第106話「窮怨奇」
風塵鴉鎚を覆っていた黒錆が、風に巻き上げられていく。
剥がれ落ちた錆は黒い粒子となり、旋回する風そのものを漆黒へ染めた。
「よお――待たせたな」
風切り音の中、笠井の声が響く。
「なるほど……」
狂医者は、深化覚醒へと至った笠井を見据えた。
「消えかけた命が、最後に一際強く燃え上がったというわけか!!」
残された腕が、一斉に持ち上がる。
「だが、所詮は最後の悪あがき!! すぐに燃え尽きて、私の検体となりなさい!!」
一気に距離を詰めた。
鋏。
メス。
電動ノコギリ。
ありとあらゆる凶器が、笠井へ殺到する。
しかし――。
ガリッ!!
「…………!?」
狂医者の動きが止まった。
「な……」
鋏を握っていた右腕の一本が――消えている。
「なんだ、これは……!?」
切断されたのではない。
断面は、巨大なヤスリで無理やり削り取られたように荒れていた。
(斬られたんじゃない……削られた!?)
「おのれえええッ!!」
シュッ!!
メスを投げ放つ。
一直線に笠井の眉間へ迫る刃。
だが――。
ガッ――。
周囲を巡る黒い風が蠢いた。
黒錆鉄爪。
黒い粒子のうねりがメスを呑み込み――。
ガリガリガリッ!!
跡形もなく削り取る。
「…………!」
狂医者が僅かに後ずさった。
何が起きているのか分からない。
それが――恐ろしい。
「あ……ああああああああッ!!」
一方、笠井は驚くほど冷静だった。
「…………」
身体は軽い。
力が溢れている。
胸の奥から高揚感が湧き上がってくる。
それなのに――。
(……なんだ、これ)
思考だけが、嫌になるほど澄み切っていた。
「ガキがァ!! 舐めくさりよってええええッ!!」
シュシュシュシュシュッ!!
狂医者が無数のメスを投げ放つ。
「…………」
笠井は動じない。
右手を持ち上げ、迫る銀光を指し示した。
途端――。
ガリガリガリガリッ!!
黒い風が渦を巻き、メスの群れを包み込む。
銀の刃が次々と削り取られていった。
(なるほど……)
笠井は、自らの力を理解し始める。
(広げれば――削る)
「おのれえええええええッ!!」
狂医者が再び腕を振り上げる。
「――もう、それは落とさせてもらう!」
ドンッ!!
笠井が風塵鴉鎚を振り抜いた。
今度の風は広がらない。
一点へ。
真っ直ぐに。
黒い蛇のような風が、狂医者の二の腕へ食らいつく。
ガリッ!!
表面を削り。
露出した内部へ食い込み。
さらに奥へ――。
ガガガガガガガッ!!
「いぎいいいいいいいいッ!!」
黒き風が二の腕を抉り抜いた。
ブチッ!!
腕が宙を舞う。
「ぐああああああッ!!」
(広げれば――削る)
(そして、絞れば――穿つ)
「……そういうことか」
笠井の口元が僅かに上がった。
荒れ狂う風とは裏腹に、その瞳だけはどこまでも冷静だった。
だが――。
「はあ……はあ……」
呼吸が荒い。
(……やっぱ、そう簡単じゃねえか)
黒錆鉄爪は強力だった。
だが、僅かでも意識を逸らせば、黒き風は一気に荒れ狂う。
抑えるか。
放つか。
今の笠井には、その狭間を行き来するだけで精一杯だった。
「……強力すぎんだろ、これ」
「きうやあああああああああ!!」
狂医者が休む間も与えまいと、残った凶器を振り回す。
「ちッ!!」
黒き風で受け流す。
そのたびに、頭の奥が焼けるように熱くなる。
(このままじゃ、長く保たねえ)
二年前なら、力ずくで突破しようとしていただろう。
だが――今は違う。
ここにいるのは、笠井一人ではない。
「なら――!」
狂医者の一撃を躱し、大きく後方へ跳ぶ。
「お前らも、とっとと起きやがれ!!」
ガリガリガリッ!!
二筋の黒き風が、小水内と七瀬を縛る糸だけを削り取った。
ブチッ!!
「――ッ!」
「ぐッ……!」
二人の身体が床へ落ちる。
「……亮の野郎、簡単に言いやがって」
七瀬が歯を食いしばりながら立ち上がった。
「ふん……勝手にリーダー面をするな」
小水内も慚愧彗星剣を支えに身体を起こす。
二人とも足元は覚束ない。
笠井も、震える腿を拳で叩いた。
「全員、気合入ってるじゃねえか……」
誰も口にはしない。
だが、分かっていた。
これが――最後の勝負だ。
「なるほど……」
狂医者が血走った眼をぎらつかせる。
「どうやら君たちは、よほどの“バカ”らしい」
黒い糸が張り詰めた。
「“バカ”は手術をしたところで治らん!!」
患者たちが虚ろな瞳のまま動き出す。
「ならば――死んで、その身体だけを私に提供したまえ!!」
ピンッ!!
「うおおおおおおおッ!!」
患者たちが一斉に飛び込んできた。
「ああ! めんどくせえ!! だったら、あの親玉をぶっ潰すぞ!!」
「ああ。その方が手っ取り早い!!」
七瀬と小水内が狂医者へ向かおうとした――その時。
「待て! “あれ”は本体じゃねえ!!」
「笠井、それはどういう意味だ?」
小水内が患者の拳を刀身で受け止める。
「さっき戦ってて感じた。あいつはただの器だ。本体は別にいる!」
「確かなんだろうな!?」
「さあな。そう感じたとしか言えねえ」
「無責任な……」
「じゃあ、どうすんだよ!」
「正直に言う。俺じゃ、本体がどこにいるのかまでは分からねえ」
「…………」
「…………」
二人が一瞬、面食らう。
「……どうする、悠?」
「ふん」
小水内は黒い糸を一本切断した。
「癪だが――笠井の勘は鋭い」
「お前も、ほんっと素直じゃねえな!」
「君にだけは言われたくない」
「なら――」
七瀬が乱武炉を構えた。
「本体は俺たちで探す! 亮、お前はあのイカレ野郎を抑えとけ!!」
「ああ!」
笠井が風塵鴉鎚を振り抜いた。
黒き風が狂医者へ走る。
「バカめ! 同じ手を何度も食らうものか!!」
患者たちが、狂医者の前へ引き寄せられる。
「ちッ!?」
笠井が軌道を逸らそうとした瞬間――。
「亮!!」
七瀬が前へ飛び出した。
「お前は何も考えず突っ込め!! フォローはこっちで請け負う!!」
「おっりゃああああああッ!!」
ガンッ!!
点滴スタンドを乱武炉で弾く。
別の患者の腕を掴み、横へ流す。
人垣に一瞬だけ穴が開いた。
「今だ、亮!!」
「ああ!!」
黒き疾風が、その隙間を突き抜ける。
「はッ!? 先ほどより風の勢いが――」
違う。
その中に――。
「はあああああああッ!!」
「なッ!?」
笠井が飛び出した。
ガアアアンッ!!
風塵鴉鎚が振り下ろされる。
「ぬうううううッ!?」
狂医者は残された腕で辛うじて受け止めた。
「逃がさねえよ!!」
完全に食らいつく。
(ならば、患者どもを――!)
狂医者が糸を引いた。
だが――。
「おいおい!!」
呼び戻される患者たちの前へ、七瀬が立ちはだかる。
「俺を置いて、どこ行こうってんだよ!!」
「ぐぬ……! ならば、まずは奴からだ!!」
患者たちが七瀬へ殺到する。
点滴スタンド。
松葉杖。
椅子。
ガガガガガンッ!!
「ぐッ!?」
七瀬は乱武炉で受け止める。
だが、抉られた右肩は限界に近い。
「だったら――!」
ボウッ!!
足元から炎が噴き上がった。
熱気に押され、患者たちの足が止まる。
「しゃあああああッ!!」
その隙へ飛び込む。
武器を弾き。
腕を受け流し。
身体を割り込ませ、進路を塞ぐ。
(悠が本体を見つけるまで――こいつら全部、俺が引き受ける!!)
笠井が狂医者を抑える。
七瀬が患者たちを引きつける。
小水内が、本体を探す。
打ち合わせなどしていない。
それでも、三人は自分の役割を理解していた。
何度もぶつかり、失敗し、競い合った。
その日々が、今の三人を動かしている。
「これなら……行けるッ!!」
その時――。
「…………?」
七瀬の胸の奥で、何かが熱を帯びた。
疲労とも、自らの炎とも違う。
もっと深い場所から、何かが這い上がってくる。
(なんだ……これ)
「よっしゃああああ!! どんどん来やが――」
ドンッ!!
「なッ!?」
背中へ強烈な一撃が叩き込まれた。
患者たちの中から現れたのは――三人の開現師。
潜行部隊の者たちだった。
「てめえら……!」
ドゴッ!!
「がッ!!」
腹部へ拳。
続いて脚を蹴り払われる。
「ぐッ……!」
片膝をついた瞬間――。
ブオンッ!!
「――ッ!?」
回し蹴りが顔面へ直撃した。
七瀬の身体が吹き飛ぶ。
「月樹ッ!!」
笠井が叫ぶ。
「ホホホホッ!!」
狂医者が進路を塞いだ。
「お前に奴のもとへは行かせんぞ!!」
「どけッ!!」
「貴様はここで――仲間の死を見届けろ!!」
「ちいいッ!!」
離れれば、均衡が崩れる。
笠井はその場を動けない。
一方――。
(くそッ! どこだ!!)
小水内は視線を走らせる。
糸。
狂医者。
患者。
壁。
床。
天井。
(本体は……どこにいる!!)
ガンッ!!
「ぐあッ!!」
「…………!」
思わず七瀬へ視線が向いた。
(七瀬……!)
焦りが、思考を乱していく。
◇◇◇
何度も振り下ろされる鉄パイプ。
折れても。
折れても。
残った木片までが、身体へ叩きつけられる。
「…………」
もう、痛みすらよく分からない。
生きているのか。
死んでいるのか。
それでも――薄れゆく意識の奥で、燃え続けるものがあった。
心も身体も焼き焦がすほどの――“熱”。
七瀬は、その正体を知っていた。
――『怨み』。
自分の生まれ。
血筋。
どれだけ努力しても、認めようとしなかった大人たち。
消えることのなかった感情は、いつしか怨念の炎となって七瀬を焼き続けていた。
だが、七瀬はそんな自分を恥じていた。
みっともない感情なのだと思っていた。
本家から誹りを受けた時も。
矢野のもとで暮らすようになってからも。
母や妹のためだと言い聞かせ、その感情へ蓋をしてきた。
――そのはずだった。
南の下で修業を始め、笠井と小水内に出会って――全部が狂った。
(あいつらのせいで……)
暗闇の中、二人の姿が浮かぶ。
(俺は――こんなみっともねえ自分と、向き合わなくちゃいけなくなったんだ)
それまで、誰かを追いかけたいと思ったことなどなかった。
なのに現れた。
自分と同じ歳の二人。
悔しかった。
腹が立った。
嫌になるほど嫉妬した。
それでも――。
(もっと……)
もっと見たい。
あいつらが、どこまで行くのか。
(俺も――そこまで行きてえ)
胸の奥の炎が、さらに熱を増す。
置いていかれていいのか?
また物分かりのいい顔をして。
仕方がないと諦めて。
クソみたいな大人どもに馬鹿にされたままで――。
(終われるかよ……!!)
七瀬は、自らの内に燃える炎へ手を伸ばした。
触れた途端――赤い火が、その手へ燃え移る。
皮膚がただれ。
血が蒸発し。
爪が剥がれ落ちる。
「……そうじゃねえだろ」
七瀬には分かっていた。
これは違う。
自分がずっと表に見せてきた――偽りの火。
焼け爛れた腕を、さらに炎の奥へ突き入れる。
「すかした火なんて――燃やしてんじゃねえ!!」
轟ッ――!!
炎が一気に膨れ上がった。
肉を焼き。
骨を軋ませ。
七瀬の全身を呑み込む。
やがて、黒ずんだ骸のような影だけが残った。
だが――。
なおも伸ばされた手から、僅かな光が漏れる。
赤い炎が――紫へ変わった。
妖しく。
激しく。
何よりも深い熱を宿した炎が、暗闇を照らし出す。
「随分と待たせちまったな」
紫炎の奥。
巨大な獣の輪郭が、ゆっくりと浮かび上がった。
◇◇◇
患者たちが一斉に凶器を振り上げる。
「くそッ!!」
「……くッ!?」
笠井と小水内が駆け出そうとした――その瞬間。
ゴオオオオオオオオオッ!!
紫炎が爆ぜ、患者たちを包み込んだ。
「おいおい――」
炎の中。
七瀬が立ち上がる。
「俺がこの程度で伸びたと思ったのかよ?」
「ぬッ!?」
狂医者が目を見開いた。
「糸が切れた!?」
いや――違う。
(焼き切ったのか!?)
患者たちを繋いでいた黒い糸だけが、紫炎によって次々と焼け落ちていた。
「さあ――」
七瀬の全身に炎が渦巻く。
「どんどん燃やしていこうぜ!!」
口元が不敵に吊り上がった。
「怨みの炎ってやつをな!!」
紫炎が背後で膨れ上がる。
太く逞しい四肢。
巨大な胴体。
二股の尾。
そして――虎の貌。
「悪鬼召喚――」
七瀬が、その名を呼ぶ。
「窮怨奇!!」
「ガアアアアアアアアッ!!」
紫炎の悪鬼が咆哮した。
「行け、窮怨奇!!」
ゴオッ!!
紫の軌跡を残しながら、窮怨奇が患者たちの間を駆け抜ける。
「ぐぬぬ……!? このままでは――」
狂医者が慌てて糸を操る。
「お前の思い通りになると思うなよ!!」
ガガガガッ!!
「ぬうッ!?」
笠井の黒き風が、狂医者へ襲いかかった。
辛うじて躱す。
その一瞬――。
黒い糸が緩む。
「今だ!!」
轟ッ!!
紫炎が患者たちの間を駆け抜けた。
次々と、黒い糸だけが焼け落ちていく。
「しゃあッ!! これで一気に畳みかけるぜ!!」
だが――。
「ッ!」
複数の影が七瀬へ飛び込んできた。
潜行部隊の開現師たち。
窮怨奇の攻撃を察知し、患者たちの中から離脱していたのだ。
ブンッ――!!
「ガアアアアッ!!」
窮怨奇が七瀬との間へ割って入り、二股の尾を薙ぎ払う。
「ッ!!」
開現師たちは寸前で跳び退いた。
「ああ……」
七瀬が乱武炉を握り直す。
「さすがに一気に決着とはいかねえか」
身体は限界に近い。
それでも、笑みは消えない。
「さあ!!」
七瀬が叫ぶ。
「後はお前だけだぞ――悠!!」
「……うるさい」
その声を背中で受けながら、小水内はゆっくりと慚愧彗星剣を構えた。
「こっちも――見つけたさ」
次回予告
笠井に続き、自らの悪鬼と向き合った七瀬。
紫炎の獣・窮怨奇と共に、操られた者たちを解放していく。
残るは――小水内悠。
悪鬼の本体を見つけ出しながらも、その胸には未だ消えない焦りがあった。
笠井より強く。
七瀬より優れた存在に。
誰かと比べることで、自らの価値を証明し続けてきた小水内。
そして彼は気づく。
「僕が、お前を弱いって決めつけてたのか……?」
ずっと否定してきた、小さな悪鬼。
その存在を受け入れた時――白き雷光が戦場を駆け抜ける。
次回、第107話「北辰尊星」




