第二話 「数字」
佐藤誠は、毎晩、同じ作業を繰り返していた。
リサイクルショップで安く手に入れた、表紙の擦り切れた古い手帳を開き、一本のボールペンを握る。銀行口座の残高、証券口座の時価評価、自宅の引き出しにしまってある現金。すべてを丁寧に合算し、今日という日の合計を出す。そして、昨日のページと比較する。数字が増えていれば、唇の端がわずかに緩む。減っていれば、何も言わずに赤ペンで細い線を引く。その作業が終わると、彼は手帳を閉じ、暗い部屋の中で長時間、動かなかった。まるで、何かの儀式を終えたあとのように。
三十八歳。中堅企業の経理課に勤める、どこにでもいるような男だった。妻の恵子と、小学三年生になる息子の悠人がいる。住まいは都内の築二十年を超えた賃貸マンション。決して裕福ではなかったが、生活に困ることもなかった。少なくとも、かつての佐藤はそう思っていた。
変わり始めたのは、三年前の秋のことだ。
地方に住んでいた父親が急死し、誰も住まなくなった古い実家を処分した際に、予想を上回る金額が入ってきた。借金を完済し、残った金を定期預金に移した夜、佐藤は初めて「安心」という感情を明確に味わった。それと同時に、胸の奥で何かがゆっくりと目を覚ました。数字が増えていくことへの、静かで、湿ったような興奮だった。
そこから、佐藤の日常は少しずつ、しかし確実に変質していった。
残業を厭わなくなった。終電間際まで会社に残り、蛍光灯の下で数字と向き合った。休日には資格の勉強をし、社内の投資研究会にも顔を出すようになった。恵子が「久しぶりに家族で温泉でもどう?」と明るく提案しても、「今は時期じゃない」と、目を合わせずに答えた。悠人の習い事を一つ減らし、浮いた月謝を積立に回した。恵子が「お金より大切なものがあるでしょう」と、困ったような顔で言った夜、佐藤は心の中で冷たく、明確に反論していた。
——数字より大切なものなど、あるのか?
愛情も、約束も、笑顔も、いつか必ず消える。しかし口座の残高は、正しく管理し続けさえすれば残り続ける。佐藤はそう信じるようになっていた。夜、寝室で妻の寝息を聞きながら、彼はしばしば手帳の数字を思い浮かべ、胸の奥で何かが小さく笑っているのを感じていた。
ある、雨の強く降る夜に、佐藤は重要な決断をした。
会社の取引先の担当者から、非公式な「案件」を持ちかけられた。表向きは正当な業務委託契約だが、実態は架空の経費を計上し、その差益を山分けするというものだった。リスクはある。発覚すればすべてを失う。だが、成功すれば一年で数百万円が手に入る。
佐藤は一晩中、手帳のページを開いたまま、雨音を聞いていた。ページの上の数字が、まるで生きているように見えた。
翌朝、鏡に映る自分の顔を見ながら、彼は静かに頷いた。鏡の中の目が、わずかに光を失っていることに、そのときは気づかなかった。
最初の入金があった日、佐藤は会社のトイレの個室で、長く手を震わせた。画面に表示された残高を何度も確認し、その数字を手帳に丁寧に書き写す。インクが滲まないように、慎重に、まるで神聖な文字を記すように。その夜、恵子が「最近、なんだか目が怖い」と声を震わせて言っても、彼は「ただ疲れてるだけだ」とだけ答えた。悠人が「パパ、キャッチボールしようよ」と近づいてきても、「今日は無理だ」と、息子の手を払いのけた。悠人の小さな手が、自分の袖を掴もうとした感触だけが、わずかに残った。
数字は、着実に増えていった。
佐藤は徐々に手を広げた。別の案件、別の口座、別の名義。リスク管理は徹底した。誰一人として気づかないように、慎重に、冷酷に。恵子が「あなた、変わった。もう、あなたじゃないみたい」と涙声で詰寄った夜も、佐藤の頭の中は数字で埋め尽くされていた。来月の目標額、再来月の目標額。家族の声は、遠くの雑音のようにしか聞こえなかった。大事なのは、数字を増やし続けることだけだ。それ以外のすべては、邪魔なノイズに過ぎない。
転機は、ある晴れた火曜日に突然訪れた。
内部監査が入った。最初の案件が発覚し、そこからすべてが明るみに出た。佐藤は即座に懲戒解雇処分を受け、会社から多額の損害賠償を請求された。自宅に戻ると、玄関の靴箱に恵子と悠人の靴がなかった。リビングのテーブルの上に、短い置き手紙だけが残されていた。
『もう、ついていけない。怖い。ごめんなさい』
佐藤は手紙を何度か読み返したあと、ゆっくりと手帳を開いた。
残高は、ほとんど残っていなかった。三年かけて積み上げてきた数字が、ほぼ消えていた。彼はボールペンを握り、今日の合計を書いた。そして、昨日のページと比較した。
大幅なマイナスだった。
佐藤はしばらくの間、その数字を見つめていた。
怒りも、悲しみも、後悔も、ほとんど湧いてこなかった。
それらはすべて、遠い場所にあるように感じられた。
ただ、一つだけ、はっきりと理解できたことがあった。
数字は、減る。
どれだけ慎重に扱っても、どれだけ強く欲しがっても、減るときはあっさりと減る。
そして、減ったあとには、何も残らない。
佐藤は手帳を閉じ、薄暗い部屋の中で一人、椅子に座っていた。
窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。雨粒がガラスを伝う音だけが、静かに、執拗に響いている。
彼の胸の奥で、三年前に目を覚ました何かが、静かに、しかし確実に、また動き始めていた。
それはもう、単なる欲ではなかった。
冷たく、湿って、飢えた獣のように口を開けた、別の生き物のようだった。
——足りない。
まだ、足りない。
もっと、数字が欲しい。
全部、欲しい。
暗がりの中で、佐藤の喉が、小さく鳴った。
「金銭欲」




