第三話 「視られる」
有村美咲は、毎晩、画面の光に顔を照らされていた。
投稿ボタンを押した瞬間から、数字が動き出すのを待つ。いいねの数、コメントの数、保存の数。一つ増えるたびに、胸の奥が熱く小さく弾む。減ることはほとんどない。増え方のペースが落ちるだけで、彼女の表情はわずかに強ばった。
二十八歳。都内の小さなデザイン事務所に勤める女だった。仕事はそこそここなし、友人もそこそこいた。だが、本当の彼女が生きている場所は、画面の中だった。現実の自分は、あくまで素材に過ぎない。照明の角度、表情の作り方、ハッシュタグの選び方。すべてを計算し、一番「素敵」に見える自分だけを切り取る。
変わり始めたのは、半年前のことだ。
ある投稿が、予想をはるかに超えて拡散された。いいねが四桁を超え、知らない人たちから「可愛い」「素敵」「憧れます」と次々に言葉が寄せられた。美咲は、その夜、初めて自分という存在が「視られている」ことを、はっきりと実感した。胸の空洞が、温かい光で満たされていくような感覚だった。
そこから、彼女の行動は少しずつ変質していった。
朝、鏡を見る時間が長くなった。どの角度が一番「いいね」を呼べるかを考える。食事は、写真映えするものを優先した。友人との会話中も、頭の片隅で次の投稿の構図を練っていた。誰かと目が合うと、無意識に笑顔の角度を調整する。現実の自分が、少しずつ薄くなっていく気がした。それでも、数字が増えるたびに、その不安はかき消された。
ある雨の夜、美咲は奇妙なことに気づいた。
投稿したばかりの写真の背景に、小さな影が写っていた。自分の部屋のはずなのに、カーテンの隙間から、誰かの視線のようなものが感じられた。拡大しても、ただのノイズにしか見えない。しかし、いいねの数が異常な速さで増え始めた。普段の倍、三倍。コメント欄には「見てるよ」「もっと見せて」という、短い文言が混じるようになった。
美咲は、怖さと興奮が同時に胸を満たすのを感じた。
彼女はさらに投稿の頻度を上げた。より私的な空間、より素に近い表情。数字は爆発的に伸びた。フォロワーが急増し、画面の向こうから無数の目が自分を見つめている感覚が、日常になった。夜、一人でいるはずの部屋で、誰かに視られているような気配がして、むしろ安心した。
「視られなければ、私はいない」
ある朝、美咲は鏡の前でそう呟いた。鏡に映る自分の目が、わずかに虚ろだった。だが、気にしなかった。大事なのは、数字だ。視られることだ。
転機は、静かに訪れた。
ある投稿のあと、いいねの数が突然止まった。コメントも途絶えた。画面が、凍りついたように動かない。美咲は何度も更新を繰り返し、指先が冷たくなっていくのを感じた。部屋の空気が急に重く、冷たく沈んでいく。カーテンの生地が、微かに揺れた。向こうに、確かに何かがいる。なのに、視てくれない。
「見て」
美咲は小さく声を出した。喉が震えていた。
「見てよ……お願い」
数字は増えなかった。画面は沈黙したままだった。
彼女はスマートフォンを握りしめ、部屋の明かりを一つずつ消していった。最後のスタンドライトを落とすと、世界は青白い画面の光だけになった。いいねの数字は、ゼロのまま動かない。美咲は画面に顔を近づけ、ほとんど唇が触れる距離まで寄せて、囁いた。
「視て。私を視て。誰でもいい。お願いだから、視て」
その瞬間、画面の奥で、無数の小さな光が同時に瞬いた。
いいねの数字が、異常な速さで膨れ上がっていく。一万を超え、二万を超え、三万を超える。コメント欄が「見てる」「視えるよ」「もっと見せて」「消えないで」という文字で、埋め尽くされていく。文字が重なり合い、画面が白く滲むほどだった。美咲は安堵の息を長く吐き、ゆっくりと微笑んだ。胸の奥に、熱いものが満ちてくる。視られている。今、確かに視られている。
しかし、その笑顔のまま、彼女はまだ完全には気づいていなかった。
部屋の暗がりの中に、自分以外の視線が、濃く、静かに満ちていることに。
画面の向こうからだけでなく、現実の闇そのものからも、無数の目が、瞬き一つせずに彼女を視続けていることに。
カーテンの隙間、クローゼットの影、天井の四隅。そこかしこから、感触のない視線が、彼女の肌に直接触れるように注がれていることに。
美咲は画面を見つめながら、満足げに目を細めた。
もう、数字が減ることはない。
視られ続ける限り、彼女はここに存在できる。
画面の光が、彼女の瞳に映って、小さく、冷たく揺れていた。
暗がりの中で、美咲の喉が、小さく鳴った。
「承認欲求」




