第六十五話 死ねない男
ガルドの後を追って、崩れた砦の中へ入る。外から見た通り、中もかなり傷んでいた。壁はひび割れ、天井の一部は落ちている。人が長く暮らすような場所ではない。
奥へ進むと、広い部屋に出た。
そこに、一人の男がいた。
「……」
大きい。座っていても分かる。立てば二メートル近くあるだろう。ただ、その身体はひどく痩せていた。簡素な服から覗く腕も、首も、顔も傷だらけだった。
どれも新しい傷じゃない。剣で斬られたもの。爪で裂かれたもの。火傷らしき跡。何度戦場を潜り抜ければ、こんな身体になるのか。そんなことを思わせる。
そして、両手と両足。四肢すべてが、太い鎖で壁へ繋がれていた。
「バティス」
ガルドが声をかける。
男が、ゆっくり顔を上げた。頬はこけ、目だけがうろんに落ちくぼんでいる。
「……誰だ」
「君がバティス?」
「そうだ」
「勇者」
「……」
しばらく僕を見る。
「お前みたいなガキが、世界を救う勇者か」
「悪かったね」
「別に責めちゃいない」
低い声だった。覇気はない。けれど、身体に残った傷と、その大きさだけで、この男が普通じゃないことは分かる。
「頼みがある」
「なに?」
「俺を、殺せ」
「……できるわけないだろ」
即答すると、バティスの眉がわずかに動いた。
「俺は、味方殺しだ。死罪に値する」
「僕は殺し屋とか、執行人じゃない」
「あいつらにはできなかったんだ」
「あいつら?」
「国の兵士だ」
バティスが鎖を小さく鳴らした。
「俺は捕らえられ、縛られ、繋がれ、死を願った。当然だ。自分で何人殺したかも分からない。罵られた。石を投げられた。唾を吐かれた。斬られた首は討ち捨てられて当然だと思っていた」
淡々としている。だからこそ、重い。
「だが、俺の首を斬ろうとしても、誰にもできなかった」
「どうして?」
バティスは答えず、ガルドへ目をやった。
「やれ」
ガルドが短剣を抜く。
「え?」
次の瞬間、素早く踏み込み、バティスの首へ刃を滑らせた。
「駄目!」
ミリアが声を上げる。
でも、刃は届かなかった。
硬い音が響く。
「……!」
バティスの首元。そこだけに、黒いものが浮かんでいた。鎧――いや、昨日ガルドから聞いた、あの黒い何かだ。
「今の……」
リナリアが剣へ手をかける。
「大丈夫だ」
ガルドが短剣を引く。それだけで黒いものは消えていった。まるで最初から何もなかったように。
「僕には、バティスが動いたようには見えなかったけど」
「動いていない」
本人が答える。
「俺は何もしていない」
「じゃあ」
「こいつだ」
自分の胸を指す。
「俺の中にいる」
ミリアが息を呑んだ。
「死にそうになると出てくる」
「……」
「俺が自死を選ぼうとしても、止められる。ならば飢えを選ぼうとしたこともある」
「食べないってこと?」
「ああ。だが、それも無理だった」
「どうなるの?」
「俺が意識を失った隙に暴れる。食い物を漁り、まともな水がなければ泥水でも啜らせる」
ミリアの表情が強張る。
「本人の意思とは関係なく……?」
「そうだ」
バティスが自分の胸へ手を置いた。
「つまり……」
「こいつに寄生されているんだ」
バティスが頷いた。
「そうなれば、この鎖だって簡単に引きちぎれる。これは俺を閉じ込めるためのものじゃない」
「じゃあ?」
「ガルドが安全な場所に逃げるまでの、気休めでしかない」
ガルドは何も言わなかった。ただ、その言葉を否定もしなかった。
なるほど。分かった。
あの黒い何かは、ただの魔物じゃない。
蒼異将セヴラン。
あいつの実験魔獣か。
前回戦った時も、そうだった。部下に恐ろしい武器や鎧を持たせたり、本来なら知能の低いはずの魔物に魔法を使わせたり、モンスターや配下の魔人を弄って別の何かに変えて差し向けてきた。
何ができるか。どこまで強くなるか。壊れるまで試す。
そういうことを平然とやる奴だった。
ある時は、人間ですら――。
「……」
そこから先は、思い出すのをやめた。
思い出したくもない。
「勇者?」
「何でもない」
ただ、一つだけ確信した。
バティスは、運悪く化け物に取りつかれたんじゃない。誰かが、何かを試すために、最初からこうなるよう作ったものだ。
その時、ガルドが少し俯いていることに気づいた。
戦場でバティスが暴れた時、何もできなかった。そのことを、ガルドは今も引きずっている。
一方でバティスは、自分が仲間を殺した事実に耐えきれず、死を願っている。
ふたりの思惑が、奇妙なところで一致したのだろう。
バティスは、この地に繋がれることを選んだ。そしてガルドは、その危険な男の世話を続けている。自分が逃げたことへの贖いとして。
多分。そんなところだ。
「頼む」
バティスが言った。
「殺してくれ。勇者なら、できるんじゃないか。俺に取りついた奴ごと殺してくれ。今は大人しく眠っている。だが、前と同じことが起きたら……どれだけの被害が出るか、想像したくもない」
僕は少し考えた。
「はっきり言う」
「……」
「僕は殺したくない」
バティスの目が動いた。
「なに?」
「理由は二つ。まず一つ目。殺そうとして、そいつが本気で抵抗してきたら」
バティスを見る。
「僕でも勝てるか分からない」
「……」
一瞬、バティスが呆けたような顔をした。それから、口元だけで笑った。
「正直だな」
「嘘ついても仕方ないし」
「勇者なら、なんとかするとでも言うのかと思った」
「できるか分からないことは、できるって言わない」
「そうか」
自嘲気味に笑う。でも、少しだけさっきより表情が人間らしくなった。
「二つ目。どうにか殺す方法を見つけたとして、君をただ殺して終わりじゃ、君も、君に殺された人たちも、浮かばれないだろ」
バティスの顔から笑みが消えた。
「なんだと」
「君をそんなにした敵。心当たりがある」
「……何?」
「蒼異将セヴラン」
ガルドが顔を上げる。バティスの目も、わずかに見開かれた。
「ガルドが見た魔人たち。その口の動き。それに、君に取りついたもの。たぶん、全部あいつの実験だ」
「実験……?」
「そういう奴なんだ」
バティスの顔が歪む。
「だから何だ」
「君をこんな目に遭わせた奴」
僕はバティスを見る。
「殺したくない?」
「……俺に、そんな資格があると思うのか」
「資格?」
「仲間を殺した俺が」
「知らない」
「……」
「僕は資格の話をしてない。殺したいかって聞いてる」
長い沈黙。
バティスの拳が、ゆっくり握られる。
「……殺したい」
低い声だった。
「俺をこんなものにした奴を。この手で殺せるなら……」
「じゃあ」
僕は言った。
「どうせ死ぬなら、死ぬ前にやりたいことやったらいいんじゃないか」
「勇者様……」
ミリアが、明らかに引いた顔で僕を見る。リナリアも同じだった。
「それは……励ましているのでしょうか」
「励ましてるつもりだけど」
「その言い方でですか?」
「駄目?」
「かなり駄目です」
ガルドまで、ぎょっとした顔でこっちを見ている。
そんなに変なことを言っただろうか。
「どうせ死ぬなら、か」
バティスだけが妙に真剣な顔で考え込んだ。
少しして、頷く。
「確かにな」
「納得するんですか!?」
リナリアが思わず声を上げた。
「俺はずっと、死ぬことしか考えていなかった。死ぬ前に何をするかなんて、考えたこともなかった」
「じゃあ決まり」
「何がだ」
「セヴランを殺す方法を考える。そのついでに、君の中にいる奴をどうにかできるかも考える」
「ついで扱いか」
「優先順位は大事だから」
バティスが少しだけ笑った。
ほんのわずかに。
「セヴランを殺しても、まだ止まらなかったら?」
「……」
「俺の中のこいつが残って、また暴れたら。その時は、どうする」
「安心しなよ」
僕は答えた。
「その時は、僕が殺してあげる」
それまで呆れていたミリアたちが、黙った。
「君を外に出すのは僕だ。だったら、それが君を解き放つ僕の責任だ」
バティスの落ちくぼんだ目が、わずかに見開かれる。
「もし君が戻れなくなって、また誰かを殺そうとするなら」
僕はバティスから目を逸らさない。
「何をおいても、絶対に殺す」
今度は、誰も何も言わなかった。
しばらく、バティスも黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうか。そこまで言うなら」
四肢を繋ぐ鎖を見る。
「一度くらい、お前に賭けてみるのも悪くないかもしれんな」
「うん」
僕は頷いた。
勇者の言葉とは思えない。
自分でも、そう思う。
『契約が進みました』
『称号《***のカリスマ》を獲得しました』




