第六十四話 ガルドとの再会
森の民の集落を出てから、しばらく歩いた。
道はさらに細くなり、木々も深くなっていく。陽の光もほとんど地面まで届かない。やがて、森の奥に崩れかけた石造りの建物が見えてきた。
「ここですじゃ」
案内してくれた老人が足を止める。
かなり古い砦だった。外壁の一部は崩れ、見張り台も半分ほどしか残っていない。門も壊れたまま。先の戦役で打ち壊され、そのまま放置されたらしい。
「この中にガルドが?」
「ええ」
僕が一歩前へ出た、その時だった。
「誰だ」
鋭い声が飛んできた。
足が止まる。
聞き覚えがある。懐かしい。
まだ僕が知っている頃より少し若い。でも、間違えるはずがない。
「わしじゃ」
老人が声を張る。
「東方から、勇者様がお見えじゃ」
「勇者がここに……?」
木陰から一人の男が姿を現した。
長い髪を頭に巻いた布でまとめている。ただ、すべてを束ねきれてはいないらしく、何本かが頬や目元へ垂れていた。鋭い目つきに細身の身体。少し姿勢を落としているせいか、一瞬僕よりも小柄に見えるが、実際には僕よりずっと背が高い。
ガルド。
森の民。
前回、僕たちの仲間だった斥候。
ただし、今はまだ十七歳。
「ここに何の用だ」
やっぱり声も変わっていない。
「君に話を聞きに来た」
「俺に?」
「その……中の男の件だ」
ガルドの目が変わった。
次の瞬間、地面を蹴る。木の幹へ足をかけ、そのまま枝へ飛び移り、さらに上へ。気づけばかなり高い位置にいた。
「速い!」
リナリアが思わず声を上げる。
「話したくない」
「……」
そう来るか。
「うーん……」
どうしよう。捕まえるのは違うし、森の中で追いかけても多分僕よりガルドの方が速い。
なら。
「ミリア」
少し後ろにいたミリアを呼ぶ。
「はい?」
「君から頼んで」
「私ですか?」
「うん」
「どうして?」
「いいから」
「……?」
不思議そうな顔をしながら、ミリアが前へ出る。
「あの……お話だけです。どうかお願いできませんでしょうか」
その瞬間、ガルドの表情が変わった。
驚いたような、何かを思い出したような顔でミリアをじっと見る。
「?」
ミリアが首を傾げる。
ガルドは小さくかぶりを振ると、木の上から飛び降りた。ほとんど音も立てずに着地する。
「……少しなら」
「ありがとうございます」
ミリアが笑うと、ガルドは視線を逸らした。
効果てきめんだ。
なんていうか。そういうことに鈍い僕でも、前回の旅の時に気づいていた。
ガルドはミリアにだけ少し優しい。というか、甘い。
僕や他の仲間には必要なことしか話さない。でも、ミリアに頼まれると断らないことが多かった。
そこまで親密だったとは思わない。
でも。
そういうことなのかな。
「勇者様?」
「何?」
「どうして私なら大丈夫だと思ったんですか?」
「勘」
「またですか?」
「うん」
リナリアがじっと僕を見る。
「……何?」
「いえ」
最近、こういう視線を向けられることが増えた気がする。
「それで」
ガルドが言った。
「王に、どこまで聞いた」
「撤退する魔王軍を追って、群島の連合軍が追撃を仕掛けたこと。それから、魔王軍も連合軍も壊滅状態になった。でも詳しいことは分かっていない。ただ、バティスという名前を出してはいけなくなった……ってところかな」
ガルドが頷く。
「概ね、そんなところだ」
「じゃあ」
「俺が見たことを話す」
老人が少し離れた。ガルドも砦からわずかに距離を取る。
「中では話さないの?」
「本人の前でする話じゃない」
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
「俺は斥候として、魔王軍の痕跡を辿っていた。奴らが一時的に留まっている場所を見つけた」
「居留地?」
「ああ。撤退途中のものだろう。船もあった。飛行魔獣も何頭かいた」
「それで?」
「味方に合図を出した。あとは連合軍が来るまで、奴らの動きを見張るつもりだった」
「ガルドは戦わなかったの?」
「斥候が先に見つかってどうする」
「それもそうか」
「味方が来れば、俺は遠距離から飛行魔獣を落とすつもりでいた」
さすが。ガルドらしい。
「木の上から見張っていると、恐らく指揮官らしき魔人が何人か集まっていた」
「話してた?」
「そう見えた」
「聞こえた?」
「いや。口の動きだ」
ガルドが自分の目を指差す。
「全部は分からない。だが、何度か同じ言葉を口にしていた」
「何て?」
「セヴラン」
「……」
知っている名前だった。
蒼異将セヴラン。
魔王軍四天王の一人。
「間違いない?」
「絶対とは言わない。だが、そう見えた」
「それで?」
「その魔人の一人が、後ろにいた大型の魔物へ合図をした。かなり大きかった。身体が異様に膨れていて、歩くのも辛そうだった」
「戦わせるための魔物には見えなかった?」
「少なくとも俺には、そう見えなかった」
その後、連合軍が到着した。
「バティスも?」
「ああ」
「先頭?」
「誰より先に」
ガルドが短く答える。
「大きな戦斧を持っていた。奴は先陣を切って魔王軍へ突っ込んだ」
魔王軍は撤退しようとしていた。それでも追いつかれれば抵抗する。
バティスは戦斧を振るい、立ちはだかる魔物を次々に打ち倒していった。
「そのまま、あの大型の魔物のところまで行った」
「そいつは?」
「うずくまっていた。逃げもしない。襲ってもこない」
「怪しいね」
「今ならそう思う」
その時は、傷ついて動けない魔物だと思った。
「バティスが近づいた。かなり近くまで」
ガルドの声が低くなる。
「その瞬間、魔物が炸裂した」
「炸裂?」
「爆発とは違う。身体が内側から弾けたんだ。腹が裂けて、中から黒いものが飛び出した」
ミリアの表情が強張る。
「何か、とは?」
「分からない。肉の塊にも見えたし、虫の群れにも見えた」
「それが?」
「バティスに飛びついた。奴はすぐに振り払おうとした。だが、遅かった」
黒いものは一気にバティスの全身へ広がった。身体を覆い、鎧に絡みつき、そのまま鎧ごと別物へ変わっていった。
「別物?」
「ああ。真っ黒で、全身が凶器みたいな姿だった」
人間が鎧を着ているようには見えなかったという。
黒い鎧そのものが生き物のように歪み、尖り、バティスの身体と一つになっていた。
「それで?」
「動いた」
近くにいた魔物へ飛びかかった。
「ほとんど素手だった」
「素手?」
「ああ。顔を掴んで地面に叩きつける。喉を裂く。身体ごとぶつかる。どこで斬っているのか分からない時もあった」
ガルドの眉が寄る。
「触れた奴が、そのまま裂けていった」
全身が武器になっていた。
「しかも、走り方まで変わった」
「走り方?」
「四つ足だ」
リナリアの表情が変わる。
「人間の走り方じゃなかった。地面すれすれまで身体を落として、獣みたいに駆け回った」
「速かった?」
「俺でも追えなかった」
即答だった。
「木も岩も関係ない。跳び、駆け、方向を変えて、近くにいる奴へ次々飛びかかっていった」
「遠くにいる奴は?」
「そこで、変なことが起きた」
ガルドが自分の腕を前へ出す。
「空へ逃げようとした魔物に向かって、バティスが手を伸ばした。すると、手の辺りから黒いものが膨らんだ」
そして。
「斧が生えた」
「斧?」
「ああ」
ガルドが目を細める。
「たぶん、あれはバティスが持っていた戦斧だった」
形は似ていた。でも、柄はない。腕から直接生えていた。
「それが、そのまま伸びた」
「伸びた?」
「ああ。あり得ない長さまでな。腕を振ると、離れた場所にいた魔物がまとめて薙ぎ払われた。空にいた奴まで落とされた」
「近づいても駄目。離れても駄目」
僕が言う。
「そうだ」
ガルドの顔が少し歪んだ。
「だから、味方は歓喜した。群島一の戦士が、化け物みたいに強くなったと思ったんだ。我も我もと、前線へ躍り出た」
そして。
「そこで異常事態が起きた」
誰も口を挟まない。
「味方ごと斬られた」
「……」
「バティスは、自分に近づくものに反応していた」
「敵か味方かは?」
「関係ない。モンスターだろうが、人間だろうが、近づけば殺した」
ガルドの声が少しずつ硬くなる。
「近くに何もいなくなると、今度は自分から動いた。四つ足で駆け回って、動くものを次から次に殺した」
「抵抗は?」
「無駄だった。剣を構えれば、その前に斬られた。逃げても追いつかれた。空へ逃げても落とされた」
ガルドが続ける。
「先ほど見た、指揮官らしき魔人もいた」
「あいつも?」
「ああ」
「逃げなかったの?」
「逃げようとはした。だが、遅かった。あっという間に斬られた」
そこでガルドは少しだけ目を伏せた。
「最後の言葉だけは分かった」
「何て?」
「『話が違う』」
「……」
その言葉が妙に引っかかる。
話が違う。
誰と。
何が。
どう違ったのか。
「動くものは、みるみる減っていった」
ガルドが続ける。
「俺は……」
そこで言葉が止まった。
しばらく黙ってから、絞り出すように言う。
「恐怖で、身動きが取れなかった」
「……」
「動いたら察知される。殺されると思った」
拳が固く握られる。
「バティスによって一帯が血の海に変わる頃、俺はようやく正気に返った。後方の連合軍に撤退の合図を出して、俺自身も逃げた」
「見たことを伝えるために?」
「ああ」
そして、ガルドは連合軍の指揮官へ報告した。
「軍は速やかに撤退した」
「追撃は?」
「続けられるわけがない。どのみち、モンスターどもは皆殺しにされてたからな」
「……目的は、最悪の形で達成されてしまった、というわけか」
ガルドがぎろりと僕を睨んだ。
「勇者様」
リナリアが小声で咎める。
「いい」
ガルドが遮った。
「……そういうことだ」
怒ってはいる。でも、否定はしなかった。
「その後は?」
「連合軍はさらに後ろまで下がって、防衛陣地を築いた。バティスが来るかもしれなかったからな。俺たち森の民は、周囲のあちこちに監視として配置された」
「ガルドは?」
「一番現場に近い場所へ行った」
「どうしてですか?」
ミリアが尋ねる。
ガルドは少し黙った。
「少しでも、罪滅ぼしがしたかった」
「罪などではありません」
ミリアがすぐに言った。
「あなたは斥候として、やるべきことをしたのでしょう? あなたまで命を落としていたら、何が起きたのか誰にも伝わらなかったかもしれません」
ガルドがミリアを見る。
また、さっきと同じ顔。
「……そうかもしれない」
それだけ答えて、話を続ける。
「俺は少しずつ現場へ近づいた」
「怖くなかった?」
「怖かった」
即答だった。
「でも、どこにいるのか確認しなければならなかった」
森を進み、血の匂いが残る場所へ。
「そこで、バティスを見つけた」
「どんな状態だった?」
「倒れていた。黒い鎧はなかった」
「消えてた?」
「ああ。人間の姿に戻って、血まみれで地面に倒れていた。死んでいると思った」
「でも?」
「時々、動いていた」
「生きてたんだ」
「ああ」
ただ、近づくことはできなかった。
「だから試した」
「何を?」
ガルドが足元の小石を拾う。
「逃げ切れると踏んだ距離から、石を投げた」
「バティスに?」
「ああ」
「当たった?」
「当たった」
ガルドの表情が強張る。
「奴は起きた」
「鎧は?」
「出なかった」
「襲ってきた?」
「いや」
ガルドが首を横に振る。
「周囲を見回した。自分の手を見て、地面を見て、死体を見た」
そこで声が少し低くなる。
「それから、叫んだ」
「何て?」
「言葉じゃない」
「え?」
「声になってなかった」
ガルドの視線が遠くなる。
「聞いたことのない声だった。怒っているのか、泣いているのか、苦しんでいるのか。全部だったのかもしれない」
「……」
「喉が潰れるほど、身体の奥から吐き出すように。ただ、慟哭していた」
誰も何も言えなかった。
「その声は、後方の陣地にまで届くんじゃないかと思った」
ガルドは砦を見る。
「それを聞いて、俺は初めて思った」
「何を?」
「こいつは、まだバティスなんだって」
風が木々の間を抜ける。
「そのあと、俺はあいつに近づいた」
ガルドは今度こそ砦の入口へ視線を向けた。
「続きは、本人を見てから聞いた方がいい」
僕も砦を見る。
あの中にいる。
群島一の戦士。
敵も味方も、何もかも殺した男。
そして、そのあと声にもならない慟哭を上げた男。
「分かった」
僕は答える。
「会わせて」
ガルドは少しだけ僕を見ると、砦へ向かって歩き始めた。




