第64話「芽吹く不穏」
突如、菩提府から黒の部隊へ届いた合同訓練の通達――。
京都・大江山で行われるその訓練は、ただの実地演習ではなく、若き開現師たちの実力を見定める“試験”でもあった。
だがその頃、大江山ではすでに、不穏な怪異が静かに芽吹き始めていて……。
八月が終わり、季節は九月へと移ろっていた。
それでも、夏の暑さはいまだ衰えを知らない。
少し歩くだけで、頭上から容赦なく降り注ぐ陽射しに汗が噴き出す。
だが、あれほど喧しかった蝉の声は、いつしか止んでいた。
残暑はなお山にこもっている。
それでも、季節だけは確かに次へ進み始めていた。
そんな、夏と秋の狭間の頃だった。
京都・大江山。
その中腹を、四人の男たちが黙々と歩いていた。
厳しい暑さの中でも、彼らは肌の露出を抑えた登山服に身を包み、それぞれ大きなリュックを背負っている。
中には、万が一に備えた食料と飲料。
足元の分厚い登山靴が、でこぼことした山道を踏みしめるたび、鈍い重みを返していた。
四人の先頭を歩くのは、須山。
今年二十四歳になる社会人だ。
後ろに続く三人は、大学時代をともに過ごした登山サークルの仲間だった。
社会人二年目。
一年目は仕事を覚えるだけで精一杯で、とても山へ行く余裕などなかった。
だが二年目に入り、ようやく少しだけ息をつく余裕ができた。
それは、他の三人も同じだった。
九月の連休に、久しぶりに山へ登ろう。
そんな話が持ち上がったのは、ごく自然な流れだった。
学生時代と変わらぬ顔ぶれで山へ入れる。
それだけのことが、思っていた以上に嬉しかった。
今回の幹事を務める須山は、なおさらだった。
野郎ばかりの再会に、こんなにも胸が弾むとは。
学生の頃には、想像もしなかったことだ。
須山は小さく笑い、後ろを振り返った。
「少し休むか?」
「あ~、助かる……。さすがに暑すぎるわ」
後ろを歩いていた節田が、肩で息をしながら答えた。
「お前さあ、社会人になってから露骨に体力落ちたよな」
佐藤が笑う。
「うるせえ。お前みたいに営業で外回りしてる奴と一緒にすんなよ」
「いやいや、俺も今日は結構きてるって……」
横尾も苦笑して汗を拭った。
四人は木陰になっている場所を見つけ、荷を下ろす。
途端に、山の空気がひやりと肌へ触れた。
「それにしても、久々だな。こうやってみんなで来るの」
須山がペットボトルの水を口へ含みながら言う。
「ああ。なんか、学生ん時に戻ったみたいだわ」
「戻りたくはねえけどな。単位のこと思い出すし」
「それ言うなら就活もだろ」
取り留めもない会話だった。
だが、その取り留めのなさが心地よかった。
誰もが一度、山の上の空を見上げる。
青い。
どこまでも、青い。
けれどその時だった。
須山は、耳元を何かが掠めるような気がして、ふと眉をひそめた。
「……ん?」
「どうした?」
「いや、今……誰か、何か言わなかったか?」
三人が怪訝そうに顔を見合わせる。
「言ってないけど」
「お前、疲れてんじゃねえの?」
「いや……」
須山は首を横に振る。
空耳。
そう片付けるには、あまりにも生々しかった。
誰かが、耳元で囁いたような――。
「なあ、さっきからさ」
今度は横尾が口を開いた。
「なんか……変じゃない?」
「変?」
「ほら、山ってもっと音がしなかったっけ」
そう言われ、三人も改めて周囲へ耳を澄ませる。
風は吹いている。
枝葉も揺れている。
だが――音が、妙に薄い。
本来なら聞こえるはずの鳥の声も、虫の声も、どこか遠い。
山そのものが、息を潜めているようだった。
「……気のせいだろ」
節田が無理やり笑う。
「おいおい、怖い話やめろって」
佐藤も笑おうとする。
だが、その笑いは少し硬かった。
その時。
すう、と。
須山の首筋を、冷たいものが撫でた。
反射的に振り返る。
誰もいない。
なのに、確かにいた。
その感覚だけが、背筋へ釘のように残る。
「なあ……もう下りるか?」
横尾が言った。
「何か、嫌だ」
その言葉に、三人もすぐには反論できなかった。
だが、そうと決めて荷を背負い直した瞬間だった。
囁きが、した。
今度は一つではない。
複数。
どこからともなく。
四方から。
ひそ、ひそ、ひそ、ひそ――。
「おい……!」
須山が叫ぶ。
「お前ら、今の聞いたよな!?」
誰も答えない。
いや、答えられない。
四人とも、すでに顔から血の気が引いていたからだ。
ざわり、と山の空気が波打つ。
次の瞬間、地面のあちこちから、白い手が突き出した。
「うわっ!?」
「なんだこれ!!」
「は、離れろ!!」
無数の白い腕。
土を割り、草を押し退け、死人のような手が四人の足首を掴もうと伸びてくる。
須山は必死にそれを蹴り払う。
だが、一本を退けても、また別の一本が地面から這い出してくる。
その時だった。
山の奥。
木々の隙間のさらに向こう。
黒い霧が、ゆっくりと立ち昇り始めた。
いや、霧ではない。
それは門だった。
巨大な、禍々しい門。
まるで山肌そのものを裂いて生えてきたような、異形の城門が、黒い靄とともにその姿を現していた。
「な、なんだよ……あれ……」
節田が呆然と呟く。
誰も動けなかった。
門の前に、立っていたからだ。
四人の女が。
美しい。
あまりにも、美しい。
年齢も、装いも、纏う気配も違う。
だが、四人とも人離れした美貌だけは共通していた。
その中心で、赤い傘を持った女が、くすりと笑う。
「ようこそ」
その声は甘く、なのにひどく冷たい。
「歓迎するわ。私たちの城の、お客様」
次の瞬間――門の向こうから、巨大な“腕”が伸びた。
鬼の腕だった。
人の何倍もある異形の腕が、門の中からぬう、と現れ、そのまま四人へ覆い被さるように降ってくる。
「逃げ――」
須山の言葉は、最後まで続かなかった。
視界が黒く塗り潰される。
悲鳴が響く。
腕が地を砕く。
白い手が絡みつく。
女たちが笑う。
そして、大江山の中腹から、四人は跡形もなく消えた。
山には、再び静けさだけが戻ってくる。
まるで最初から、誰もいなかったかのように。
* * *
大江山で怪異が起こっていた、ちょうどその頃だった。
大塚探偵事務所には、和泉 百希夜、來瀬川 理恵、加藤 杏樹、川合 亜子の四人が呼び集められていた。
所長である大塚は、机にどさりと腰を下ろしたまま、一枚の書面を無造作に差し出した。
「ほら。上からだ」
四人は顔を見合わせ、それを受け取る。
差出人の欄には、見慣れた名が記されていた。
――菩提府。
対鬼夢対策を担う、政府公認の特殊機関。
開現師である彼らにとって、切っても切れない組織の名だった。
「所長、これは……」
和泉が目を通しながら口を開くと、大塚は面倒くさそうに頬杖をついた。
「ああ。伝令書だよ」
その文面に記されていたのは、簡潔な一文だった。
――後日開催される『合同訓練』への参加を要請する。
それだけだった。
「合同訓練……?」
理恵が小さく眉を寄せる。
これまで菩提府が、そうした名目で大々的な招集を行った話は聞いたことがない。
杏樹もまた怪訝そうに紙面を見つめ、亜子は無言のまま視線を落としていた。
「まあ、要するにだ」
大塚は気怠げに頭を掻いた。
「あんたらを正式な開現師として認めるに足るかどうか、それをこの訓練で見極めるってことらしい」
なるほど、と和泉は胸中で呟く。
開現師と一口に言っても、その実力はまさに千差万別だ。
他の職のように、一定の単位を修めれば資格が与えられるわけでもなければ、一つの筆記試験に受かれば済む世界でもない。
開現師としての素養を持つ者は、菩提府の設営する菩提聖堂で学ぶか、あるいは現役の開現師に師事するか。
そして最終的には、菩提府の定める認定を経て、ようやく一人前として扱われる。
今回は、それが“合同訓練”という形を取っている――ということなのだろう。
だが、杏樹はなお腑に落ちない顔をしていた。
「でも、それなら普通に試験じゃだめなんですか?」
それは、この場にいる全員が抱いた疑問でもあった。
「なら、“普通”じゃないってことさ……伝令書をよく読みな」
大塚に促され、四人は改めて書面に目を落とす。
「訓練場所は……京都・大江山、か」
杏樹がそう読み上げると、
「本部のおひざ元」
亜子がぽつりと呟いた。
「そうだ。あんたらの言う通り、あそこは本部の管轄に近い」
大塚は背もたれに身体を預けたまま、気怠げに続ける。
「普通、こういう認定は各地の菩提聖堂か、菩提府の施設でやる。夢の中で動く連中の試験だ、機材さえ揃ってりゃ十分だからな」
そこで一度言葉を切り、大塚はわずかに目を細めた。
「だが今回は違う。わざわざ大江山まで引っ張るってことは、それだけ向こうも慎重になってるってことだ」
和泉は書面から目を上げる。
「それは……俺たちが、見られているからですか?」
理恵も杏樹も、黙って大塚の返答を待っていた。
「さあな。お前らが今、そこまで知る必要はないさ」
そう言いつつも、大塚の声音には、いつもの投げやりさとは少し違うものが滲んでいた。
「だが、逆に言えばチャンスでもある」
「チャンス?」
杏樹が聞き返すと、大塚は頷く。
「ああ。あんたらみたいな跳ねっ返りが、上に実力を認めさせるには、ちょうどいい舞台だ」
ふっと、大塚が笑う。
短い沈黙が落ちた。
けれど、その静けさの中で、四人の腹はすでに決まっていた。
「――全員参加で、いいんだな?」
大塚の問いに、四人は揃って力強く頷いた。
だが、和泉はその時、大塚が一瞬だけ見せた険しい目つきを見逃さなかった。
次回予告
合同訓練へ向け、黒の部隊に新たな指導官代理が紹介される。
笠井に代わり、和泉たちを導くことになったその人物――大久保 淳。
だが、いざ訪ねた先で彼らを待っていたのは、想像を大きく裏切る“再会”だった。
次回、第65話「指導官代理」。




