表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢幻開現師 ―夢の守り人―  作者: ks21
第八章:鬼哭餓亂城・開城編
69/71

第65話「指導官代理」

 合同訓練への参加を決めた黒の部隊。


 だが、療養中の笠井に代わり、彼らを率いる者が必要だった。


 そこで大塚が紹介したのは、徳井の一番弟子にして、笠井とも縁のある開現師――大久保淳。


 けれど、その第一印象は、あまりにも強烈で……?

 和泉たち一行は、大塚からの紹介を受け、とある人物のもとへ向かうことになった。


 大塚は、和泉に一通の封筒を手渡す。


「笠井先生の代役、ですか?」


「ああ。本当なら私があんたらの指導官を務めるのが筋なんだが……正直、私も長いこと現場を離れてたからね。そこで笠井が、先に手を打っておいてくれたのさ」


 他の面々の視線が集まる中、和泉は封筒の中身を取り出した。

 入っていたのは、一通の紹介状だった。


「大久保……淳」


 書かれた名前を見た瞬間、和泉ははっと顔を上げる。


「ああ、徳井先生のところの!」


「とっきー、知り合いなの?」


 杏樹が不思議そうに首を傾げる。


「ああ。徳井先生っていうカウンセラーがいるんだけど、その人のお弟子さんだよ」


「あ~、淳さんか~」


 その名を聞いて、事務仕事をしていた七瀬 花奈(ななせ かな)もぴくりと反応した。


「花奈さんもお知り合いなのですか?」


 理恵の問いに、花奈は少しだけ気まずそうに頷く。


「ま~、知ってるっちゃ知ってるけど……う~ん、淳さんか~」


 その歯切れの悪さに、和泉もまた何とも言えない顔になる。


「何やら、訳ありの方なのでしょうか?」


 理恵の傍らに控える藤本 梓(ふじもと あずさ)が、鋭い目を向けた。


「いや、別に悪い人ってわけじゃないんだけど……」


「何だか、とっても歯切れが悪い」


 和泉の返答に、亜子が容赦なく切り捨てる。


「花奈さんも、どうなんですか!?」


「い、いや~、会ってみたら分かるんじゃないかな~。うん、そう、会ってみたら分かるよ!」


 杏樹に詰め寄られた花奈は、半ば開き直ったようにそう言った。


 そうして彼らは、『大久保 淳』なる人物のもとへ向かうことになった。


「でも、その徳井っていう人、カウンセリングの先生なんでしょ? なんでそのお弟子さんが、わたしたちの指導官に?」


 歩きながら、杏樹がもっともな疑問を口にする。


「ああ。徳井先生は今でこそカウンセラーをしてるけど、その前は開現師だったらしいんだ。俺が知り合った頃には、もう現役を退いてたけどね」


「う~ん、そんな人の弟子で、ちゃんとわたしたちの指導官が務まるのかな~」


 杏樹の疑いの目は、まだ晴れない。


「ま、まあ、淳さんは今も現役の開現師だし、その昔は笠井さんとチームを組んでたから、それなりに優秀だとは思うんだけど……」


 花奈が必死に取り繕うものの、やはり言い切れない。


「さっきから二人とも、なんか濁してる」


 亜子のじとっとした視線が、前を歩く和泉と花奈に向けられる。


「いや、本当に悪い人じゃないんだ。ちょっと変わってるだけで……」


「そ、そう! いい人だよ、いい人なんだけど……」


 二人は揃ってしどろもどろになる。


「困りましたわ。お二人がこうも要領を得ませんと、失礼ながら少し不安になります」


 理恵が端正な顔に、わずかに困惑を滲ませた。


「そのような得体の知れない人物に、お嬢様を会わせるわけにはいきませんよ?」


 梓の鋭い眼光が走る。


「いや、本当に大丈夫だから! ちょっと変わった人ってだけで!」


「う、うん! それは私も保証するから……ね、梓さん、そんなに怖い顔しないで」


 そんなやり取りを続けているうちに、彼らはいつの間にか件の人物がいる場所へと辿り着いていた。


 そこは、小さな診療所だった。


 徳井は主に菩提府が運営する総合病院などでカウンセリングを行っているが、ときにはこの診療所で一般の患者を診たり、資料をまとめたりすることもある。

 大久保淳がいるのは、そんな場所だった。


「ま、とにかく、直接本人に会ってもらえば分かるさ……」


 そう言って、和泉はインターフォンを鳴らした。


 ……。


 応答はない。


「あれ? おかしいな」


 もう一度押してみる。

 しかし、中で音が鳴っている気配すらなかった。


「あの~、すみませ~ん! 大塚探偵事務所の者ですが、大久保淳さんはいらっしゃいますか~?」


 花奈が扉を軽く叩きながら声を張る。

 だが、やはり返事はない。


「場所、間違ったんじゃないの?」


 杏樹が訝しげに眉をひそめる。


「おっかしいなあ、ここのはずなんだけど……」


 和泉がそう呟きつつ、試しに扉へ手をかけた、その時だった。


 がちゃり。


「あっ」


 鍵は、かかっていなかった。


 わずかに開いた扉を、和泉がそっと引く。

 すると次の瞬間――


 どさどさどさどさっ!!


「ああああああああっ!?」

「ええええええええっ!?」


 扉の裏に積み上がっていたらしい大量の書類や紙束が、一気に雪崩れ落ちてきた。

 まともにそれを浴びた和泉と杏樹の姿が、一瞬で白い紙の山に呑まれる。


「ちょ、ちょっと、大丈夫!? 二人とも!!」


 花奈が慌てて駆け寄る。


 やがて、紙の中からどうにか和泉が這い出てきた。

 だが、その隣では杏樹が完全に魂の抜けた顔で膝をついている。


「な、何これ……」

「う、うぷ……」


「おい、杏樹!? しっかりしろ!!」


 混乱する一行をよそに、亜子だけは冷静に半開きの扉の向こうを覗き込んでいた。


「あの~、誰かいませんかー?」


 亜子の声が、薄暗い廊下の奥へと吸い込まれていく。


 すると、しばしの間を置いて――奥の方から、のんびりした声が返ってきた。


「んー? 誰か来たー?」


 ごそ、ごと、と何かをどかす音が響く。

 廊下の奥にも段ボールや書類の山が積み上がっているらしく、現れた人影はなかなか全貌を見せない。


「花奈さん、誰かいるみたいですよ」


「あこっち、ありがとう! あの~、大塚探偵事務所の七瀬です! 大久保淳さんはいらっしゃいますかー!?」


 その声を聞いた途端、奥の人物の動きが少し早くなった。


「おお~、花奈ちゃんか~。久しぶり~」


 ようやく玄関先に姿を現した男を見て、一同は揃って言葉を失う。


 ぼさぼさに伸びた髪。

 羽織っている白衣は、もとは白かったのだろうが、今はすっかりくたびれて灰色がかっている。

 首には年季の入った大きなヘッドホン。

 その顔には人懐っこい笑みが浮かんでいたが、どうにも生活感が隠しきれていない。


「いやあ、ごめんごめん。音楽聴きながら作業してたら、全然気づかなくてさ」


 悪びれた様子もなく笑う男。


 そのあまりにも予想外な姿に、


「お、お嬢様!? お気を確かに!!」


 梓が悲鳴を上げる。


 理恵はというと、あまりにも自分の常識とかけ離れた光景を前に、その場でふらりと身体を揺らし――


「り、理恵!?」

「お嬢様あああああっ!!」


 立ったまま気を失いかけていた。


「うげえええええ……」

「おい、杏樹まで落ちるな!!」


 玄関前は、もはや阿鼻叫喚である。


「ありゃりゃ。みんな元気だねえ」


 そんな惨状を前にしても、男はどこまでものんびりと笑っていた。


 だが、その直後。


「――あ、そっちの紙束、踏まないでね。左端のは今朝まとめた症例記録だから」


 男は何気ない口調でそう言った。


 散乱した紙の山を見もせずに告げられたその一言に、和泉だけがわずかに眉を動かす。


 この人、全部把握しているのか――?


 そんな違和感が胸をよぎる。

 だが、それを確かめる間もなく、


「いいから! 淳さんはまず一回、身体洗ってきてください!!」


 花奈の怒声が、診療所いっぱいに響き渡った。


 ぽかんとした顔で頭を掻く男。

 このぼさぼさ頭の男こそ、大久保 淳(おおくぼ じゅん)――笠井に代わり、黒の部隊を導くことになる新たな指導官、その人であった。


     * * *


「いや~、ごめんね。待たせちゃって」


 あの後、大久保はようやく一通りの身支度を済ませ、和泉と花奈を診療所の奥へ通した。


 結局、その場に残ったのは二人だけだった。

 理恵と杏樹はすっかり参ってしまい、梓が付き添って先に帰ることになった。亜子に至っては「汚いから嫌」と一言だけ残し、さっさと踵を返してしまったのである。


 案内されたのは応接間らしき一室だった。

 向かい合うようにソファーと机は置かれている。置かれてはいるのだが、その周囲は段ボール、書籍、紙資料の山に侵食され、応接間というよりは資料置き場の一角に無理やり応接スペースをねじ込んだような有様だった。


「それにしても、百希夜君も久しぶりだねえ。前に会ってから……もう半年くらい経つかな?」


「そうですね」


 和泉は苦笑混じりに頷く。


「淳さんも、相変わらず忙しそうですね」


「ああ、これかい?」


 大久保はぼさぼさの髪をぼりぼり掻きながら、机の上の資料束を軽く持ち上げた。


「先生に出す資料の締め切りが今日まででさ。つい夢中になっちゃって」


 大久保の言う“先生”とは、徳井 太一(とくい たいち)のことだ。

 菩提府所属のカウンセラーであり、かつては優秀な開現師でもあった人物。今は和泉の師である笠井の治療にも当たっている。


「亮さんは……それほど容態が悪いんですか?」


 花奈が声の調子を少し落として尋ねた。


 笠井本人の意向もあり、和泉たちは大塚から詳しい病状を聞かされていない。だからこそ、その問いには自然と重みが宿る。


「大丈夫さ。先生もついてるしね」


 大久保は手元の資料に視線を落としたまま答えた。


「詳しいことまでは俺にも分からないけど……今まとめてる経過を見る限り、もう治療の山場は越えてる。たぶん、今はリハビリの段階に入ってるんじゃないかな」


 それを聞いて、花奈は小さく安堵の息を漏らした。

 和泉もまた、胸の奥に張りつめていたものが少しだけ緩むのを感じる。


 大久保 淳(おおくぼ じゅん)――。

 和泉がこの男と初めて会ったのは、半年ほど前。笠井の紹介で徳井のカウンセリングを受けた時だった。


 師である笠井と大久保は、かつて共に任務をこなした間柄だ。

 笠井が信頼を寄せている時点で、その実力に疑いはない。徳井の一番弟子であり、現役の開現師でもある。肩書きだけ見れば申し分のない人物だ。


 ――肩書きだけ見れば、だが。


 和泉の知る限り、大久保淳という人間には一つ、大きな難点があった。


 この人は、びっくりするほど大雑把なのだ。


 もちろん、それは悪意のある雑さではない。

 むしろ物腰は柔らかく、誰に対しても気さくで、初対面の相手にも妙な壁を作らない。人当たりだけでいえば、かなりいい部類に入るだろう。


 ただし、一つのことに集中し始めると話は別だ。

 目の前の作業に意識が向いた瞬間、周囲がごっそり抜け落ちる。そして厄介なことに、本人はだいたい無自覚である。惨状を指摘されて初めて、「ああ、そうだった」と気づく――そういう種類の人間だった。


 目の前の応接間も、その性格を実に雄弁に物語っている。


 師である徳井の苦労が、少しばかり察せられた。


 もっとも、と和泉は思う。

 それでも笠井がこの男を自分たちの代役に選んだのなら、少なくとも腕と中身は信用しているのだろう。


 散らかり放題の机の向こうで、大久保は相変わらずのんびりと笑っている。

 だが、その緩さの奥にあるものを、和泉は一度だけ見たことがあった。だからこそ、完全に笑い飛ばすこともできなかった。


「……と、それよりも」


 花奈が場を整えるように、こほんと一つ咳払いをした。


「今回の要件に戻りましょう」


 そうして花奈は、今回和泉たちが大久保のもとを訪ねた理由を、改めて順を追って説明した。


「おお、そうだったそうだった」


 大久保はぽんと手を打つ。


「確かに笠井さんから依頼、来てた来てた」


 そう言うなり、彼はまたしても机や床に積み上がった資料の山――もはや山というより、紙と段ボールで出来た地層のようなそれ――へ腕を突っ込んだ。


「あった、あった!」


 数秒後。

 彼が引っ張り出したのは、端の少し潰れた茶封筒だった。


「……よく、この中から見つけられましたね」


 和泉が半ば呆れ、半ば感心したように言うと、大久保はなぜか得意げに胸を張る。


「まあ、見た目は散らかってるように見えるかもしれないけど、どこに何があるかはちゃんと把握してるからね」


「いや、別に褒めてるわけじゃないでしょ」


 花奈が即座に切り返す。


 だが大久保はまるで堪えた様子もなく、けろりと笑った。


「悪い悪い。とにかく、君たちの指導官代理の件は了解したよ」


「では、これから事務所に戻って、今後のことを――」


 花奈が話を進めようとした、その時だった。


「うーん……」


 大久保が急に困ったような顔をし始める。


「どうかしましたか?」


「いやあ、さっきも言ったと思うんだけど……徳井先生に提出する資料の締め切り、今日までなんだよね」


 気まずそうに頬を掻く大久保を見て、花奈はあからさまに深いため息をついた。


「あまり先輩相手にこんなことは言いたくないんですが……どうしていつも期限ぎりぎりまで放っておくんですか?」


「いや、別にわざとじゃないんだよ? ただ、よしやるぞって思った時に限って、別のことが気になっちゃってさあ」


 まるで悪びれもせずに言ってのけた後、大久保はぱっと両手を合わせた。


「頼む! 代理の件、ちゃんと引き受けるからさ。資料まとめるの、ちょっと手伝って!」


 その答えに、花奈はさらに大きく息を吐き、ついには目を閉じた。


「ああ、もう……分かりましたよ。このままじゃ何も進みませんしね」


「ははは~、花奈ちゃん助かる~」


 大久保がへらりと笑うと、花奈がぴしりと鋭い視線を向ける。


「ただし! 今回だけですからね!!」


「う、うっす」


 さしもの大久保も、その迫力には逆らえなかったらしい。

 背筋をぴんと伸ばして素直に頷く。


「それと、悪いけど和泉くんも付き合ってくれる?」


「え、俺も?」


「人手、多い方が早いでしょ」


「……う、うっす」


 こうして和泉は、半ば巻き込まれる形で、大久保が溜めに溜めた仕事の尻拭いを手伝う羽目になったのだった。


     * * *


 それから数時間後――。


「よっしゃー! 終わったー!」


 最後の資料を束ね終えた大久保が、椅子ごと背もたれへひっくり返る勢いで両手を上げる。


「これで先生に送れる! ありがとう、花奈ちゃん、百希夜君!」


 満面の笑みのまま、大久保は勢いよく和泉の手を掴んだ。


「いや、終わってませんからね」


 花奈は即座に釘を刺す。


「この資料を今日中に徳井さんへ渡せるよう、今から他のスタッフにも連絡を回します。だから淳さんは、今すぐこれを持って出てください」


 そう言って花奈は、まとめ上げた資料の束をずいと大久保へ押しつけた。


「七瀬さんはどうするんですか?」


 和泉が尋ねると、花奈は額に手を当て、疲れたように苦笑する。


「ごめんね。私はこのまま事務所へ戻って、こっちの手続きも済ませたいの。だから、あとのこと――和泉くんにお願いしてもいい?」


「まあ、別に構いませんけど……」


 そう答えた和泉に、花奈は玄関へ向かいかけて、もう一度だけ振り返った。


 その視線は、和泉ではなく大久保に向いている。


「和泉くん。必ず、あの人を送り届けてね」


「う、うっす」


「ちょっと、花奈ちゃん。その言い方だと僕が一人で行けない人みたいじゃないか」


「みたい、じゃなくて、そうなんです」


 ぴしゃりと言い切ると、花奈はそのまま足早に診療所を後にした。


 ぱたん、と扉が閉まる。


 残された和泉が、隣に立つ大久保へ視線を向けると――当の本人は、さっそく玄関とは反対側を向いていた。


「いや~、でもまだ少し時間あるし、せっかくだから一息入れようか。こう見えても、僕の淹れるコーヒーけっこう評判いいんだよ。先生も笠井さんも――」


 その言葉が最後まで続くことはなかった。


 がしっ。


 和泉の手が、大久保の肩を掴んだからだ。


 力そのものは強くない。

 だが、その手に込められた圧だけで、大久保の背筋にひやりとしたものが走る。


「……何言ってるんですか」


 和泉は静かに言った。


「やること、やりましょうよ。大人なんですから」


 一瞬、診療所の空気がしんと止まる。


 大久保はゆっくりと振り返り、それから観念したように肩を落とした。


「……う、うっす」


     * * *


「いや~、百希夜くんと花奈ちゃんたちは僕にとっての救世主だよ、まったく!」


「はあ」


 資料をスタッフへ渡し、上機嫌な大久保が高らかに笑う。


 何か一言言いたいような気がしたが、しかし、不思議なことにこの大久保という人物のこのあっけらかんとした態度を見ていると、そういった気分がまるで穴の開いた風船のようにどんどん抜けてしまうのだ。


 二人は診療所へ帰る道の途中、大久保の提案で少し歩こうということで近くの河川敷の土手を歩いていた。


「ここ、きれいだと思わない?」


 立ち止まった大久保が河川の方へ眼を向ける。


 確かに、彼の言う通り夕日に照らされた水面が黄金色に輝き、キラキラと光っていた。

 そして、それを背に幾人もの人々が自分たちの人生を生きている。


「そう、ですね」


 和泉の胸中には何か言い表すことの出来ない感情の波紋が広がっていく。


 いや、それはもっと小さなさざ波のように、意識しなければ気付かないほどのものだ。

 だが、意識するとささくれのように、妙に気になってしまう。


 そんな和泉の内の微細な変化を、大久保は見逃さなかった。


「何かあった?」


 それはさりげなく、何の飾り気もない言葉だった。


 しかし、和泉の中でその問いは、その小さな違和感へ向き合う入口となった。


「まあ、あったと言えばありましたし……なかったと言われたら、なかったんでしょうね」


 和泉の心の奥には、ほんの数週間前に出会った一人の女性のことが凝り固まっていた。


「ふ~ん、何か複雑な感じだね」


「いや、別にそんな特別なことじゃなくて……その人とは、その時だけの出会いだったんです」


 和泉が語る通り、彼女――澪音という女性との出会いは、ほんの僅かな時であった。


 知り合いというには、あまりにも短すぎる。

 だが、赤の他人だと言い切るには、何かが残りすぎている。


「淳さんは、自分の決めたことが間違っていたと思うことってありますか?」


 和泉は、自分の昇華しきれない感情を隠すかのように、大久保へ問う。


「あるね~」


 大久保は、少し気まずそうに笑った。


「まあ、僕みたいな人間は大なり小なり、そういう失敗は山ほどあるさ」


「例えば、それが……誰かの運命を変えるようなことでも、ですか?」


 その言葉に、大久保はふと考えるように黙り込んだ。


 やがて、静かに口を開く。


「百希夜くんはさ、どうして開現師になろうと思ったの?」


「自分が、ですか……」


 和泉の中で、かつての記憶の扉が開きかける。


 それと同時に、彼の内なる悪鬼が、その業火を燃やさんとした――


 ぽん。


 大久保の手が、和泉の肩へ乗った。


 その瞬間、不思議なほど自然に、その熱は引いていた。


「俺はさ、別に大した夢なんて持ってなかったんだよね」


 大久保は、夕焼けを眺めながら笑う。


「ほら、学校でよく聞かれたじゃない? “将来、何になりたいですか?”って」


「ああ……ありましたね」


「あれ、すっごく苦手でさ。毎回言うこと変わるんだな~、これが」


「はは、分かります。俺もそうでしたし」


「だよね~!」


 和泉は不思議な感覚に見舞われていた。


 彼には、兄というものはいない。

 笠井もいるにはいるが、兄というよりはやはり師という方がしっくりくる。


 また、他の大人たちも自分には少し大きすぎる存在だった。


 それが、不思議とこの大久保という人物にはない。

 あまりにも自然体で、人間臭いのだ。


「そんな時にさ、開現師の才能があるって分かった時には、それはもう嬉しかったよ~。友達に、これでもかってぐらい自慢したし」


 大久保は少し恥ずかしそうに頭をぼりぼり掻く。

 どうやら、それが彼の癖らしい。


「でも、なってみてびっくり。仕事はきついわ、命の危険はあるわ、それに――」


 そこで、大久保はほんの少しだけ間を置いた。


「それに、俺たちの決断で誰かが死ぬことだってある」


 “死”。


 その言葉が、この朗らかさの塊みたいな男の口から出たことに、和泉は少し驚いた。


「俺の先生もさ、いろんな現場を見てきて……その中で、たくさんやるせない気持ちを味わってきたんだ」


 大久保の視線は、河川の向こうの街並みへ向いていた。


「だから先生は、少しでもみんなの枷を減らせるようにって、カウンセリングの道へ進んだんだよ」


 そう言ってから、大久保はゆっくりと和泉へ向き直る。


「でね、先生がいつも言ってることがある」


「いつも言っていること?」


 大久保は力強く頷いた。


「“若人が若人らしく、青春を送れる”。そんな当たり前を取り戻したいって」


 真っ直ぐな視線だった。

 飾り気のない、だが嘘のない眼差し。


「君の抱えてるものがどれほど重いかなんて、俺には分からない。

 でも、これだけは言わせてほしい」


 大久保はぐっと拳を握る。


「君を、君たちを守らせてほしい。俺、頑張るからさ!!」


 その声は熱く、どこか不器用で、あまりにも真っ直ぐだった。


 和泉は、少しだけ笑った。


「ええ。お願いします。隊長代理」


 そして、自分の拳を、大久保の拳へ軽くぶつけた。


 頭上では、鉄橋を走る列車の音が、長く響いていた。

次回予告


 いよいよ幕を開ける合同訓練当日。


 各地から集う若き開現師たち。

 東京校の“新星”大明寺レイカ。

 そして、聖斂隊の女性隊員・真理。


 様々な思惑が交差する中、和泉たちはついに疑似鬼夢『夢檻三道』へ挑む。


 次回、第66話「夢檻三道」。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ