第一話 「渇く」
夜の街は、細い雨に打たれて鈍く光っていた。
遠野健一は、いつものように会社を出て、最寄りの駅までの道を歩いていた。傘を差すほどでもない雨が、肩を湿らせ、革靴の先端を黒く染めていく。三十を二つほど過ぎた男の日常は、特別な不満も希望もなく、ただ滑らかに流れていくものだった。残業はそこそこあり、給料はそこそこ入り、週末は一人で酒を飲んで眠る。誰かと深く関わりたいとも思わず、かといって完全に孤独を望んでいるわけでもない。ただ、胸の奥に小さな空洞があることだけは、時折自覚していた。
その女を見たのは、大きな交差点の信号待ちだった。
黒いロングコートの襟を高く立て、雨に打たれながらも、どこか乾いた空気を纏っている。長い黒髪は水を含んでも艶を失わず、街灯の白い光を細く反射していた。顔立ちは整っていた。目鼻立ちがはっきりしていて、唇は薄く、静かだった。だが、何より異様だったのは視線だ。誰かを探しているようでも、誰のことも見ていないようでもある。虚ろで、しかし鋭い。遠野と目が合った瞬間、彼女はほんのわずか、口角を上げた。
「……濡れてる」
低い声だった。雨音に紛れそうなほど小さかったが、確かに届いた。遠野は反射的に自分の傘を差し出した。彼女は拒まなかった。静かにその下に滑り込むと、彼のすぐ隣に立った。距離が近い。雨の匂いと、彼女から漂う独特の香りが混じる。甘くて、どこか獣じみた、香水では説明できない匂いだった。遠野の喉が、小さく鳴った。
「どこまで行くの?」
「決めてない」
彼女はそう答えて、遠野の腕に軽く指を触れた。指先は冷たかった。それだけで、彼の胸の奥にあった空洞が、熱を持って広がっていく。理性的な判断など、すぐに霞んだ。信号が青に変わっても、二人はすぐには動かなかった。
「雨、やみそうにないね」
遠野が言うと、彼女は小さく頷いただけだった。そして、彼の腕を軽く引いた。自然な仕草だった。遠野は抵抗しなかった。ネオンの海を横切り、人通りの少ない路地を曲がる。古いビジネスホテルの看板が、雨に滲んで見えた。彼女は何も言わず、フロントで鍵を受け取ると、遠野の手を取った。指が絡む。冷たいはずの手が、今は熱を帯び始めているように感じられた。
エレベーターの中で、彼女は突然、彼の唇に自分の唇を重ねた。強引でも甘くもなく、ただ当然のように。舌が触れた瞬間、遠野は自分がどれほど長く、何かを渇望していたのかを初めて明確に自覚した。彼女の口の中は熱く、柔らかく、彼を深く吸い込んでくる。背中に回された腕が、強く引き寄せる。階数表示がゆっくりと変わっていく間、遠野は自分の名前すら遠く感じた。
部屋の明かりは、最初から落とされていた。
カーテンの隙間から、街の光が細く青い線となって差し込み、彼女の輪郭を浮かび上がらせる。コートを脱いだ身体は予想以上に華奢で、白い肌が青白い光に濡れて見えた。遠野は彼女の首筋に唇を寄せ、鎖骨をゆっくりと辿り、胸の膨らみを掌で確かめた。乳首はすでに硬く、触れると小さく震える。彼女は喘ぐでもなく、ただ静かに目を細め、彼の手を導くように動いた。
「もっと、触って」
その声で、遠野の理性は完全に崩れた。
服を一枚ずつ剥がしていくたびに、彼女の体温が上がっていく。ベッドに押し倒すと、彼女は脚を開き、彼を受け入れた。結合した瞬間から、遠野は自分の輪郭が溶けていくような快楽に沈んだ。内部は熱く、柔らかく、求めるように彼を締めつけてくる。彼女は彼の動きに合わせて腰を揺らし、時折、耳元で囁いた。
「欲しい?」
「欲しい……」
「どれくらい?」
「全部だ。お前の全部が欲しい」
彼女は低く笑った。暗い部屋の中で、その笑いは奇妙に響いた。遠野は何度も果て、そのたびに彼女は彼を蘇らせた。指で、口で、身体全体で。時間の感覚が消えていく。窓の外の雨音だけが、遠くで単調に続いていた。汗が混じり、吐息が混じり、彼女の髪が彼の胸に張り付く。
やがて彼女は、彼の上に跨がった。ゆっくりと腰を沈めては上げ、沈めては上げる。遠野は彼女の細い腰を掴み、下から突き上げた。彼女の吐息が初めて乱れ、甘い声が漏れた。その声は官能的で、しかしどこか虚ろで、遠い場所から聞こえてくるようでもあった。
「あなたは、何を欲しているの?」
遠野は答えられなかった。ただ、もっと深く、もっと強く、彼女を感じたかった。彼女の内部が強く痙攣し、彼もまた限界を迎える。白い光が視界を埋め尽くし、思考が途切れた。
気がつくと、部屋は静かだった。
雨は止み、カーテンの隙間から薄い朝の光が差し込んでいる。隣の空間は空だった。シーツには、彼女の体温の残り香だけが薄く漂っている。遠野はゆっくりと起き上がり、部屋を見回した。コートも靴も、下着一枚すら残っていない。ただ、枕元に一枚の小さな紙切れがあった。
達筆な、しかし冷たい文字で、こう書かれていた。
『あなたは、もう戻れない』
遠野は紙を握りしめ、窓の外を見た。朝の街は、いつもと変わらず人々が動き始めていた。だが彼の喉は、ひどく、容赦なく渇いていた。水道の水をがぶ飲みしても、コンビニで買ったコーヒーを飲んでも、その渇きは消えない。胃の中に何を入れても、胸の空洞は満たされない。
その日から、遠野の日常は静かに歪み始めた。
夜になると、彼は理由もなく街を歩くようになった。特に雨の降る夜を好んだ。信号待ちの横断歩道で、黒いコートの女を探すように目を凝らす。彼女に再び出会えるかどうかは、もうどうでもよくなり始めていた。ただ、あの夜に味わった渇きだけが、確かに、執拗に彼の中に残り続けている。
——欲しい。
もっと欲しい。
全部が、欲しい。
喉の奥で、何かが囁き続けている。
「性欲」




