第四話 「握る」
加藤哲也は、人の「間」を見るのが上手だった。
相手が次に何を言うか、どこで躊躇し、どこで強がるかを、ほとんど無意識に読み取る。そして、その隙間に、そっと自分の言葉や態度を滑り込ませる。強制はしない。ただ、相手が自らそちらへ傾くように、 indetectable な力を加えるだけだ。
三十五歳。中堅商社の営業課に所属する、目立たない男だった。声は低く transient で、笑顔は丁寧で、誰にでも分け隔てなく接する。上司からは「協調性がある」、同僚からは「話しやすい」と評されていた。実際、彼は争いを好まなかった。ただ、人を「動かす」ことが、静かに好きだった。
変わり始めたのは、二年前の春のことだ。
担当した大きな案件で、難航していた交渉を、加藤はほぼ独力でまとめた。相手の担当者が見せた一瞬の迷いを、正確に突いたのだ。契約が成立した夜、加藤は一人で酒を飲みながら、胸の奥に広がる奇妙な満足感を味わった。相手が自分の掌の上で動いた、という感触。それが、ひどく快かった。
そこから、彼の「遊び」は、少しずつエスカレートしていった。
後輩の男性社員が、会議で意見を言い淀むのを見て、加藤は優しく補足する。すると後輩は彼を頼るようになり、次第に小さな決断まで相談してくるようになった。加藤はそれを拒まない。ただ、相手が自分なしでは動けなくなっていく過程を、静かに観察した。女性の同僚が私生活の悩みを打ち明けたときも、彼は否定も肯定もせず、ただ「そう思うなら、そうしたらいい」とだけ言った。その言葉が、結果的に彼女の人生を大きく変える選択を促した。加藤は、その報告を受けたとき、ほとんど表情を変えなかった。ただ、指先が、わずかに熱を持った。
——握っている。
その感覚が、彼を満たした。
ある雨の夜、加藤は決定的な一線を超えた。
昔、自分を公然と貶したことのある元同僚が、再び同じ会社に戻ってきたのだ。加藤は表面的には歓迎し、協力的な態度を示した。そして、徐々に情報を操作し、小さなミスを誘発させ、周囲の評価を静かに下げていった。直接手を下したわけではない。ただ、相手が自ら転落していく道を、丁寧に整えただけだ。元同僚が退職願を出した日、加藤は屋上で一人、雨に打たれながら、長く息を吐いた。掌の中で、何かが確かに砕けた感触がした。
快感は、以前より深かった。
加藤は、自分の能力を「仕事」以外にも使い始めた。
交際していた女性を、気づかれないようにコントロールした。彼女の友人関係、仕事の選択、将来の計画。すべてが、いつの間にか彼の望む方向へ傾いていく。彼女が「あなたがいると安心する」と言った夜、加藤は初めて、相手の瞳の奥に自分の影が映っているのを確認した。
——完全に、握っている。
その事実が、彼を静かに高揚させた。
しかし、支配は、完成に近づくほど、新たな不足を生む。
握りしめた相手が、完全に自分の意のままになると、興味が薄れる。加藤は次々と新しい対象を求め、より巧妙に、より深く、人を掌握しようとした。家族、友人、部下、恋人。誰も彼を「怖い」とは思わなかった。むしろ、頼れる人、優しい人と見ていた。そのことが、かえって加藤の満足を深めた。
ある冬の夜、加藤は鏡の前に立った。
鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらなかった。穏やかで、誠実そうで、何も企んでいないように見えた。だが、その目の奥に、冷たい光が宿っていることには、本人だけが気づいていた。
彼は自分の右手を、ゆっくりと握りしめた。
何も掴んでいない掌なのに、確かに何かの感触があった。
人の意思、選択、人生の軌道。そういったものを、握りつぶしている感触だ。
——まだ足りない。
もっと、強く。
もっと、深く。
すべてを、握りたい。
暗がりの中で、加藤の喉が、小さく鳴った。
「支配欲」




