がり込む。
砕けた木片と紙片が宙に舞う。
燃え盛る炎の向こうで、アカネはなお微笑んでいた。
まるで、和泉の怒りも痛みも、すべてが自分の掌の上だと言わんばかりに。
* * *
西方の間。
舞台の上で、理恵の剣戟がさらに激しさを増していた。
紫紺の双剣――立華鉢頭摩鋏が、流麗な軌跡を描いてバーミリオンへ襲いかかる。
一時は、理恵の猛攻を受けきったバーミリオンが反撃へ転じるかに見えた。
だが、戦いの流れは依然として理恵へ傾いていた。
いや、傾いているように見えた。
刃は届く。
踏み込みは鋭い。
相手の呼吸も読めている。
それなのに、理恵の胸中には、拭いきれない違和感があった。
それは、はっきりと形を持つものではない。
けれど、舞台の床下からじわじわと染み出す水のように、言い知れぬ不安が彼女の内側へ広がっていく。
「さあ! こちらからも、行くよ!!」
剣戟の合間を縫い、バーミリオンがサーベルの切っ先を突き出した。
鋭い一突き。
だが、理恵はそれを冷静に受け止める。
双剣の片方で刃を弾き、もう片方で軌道をずらす。
踏み込んだバーミリオンの体勢が、わずかに崩れた。
「おっと」
バーミリオンは咄嗟に身を引こうとする。
しかし、その隙を理恵が逃すはずもない。
斬ッ!!
鋭い一閃が、バーミリオンの胴を斜めに裂いた。
血が舞う。
「これはこれは……」
バーミリオンは鮮血を滴らせながらも、なお気取った笑みを崩さない。
「随分と乱暴な子猫ちゃんだこと」
その態度に、理恵の瞳がわずかに細まる。
(押している……。それも、こうも簡単に)
返り血が頬を汚している。
だが理恵は、それを拭おうともしなかった。
ただ、眼前の敵を鋭く見据える。
見ると、先ほど裂いたはずの傷口は、すでに肉が寄り合い、塞がり始めていた。
「さあ」
バーミリオンが涼しげにサーベルを構え直す。
「これでもう一度踊れるよ?」
(驚異的な回復力……。けれど、本当にそれだけが敵の能力でしょうか)
理恵の思考が警鐘を鳴らす。
だが、今は検証している場合ではない。
少なくとも、この西方の間での戦いにおいて、理恵の攻撃は確かに切れを増していた。
身体が軽い。
視界が澄んでいる。
刃の通り道が、これまで以上にはっきり見える。
(いずれにせよ――これなら、押し切れる)
その考えが、理恵の中に自然と生まれた。
そして、再び立華鉢頭摩鋏を構える。
「参ります」
次の瞬間、理恵は凄まじい速さで間合いを詰めた。
一呼吸。
その短い間に、六度の剣戟が放たれる。
一閃。
二閃。
三閃。
バーミリオンは辛うじてそれを受け止めていく。
だが、その身体には次々と切り傷が刻まれていった。
腕。
肩。
脇腹。
太腿。
傷口から鮮血が飛び散る。
赤い飛沫が舞台の照明を受け、花弁のように宙を舞った。
その中で、理恵の猛攻はさらに激しさを増す。
鼓動が速い。
呼吸が熱い。
全身の血が、剣先へ集まっていくようだった。
斬れる。
届く。
このまま押し切れる。
これまでにないほどの高揚が、理恵の思考を支配していく。
だが――。
「見えた」
バーミリオンの瞳が、すっと細められた。
「そこだね!!」
突き出されたサーベルの切っ先が、理恵の右肩を掠めた。
「――ッ!?」
わずかな傷。
それほど深くはない。
だが、その一撃は理恵の呼吸を乱すには十分だった。
手元が、ほんの一瞬緩む。
その隙を見逃さず、バーミリオンがさらに踏み込む。
理恵は咄嗟に地面を蹴った。
後方へ宙返りするように身を翻しながら、同時に蹴りを放つ。
「おおっと、危ない危ない」
バーミリオンは、理恵の蹴りが届く寸前で踏みとどまった。
後方へ下がった理恵は、斬られた肩口へ視線を落とす。
浅い。
戦闘に支障はない。
だが。
(……なぜでしょう)
理恵の胸の奥で、不安の種が少しずつ芽吹こうとしていた。
(相手への警戒はしている。違和感にも気づいている。それなのに――)
もう少しで押し切れた。
そう思ってしまった自分がいる。
その事実が、小さなささくれのように理恵の思考へ引っかかる。
なぜ、今の一手を深追いしたのか。
なぜ、攻め急いだのか。
なぜ、冷静に観察するより先に、敵を斬ることを選んだのか。
その答えに辿り着くより早く、バーミリオンが不敵に笑った。
「いいね」
サーベルの切っ先を、舞台の床へ軽く滑らせる。
「実にいい。貴女はとても美しいよ、プリンセス」
その声が、劇場の奥へ反響する。
「だけど――美しい者ほど、舞台の熱に呑まれやすい」
理恵の指先に、知らず知らず力がこもる。
立華鉢頭摩鋏が、かすかに震えた。
怒りではない。
焦りでもない。
もっと甘く、もっと危ういもの。
敵を討ちたい。
斬り伏せたい。
この舞台の上で、完全に勝利したい。
そんな思考が、理恵の中へゆっくりと沈み込んでいく。
バーミリオンは微笑む。
その笑みは、観客へ向ける役者のそれではない。
獲物が罠に足を踏み入れたことを確信した、狩人の笑みだった。
* * *
「やっちゃって、みんなー!!」
シンシャの甲高い声が、巨大な子ども部屋に響き渡る。
その号令に従い、ジンジャークッキーの兵隊たちが一斉に動き出した。
砂糖でできた槍を構える。
焼き菓子の身体がぎしぎしと軋む。
アイシングで描かれた笑顔は、どれも同じ形に固まっていた。
そして、兵隊たちは一斉にその矛先を杏樹へ向ける。
「へん!」
杏樹は、悪鬼転身した小さな身体で軽く身を沈めた。
「転身したわたしに、そんな攻撃が当てられるなんて思わないで!!」
ダンッ!!
砂糖の槍が、一斉に床へ突き立てられる。
だが、そこに杏樹の姿はない。
「ああ~、みんな、後ろだよ!」
シンシャの声で、兵隊たちがぎこちなく振り返る。
「へへん! 遅い、遅い!!」
杏樹はすでに、兵隊たちの背後へ回り込んでいた。
悪鬼《篥歯》へ転身した彼女の動きは、先ほどまでとは比べ物にならないほど素早い。
小さく、しなやかに、そして水のように隙間を抜ける。
ブンッ!!
振り向いた兵隊たちが、勢いよく砂糖の槍を投げつける。
「おおっと! ちょい!!」
杏樹は、それすらもするりと躱す。
跳ぶ。
潜る。
駆ける。
床を蹴り、人形の腕を足場にし、巨大なベッドの脚を回り込む。
まさに流水のように、杏樹は兵隊たちの攻撃を翻弄していった。
「ささ! こっからは、こっちも攻撃させてもらうよ!!」
杏樹はデガ喇叭を握りしめる。
「泡連弾!!」
マシンガンのように放たれた泡の弾丸が、ジンジャークッキーの兵隊たちへ降り注いだ。
バゴンッ!
バゴンッ!!
泡弾が命中するたび、兵隊たちの身体が粉々に崩れていく。
焼き菓子の欠片が飛び散り、甘い匂いが部屋いっぱいに広がった。
「ええい、まだまだ!!」
シンシャは頬を膨らませ、再びポケットからクッキーを取り出す。
今度現れたのは、飴でできたステッキを矢に見立てた弓兵たちだった。
弓兵たちは砂糖の弓にステッキをつがえ、ぎりぎりと弦を引き絞る。
「ねらって、ねらって……」
シンシャが片目を細める。
「今だ、放て!!」
その号令と同時に、飴の矢が雨あられとなって杏樹へ降り注いだ。
「それなら――郷泡霧!!」
杏樹はデガ喇叭から巨大な泡を生み出す。
泡は彼女の身体を包むように膨らみ、透明な膜となって展開された。
ボヨンッ。
降り注いだ飴の矢が泡に当たる。
だが、それは突き刺さることなく、弾力に押し返されるように跳ね返った。
「わわわ!? ちょっと、ちょっと!」
今度はシンシャたちの方へ、飴の矢が降り注ぐ。
シンシャは慌てて逃げ出した。
だが、その時だった。
彼女は気づく。
一瞬とはいえ、自分の敵から視線を外してしまったことに。
「しまった! あいつは――」
それを逃す杏樹ではない。
すでに、シンシャが逃げた先には杏樹が回り込んでいた。
「ちょ、ちょっと待って! タイム!!」
「うっさい!」
杏樹は容赦なくデガ喇叭を構える。
「泡連爽弾!!」
氷を帯びた泡のつぶてが、シンシャ目掛けて一斉に放たれる。
「やらせないよ!!」
だが、シンシャもさすがに四天王である。
彼女は手にしていたマシュマロをぽいっと投げた。
そのマシュマロは空中で一気に巨大化し、ふわふわの壁となる。
スポッ、スポッ。
飛んできた雹弾は、次々とマシュマロに吸い込まれていった。
「へへ、どんなもんだい――」
コツン。
その中の一つが、マシュマロの端をすり抜け、シンシャの額に当たった。
雹弾を吸収したマシュマロが、どさりと床へ落ちる。
表面はすでに凍りつき、白い霜をまとっていた。
一瞬の静寂。
つう、と。
シンシャの額から、細い血の筋が流れ落ちた。
ブチッ。
それは、実際に鳴った音ではない。
だが杏樹は、確かに聞いた。
目の前の少女の中で、何かが切れた音を。
「て……」
シンシャの肩が、小さく震える。
「てめええええええええ!!!」
可愛らしかった顔が、ひどく歪んだ。
「よくも当ててくれたなああああ!! ザコがよおおお!!!」
ぎりぎりと歯を噛み締めるシンシャの顔には、もはや幼さなど残っていない。
そこに浮かんでいたのは、修羅の相だった。
「……っ!?」
杏樹の背筋に、圧倒的な悪寒が走る。
今、目の前にいるのは少女ではない。
少女の皮を被った、悪鬼そのものだ。
「今度は容赦しねえええぞ!!」
怒りに燃えるシンシャは、ポケットから一本のぺろぺろキャンディーを取り出した。
それは瞬く間に巨大化し、身の丈ほどもある巨大なハンマーへ変わる。
「うらあああ!!」
ドゴンッ!!
杏樹が咄嗟に跳び退いた場所へ、巨大なキャンディーが叩きつけられる。
床が砕け、子ども部屋には似つかわしくない巨大なクレーターが生まれた。
「逃げんじゃねえ!!」
シンシャは巨大な飴を、ぶんぶんと振り回す。
「そんな無茶な!?」
杏樹は必死にその猛攻を躱す。
だが、シンシャの攻撃は止まらない。
さっきまでの“遊び”ではない。
怒りに任せた純粋な暴力が、部屋全体を破壊しながら杏樹へ迫る。
「ペッ!!」
不意に、シンシャが何かを吐き捨てた。
べちゃ。
「!?」
後方へ跳び退いた杏樹の足が、床に貼りつく。
「これは――ガム!?」
先ほどシンシャが吐いたのは、ガムだった。
杏樹の足首が、粘つく塊に絡め取られている。
「死にさらせやあああああ!!」
巨大なキャンディーが、唸りを上げて振り下ろされる。
直撃は免れない。
そう思われた瞬間――。
「ミニ郷泡霧!!」
杏樹は咄嗟の判断で、胴体を包むほどの小さな泡の膜を展開した。
バキンッ!!
音を立てて、キャンディーの一部が砕ける。
衝撃で、杏樹の身体が大きく吹き飛ばされた。
(きっつい! でも、直撃は避けられた!!)
杏樹は跳ね飛ばされながらも、すぐさま身体を捻って受け身を取る。
「よし! これならまだ行ける!!」
「なら、ほい」
その声は、すぐ横から聞こえた。
「え――」
いつの間に回り込んでいたのか。
シンシャが、杏樹の口元めがけて何かを弾き飛ばした。
「あむっ、うぐ……ごくん」
突然のことに、杏樹はそれを飲み込んでしまう。
口の中に、ほんのり甘いミルク味が広がった。
シンシャは、先ほどまでの怒りが嘘のように、にっこりと笑っている。
「どう? ママの味がした?」
「いったい何を――」
そう言いかけた時、杏樹は気づいた。
自分の身体の異変に。
「わあ!」
シンシャが嬉しそうに手を叩く。
「かわいい、ぽっちゃりさんだ~」
篥歯となった杏樹の身体が、丸々と膨らんでいた。
まるで餌を詰め込みすぎた小動物のように、全身がぱんぱんに張っている。
「な、なんじゃこりゃあああああ!!」
杏樹の叫びが、南方の間に響き渡る。
甘く、可愛らしく、そしてあまりにも凶悪に。
杏樹とシンシャの戦いは、ここに来てさらに歪な色を帯び始めていた。
そしてついに、シンシャの甘い毒牙が、杏樹の身体を蝕み始めたのだった。
杏樹は、この時初めて悟る。
これはもう、遊びではない。
無邪気な顔をした怪物による、甘く残酷な処刑なのだと。
* * *
「死ねよ、バカが!!」
シナバーの罵声が、手にしたスマートフォンへ音声入力される。
次の瞬間、部屋中のモニターにその文字が表示された。
――死ね。
――バカ。
青白い画面に浮かび上がった文字列が、ぐにゃりと歪む。
そして、それらは鋭利なナイフへと姿を変え、亜子へ向かって飛んだ。
比喩ではない。
発された言葉が、現実の凶器となって襲いかかってきたのだ。
亜子は即座に機銃を構える。
ガンガンガンッ!!
激しい掃射が、飛来する言葉のナイフを正確に撃ち落とした。
弾かれた言葉は、空中で力を失う。
そして、まるで最初から存在しなかったかのように、空へ溶けて消えていった。
「何?」
亜子は、銃口を下ろさないまま言う。
「ずいぶんもったいぶっておいて、この程度なの?」
「ああ!?」
その無機質な煽りに、シナバーの顔が露骨に歪む。
「ちっ……うっせえんだよ、ボケが!!」
再び罵声が飛ぶ。
だが、それも結果は同じだった。
亜子の掃射によって、言葉の刃は届く前に撃ち落とされる。
しかし、今度のシナバーは苛立ちながらも、不敵に笑っていた。
「あーしがさあ、何でずっと“これ”いじってたか分かる?」
にい、と笑いながら、シナバーはスマホを掲げる。
その画面には、すでに無数の文字が入力されていた。
瞬間、亜子が構え直す。
部屋中のモニターに、シナバーが打ち込んでいた罵声が一斉に映し出された。
クズ。
雑魚。
消えろ。
邪魔。
目障り。
いらない。
青白い画面いっぱいに、悪意だけでできた言葉が溢れ出す。
「ぐちゃぐちゃになれよ」
シナバーが、愉しげに囁く。
その言葉を合図に、無数の罵声がナイフとなって亜子へ降り注いだ。
(これだけの数を、全部落とすのは無理か……)
亜子は一瞬で判断する。
「――なら」
機銃を構えたまま、亜子は静かに告げた。
「形態変化――《VH鋼防盾》」
亜子の意志に従い、機銃が光に包まれる。
次の瞬間、その形状は大きく変化していた。
そこに現れたのは、亜子の身体をすっぽり隠せるほどの巨大な盾。
まるで戦艦の装甲を切り出したかのような、重厚な防壁だった。
「そんなもんで、この一斉攻撃が防げるかよ!!」
シナバーが叫ぶ。
直後、無数の言葉のナイフが盾へ突き刺さる。
ガンガンガンガンッ!!
凄まじい音が、北方の間に鳴り響いた。
だが、VH鋼防盾は揺るがない。
罵声の刃は、鋼の防壁に傷一つ刻めぬまま弾かれ、次々と空へ消えていく。
「なっ……ば、バカな!?」
シナバーの声が裏返る。
「あれだけの攻撃を、一撃も……!」
驚愕するシナバーをよそに、亜子は盾をゆっくりと前へ向けた。
「次は、こっちから仕掛ける」
盾の一部が、重い音を立てて開く。
内部から、淡い光が集束していく。
「VH光子魚雷、発射」
亜子の合図とともに、光球が放たれた。
「ちっ!?」
シナバーは即座にスマホへ文字を入力し、言葉の刃を放つ。
だが――。
ナイフとなった言葉が光球へ触れた瞬間、それらは一瞬で光へ分解された。
「あ、あいつ、なんて攻撃を――!?」
悪態をつこうとしたシナバーの目の前で、すでに第二射が放たれていた。
「ちくしょおおおお!!」
シナバーは全力で横へ跳ぶ。
光子魚雷の直撃こそ避けたものの、かすめたモニターは音もなく光へ変わり、跡形もなく蒸発した。
(ちぃぃぃ……! まずいな、これは……!)
シナバーの額に、冷や汗が流れる。
(とんでもねえ攻撃力だ。直撃は、洒落にならねえ)
彼女は、奥歯を噛み締める。
「とっとと、“キュー”を見つけねえとな……」
再びスマホへ指を走らせようとするシナバーへ、亜子は容赦なく盾の開口部を向けた。
「そんな悠長な間は置かない」
再び、光球が放たれる。
「ちっくしょおおが!!」
シナバーの顔が、怒りでさらに歪む。
耳元まで裂けたような口を大きく開き、彼女は叫んだ。
「役立たず! 雑魚! クズ! ド低能!!」
罵詈雑言が次々と文字となり、刃となって飛び交う。
だが、それらは光球へ触れた途端、次々と消滅していく。
「アホ! バカ! 消えろ! 邪魔!」
もはや、シナバーの罵倒はありきたりな悪口へ落ちていた。
だから、威力も落ちる。
薄い。
軽い。
刺さらない。
亜子の防壁にも、光子魚雷にも、まるで歯が立たない。
「無能が!!」
それは、ほとんど最後の捨て台詞のように吐き出された言葉だった。
だが――。
その瞬間。
亜子の猛攻が、ぴたりと止まった。
「……っ」
巨大な盾の向こうで、亜子の身体がわずかに揺れる。
腹部に、一筋の切り傷が走っていた。
防壁を抜けたわけではない。
外から飛んできたわけでもない。
その言葉は、亜子の内側から刃となって突き上がったのだ。
唇の端から、赤い血が滴る。
「おお……?」
シナバーの目が、ゆっくりと見開かれる。
そして次の瞬間、その顔が愉悦に歪んだ。
「おお、おうおう……!」
シナバーはスマホを握りしめ、にたりと笑う。
「やっと見つけたじゃ~ん♪」
亜子は、無言でシナバーを睨む。
だが、その瞳の奥にほんのわずかな揺らぎが生まれたことを、シナバーは見逃さなかった。
「見つけたぜ~」
シナバーは嬉しそうに舌なめずりする。
「あんたの“トラウマ・キュー”をさ」
北方の間に、モニターのノイズがざわざわと広がる。
そのすべてが、今度はたった一つの言葉を映し出していた。
――無能。
その文字が、亜子の心へ深く、深く沈んでいく。
次回予告
四天王の本領により、追い込まれていく黒の部隊。
アカネの死灰が和泉を削り、
バーミリオンの舞台が理恵の理性を熱に呑ませ、
シンシャの甘い毒牙が杏樹の機動力を奪い、
シナバーの言葉が亜子の心の傷を抉る。
絶望が四方の間を覆い尽くそうとした、その時――。
梓の慧珠が、新たな光を連れてくる。
次回、
第75話「反撃の幕」
黒の部隊は、まだ折れていない。




