第六話 「知る」
西野誠は、知らないことが許せなかった。
些細な疑問でも、解明されないままで放置しておくと、胸の奥がざわついた。相手の言葉の裏側、出来事の因果、数字の意味。すべてをはっきりさせないと、落ち着かなかった。彼にとって「知らない」は、単なる欠落ではなく、不快な異物だった。
三十七歳。大学の図書館に勤める司書だった。昼間は静かに本を整理し、利用者の質問に正確に答える。同僚からは「知識が広い」「真面目だ」と評されていた。私生活でも、興味を持った事柄は徹底的に調べ上げる癖があった。歴史の些細なエピソードでも、科学の未解明な部分でも、納得がいくまで資料を当たった。
変わり始めたのは、一年前のことだ。
図書館に寄贈された古い日記を整理しているとき、西野は奇妙な記述を見つけた。百年ほど前の、この土地に住んでいた人物の日記だった。断片的な文章の中に、「夜になると誰かが窓の外で呼吸をしている」「知ってはいけないことを知ってしまった」という一文が繰り返されていた。差出人不明の寄贈で、詳細は不明だった。
西野は、その日記を退勤後も手元に残した。
最初は軽い好奇心だった。しかし、調べるうちに、日記の主が実在したこと、そして突然失踪したことが分かってきた。公的記録はほとんど残っていない。西野は市役所の古い台帳、当時の新聞の縮刷版、地元の伝承を一つずつ当たっていった。知るほどに、空白が増えた。空白が増えるほど、胸の奥のざわつきは強くなった。
——知りたい。
その欲求は、次第に日常を侵食し始めた。
食事中も、通勤中も、頭の片隅で常に日記のことが回っていた。妻が「最近、話を聞いていない」と不満を漏らしても、彼は上の空だった。夜、寝室で天井を見つめながら、次に調べるべき資料のリストを頭の中で作成した。睡眠時間は削られ、目の下に薄い影ができた。それでも、新しい事実が一つ判明するたびに、強い高揚が彼を満たした。
ある雨の夜、西野は決定的な手がかりを掴んだ。
日記の主が最後に住んでいた家の跡地が、今も空き地として残っていることを突き止めたのだ。彼は即座にそこへ向かった。雨の中、懐中電灯を手に、草に覆われた地基を調べる。何も出てこない。なのに、足元の土が、微かに息をしているような錯覚を覚えた。
その夜から、西野の「知る」は、明らかに変質した。
彼は日記の主が「知ってはいけないこと」を、自分もまた知ろうとし始めた。古い民間伝承、消滅した宗教の記録、精神病院の閉鎖されたカルテ。入手困難なものほど、価値があるように思えた。知識は彼を満たすと同時に、さらに大きな空腹を生んだ。知れば知るほど、知らなければならないことが増えていく。
妻が家を出て行った日も、西野は古い地図を広げたまま動かなかった。
置き手紙の内容すら、後からしか確認しなかった。
ある冬の深夜、西野はついに「核心」に触れかけた。
古い地下資料室で見つけた一枚の手記に、日記の主が最後に記した言葉とほぼ同じ文章があった。
『知ってしまった。もう戻れない。』
西野はその文字を指で辿り、静かに笑った。
やっと、近づけた。あと少しで、すべてを知れる。
しかし、その瞬間、彼ははっきりと理解した。
知りたいという欲求は、もう知識そのものでは満たされなくなっている。
知った先に何があるのか、知りたい。
知った自分がどうなるのか、知りたい。
知るという行為自体が、目的化していた。
西野は資料室の明かりを消し、暗闇の中で佇んだ。
頭の中で、無数の未解決の問いが渦を巻いている。
その渦は、もう止めることができなかった。
——もっと知りたい。
すべてを。
知るべきでないことまで、全部。
暗がりの中で、西野の喉が、小さく鳴った。
「知識欲」




