第73話「四天王戦、開幕」
鬼哭餓亂城の四方に分かたれた黒の部隊。
東方では、和泉とアカネ。
西方では、理恵とバーミリオン。
南方では、杏樹とシンシャ。
北方では、亜子とシナバー。
朱天の半身たる四天王を相手に、黒の部隊それぞれの戦いが幕を開ける。
閉ざされた鬼の居城――鬼哭餓亂城。
その四方に分かたれた広間で、戦いの火蓋は同時に切られていた。
和泉百希夜。
來瀬川理恵。
加藤杏樹。
川合亜子。
黒の部隊の四人は今、この異変を引き起こした黒幕――四天王と、それぞれ相対している。
その中でも、最も激しい熱を帯びていたのは、東方の間だった。
燃え盛る炎。
宙を濁す灰。
赤と黒が、何度も激しくぶつかり合う。
和泉は、ほとんど間を置かずに踏み込んだ。
点火針の刀身が空を裂く。
振るわれるたび、赤い軌跡が闇に刻まれ、刃の先から深紅の炎が噴き上がる。
だが、対するアカネは笑っていた。
いつものように、薄く。
どこか艶やかに。
そして、腹立たしいほど余裕を残したまま。
「ふふ……」
アカネが煙管を咥え、細く息を吐く。
その吐息は黒い灰へと変じ、厚い紗幕のように広がった。
振り下ろされた和泉の一閃は、その灰の層に阻まれる。
刃が灰を裂き、炎がそれを焼く。
だが、灰は焼かれながらも散り、散りながらも再び形を成す。
轟ッ!!
点火針の刀身が宙を斬り、そのまま床へ触れた瞬間、火花とともに深紅の炎が立ち上がった。
「飛火剣!!」
火柱を裂いて、炎のクナイが幾筋もアカネへ飛ぶ。
「ふっ」
アカネは、ただ短く息を吐いた。
吐息から生まれた灰が、針のように細く鋭く尖る。
灰の針と炎のクナイが空中で激突し、互いを喰らい合うように弾け飛んだ。
だが、和泉の足は止まらない。
相殺された一瞬。
生まれたごくわずかな空白。
その隙へ、和泉はさらに踏み込んでいた。
「……悪鬼招来」
低く告げる。
その言葉に応じるように、和泉の背後に白銀の影が揺らいだ。
大百足の悪鬼――白影。
その幻影が、和泉の肉体へ溶け込んでいく。
次の瞬間、彼の内側から、先ほどまでとは質の違う熱が膨れ上がった。
「《鬼焔操流》!!」
深化覚醒を発動させた和泉が、床へ手をかざす。
刹那。
先ほどまで燃え上がっていた炎とは、まるで別種の業火が床を這うように走った。
それは、ただ燃やす炎ではない。
獲物を捉え、喰らい、内側から焼き尽くそうとする鬼の炎。
業火は蛇のようにうねりながら、アカネの足元へ襲いかかる。
さしものアカネも、それを正面から受ける気はないらしい。
彼女は軽やかに後方へ跳び、燃え上がる床から距離を取った。
「随分と気が早いわね」
澄んだ声が、炎と灰の向こうから響く。
その声音はあまりにも平然としていた。
まるで命を削る戦いの最中ではなく、退屈な茶会の席で言葉を交わしているかのように。
和泉は、ゆっくりと点火針を構え直した。
「あんたとのやり取りを、これ以上長引かせる必要なんてねえからな」
声は淡々としている。
だが、その瞳の奥には、隠しきれない炎があった。
怒り。
憎しみ。
そして、決着をつけるという意志。
アカネは、それを見て愉しげに目を細めた。
「あら」
煙管の先を指先で撫でる。
「これはまた……楽しませてくれそうね」
その瞳に、妖艶な光が灯る。
炎と灰が、再び激突する。
東方の間にて、和泉百希夜とアカネの因縁の戦いが、さらに深く燃え上がろうとしていた。
* * *
煌びやかな装飾に彩られた、西方の間。
そこは、まるで歌劇団の劇場だった。
赤い絨毯。
重く垂れた緞帳。
金細工めいた柱。
そして、誰も座っていないはずの客席から、無数の視線だけが注がれているような錯覚。
その舞台の中央で、二人の刃が交わっていた。
華麗に舞う理恵。
華やかに踊るバーミリオン。
一見すれば、二人の動きは息の合ったデュエットのようですらあった。
踏み込み、旋回し、刃を交わし、距離を詰める。
その一挙手一投足は、まるで舞台上で振り付けられた演目のように美しい。
だが、華麗さの裏側では、熾烈な読み合いが続いていた。
次の一手で、相手の呼吸を乱す。
次の半歩で、相手の重心を崩す。
刃と刃が触れ合うたび、両者の思考はさらに深く、さらに速く回転していく。
理恵の双剣――立華鉢頭摩鋏が、紫紺の軌跡を描いて舞う。
その剣戟を、バーミリオンは手にしたサーベルで弾き返した。
甲高い金属音が、舞台に響く。
一つ間違えば、一気に均衡が崩れ去る。
そんな繊細な緊張が、二人の間に張り詰めていた。
先に仕掛けたのは、理恵だった。
彼女の掌に、真紅の花が咲く。
蕾は瞬く間に綻び、鮮やかな紅色の花弁を広げた。
だが、その開花は一瞬。
花弁はすぐに散り落ち、今度は血のように赤い実を結ぶ。
芽吹き、咲き、実る。
その生命の循環が、刹那のうちに理恵の掌で完結した。
剣戟の合間に起きた、ほんの一瞬の出来事。
しかし、バーミリオンがそれを見た時には、もう遅かった。
「紅爪」
理恵の細い唇から、静かな囁きが零れる。
瞬間――真紅の実が弾け飛んだ。
中から飛び出した種子が、赤い弾丸となってバーミリオンへ襲いかかる。
どすっ、どすっ!!
鈍い音とともに、真紅の種がバーミリオンの身体へめり込んだ。
「うッ……!?」
バーミリオンの口から、鮮血が散る。
だが、理恵の攻撃はそこで終わらない。
「咲き誇りなさい」
その命に従い、撃ち込まれた種子が一斉に芽吹いた。
バーミリオンの体内で根を張り、肉を裂き、血のように赤い花を咲かせていく。
「何ッ!?」
驚愕するバーミリオンをよそに、撃ち込まれた箇所から真紅の花が咲き誇った。
血飛沫の代わりに花弁が散る。
美しく、そして残酷な開花。
バーミリオンの身体が、力を失ったように舞台へ落下していく。
勝負は喫したかに見えた。
だが、理恵の表情は緩まない。
むしろ、その眼差しはさらに鋭くなっていた。
「何だい?」
倒れていたはずのバーミリオンが、涼しげな声で言う。
「追撃はしないのかい?」
次の瞬間、彼女は何事もなかったかのように立ち上がった。
「まったく、困ったプリンセスだ」
その声には余裕があった。
理恵は、すぐに気づく。
先ほど、バーミリオンの肉体に咲いた赤い花。
それらはすでに色を失い、完全に干乾びていた。
「花のプレゼントなんて嬉しいんだけどね」
バーミリオンは、枯れた花へ指先で触れる。
「僕は“薔薇”の方が好きかな」
軽く払われた花は、その瞬間に粉々となり、舞台の上へ儚く散った。
(この程度で倒せるとは思っていませんでしたが……)
理恵の思考に、ひとつの違和感が生まれる。
(花が枯れる速度が、あまりにも早すぎる)
決着がつくとは、理恵も楽観視していなかった。
相手は四天王。
この程度で沈む相手ではない。
だが、それにしても技の消耗が早すぎる。
考えられる理由の一つは、相手が想像以上の化け物であること。
それは、おそらく当たっている。
だが、それだけではない。
もっと別の何かが絡んでいる。
この舞台。
この空気。
この異様な高揚感。
理恵は、薄々それを感じ取っていた。
「さあ、もう一度僕と踊ろうじゃないか!!」
バーミリオンがサーベルを構え、再び飛び込んでくる。
理恵は即座に双剣を交差させ、その一閃を受け流した。
だが、刃を交えるごとに、先ほどまで胸中にあった疑念が少しずつ薄れていく。
考えろ。
見極めろ。
この違和感の正体を掴め。
そう思っているはずなのに。
それ以上に、別の思考が理恵の内側で膨らんでいく。
――目の前の敵を討つ。
――この女を、斬る。
――徹底的に、叩き伏せる。
立華鉢頭摩鋏を握る理恵の手に、自然と力がこもった。
ほんのわずかな殺意。
だがそれは、甘い毒のように理恵の思考へ染み込み、少しずつ彼女の冷静さを冒していく。
舞台の上で、バーミリオンが笑う。
理恵はその笑みを見つめながら、さらに一歩、前へ踏み込んだ。
美しい二人芝居は、いつしか理性を削る死の舞踏へと変わり始めていた。
* * *
子ども部屋のように飾り立てられた、南方の間。
だが、その可愛らしさは、どこか決定的に歪んでいた。
色とりどりの壁紙。
大きなぬいぐるみ。
天井から吊るされた星形の飾り。
棚いっぱいに並べられた人形たち。
そのどれもが甘く、柔らかく、無邪気で――だからこそ、ひどく気味が悪い。
そんな異様な子ども部屋の中で、杏樹は完全に攻めあぐねていた。
「このっ!!」
杏樹はデガ喇叭を構え、泡の弾丸を放つ。
ぱん、ぱん、ぱんっ!!
弾けるように飛んだ泡弾が、一直線にシンシャへ向かう。
「わーい! 鬼さんこちら、手の鳴るほうへー!」
だが、シンシャはくるくると飛び跳ねながら、それを軽々と避けていく。
「待て!!」
逃げていくシンシャを追って、杏樹も駆け出した。
いつの間にか、空間は大きく歪んでいた。
部屋全体が、異様なほど巨大化している。
ベッドも、戸棚も、人形も、何もかもが杏樹たちよりずっと大きい。
まるで小人にでもなったかのように、二人は巨大な子ども部屋の中を駆け回っていた。
傍から見れば、ただの追いかけっこにしか見えないだろう。
だが、杏樹の胸中にそんな余裕はない。
(くっ……! こんなところで足止め喰らってる場合じゃないのに!!)
和泉は。
理恵は。
亜子は。
みんな無事なのか。
それとも、自分と同じように四天王と戦っているのか。
はっきりとは分からない。
だが、杏樹の鋭い感覚は、他の仲間たちもそれぞれ敵と相対していることを薄く察していた。
(きっと、みんなも戦ってる……)
だからこそ、自分だけがここで遊ばれているわけにはいかない。
「おーい! こっちだよー! べろべろばー!」
シンシャは後ろから追ってくる杏樹へ向け、わざとらしく舌を出して煽ってくる。
「もう! 馬鹿にして!!」
杏樹は再び泡連弾を放つ。
だが、シンシャはひょい、ひょい、と最小限の動きでそれを避けていく。
当たらない。
距離は詰めているはずなのに、まるで追いつけない。
攻撃しているはずなのに、いつの間にか相手の遊びに付き合わされている。
(ダメ! 相手のペースにはまっちゃ!!)
頭に血が上りそうになるのを、杏樹は必死に堪えた。
杏樹は、分かっていた。
自分に足りないものを。
力が劣っているとは思わない。
才能がないとも思わない。
実際、東京校にいた頃から、杏樹は周囲に期待される側の人間だった。
だが、それでも――。
和泉や理恵、亜子と比べた時、圧倒的に足りないものがある。
実戦経験。
この合同訓練でもそうだった。
他の三人が状況を見極め、冷静に役割を選んでいく中で、自分は置いていかれないように必死だった。
もちろん、仲間たちはそんなふうには思っていないだろう。
けれど、杏樹自身が一番よく分かっている。
(このままじゃ……また、居場所をなくしちゃう)
その弱気が胸の奥から顔を出しかけた瞬間、杏樹は足を止めた。
「落ち着け、加藤杏樹!!」
ぱんっ!!
両手で自分の頬を叩く。
痛みが、熱く頬に残る。
その痛みが、浮き上がりかけた不安を押し戻した。
「よし!!」
杏樹は顔を上げる。
もう、追いかけない。
もう、乗せられない。
「あれ~? もう追っかけてこないの?」
少し離れた場所で、シンシャがぶーぶーと頬を膨らませる。
「つまんない~」
だが、杏樹はもうその挑発には乗らなかった。
「当然!」
デガ喇叭を、まっすぐシンシャへ向ける。
「こっからは、わたしのターン!!」
「え~、それもう飽きたよ~」
シンシャはつまらなさそうに肩を落とす。
「どうせ、当たりっこないって」
「さーて、それはどうかな!!」
杏樹が放った泡弾が、まっすぐシンシャへ飛ぶ。
「むだだって」
シンシャは軽く身を翻し、それを避けた。
泡弾はそのまま背後の巨大なタンスへ直撃する。
普通なら、そこで弾けて終わりだ。
だが――。
「泡連弾は、泡」
杏樹が口元に笑みを浮かべる。
「その硬さも、弾み方も、わたし次第!!」
「え?」
タンスにぶつかった泡弾は弾けなかった。
ぐにゃり、と歪み、表面で一瞬潰れたかと思うと、次の瞬間――反発するように跳ね返った。
ばしんっ!!
「あいたっ!?」
跳ね返った泡弾が、シンシャの背中へ直撃する。
その隙を、杏樹は逃さない。
「まだまだ!!」
さらに放たれた泡弾が、壁、床、ベッドの脚、人形の山へ当たり、次々と角度を変えて跳ね回る。
「わ、わわわっ!?」
シンシャは慌てて身をよじる。
だが、逃げ道を塞ぐように、泡弾は次々と跳ね返ってくる。
「ちょ、ちょっと!!」
シンシャの声に、初めて余裕の色が消えた。
直撃寸前、彼女はポケットから一枚のクッキーを取り出す。
「えいっ!」
すると、そのクッキーは、ぼわん、と煙を上げて巨大化した。
まるで丸い盾のように膨れ上がったクッキーを、シンシャは両手で構える。
ばばばばっ!!
泡弾がクッキーの盾に次々とぶつかり、弾けていく。
「もう! あっぶないな~!!」
シンシャが抗議の声を上げる。
その時、彼女はようやく気づいた。
杏樹の姿が、正面から消えている。
「はっ!?」
シンシャが咄嗟に振り向く。
その背後には、すでに杏樹が回り込んでいた。
「さすがに――」
杏樹の瞳に、鋭い光が宿る。
「わたしを舐めすぎ!!」
「えい!!」
振り返りざま、シンシャは巨大なクッキーの盾を力いっぱい振るう。
だが、その瞬間。
「悪鬼転身――《篥歯》!!」
杏樹の肉体が、淡い光に包まれた。
次の瞬間、その背丈が一気に縮む。
細く、素早く、しなやかな小動物のような姿へと変じる。
「!?」
ぶんっ!!
大きく振られたクッキーの盾は、杏樹の頭上すれすれを空振りした。
完全に読みを外されたシンシャの目が、わずかに見開かれる。
「おりゃあああ!!」
杏樹が叫ぶ。
しなった大きな尻尾が、鞭のように唸った。
ばちんっ!!
シンシャの顔面へ、尻尾の一撃がまともに叩き込まれる。
「ひびッ!?」
素っ頓狂な声を上げ、シンシャの身体が勢いよく弾き飛ばされた。
ずぼっ!!
そのまま彼女は、大量の人形が積み上がった一角へ突っ込む。
衝撃で人形の縫い目が裂け、白い羽毛が一斉に舞い上がった。
ふわふわと舞い散る羽毛の中で、杏樹は着地する。
小さな身体のまま、デガ喇叭を構え直す。
「どう?」
杏樹は、息を弾ませながらも笑った。
「少しは、楽しくなってきたでしょ?」
ふわり、と舞い散る羽毛の中――。
人形の山が、もぞりと動いた。
裂けた布の切れ端と白い綿を押し分けるようにして、シンシャがゆっくりと身を起こす。
「……うん」
頬についた羽毛を、ぺたりと指で払う。
「すっごく、楽しくなってきた……!」
その声は、先ほどまでの拗ねたような甘さとは違っていた。
幼い。
無邪気。
それなのに、ぞっとするほど昏い。
シンシャは、にたりと笑う。
「だから――こっからは、本気でやってあげるよ!!」
きっと見開かれた瞳の奥に、濁った歓喜が灯る。
その視線が杏樹を捉えた瞬間、ぞわり、と背筋を這い上がるような悪寒が走った。
空気が変わった。
つい先ほどまでのそれが“遊び”だったのだと、杏樹は本能で理解する。
だが、杏樹ももう怯まない。
デガ喇叭を構えたまま、真っ直ぐシンシャを見据える。
「……上等」
短く吐き捨てるその声に、もう先ほどまでの焦りはなかった。
対するシンシャは、満足そうに口元を歪めると、両手いっぱいに抱えていた人型のジンジャークッキーを高く掲げた。
「さあ、おいで!」
甲高い声が、異様に広い子ども部屋へ響き渡る。
「お菓子の兵隊さんたち!!」
次の瞬間、シンシャがそれらを一斉に投げ放つ。
宙を舞う無数のジンジャークッキー。
それらは空中で、ぼんっ、ぼんっ、と煙を噴き上げ――。
みるみるうちに、人間大の兵隊へと膨れ上がった。
焼き色のついた胴。
砂糖で描かれた笑顔。
だが、その表情には生気がなく、虚ろなまま杏樹を囲んでいく。
甘ったるい匂いが、一気に濃くなる。
まるで菓子の国に迷い込んだかのような光景。
けれど、そこにあるのは夢や可愛らしさではない。
捕食者の悪意だけだ。
杏樹は、じり、と足を引いた。
前方にシンシャ。
その周囲を埋める、お菓子の兵隊たち。
逃げ場はない。
ならば――突破するしかない。
杏樹の瞳が、強く細められる。
その手の中で、デガ喇叭がきゅっと鳴いた。
こうして――。
加藤杏樹とシンシャ。
南方の間における第二ラウンドの幕が、切って落とされた。
* * *
鬼哭餓亂城、北方の間。
四方の壁を埋め尽くすように、巨大なモニターが立ち並んでいた。
青白い光。
砂嵐の映像。
意味をなさない文字列。
誰かの笑顔。
誰かの罵声。
そして、瞬きのたびに切り替わる、悪意に満ちた断片。
その異様な空間の中で、激しい閃光が幾度も迸っていた。
バリンッ!!
凄まじい音とともに、また一枚、モニターのガラスが砕け散る。
「もう何なの、あいつ!?」
シナバーが舌打ち混じりに吐き捨てる。
その背を追うように、亜子は絶え間なく光の弾丸を放ち続けていた。
顕現された機銃の銃口は、微動だにしない。
ただ正確に、ただ無慈悲に、逃げる標的へと向けられている。
バババババッ!!
光弾が空間を裂き、モニターを砕き、床を抉る。
「くそっ!!」
シナバーは跳び、転がり、身をひねる。
一瞬でも足を止めれば、そのまま蜂の巣にされる。
反撃の隙すら与えない猛攻。
戦局だけを見れば、亜子が圧倒しているように見えた。
だが――。
(何か、狙ってる……)
亜子の瞳は冷静だった。
これだけ撃ち込んでいる。
これだけ追い詰めている。
にもかかわらず、決め手となる一撃が入らない。
すべての弾丸が、あと紙一枚のところで躱されている。
あるいは、躱されるように誘導されている。
ただ逃げているわけではない。
この女は、逃げながら何かを仕込んでいる。
それに気づいていながら、亜子は攻撃の手を緩めなかった。
止まれば、相手にターンが回る。
そして一度でも相手の土俵に乗せられれば、一気に押し切られる。
それほどまでに、眼前の敵は危険だった。
「ふふ……でも、もう逃げるのは終了~♪」
不意に、シナバーが足を止めた。
その瞳が、にいっと歪む。
次の瞬間、砕け散っていたモニターのガラス片が、床からふわりと浮かび上がった。
「このモニターさあ、あたしのスマホと繋がってんだよね~」
シナバーが片手でスマホを掲げる。
画面をなぞる細い指。
その動きに合わせて、宙に浮いたガラス片がぎらぎらと光を反射した。
「こうやって指令を送れば、ちゃーんと言うこと聞いてくれるし」
砕けた画面の破片が、シナバーの周囲で輪を描く。
それはただの破片ではなかった。
彼女の支配下に置かれた、無数の刃だった。
「だから、何?」
亜子は表情一つ変えない。
そのまま銃口を向け、引き金を引いた。
バババッ!!
「へえ。攻撃しちゃうんだ」
シナバーの口元が吊り上がる。
「案外、度胸あんじゃん!!」
彼女が素早く画面をタップする。
瞬間、宙の破片が一斉に集まり、亜子の光弾を受け止める防壁となった。
光弾がガラスの壁へ叩き込まれる。
そして――。
バンッ!!
内包されたエネルギーが行き場を失い、ガラスの防壁ごと弾け飛んだ。
砕けた破片が、今度は亜子へ向かって散弾のように襲いかかる。
機銃を構えたままの今の姿勢では、完全には避けきれない。
シュッ、シュッ!!
鋭い破片が、亜子の頬を、腕を、脚を切り裂いた。
頬に走った一筋の傷から、赤い血が滴る。
「あ~あ、言わんこっちゃない」
シナバーは、勝ち誇ったように笑った。
「でも、これで分かったでしょ? あたしがサイキョウだってこと」
砕けた破片の一部は、確かにシナバーの方へも飛んでいた。
だが、それらは彼女のスマホ操作によって、空中でぴたりと静止している。
自分は傷つかない。
相手だけを傷つける。
その構図こそが、シナバーの支配だった。
「さあ~、もう観念し――」
言いかけたシナバーの声が、途中で止まる。
彼女は目の前の光景に、わずかに眉をひそめた。
「あんた、それ本気?」
亜子はまだ、銃身をシナバーへ向けていた。
頬から血を流しながら。
腕に傷を受けながら。
それでも、何事もなかったかのように。
「本気じゃなきゃ、何に見えるの?」
亜子の声は、どこまでも平坦だった。
その無機質な返答が、シナバーの感情を逆撫でする。
「はあ? やりたきゃやれば?」
シナバーの表情に苛立ちが滲む。
「でも、結果はさっきと同じ――」
ババババッ!!
亜子は構わず引き金を引いた。
再び放たれる光の弾丸。
シナバーは、一瞬だけ目を見開き、それから心底呆れたように唇を歪めた。
「あんた……正真正銘のバカでしょ」
だが、亜子の瞳は揺れない。
その弾丸がただの繰り返しではないことを、まだシナバーは知らなかった。
光弾を受けたガラス片が、再び無数に弾け飛ぶ。
鋭利な破片が、雨のように亜子へ襲いかかった。
シュッ、シュッ、シュッ!!
頬を裂く。
腕を裂く。
脚を裂く。
それでも亜子は、攻撃の手を止めなかった。
銃口は揺れない。
視線も逸れない。
ただ、目の前の敵だけを捉え続けている。
「マジで意味わかんないんだけど!」
シナバーの声に、苛立ちが混じる。
「もしかしてアンタ、死にたがりなの!?」
だが、亜子は答えない。
答える必要がなかった。
シナバーはまだ、気づいていない。
この絶え間ない猛攻に込められた、亜子の執念を。
ただ撃ち続けていたわけではない。
ただ傷つきながら突っ込んでいたわけでもない。
「……いくら弾き返しても」
亜子が、ぽつりと呟いた。
「破片には、あたしの光が残ってる」
「は?」
シナバーの眉がひそめられる。
宙を舞うガラス片。
その大半は亜子へ向かって飛んでいた。
だが、その中のいくつかは、まだ空中に残っている。
そして、それらの断面には、微かな光が宿っていた。
「放たれた光は、多少なら軌道を操れる」
亜子の瞳が、鋭く細められる。
「だから――」
次の瞬間。
宙を漂っていたガラス片のいくつかが、亜子の意志に従うように軌道を変えた。
シナバーの背後へ。
横腹へ。
死角へ。
ドスッ!
ドスッ!!
「ぐっ!? な、何っ!?」
跳ねた破片が、シナバーの身体へ突き刺さる。
肩。
脇腹。
太腿。
深くはない。
だが、確かに届いた。
「こうでもしなきゃ……」
亜子は血の流れる頬を拭いもせず、銃口を下ろさない。
「あなたに攻撃、当てられそうになかったし」
淡々とした声。
けれど、その奥には静かな熱があった。
「だから、押し通らせてもらった」
傷つきながらも、退かなかった。
損害を受けることも承知で、あえて攻撃を撃ち続けた。
自分の光を破片に残し、その破片すら弾丸へ変えるために。
それは、亜子らしい戦い方だった。
感情を叫ぶのではなく。
怒りを振り回すのでもなく。
ただ、勝つために必要な一手を、黙って積み上げる。
その意志が、シナバーへ突き刺さっていた。
「……クソが」
シナバーの瞳に、激しい憎悪の火が灯る。
口元が歪む。
奥歯が、ぎり、と音を立てた。
「なにそれ。ムカつく」
スマホを握る手に、ぎりぎりと力がこもる。
「涼しい顔して、痛いの我慢して、勝った気になってんじゃねえよ」
その声は、先ほどまでの軽薄な調子とは違っていた。
低く、濁っている。
「そういうのが一番――」
シナバーの周囲で、残ったモニターが一斉に点灯する。
青白い画面に、無数の文字列が走った。
罵声。
嘲笑。
悪意。
誰かを貶めるためだけの言葉。
それらが、画面いっぱいに溢れ出す。
「――うざいんだよ」
次の瞬間、シナバーの背後に浮かぶモニター群が、耳障りなノイズを撒き散らし始めた。
北方の間の空気が、さらに重く濁る。
亜子は無言で構え直す。
ようやく一撃は届いた。
だが、ここからが本番だと、彼女は分かっていた。
シナバーは、もう笑っていない。
その代わりに、画面の中の無数の悪意が、亜子を嘲笑っていた。
次回予告
四方の間で始まった、黒の部隊と四天王の戦い。
一撃を届かせた者。
違和感に気づき始めた者。
相手の遊びを断ち切ろうとする者。
そして、因縁の敵へ炎を叩きつける者。
だが、ここは鬼哭餓亂城。
悪意に満ちたこの城は、開現師たちの心と身体を静かに蝕んでいく。
次回、
第74話「四天王の本領」
四天王の力が、牙を剥く。




