第五話 「返す」
森下健は、待ち続けることが得意だった。
人の記憶が薄れ、傷が瘢痕化し、日常が再び滑らかに流れ始めるその過程を、黙って観察する。焦らない。急がない。ただ、胸の奥に小さな石を一つ、静かに置き続けるだけだ。その石は、年月を経ても溶けなかった。むしろ、時間とともに角が研がれ、冷たく鋭くなっていった。
四十二歳。地方都市の市役所に勤める、ごく普通の男だった。部署は住民課。窓口で淡々と書類を処理し、住民の質問に丁寧に答える。同僚からは「真面目で穏やか」と評され、私生活でも特に問題を起こしたことはない。妻とは十年前に離婚し、子供はいなかった。一人暮らしのアパートは清潔で、余計なものがなかった。
すべてが変わり始めたのは、十五年前のことだ。
当時、森下はまだ二十代後半で、小さな会社に勤めていた。上司に当たる男が、意図的に彼の功績を奪い、ミスを着せ、最終的に退職へ追い込んだ。証拠は巧妙に隠され、周囲は誰も助けなかった。森下は抗議もせず、静かに会社を去った。その夜、彼は自分の部屋で、初めて明確な感情を抱いた。
——返したい。
そこから、森下の人生は、表向きは何も変わらないまま、内側だけが別の軌道を走り始めた。
彼は市役所に再就職し、淡々と勤務を続けた。一方で、かつての上司の動向を、遠巻きに、しかし正確に追い続けた。転職先、結婚、子供の誕生、住宅ローン、趣味のゴルフ。情報は少しずつ、しかし確実に集められた。直接接触はしない。ただ、相手の人生の「間」を、丁寧に記録し続けた。
十年が過ぎた頃、森下は気づいた。
復讐心は、最初の熱を失っていた。
代わりに、より冷たく、純粋な「返す」という行為そのものへの執着が残っていた。相手を苦しめることより、自分が「返した」という事実を、確実に手に入れることの方が重要になっていた。
ある秋の夜、森下は動いた。
相手の子供が通う学校の近くで、さりげない事故を演出した。直接手は下さない。ただ、相手の生活に小さな亀裂を走らせるための、最初の一打だった。そこから、静かに、段階的に、相手の基盤を崩していった。仕事の噂、金銭的な圧迫、家庭内の不和。すべてが、自然な流れに見えるように設計されていた。
相手がすべてを失い、夜の公園のベンチに一人で座っているのを、森下は遠くから見た。
雨が降っていた。
相手の背中は、十五年前の自分と重なった。
森下は傘を差したまま、しばらくその姿を眺めていた。
胸の奥の石が、初めて熱を帯びるのを感じた。
返した。確かに、返した。
しかし、その熱はすぐに冷えた。
石は溶けなかった。
むしろ、返したあとの空白に、新たな形で居座った。
「返した」という事実は手に入った。だが、それで何が満たされたのかは、分からなかった。
森下はアパートに戻り、いつものように明かりをつけず、窓の外の雨音を聞いた。
右手をゆっくりと握りしめる。何も掴んでいない。
なのに、確かに何かが残っている。
——まだ足りない。
もっと、正確に。
もっと、完全に。
すべてを、返したい。
暗がりの中で、森下の喉が、小さく鳴った。
「復讐欲」




