第107話「北辰尊星」
「本体を捕捉した!!」
小水内は慚愧彗星剣を構え、ストレッチャーめがけて切っ先を突き出した。
ギュルルルッ――!!
「ちッ!!」
だが、寸前でストレッチャーがひとりでに走り出す。
右へ。
左へ。
まるで意思を持っているかのように、廊下を駆け回った。
「逃がすか!!」
小水内も追う。
何度も刃を突き立てようとするが――。
ギュルッ!!
「くッ……!」
あと一歩のところで躱される。
「…………」
小水内は横目で、二人の姿を見た。
狂医者の器へ食らいつき続ける笠井。
操られた開現師たちを相手に、紫炎を燃やし続ける七瀬。
(笠井も……七瀬も……)
とうに限界を超えている。
それでも、二人は止まらない。
(なら――)
小水内は慚愧彗星剣を握り直した。
「この一撃で……仕留めるしかないか」
静かに息を吐き、意識を自らのさらに深い場所へ沈めていった。
◇◇◇
暗闇。
小水内は以前にも、この場所へ来たことがある。
自らの内に巣食う悪鬼とも、すでに一度会っていた。
「…………」
暗闇の奥。
白い装束を纏った小さな童子が、背を向けて座っている。
「おい」
返事はない。
「お前の力――今日こそ借りに来たぞ」
「…………」
それでも、童子は振り返らない。
「くそッ……!」
奥歯を噛み締める。
(なんで、こいつはこんなに弱いんだ)
笠井の黒鴉のような威圧感もない。
七瀬の炎のような荒々しさもない。
ただ、小さく。
弱々しく。
背中を丸めている。
(なんで――僕の悪鬼がこんなに弱いんだ!!)
「なんでだよ!!」
腹の底から感情が込み上げる。
怒り。
――違う。
自分でも分かっている。
これは、怒りなんかじゃない。
「なんで僕は――あいつらに追いつけないんだよ!!」
身体が震える。
焦り。
嫉妬。
笠井には何があって。
七瀬には何があって。
自分には――何がない?
(僕が、開現師の家に生まれていないから?)
(才能が足りないから?)
(そもそも――僕はあいつらより弱いのか?)
「…………ッ!」
それだけは、認めたくなかった。
「なんで、お前はこんななんだ!!」
怒声に、童子の肩がびくりと震える。
「なんでお前は――他の奴らと違うんだよ!!」
声まで震えていた。
気づけば、頬を涙が伝っている。
「なんで……」
悔しかった。
追いつきたかった。
置いていかれたくなかった。
「なんで僕は……こんなに醜いんだ」
笠井へ向けた棘のある言葉も。
七瀬を見下すような態度も。
すべて――。
二人に負けたくない自分を隠すためだった。
自分には才能がある。
自分ならできる。
そう思っていなければ――怖かった。
「…………」
そこで、ようやく気づく。
才能。
素質。
生まれ。
できる者と、できない者。
ずっと人間を、そうやって分けてきた。
自分自身も。
そして――目の前にいる、この小さな悪鬼まで。
「…………あ」
弱いから。
みっともないから。
他と違うから。
だから――認めなかった。
「僕が、お前を弱いって決めつけてたのか……?」
小水内は、ゆっくりと首を振った。
「違う……」
頬を伝った涙が、眼鏡のレンズへ落ちる。
「僕が――弱かったんだ……」
虚勢も。
妬みも。
焦りも。
すべて、弱い自分を隠すための壁だった。
どれだけ身を固めても、それでは二人には追いつけない。
何より――そんな自分を、自分自身が認められなかった。
その時。
「…………?」
そっと、小さな手が小水内の手に触れた。
顔を上げる。
白い装束の童子が、いつの間にか傍らに立っていた。
「お前……」
もう、分かっている。
必要だったのは、より強い力でも、優れた才能でもない。
ただ――今の自分を認めること。
「随分と……時間がかかってしまったな」
小水内は立ち上がった。
童子が、心配そうに見上げている。
「大丈夫」
微かに笑う。
「もう迷わない」
その小さな頭へ手を置いた。
「もう――お前を否定しない」
優しく撫でる。
「悪かったな――北辰尊星」
「…………!」
北辰尊星は驚いたように目を見開き――。
やがて、満面の笑みを浮かべた。
◇◇◇
ガラガラガラ――!!
走り続けるストレッチャーの布がめくれ、その下から一人の男が姿を現した。
「ひぃ……ひぃ……!」
悪鬼の本体。
痩せ細った男は、ストレッチャーから突き出した両腕で床を蹴り、さらに速度を上げる。
「完全に見つかったと思ったが……どうやら、もう動けねえようだな!!」
背後を振り返る。
笠井の動きは明らかに鈍っていた。
狂医者の猛攻を捌き切れず、身体には新たな傷が増えている。
七瀬の傍らに立つ窮怨奇も、その輪郭が揺らぎ始めていた。
(このまま逃げ切れば――あいつらの方から勝手に潰れる!!)
男は狂医者へ繋がる黒い糸を強く引いた。
「殺せ!! さっさとそいつらを殺せええええッ!!」
その命令に応じ、狂医者が笠井へ猛攻を仕掛ける。
「…………」
笠井は風塵鴉鎚を振るい、辛うじて凌ぐ。
だが、もう長くは保たない。
「へッ……!」
男の口元が吊り上がった。
「そんな付け焼き刃で、俺に勝てるかよ!!」
男には、自分が負けるはずがないという確信があった。
両親も祖父も医師。
幼い頃から、自分も医師になるものだと疑わず、そのための努力も重ねてきた。
家柄。
学力。
才能。
努力。
どれも、人並み以上。
だからこそ、いつしか信じるようになった。
――自分は、他の人間とは違う。
だが、医学部へ進んだことで初めて現実を突きつけられた。
自分など――所詮、平均程度。
努力はできる。
だが、他者を圧倒するほどの才能はない。
研修医として入ったこの病院でも、自尊心は傷つけられ続けた。
先輩に扱き使われ。
医者でもない看護師たちには、陰で無能と笑われる。
そして何より――そんな連中を見返せない自分が、許せなかった。
そんな時、夢の中で漆黒の果実を渡された。
誰からだったのかは、もう覚えていない。
ただ――それを食べれば、すべてを見返せる。
そう確信した。
(やっと……)
男が歯を食いしばる。
(やっと手に入れた力なのに――!!)
「てめえらみてえな凡骨に!!」
男が叫んだ。
「この俺様が――負けると思うなああああッ!!」
バチッ!!
「…………!?」
背後から、激しい稲光が迸る。
男が振り返った。
そこに――。
小水内が立っている。
慚愧彗星剣を顔の前へ掲げ、逃げるストレッチャーを真っ直ぐに見据えていた。
「…………」
もう、焦りはない。
笠井より強いのか。
七瀬より才能があるのか。
そんなことは――どうでもいい。
今、自分がやるべきこと。
それだけを見る。
「悪鬼招来――」
バチッ――!!
雷光が弾ける。
小水内の頭上へ、白い装束の童子が舞い降りた。
北辰尊星。
「行こう」
小水内が静かに告げる。
「今度は――一緒に」
「…………!」
北辰尊星が笑う。
その姿が光となり、小水内の身体へ重なった。
バチバチバチバチッ!!
「星辰流燈衣ッ!!」
瞬間――。
深化覚醒。
眩い閃光が、病院の廊下を白く染め上げた。
「…………!」
その光を見た七瀬が、口元を吊り上げる。
「亮ッ!!」
「ああッ!!」
笠井も、その一言で意図を理解した。
「行くぞ、窮怨奇!!」
七瀬が一気に攻勢へ転じる。
轟ッ!!
窮怨奇は二股の尾を旋回させ、操られた開現師たちへ叩きつけた。
ダンッ!!
紫炎が廊下を駆け抜ける。
三人の開現師が一斉に宙へ跳んだ。
そこへ――。
「はあああああああッ!!」
七瀬が飛び込む。
両手に握る二振りの釵――乱武炉へ、窮怨奇の紫炎が燃え移った。
狙うのは、三人の中央に立つ開現師。
最も動きに無駄がなく、一目で手練れと分かる相手だ。
残る二人が、七瀬を止めようと動く。
だが――。
ボウッ!!
「ッ!?」
一人を操る黒い糸へ、窮怨奇の鬼火が食らいついた。
ジュッ!!
糸だけが焼き切れる。
開現師が、その場へ崩れ落ちた。
「ガアアアアアアッ!!」
続けて窮怨奇が、もう一人へ飛びかかる。
紫炎が黒い糸を焼き尽くし、二人目も倒れた。
(窮怨奇も消えた――)
役目を終えた紫炎の獣が霧散する。
残るは、一人。
「しゃらあああああああッ!!」
七瀬が右の乱武炉を振り抜く。
ガンッ!!
最後の開現師が、その一撃を受け止めた。
だが――。
「甘えよ!!」
すでに左手が動いている。
「こいつぁ――二撃必殺だ!!」
紫炎が螺旋を描きながら巻き上がった。
「焔嗟崩し《えんさくずし》!!」
轟ッ!!
一撃が腹部へ叩き込まれる。
その衝撃と共に紫炎が黒い糸へ走った。
ジュウッ!!
支配の糸が一斉に焼き切れる。
最後の開現師が崩れ落ちた。
「亮、やっちまえ!!」
自らの役目を果たし、七瀬もその場へ倒れ込む。
「ああ!!」
すでに笠井は、最後の一撃を放つ準備を整えていた。
黒き旋風が全身を渦巻く。
風塵鴉鎚の周囲を、無数の黒錆が舞う。
「…………ッ!」
狂医者の身体が震えた。
笠井から放たれる圧に、本能が告げる。
――次で終わる。
そして、その恐怖は、本来、命令に従うだけの狂医者にさえ、逃走という意志を芽生えさせた。
「なッ!?」
狂医者が踵を返す。
「お、おい!! 勝手に逃げるな!!」
宿主の命令を無視し、一目散に走り出した。
だが――。
それは、ある意味で宿主自身を映していた。
男は決して“持たざる者”ではない。
人並み以上のものを持ち、努力も競争も経験してきた。
だが――勝てないと分かった相手へ、それでも食らいついたことがあったか。
自分より遥か先を走る者へ、みっともなく追いすがったことがあったか。
――ない。
勝てないと分かれば、理由をつけて降りる。
男は、本当の意味で誰かと競ったことなど一度もなかった。
「…………」
笠井は逃げる狂医者の背を捉え、風塵鴉鎚を構える。
「逃げたところで――」
黒風が一点へ集まった。
渦を巻き、圧縮され、一塊の黒い球体を形作る。
その内部では、無数の黒錆が激しくぶつかり合っていた。
削り、穿つ――。
黒錆鉄爪の二つの性質が、一つへ凝縮される。
「もう――」
笠井が風塵鴉鎚を振り上げた。
「遅えよ!!」
ガンッ!!
黒き風塊を叩き抜く。
ドンッ!!
一発の黒い弾丸となった黒錆鉄爪が、狂医者へ迫る。
「なッ!?」
振り返った時には――もう遅い。
バッ!!
「ぎゃあああああああッ!!」
黒き弾丸が背中へ直撃した。
激しく回転する黒錆が肉体を削り、さらに深く穿っていく。
ガガガガガガガガッ!!
「が……あ……ッ……!」
黒き風が、狂医者の巨体を貫いた。
「…………」
笠井はそれを見届ける。
「さあ――」
風塵鴉鎚を握る腕から、力が抜けた。
「後は仕上げだ」
「ぐ……ッ」
膝が崩れる。
もう、一歩も動けない。
それでも――。
「頼んだぞ……小水内」
笠井は僅かに笑い、そのまま床へ倒れ込んだ。
「言われずとも!」
雷光を纏い、小水内が慚愧彗星剣を構える。
(笠井も、七瀬も……もう立てない)
そして、自分も長くは保たない。
「……僕も、この一閃が最後か」
ならば――。
外せない。
バチッ!!
小水内が閃光となって駆ける。
「はあ……はあ……!」
逃げる男の視界に、白い光が映った。
(――捉えた!!)
「はああああああッ!!」
ガアアアアアアンッ!!
稲妻のような剣撃が、ストレッチャーを粉砕した。
銀色の残骸が宙へ弾け飛ぶ。
「なッ!?」
だが――。
そこに、男はいない。
「ひぃ……ひぃ……!」
寸前でストレッチャーから飛び出していた。
「危なかった……!」
床を這うように逃げながら、振り返る。
小水内は立ち止まったまま。
「これで俺の勝ちだ!!」
笠井は倒れた。
七瀬も動けない。
小水内も、もう追ってこられない。
「ハハ……ハハハハハ!!」
(最後に立ってりゃ、それでいい!!)
「ここからもう一度!! 俺だけの世界を創り上げて――」
「くそッ……!」
小水内が再び慚愧彗星剣を構える。
だが――。
「…………ッ!」
脚が動かない。
(あと一歩……!)
「動け……!」
その時だった。
ゴオッ!!
「…………!?」
背中へ突風が叩きつけられる。
黒い風。
黒錆鉄爪。
「笠井……!」
床へ倒れたまま、笠井が最後の力を振り絞っていた。
「…………」
小水内の口元が緩む。
「まったく……最後まで勝手な奴だ!!」
バチバチバチッ!!
白き雷光が再び迸る。
黒き疾風に押され、小水内が踏み出した。
「ち、ちくしょおおおおおおッ!!」
男が進路を変えようとする。
轟ッ!!
「なッ!?」
その行く手に、紫炎が噴き上がった。
「七瀬……!」
倒れ伏した七瀬が、僅かに腕を上げている。
「行け……悠……!」
「…………!」
白き雷光。
黒き疾風。
紫の炎。
三つの力が――一つの道を作る。
「ちくしょう!! 俺は――!!」
男が逃げようとする。
だが――。
もう、逃げ道はない。
「はああああああああッ!!」
小水内が踏み込んだ。
その身に白光を纏い。
背を黒き風に押され。
紫炎が開いた一本道を駆け抜ける。
慚愧彗星剣の切っ先を、真っ直ぐに突き出した。
「白光突き《びゃっこうづき》!!」
白き閃光が一直線に迸る。
閃ッ!!
「はぎゃあああああああああッ!!」
光と化した慚愧彗星剣の一撃が、遂に男を捉えた。
男の身体が弾き飛ばされ、床を転がっていく。
「…………」
剣を突き出したまま、小水内は僅かに笑った。
「……どうだ」
全身から力が抜けていく。
「僕だって……やれるだろ……」
慚愧彗星剣が手から滑り落ちた。
そのまま、小水内も床へ倒れ込む。
「はッ……」
倒れたまま、笠井が笑った。
「まだ俺の方が上だな」
「……ボロボロのお前に、言われたくないな」
小水内も笑い返す。
「……まったくだ」
七瀬まで、つられるように笑った。
三人とも、もう指一本まともに動かせない。
それでも――。
「とにかく」
笠井が天井を見上げる。
「俺たちの勝ちだ」
「ああ」
「……だな」
三人の声が、静かな廊下に重なった。
次回予告
笠井、七瀬、小水内。
ぶつかり、競い合い続けてきた三人は、それぞれの弱さと向き合い、ついに一つの勝利を掴んだ。
だが――戦いは、まだ終わっていない。
病院の遥か上空。
《空天》南沙織と、西条の死闘は続いていた。
代々の八大天と刃を交えてきた、底知れぬ男。
その圧倒的な力を前にしても、南は一歩も退かない。
「負けてられないじゃない!!」
弟子たちが己の壁を越えた今――。
師もまた、己のすべてを拳へ込める。
銀光と瘴気が激突する、最後の戦い。
次回、第108話「空天」




