第108話「空天」
笠井たちが悪鬼を撃破する、少し前――。
病院の屋上。
南は、今回の黒幕である西条と対峙していた。
二人とも、その場から一歩も動いていない。
にもかかわらず――。
互いの間では、目には見えない激しい攻防が繰り広げられていた。
南の周囲を、二枚の銅鏡がゆっくりと旋回している。
「う~ん……これは困ったな」
張り詰めた沈黙を破ったのは、西条だった。
「何かしら?」
南も構えを崩さない。
「このまま退いてくれるなら、こっちとしては助かるんだけど」
「さすがに、“まだ”帰るわけにはいかないさ」
西条はふっと笑う。
「確かめなければならないことがあるからね」
「…………」
南の目が細くなった。
(やっぱり――)
西条は、ただ病院を鬼夢へ沈めたいわけではない。
患者を苦しめ、開現師たちを操っているのも、すべて何か別の目的のため――。
(何かを待ってる……?)
南が拳を強く握った。
「おおっと」
西条が片手を前へ出す。
「それをされると、さすがに困るのさ」
視線の先には病院。
「君も、お弟子さんや被害者たちが犠牲になるのは嫌だろう?」
「あら。随分と優しいのね」
「はは。そう見えるかい?」
「全然」
即答する。
だが――。
(ここで本格的にやり合えば、病院への被害は避けられない)
場所を変えられるのなら、南にとっても都合はいい。
ふわりと、西条の身体が宙へ浮いた。
「……ついて来いってことね」
南もすぐさま後を追う。
二枚の銅鏡もまた、彼女と共に舞い上がった。
黒々とした瘴気を孕む、タールのような雲。
二人はそれを突き抜け――。
さらに高く。
病院を遥か眼下へ置き去りにしていく。
やがて、暗雲を抜けた。
ブンッ!!
「ッ!」
その瞬間――。
銀色の凶爪が、南の顔面へ迫る。
南は首を僅かに傾けて躱し、同時に左拳を跳ね上げた。
カアアアアアアッ!!
金色の光線が一斉に迸る。
「キエエアアアアッ!!」
西条は光の雨を縫って飛び込み、鉤爪を振り下ろした。
「ふんッ!!」
南は蹴り上げた脚で受け止める。
ギンッ!!
「鏡稜よ!!」
「!?」
先ほど躱された光線を、背後の銅鏡が捉えた。
カッ!!
反射された光が再び西条へ迫る。
「逃げるなら、お手伝いしましょうか!!」
ゴオオオッ!!
鋭い蹴りが腹部へ突き刺さった。
「ぐッ……!」
西条が吹き飛ぶ。
だが――。
「おおっと。早まったね」
それでも笑っていた。
「自分の技に焼かれてしまうじゃないか!!」
反射光が、そのまま南へ返ってくる。
しかし――。
「この程度で、勝ったつもりかしら?」
南は一歩も動かない。
もう一枚の銅鏡が眼前へ滑り込んだ。
「あまり舐めないでほしいわね!!」
カアッ!!
光が再び弾かれる。
今度は上空の西条へ。
「こちらも――」
鉤爪を振り上げる。
「舐めてほしくないな!!」
ガガガガガガッ!!
凶爪が、飛来する光を次々と掻き消した。
「なるほど」
西条が笑う。
「威力に偏った力を、鏡で補っているわけだ」
「それは、ありがとう」
南は右拳を構える。
「でも――だらだら付き合うつもりはないわ!!」
カッ!!
《無色》から、巨大な銀光が放たれた。
その途中へ銅鏡が滑り込む。
シュ――。
銀光を上空へ反射。
「上か!」
だが、その先にはすでに二枚目の銅鏡が待ち構えていた。
カアッ!!
光柱が真上から西条へ降り注ぐ。
(この程度なら――)
西条は後方へ身を翻し、直撃を躱した。
だが――。
「…………!」
その着地点。
すでに南が待ち構えている。
「光を弾けるのは、鏡だけじゃないわ!!」
飛び込んできた銀光へ、右拳を叩き込んだ。
ドンッ!!
銀光の軌道がねじ曲がり、再び西条へ。
「くッ!? やるな!!」
しかし、西条もすでに反撃していた。
背後から伸びた鋭利な尾が、南を狙う。
ゴオオオオオッ!!
ジュッ!!
ほぼ同時。
互いの攻撃が相手を捉えた。
「ッ……!」
南の左頬に赤い線が走る。
尾は頬を掠め、そのまま左耳まで切り裂いていた。
「……少し遅れていたら、脳天を貫かれていたわね」
一方――。
銀光の爆煙が、ゆっくりと晴れていく。
「…………」
南の表情が僅かに強張った。
煙の中から現れた西条には――。
ほとんど傷らしい傷がない。
「驚きだ……」
煤を払いながら、西条が呟く。
「南沙織」
「…………」
「君は――これまで私が戦ってきたどの八大天よりも強い」
皮肉ではない。
純粋な賛辞だった。
だからこそ――。
(届いてない……)
南は認めざるを得なかった。
こちらは《鏡稜降伏》まで使っている。
それでも、西条には決定打が入らない。
(こいつ……まだ本気じゃない)
「その言い方……」
息を整えながら睨む。
「まるで昔の八大天まで知ってるような口ぶりね」
「当然だ」
西条は、何でもないことのように答えた。
「私だって――かれこれ千年以上、生きているからね」
「千……年?」
「そうとも」
再び鉤爪を構える。
「君たち八大天とも、何度も戦い――」
「待って……」
南の脳裏に、一つの可能性が浮かぶ。
「千年以上を生き、代々の八大天と戦ってきた……」
その目が細くなる。
「あなた――」
西条の口元が吊り上がった。
「ようやく気づいたか」
どす黒い瘴気が膨れ上がる。
「獣魔侵将が一柱――」
銀色の鉤爪を大きく広げた。
「《平等皇》千刃五郎丸西条」
その姿が――消えた。
「…………!?」
次の瞬間。
すでに南の背後。
「これまで幾人もの八大天と刃を交え――」
(――いつの間に!?)
「そして、葬ってきた」
銀色の凶爪が振るわれる。
「くッ!!」
斬ッ!!
「ぐッ……!」
南の身体が切り裂かれた。
だが――。
「まだよ!!」
左拳――《色欲》の光を一気に解放する。
カアアアアアアッ!!
さらに銅鏡がそれを受け――。
反射。
拡散。
光の雨が西条へ殺到した。
しかし、西条は自らその中へ踏み込む。
「なるほど……」
ガガガガガガガガッ!!
鉤爪が金光を次々と掻き消していった。
「これでは――」
一歩。
また一歩。
「一気呵成には、程遠い」
「ッ!!」
南は大きく後方へ飛び、辛うじて間合いを切った。
「はあ……はあ……」
呼吸が乱れる。
(まずいわね……)
こちらは、すでに《鏡稜降伏》まで使っている。
それでも届かない。
対して――西条には余力がある。
(このまま続ければ……私が先に潰れる)
「君たちも、難儀だね」
「……どういう意味かしら?」
「君たちは、いつだって赤の他人を守ろうとして、自ら使える力を縛る」
「…………」
「我々に届き得る力を持っていても――」
西条が笑う。
「振るえなければ意味がない」
(悪鬼転生――)
一瞬、その選択肢が脳裏をよぎる。
だが――。
(駄目)
発動すれば、この鬼夢そのものが保たない。
笠井たちも。
患者たちも。
すべてを巻き込む。
「随分と……」
南は拳を握り直した。
「私たちを舐めてくれるわね!!」
西条へ向かう。
(とにかく――)
(一撃!!)
(一撃だけを考えなさい!!)
カアアアアアアッ!!
激しい光が放たれた。
「まあ――」
西条は腕で受け止めながら笑う。
「それ以上やられると、こちらも少々困るのだけどね」
鉤爪を振り抜く。
「だが、ただで負かされるのも不本意でね!!」
銀色の斬撃が、幾重にも飛び交った。
南はそれをものともせず突き進む。
真正面から拳を叩き込んだ。
カッ!!
巨大な光柱が暗雲を貫き、爆風が吹き荒れる。
「はああああああッ!!」
光の中で、西条はなお笑っていた。
ガキンッ!!
二人の拳が激突する。
「はあああああああ!!」
南は間髪入れず、左拳を振り抜いた。
無数の光線が、西条へ殺到する。
「ハハハハハッ!!」
西条は笑いながら次々と躱していく。
その間にも銅鏡が光を反射し、逃げ場を削る。
「なるほど!」
無数の光の中で身を翻す。
「意外と君は、近接戦を得意とするタイプらしい!!」
巨大な鉤爪が振り下ろされた。
「なら――これならどうだい!?」
ザシュッ!!
「ッ――」
肩。
脇腹。
太腿。
銀の斬撃が、次々と南を切り裂く。
それでも――止まらない。
(致命傷以外は無視しなさい……!!)
鮮血を散らしながら、さらに距離を詰める。
「絶対に……一発叩き込む!!」
反射光が、左の《色欲》へ集束した。
「はあああああああッ!!」
渾身の左拳。
カアアアアアアッ!!
黄金の閃光が、黒く淀んだ天空を照らし上げる。
その刹那――。
南だけが、圧縮された時の中にいた。
(このまま戦えば……いずれ押し切られる)
気を抜けば、一瞬で死ぬ。
すぐ隣に“死”があり。
その反対には――“生”がある。
(いつからだったかしらね……)
幼い頃から開現師として育ち。
誰よりも強くあれと、自らを律してきた。
そして、いつしか気づいた。
南沙織という存在は――もう自分一人だけのものではない。
自分が立てば、後ろに続く者がいる。
自分が戦えば、守られる命がある。
自分が倒れれば――その代償を払うのも、自分だけではない。
(だから……)
敵は強大。
こちらは満身創痍。
それでも――。
「負けてられないじゃない!!」
退くことだけは、自分自身に許さない。
残された力を――拳へ。
「はあああああああッ!!」
渾身の右ストレート。
迸った銀光が、一枚の銅鏡へ吸収されていく。
「…………」
西条の目が細まった。
(先ほどまでとは――違うな)
「ならば――」
口元を吊り上げる。
「こちらも、少しばかり応じねば不作法か!!」
瞳が妖しく光った。
「――ッ!?」
次の瞬間。
南の全身を、肉を抉られるような激痛が貫く。
「これは――!?」
牛とも豚ともつかぬ異形。
爛々と眼を動かす鳥。
幾つもの魚の頭を生やした化け物。
大小様々な蟲。
多種多様な魑魅魍魎が、南の肉体へ食らいついていた。
「ぐッ……!」
がつり。
がつり。
肉を食み。
骨を砕く。
(幻覚……? 違う)
痛みはあまりにも鮮明。
(これが――《平等皇》の力……!)
それでも――。
「だから……」
拳は止まらない。
「どうしたァ!!」
カアアアアアアッ!!
銀光を呑み込んだ銅鏡へ亀裂が走る。
ピシッ――!!
次の瞬間。
鏡面が砕け、圧縮された光が一気に放出された。
轟ッ!!
銀色の奔流。
それを――もう一枚の銅鏡が受け止める。
「ほう……!」
西条が目を細めた。
「それが、貴様の切り札か!!」
先ほどまでの笑みが消える。
「だが、わざわざ受けてやるほど気安くはないぞ!!」
ギギギギギッ――!!
二枚目の銅鏡にも亀裂が走る。
(この一撃を外せば――終わりね)
もう、次はない。
身体も。
この鬼夢も。
これ以上は保たない。
(一瞬……!)
南は西条から目を離さない。
(ほんの一瞬でも――隙ができれば!!)
パリン――。
最後の銅鏡が砕けた。
内部で幾重にも圧縮された銀光が、凄まじい速度で南へ奔る。
「…………!」
右拳を突き出す。
光が《無色》へ集約された。
「……仕掛ける!」
「さあ!!」
西条は狂喜の笑みを浮かべる。
「最後の一撃――存分に撃ってきな!!」
銀光と。
どす黒い瘴気。
二つの力が激突しようとした、その時――。
ゾワッ――!!
「…………!?」
途轍もない寒気が、二人の背筋を駆け抜けた。
遠く離れた病院から届く、凄まじい殺気。
(――笠井君!?)
(――笠井亮!!)
西条の目が、僅かに病院へ向く。
ほんの刹那。
ただ、それだけ。
だが――。
西条は笑っていた。
(やったか……!)
待ち望んでいた兆し。
確かめたかったもの。
それを、遂に感じ取った。
「――ッ!」
そして、自らの失態に気づく。
(しまった――!!)
南沙織を相手に。
ほんの一瞬でも――意識を逸らした。
一方、南は。
(笠井君……)
僅かに笑う。
(そう……そこまで来たのね)
ならば。
師である自分が、ここで退くわけにはいかない。
膨大な銀光が全身を包む。
肉体を貪っていた魑魅魍魎が、一斉に焼き払われた。
「ぬぅッ!?」
(間に合わん!!)
西条が防御姿勢を取る。
だが、視界はすでに銀一色。
「さあ……」
光の中から、南の声が響く。
「歯を食いしばりなさい!!」
次の瞬間。
光そのものと化した南が、西条の眼前へ現れた。
右拳へ――。
幾重にも反射され、圧縮された銀光のすべてを宿して。
「はああああああああッ!!」
「一巳天来!!」
ドゴオオオオオオオオオオオッ!!
強大な力の塊と化した南が、西条へ激突した。
「ぐッ――!!」
銀光が天空を埋め尽くし――。
轟音と共に、鬼夢そのものが大きく揺らぐ。
やがて――。
夢幻の世界は、眩い光に包まれていった。
◇◇◇
「――ッ……」
笠井は意識を取り戻した。
「ここは……?」
一瞬、現実なのか夢なのかさえ分からない。
『残念だが、ここはまだ“夢”の中だ』
根岸の声が頭の中へ響く。
『まだ動いちゃ駄目だ。応急処置はしてあるが、万全じゃない』
「…………」
身体は鉛のように重い。
「俺たち……勝ったのか?」
周囲を見渡す。
小水内。
七瀬。
今回の事件の首謀者。
さらに、患者や職員、操られていた開現師たちも倒れていた。
『ああ。君たちのおかげで何とかなったよ』
『現実でも氷川君が踏ん張ってくれた。じきに救援も来る』
「氷川さんが……」
笠井の脳裏に、ぶっきらぼうな顔が浮かぶ。
「……あの人にも、礼を言わないとな」
だが――。
「…………!」
「そういえば……先生は!?」
身体を起こそうとした、その時。
「私の心配をするより、まずは自分の心配をしなさい」
「南先生ッ!?」
振り向く。
そこには――南が立っていた。
だが、その姿に言葉を失う。
全身に刻まれた無数の傷。
裂傷だけではない。
肉そのものを抉られたような痕まで残されている。
笠井は、これほど傷ついた師の姿を見たことがなかった。
「すみません……」
奥歯を噛み締める。
「俺が……俺たちが、勝手なことをしてしまって」
「勘違いしないで」
南の声は冷静だった。
「あなたたちの責任だなんて、随分と己惚れたことを言うのね」
「…………」
「敵の術中に嵌まったのは、私たち側にも落ち度がある」
真っ直ぐ笠井を見る。
「全部、十六歳のあなたが背負う必要なんてないの」
「先生……」
ボロボロになりながらも、その声は揺るがない。
笠井は、その姿に――。
かつて父が背負っていたものと同じ“責務”を見た気がした。
「ただし」
「…………?」
「独断行動は別よ」
「うッ……」
「きっちり折檻しないとね。当然、根岸君も」
視線が慧珠へ向く。
『た、大変申し訳ございませんでした……』
「でも――」
南は再び笠井を見る。
「よくやったわ、笠井君」
「…………」
「小水内君も。七瀬君も」
いつの間にか二人も意識を取り戻し、傍まで来ていた。
「先生……笠井だけじゃありません」
小水内が強い視線を向ける。
「僕たち全員が、同じだけ責任を負うべきです」
「そうっすよ!」
七瀬も声を張った。
「亮一人が勝手にやったんじゃねえ! 俺たちも一緒っす!!」
「…………」
南は小さく息を吐く。
「まったく……」
呆れたようで。
けれど、どこか安心したようでもあった。
「あなたたちが生き残っていること自体、不思議なくらいなのよ」
三人を順番に見つめる。
「それでも――勝ちは勝ち」
「…………」
「敵がどんな策を巡らせようと、あなたたちはそれを打ち砕いた」
無謀で。
未熟で。
危うかった。
それでも――。
三人は今、生きてここにいる。
「この一戦は、必ずあなたたちを強くするわ」
「…………」
その言葉は、どんな賛辞よりも三人の胸に響いた。
「ただし」
南が僅かに笑う。
「反省文は覚悟しなさいよ」
「…………」
三人は顔を見合わせる。
「なら、今回一番活躍した俺が、一番多く書くしかねえか」
笠井がにやりと笑った。
「お前の勝手さは目を見張るものがあったな」
小水内が返す。
「だが、まとめ役である僕が責任を取るべきだろう」
「ああ!?」
七瀬が噛みつく。
「何がまとめ役だ! 悠、お前が一番ビビってたじゃねえか!!」
「ああ?」
「何だと?」
「やるか?」
次の瞬間には――。
互いの顔を押し。
首を抱え。
技を掛け合っていた。
「痛え! 離せ!!」
「先に仕掛けたのはそっちだろう!!」
「亮! そこ押さえろ!!」
「お前まで乗ってんじゃねえ!!」
「……まったく」
南は、そんな三人を見ながら目を細める。
「本当に――最悪の三人ね」
けれど――。
その口元には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
そして――南の脳裏に、西条との最後のやり取りが蘇る。
◇◇◇
銀光が、ゆっくりと消えていく。
「はあ……はあ……」
南は荒い呼吸を繰り返していた。
もう、次の一撃を放つ力は残っていない。
対して――。
西条は、未だ宙に立っていた。
右腕を失い、全身を焼かれながらも、なおその瞳には余裕が残っている。
(……やっぱり)
南は理解していた。
(このまま続ければ――私が負ける)
先ほどの一撃は、西条を上回った結果ではない。
笠井が作った、一瞬の隙。
そこへすべてを叩き込んだからこそ――届いた。
「ふッ……」
西条は、失われた右腕へ目を向ける。
「これは……参ったな」
傷口を眺め、目を細めた。
(再生しない……か)
それでも、声に焦りはない。
「少々――君を見くびり過ぎていたようだ」
「それは、どうも」
南はなお拳を構える。
「で?」
「…………?」
「まだ続ける?」
西条は一瞬黙り――。
「いや」
小さく笑った。
周囲を満たしていた殺意が薄れていく。
「今日のところは退こう」
「…………」
「見事だった――《空天》・南沙織」
西条は遥か眼下の病院へ目を向ける。
「それに――兆しも見えた」
「…………」
「今日は、それで十分だ」
やはり。
今回の事件そのものが、西条の目的ではない。
「あなた……笠井君に何をしたの?」
「何も」
西条は笑う。
「私はただ――見ていただけさ」
「…………」
そう言って、背を向ける。
「また近いうちに会うだろう」
その瞬間。
ゾクリ――。
凄まじい殺意が、南の全身を貫いた。
「…………ッ!」
右腕を失いながらも――それでもなお、本気ではなかった。
「次は――」
西条が嗤う。
「こちらも本気で、手合わせ願おう」
「…………」
「それまで――“彼”のことは君に託そう」
「待ちなさい!!」
だが、西条の姿はそのまま闇の虚空へ溶けていった。
「…………」
南は暫くそこを見つめる。
「……冗談じゃないわよ」
傷だらけの拳を握った。
「あれで……本気じゃないっていうの?」
◇◇◇
『南隊長、そろそろここも限界です』
「…………」
根岸の声に、南は我に返る。
戦いの終結とともに、鬼夢そのものが崩壊を始めていた。
「ええ」
三人へ向き直る。
「ほら。脱出するわよ」
「「「はい!!!」」」
こうして――。
一晩に及ぶ戦いは、終わりを告げた。
現実へ帰還した笠井、小水内、七瀬。
そして、現実側で彼らを守り抜いた氷川。
多くの犠牲を出しかねなかった戦いの末、彼らは確かに一つの勝利を掴んだ。
もっとも――笠井たち三人と根岸が、南からきついお灸を据えられたのは、また別の話である。
◇◇◇
そして――現在。
南との模擬戦を終えた笠井を、一人の男が待っていた。
「氷川さん」
「お疲れ様でした」
防人――氷川薫。
昔と変わらぬ無愛想な顔で立っている。
「どうでしたか。南総監との手合わせは?」
そんな氷川を見て、笠井は思わず笑った。
「……何か?」
「いや。初めて会った頃とは、随分感じが違うなと思ってね」
氷川が僅かに眉を寄せる。
「あの時は、若かったんです」
「お互いにね」
「…………」
氷川の口元も、ほんの僅かに緩んだ。
「笠井さん。この後、予定は?」
「空いてますよ」
「では、飲みに行きませんか?」
「いいですね」
「根岸さんも誘いましょう」
「そりゃ、楽しみっすね」
二人は並んで歩き出した。
日が落ち、街にはネオンが灯り始めている。
「氷川さん」
「何ですか?」
「今日は、俺が奢りますよ」
「……何か企んでます?」
「ハハ。そんな警戒しなくてもいいでしょうよ」
他愛のない会話を交わしながら、二人は夜の街へと歩いていく。
十一年前、まだ何者でもなかった若者たちは、ぶつかり合いながら、それぞれの答えを見つけた。
長い時間が流れても――あの頃の面影は、まだどこかに残っていた。




