第七話 「満たす」
村上陽子は、空腹を恐れていた。
正確に言えば、空腹そのものよりも、「満たされない」という感覚を恐れていた。胃が空になる前に、何かが胸の奥で小さく縮み始め、それがじわじわと広がっていくのを、彼女は嫌っていた。だから、彼女は定期的に口に何かを運んだ。食事の時間でなくても、デスクの引き出しに常備した菓子を少しずつ溶かし、自販機の甘い缶コーヒーを午後に二本は飲んだ。満たされている時間だけが、彼女を安全に感じさせた。
三十四歳。都内の広告代理店で、企画の補佐を務める女だった。仕事は丁寧で、締め切りを守る。同僚からは「落ち着いている」「気遣いができる」と見られていた。私生活でも、特に奔放なところはなかった。一人暮らしのマンションはきちんと片付いており、冷蔵庫には常に日持ちのする食品が並んでいた。
変わり始めたのは、二年前の冬のことだ。
大きなプレゼンに失敗し、担当を外された夜、陽子は初めて、明確な「空洞」を自覚した。胃は空ではなかった。なのに、胸の真ん中が、ぽっかりと欠けているように感じられた。彼女はコンビニに立ち寄り、普段は買わない弁当とスイーツ、揚げ物を手当たり次第にカゴへ入れた。帰宅後、テーブルの上に並べ、一つずつ、丁寧に口に運んだ。温かいもの、冷たいもの、甘いもの、塩辛いもの。歯が食感を噛み砕き、舌が味を広げ、喉がそれを飲み下すたびに、空洞が少しずつ埋まっていく気がした。
その夜、彼女は食べ終わったあとも、まだ足りないと感じた。
そこから、陽子の「満たす」行為は、徐々に日常の規範を超えていった。
朝は余裕を持って起き、トーストにバターを厚く塗り、卵を二つ割り入れ、ヨーグルトにハチミツをかけて食べる。会社では、誰もいない給湯室で菓子パンを追加し、昼休みは定食に小鉢を二品足す。退勤後は、スーパーで割引の総菜をまとめ買いし、夜はテーブルいっぱいに広げて、テレビもつけずに食べる。食べる速度は速くなかった。むしろ、ゆっくりと、一つひとつの感触を確かめるように噛んだ。油の舌触り、炭水化物のふくらみ、タンパク質の弾力。それらが体内に収まっていく感覚だけが、彼女を一時的に安心させた。
体重は増え、衣服のサイズは変わった。鏡に映る自分の輪郭が丸みを帯びていくのを、陽子は淡々と受け止めた。同僚が「最近、ちょっとふくよかになった?」と冗談めかして言っても、彼女は小さく笑って曖昧に話を濁した。大事なのは、見た目ではなかった。満たされているかどうかだけだった。
ある雨の夜、陽子は決定的な変化を経験した。
帰宅すると、いつものように袋を開け、食品を並べた。しかし、食べ進めている途中で、突然、強い虚無が押し寄せてきた。胃はすでに重い。なのに、胸の空洞が、以前より深く、大きく口を開けているように感じられた。彼女は箸を置き、自分の腹部に手を当てた。皮膚の下で、何かが足りないと訴えている。食べ物では、もう届かない場所があるのかもしれない、という考えが、ちらりと脳をよぎった。
それでも、彼女は再び箸を取った。
食べた。強制的に、意識的に、量を増やして食べた。甘いもの、塩辛いもの、冷たいもの、熱いもの。口の中が飽和し、喉が拒否反応を示し始めても、止めなかった。食べること自体が、空洞に対抗する唯一の手段だと思えたからだ。床に座り込み、袋の底まで平らげたとき、陽子は初めて、涙が顔を伝うのに気づいた。満腹で苦しいのに、満たされていなかった。
その後の彼女の食は、明らかに変質した。
食事の時間という概念が消えた。起きている間は、ほぼ常に何かを口にしていた。夜中に目が覚めれば、冷蔵庫の扉を開け、暗闇の中で冷たいままの食品を手掴みで口に運んだ。味の区別が曖昧になっていく。必要なのは、量と、飲み込むという動作そのものだった。身体は重くなり、階段を上るだけで息が切れるようになった。鏡を見るのが辛くなり、彼女は浴室の鏡を布で覆った。
それでも、空洞は消えなかった。
むしろ、食べれば食べるほど、空洞は敏感に、深くなっていくように感じられた。満たそうとすればするほど、満たされない部分が強調される。陽子は、その矛盾に気づきながらも、止められなかった。止めたら、空洞が自分を飲み込むのではないかという恐怖が、常に背中にあった。
ある冬の深夜、陽子は部屋の明かりをすべて消し、床に座った。
周囲には、開けられた食品の袋と、空の容器が散乱している。彼女の腹部は張り、呼吸は浅く、喉は甘いものと油で膜が張ったようだった。なのに、胸の奥は、風が吹き抜けるように空だった。陽子は自分の腕を抱き、ゆっくりと体を揺らしながら、小さく呟いた。
「まだ、足りない」
声は、自分のものとは思えないほど低かった。
空腹ではない。満腹ですらある。
なのに、何かが、激しく、執拗に、もっと求めている。
食べ物では届かない、もっと根源的な「満たし」を。
陽子は暗闇の中で、自分の喉が鳴る音を聞いた。
それは、空腹の音ではなかった。
満たされたいと願い続けた結果、生まれた、別の生き物の声のようだった。
——もっと。
もっと、満たしたい。
この空洞が消えるまで、すべてを、飲み込みたい。
暗がりの中で、陽子の喉が、小さく鳴った。
「食欲」




