第69話「深層の鴉」
その頃、笠井亮は自身の深層意識のさらに奥へと潜っていた。
目的はただ一つ。
自らの悪鬼“風鴉”と対峙すること。
一方、大江山の裏では、訓練の裏に潜んでいた不穏な影がついに姿を現し始める。
試験の舞台は、すでに“試験”だけの場ではなくなりつつあった――。
その頃――。
笠井の意識は、深層意識のさらに奥、自我と本能の境目へと沈んでいた。
もっとも、“沈む”とか“立つ”とかいう表現すら、今の彼には正確ではないのかもしれない。
いまの笠井に、現実と同じ意味での肉体はない。
表層意識の上に辛うじて築いていた幻想の器は、深く降りれば降りるほど輪郭を失い、膨らみ、歪み、いまや個体と液体のあわいにまで崩れかけていた。
まるで、深層の“圧”に押し潰されていくように。
常人なら、とうにここで自分を見失っている。
人は普通、そこまで自分の内側へ降りていかない。
降りる必要がないからだ。
表層の人格だけで、人は充分に生きていける。
わざわざ己の根源にまで手を伸ばし、「自分とは何か」などと覗き込む必要はない。
だが、笠井はそうもいかなかった。
己の半身と向き合うためだ。
悪鬼とは、宿主を映す鏡である。
だが同時に、最も遠い“もう一人の自分”でもある。
表層の人格と深層の人格は、本来なら背中合わせに支え合っているだけでいい。
わざわざ振り返り、向き合う必要などない。
だが、それが向こうからこちらを覗き返してくる時がある。
鬼夢。
肥大化した深層が、悪鬼という形で表層へ食い破ってくる現象。
普通の人間なら、そこで呑み込まれ、壊れる。
だが稀に、その深層を逆に押し鎮める者がいる。
それが開現師だ。
そして笠井は今、その深層へ、自ら降りている。
徳井太一との治療で、ようやくここまで辿り着いた。
痕跡を追い、気配を辿り、自己を擦り減らしながら、ようやくこの深度へと沈んできたのだ。
だが、ここから先は誰も連れて来られない。
これ以上は、“笠井亮”という人間そのものの領域だ。
他者が踏み込めば、境界は崩れ、己という形は瓦解する。
だから、ここから先は一人で行くしかない。
溶けかけた意識の海の中で、笠井はなお己を繋ぎ止める。
個を失うな。
輪郭を手放すな。
沈むな。
崩れるな。
呑まれるな。
そして――見つけた。
「やっと、見つけたぜ――風鴉」
深層と自我の境目。
笠井は、再び“己”を確立する。
揺らいでいた幻想の肉体に輪郭が走る。
滲んでいた意識が凝縮し、境界線を持った“個”として、再びその姿を取り戻す。
その先にいた。
三つ目を持つ、漆黒の鴉。
笠井の悪鬼――風鴉。
風鴉は、己の領域へ踏み込んできた来訪者を、敵意そのもののような眼差しで見下ろしていた。
ばさり、と翼が開く。
空間そのものを裂くような殺気が迸り、笠井の境界線をびりびりと震わせる。
ただの威嚇ではない。
ここから先へ一歩でも踏み込めば、食い殺すと告げる、剥き出しの本能だった。
だが――。
笠井は、その異変を見逃さなかった。
開かれた翼は、片方だけ。
もう一方の翼は、硬く閉ざされている。
そしてその閉じた翼には、羽根がほとんど残っていなかった。
無残に抜け落ち、痩せ細り、もはやまともに使い物になるとは思えない。
痛々しいまでの損壊。
それでも風鴉は、なお敵意を燃やしている。
片翼を失ってなお、己の領域へ踏み込んできた笠井を拒み、噛み殺そうとしている。
笠井は、ゆっくりと風塵鴉鎚を握り直した。
「……上等だ」
その声には、笑いすら混じっていた。
「さあ、荒療治だ」
次の瞬間、笠井は真っ直ぐに駆け出した。
迎え撃つ風鴉もまた、喉の奥から咆哮を轟かせる。
びり、と意識の海が裂ける。
深層が震え、自我が軋み、世界そのものが揺らいだ。
それでも笠井は止まらない。
片翼を失った半身へ。
壊れかけた己の裏側へ。
そして、再び立つために。
笠井亮は、己の悪鬼へと真正面から挑みかかった――。
* * *
黒の部隊が第二セクション“渡らずの川”を突破した、その頃。
他の参加者たちもまた、苦戦しながらこの難所へ挑んでいた。
だが、そんな者たちをよそに、舟へ乗ろうともせず、濃霧の中へ鋭い視線を走らせる一団がいた。
「手筈は?」
先頭に立つ男が、振り返りもせずに問う。
「は。順調に進んでおります。あとは合図を入れ次第、奴らが――」
最後まで聞かず、男は小さく頷いた。
それだけで十分だった。
部下たちが一斉に立ち上がる。
「良き夢があらんことを!!」
異様な祈りのような文句を叫ぶと同時に、彼らは散開し、濃霧の中へ溶けるように消えていった。
「良き夢があらんことを……」
男もまた低く呟き、懐へ忍ばせた携帯端末に手を伸ばす。
その瞬間だった。
「ぐわっ!?」
霧の向こうから、部下の悲鳴が響く。
「がっ!!」
「うっ!?」
次々に断末魔が上がった。
男の表情が変わる。
拳銃を抜き、周囲へ向ける。
白く濁った視界の中、わずかな空気の揺れすら見逃すまいと、全神経を尖らせた。
「もう遅いわ……」
女の声が、背後から聞こえた。
「がああああああ!!」
反射だった。
男は振り向きざま、拳銃を背後へ向けて引き金を引く。
バン――!!
白い世界を、乾いた銃声が裂いた。
だが、男は見ていた。
放たれた弾丸を、相手が一瞬で身を沈めて避けたことを。
その動きに遅れて、弾かれた髪が数本、霧の中をひらりと舞う。
圧縮された刹那の中で、男はようやく認識する。
眼下。
純白の隊服を纏った女。
その手に握られているのは、巨大な鋏。
次の思考へ移るより早く――
ざん。
銀の刃が、すでに振り抜かれていた。
「な、に――?」
世界がぐわんと傾ぐ。
後頭部へ衝撃が走り、膝が砕けたように崩れる。
その後に残ったのは、ただ白い霧だけだった。
「他の者も全員、捕らえました!」
一戦を終えた真理へ、隊員が駆け寄って報告する。
「ご苦労様です。こちらも片付きました」
真理は息一つ乱さず答えると、浅く呼吸を繰り返す男を見下ろした。
「さて」
鋏の切っ先が、男の喉元へ静かに向けられる。
「貴方方の狙いを、洗いざらい話していただけますか?」
男は、ただひぃ、ひぃと浅く呼吸を漏らすばかりだった。
だがやがて、絞り出すように声を出す。
「どうして……お前らが……ここに」
それに対し、真理は一切表情を変えなかった。
「貴方方がこの辺りを嗅ぎ回っていたことは、すでに把握済みです」
その声音は、氷のように平坦だった。
「追い回すより、直接会って話した方が早い。だから、試験の最中もあえて泳がせていたのです」
男が横へ視線を走らせる。
そこには、すでに制圧され拘束された部下たちの姿があった。
やがて男は視線を戻し、再び白い霧を見つめる。
「あまり手間をかけさせないでいただけますか?」
真理の口調は丁寧だった。
だが、その声色は凍てついた真冬のように冷たい。
「ふ……ふふ……」
すると男は、喉の奥で静かに笑い出した。
その笑みに、真理の目がわずかに細まる。
「皆さん、下がって――!!」
真理が叫んだ瞬間、
ドオオオオオオン!!!
男の身体が内側から破裂した。
「くッ!?」
真理は咄嗟に後方へ飛び、爆発の直撃を避ける。
だが、爆炎と土煙の向こうで他の隊員たちの安否までは確認できない。
その一瞬――。
真理の意識が、わずかに周囲へ逸れた。
それは、致命的な一瞬だった。
「――もう、遅い」
女の囁きが、背後から耳朶を撫でる。
ぞわり、と総毛立つ。
凄まじい殺気が、真理の身体を芯から貫いた。
真理は振り向くより先に鋏を構える。
ガンッ!!
重い衝撃が腕を痺れさせた。
直撃だけは避けた。
だが、受け止めた一撃の重さに、足元の小石が弾け飛ぶ。
見れば、赤い傘が眼前で止まっていた。
「あら、さすがね」
赤い傘を差した女が、ぞくりとするほど美しく、そしてひどく残酷な笑みを浮かべる。
次の瞬間、別方向から再び殺気が走る。
(――ほかにもまだ!?)
「せーの……ほい!!」
間延びした少女の声。
真理は反射的に横へ跳ぶ。
直後、河原が凄まじい力で穿たれ、小石が爆ぜるように飛び散った。
「あれ~? おかしいな~? ペッちゃんこになったと思ったのに~」
無邪気な声音。
だが、その場にもっとも似つかわしくない明るさが、かえって異常を際立たせていた。
「おやおや、シンシャ」
今度は、優男めいた声が響く。
「レディーにそんな乱暴をしちゃ、だめじゃないか」
声の主は男物の装いをしていた。
だが、その立ち姿の輪郭は、どう見ても女だった。
「さっさと終わらせようよ。めんどくさいし……」
さらにその後ろ、マスクをした少女がスマホを弄りながら、面倒そうに呟く。
真理は一瞬で理解する。
囲まれた。
意識が逸れたのは、ほんの一瞬。
にもかかわらず、その間に包囲されていた。
通常ではあり得ない。
(つまり――)
真理は、無数に飛び交う思考をそこで強制的に断ち切った。
(“常人”ではない)
目の前の四人へ意識を絞る。
赤い傘の女。
間延びした声の少女。
優男の貌をした女。
そして、スマホを弄るマスクの少女。
真理は鋏を正眼に構え直した。
呼吸を整える。
視線を研ぎ澄ます。
護衛でも、追跡でも、尋問でもない。
ここから先は、純粋な戦闘だ。
しかし、真理の闘志を嘲るように、赤い傘の女が笑う。
「何がおかしい?」
真理の問いに、女は嫌に艶めいた目で笑った。
「あら、ごめんなさい。やる気になってくれたのは嬉しいのだけれど――」
女の唇が、ゆっくりと吊り上がる。
「別に、私たちはあなたと戦う気なんてさらさらないのよ」
言い終えるより早く、真理は踏み込んだ。
一気に間合いを潰し、赤い傘の女の喉元を断つ。
そのつもりだった。
だが、砂利を強く踏み抜いた瞬間、足場が消えた。
「――!?」
突然の浮遊感。
気づいた時には、真理の立っていた地面そのものが円状に崩れ落ちていた。
足元の底には、ただひたすら暗黒が広がっている。
奈落。
真理は落ちながら、眼前の敵を睨んだ。
女たちは、笑っていた。
「おやおや、残念。美しいレディーと踊れないとは……」
「じゃあね~、バイバーイ!」
だが、真理の闘志は折れなかった。
落下する小石を足場にして蹴り上がる。
舞うように体勢を変え、鋏を振りかぶりながら再び上昇する。
「はあああああああ!!」
真理の気迫が、銀の鋏を震わせた。
「しつっこいな、もお~!」
マスクの少女が、迫り来る真理を見下ろしながら苛立ちを滲ませる。
そして、指先でマスクを外した。
その下から覗いた口には、鋭く鋭利な犬歯が無数に生え出ていた。
それらは唇や頬肉を内側から食い破るように突き出ている。
「――うせろよ、この“負け犬”が」
少女が吐き捨てた、その瞬間。
“負け犬”。
その言葉が真理の耳へ届いた時、彼女の瞳に弾けたのは、憎悪だった。
怒りが炎となって燃え上がり、真理の紫の瞳を赤く染め上げる。
「ああああああああああ!!」
真理の咆哮が、暗黒の底に木霊した。
だが、飛び掛かろうとしたその身体へ、見えない刃が突き刺さる。
これは比喩ではない。
実際に、少女が吐き捨てた言葉そのものが、刃となって真理の肉を貫いたのだ。
「――ッ!?」
一瞬、何が起きたのか真理自身も理解できなかった。
だが、敵の攻撃であることだけは本能で分かる。
全身に走る痛みとともに、真理は体勢を崩した。
再び、奈落へと落ちる。
だがその瞬間、彼女は最後の意地とばかりに蔓を放った。
伸びた蔓が、マスクの少女――シナバーの手首へ絡みつく。
「な!? うっざ!!」
シナバーは、羽虫でも払うようにそれを引き千切った。
「大丈夫かい、シナバー?」
男装の女――バーミリオンが、芝居がかった仕草で問いかける。
「うっさい! 勝手に話しかけんじゃねえよ、クソが!!」
シナバーは歯をがちがちと鳴らしながら、怒りに震えていた。
「よしなさいな、バーミリオン。それ以上、彼女を刺激しないで」
赤い傘の女――アカネが、二人を嗜める。
「僕は、ただ心配しただけなのにさ」
バーミリオンが髪をかき上げながら肩をすくめる。
「シンシャ、お腹すいた! もう帰ろうよ!!」
四人の中でもっとも幼く見える少女――シンシャが、頬を膨らませて抗議する。
「ええ、もう戻りましょう」
アカネが静かに答えた。
「私たちの“城”へ」
* * *
時を同じくして、無事に第二セクション“渡らずの川”を突破した和泉たちは、最後の関門へと挑んでいた。
第三セクションは、まさに一本道だった。
頂上に位置する荒れ寺まで、ひたすら真っ直ぐに伸びる石階段。
脇道も、遮蔽物もない。
ただ、長い長い石段だけが、闇の先へと続いている。
「最後の難所っていうから、どんなもんかと思ってたけど!」
杏樹が息を弾ませながら、軽快に階段を駆け上がる。
「これなら楽勝だね!」
「ええ。少々拍子抜けではありますが……」
その後ろを行く理恵も、どこか調子が上向いているらしく、その足取りは軽い。
亜子も黙ってはいるものの、以前に比べればだいぶ皆と呼吸が合うようになっていた。
少なくとも、いまこの四人の足並みは揃っている。
だが――。
浮き立つ三人とは裏腹に、和泉の胸中には言い知れぬ不安が渦巻いていた。
(何だ……?)
額を伝う汗を、和泉は拭うことすらしない。
(どうして、こんなに神経が逆立つ……)
それだけではない。
(それに――白影が、今にも暴れそうだ)
和泉は内側からせり上がってくる気配を、必死に押さえ込んでいた。
彼の悪鬼である白影が、先ほどから異様なまでに騒いでいる。
普段なら、和泉が意識を強く保っていれば抑え込める。
だが今は違った。
ほんのわずかでも気を抜けば、何かが決壊してしまいそうな危うさがある。
その不穏さは、一向に収まる気配を見せなかった。
そして、それは最後尾を走る大久保もまた同じだった。
(何かがおかしい……)
大久保は表情こそいつも通りに見せていたが、その意識は鋭く周囲を探っている。
(ここまで来て、何もないなんてことがあるのか?)
和泉ほど明確ではない。
だが、この空間全体に薄く滲む悪意のようなものに、大久保もまた敏感に反応していた。
ただ、それはあまりにも巧妙だった。
幾重にも覆い隠され、気配だけが薄く漂っている。
確かに“ある”のに、はっきりとは掴めない。
その曖昧さが、かえって不気味だった。
「おっ! ゴールが見えたんじゃない!?」
杏樹が声を上げる。
その言葉通り、石段の上方には最終地点である荒れ寺の影が見えていた。
朽ちかけた門。崩れた屋根。
それでも確かに、そこが終点であると分かるだけの存在感がある。
「よし! 一気に行っちゃおう!!」
杏樹の掛け声を合図に、黒の部隊は最後の石段を一気に駆け上がった。
そして――合同訓練の最終地点へ辿り着く。
だが。
そこには、何もなかった。
荒れ寺。
朽ちた石灯籠。
風に鳴る枯れ草。
それだけだ。
「最終地点だってのに……何にもないんだけど」
杏樹が周囲を見回しながら、あからさまに顔をしかめる。
確かに、ゴールの証もなければ、試験官の姿すらない。
訓練の終着点であるはずの場所が、あまりにも静かすぎた。
「何か……様子がおかしいですね」
理恵の声音が、わずかに張る。
「梓、何かありましたか?」
すぐさま慧珠へ呼びかける。
だが――返事がない。
理恵の表情が強張る。
「……だめ。応答がありません!」
花奈にも、梓にも繋がらない。
それどころか、いつもなら近くに感じられるはずの慧珠の気配そのものが、妙に薄い。
「みんな、構えた方がいい」
亜子が低く言った。
その一言で、他の三人も悟る。
異変は、もう始まっている。
荒れ寺の片隅。
崩れた塀の陰。
朽ちた本堂の暗がり。
そこから、ぞろぞろと“鬼”が姿を現し始めた。
人の形をどこか留めながらも、明らかに人ならざる異形。
濁った眼。裂けた口。歪んだ角。
一体、二体ではない。次から次へと、まるで最初からそこに潜んでいたかのように、闇の中から現れてくる。
さきほどまでの静けさが嘘だったかのように、場の空気が一変する。
杏樹が息を呑んだ。
「これ――」
その声には、もう先ほどまでの軽さはなかった。
「訓練ってわけじゃないよね」
次回予告
第三セクションへ辿り着いた黒の部隊。
ついに終点かと思われたその時、荒れ寺に現れたのは、訓練用ではない“本物”の悪鬼だった。
暴走する白影。
暗躍する四天王。
そして、大江山そのものを巻き込む異変。
物語はここで、一気に牙を剥く。
次回、第70話「鬼哭餓亂城、開城」。




