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幕間四 まだ、足りぬ

「エンブリオが敗れた」


 魔王の静かな声が、広間に響き渡った。


 玉座の前に並ぶ魔族たちは、深く首を垂れている。


 誰一人として、声を発しない。


 額には汗が浮かんでいた。


 何か策を求められたら。


 意見を述べろと言われたら。


 あるいは――次に勇者を討てと命じられるのが、自分だったら。


 そう考えるだけで、誰も身じろぎできなかった。


 魔王軍四天王。


 黄泉の将エンブリオ。


 死者を兵とし、戦えば戦うほど軍勢を増やす。


 南方攻略を任されていた将が、勇者に敗れた。


 それだけではない。


 エンブリオが失われたことで、奴の支配下にあったアンデッドたちまで、各地で一斉に崩壊した。


 南方だけの問題では済まなかった。


 重苦しい沈黙が続く。


 その時。


 魔王の間の扉が開いた。


 巨大な影が、ゆっくりと広間へ入ってくる。


 黒い鎧。


 三本の角。


 一歩ごとに、石床へ重い足音が落ちる。


 魔王軍四天王の長。


 黒将ヴァルガス。


 並ぶ魔族たちは、言葉もなく道を空けた。


 ヴァルガスは玉座の前まで進むと、静かに頭を垂れた。


「陛下。エンブリオ敗北の影響は、すでに各戦線へ及んでおります」


「申せ」


「奴の支配下にあったアンデッドは、ほぼすべて失われました」


 低い声が広間へ響く。


「南方のみならず、西方、中央群島においても兵力の欠損は甚大。現状のまま戦線を維持することは困難にございます」


「ふむ」


「軍の再編が必要かと」


 ヴァルガスは顔を上げる。


「失われた兵の穴を埋め、各軍の指揮系統を組み直す。そのための時間をいただきたく存じます」


「中央群島はどうする」


「一時、兵を退かせます」


 広間の空気が揺れた。


 何人かの魔族が、わずかに顔を上げる。


「西方は」


「同様に」


 ヴァルガスは淡々と答えた。


「戦力を保てぬ土地へ兵を置き続ける意味はございません」


 その瞬間。


 広間の空気が変わった。


 息ができない。


 そう錯覚するほどの殺意が、玉座から放たれる。


 床が軋んだ。


 壁に掛けられた燭台の炎が、一斉に揺れる。


「ぐっ……!」


 並んでいた魔族たちが、次々と膝をついた。


 立っていることすらできない。


 ヴァルガスだけは動かなかった。


 巨大な身体が、わずかに揺れる。


 口元から血が流れた。


 それでも。


 魔王から目を逸らさない。


「許さぬ」


 魔王が告げた。


 低く。


 静かな声だった。


 ヴァルガスは血を拭わなかった。


「では」


 その声も変わらない。


「我ら残る四天王が打って出ることを、お許しいただけるか」


「それも、許さぬ」


 ヴァルガスの眉が動いた。


「何故!」


 初めて、その声に感情が混じった。


 広間へ響く。


 魔王は、しばらく答えなかった。


 ただ。


 玉座からヴァルガスを見下ろしている。


 やがて。


「まだ、足りぬ」


 静かな声が落ちた。


 沈黙。


 誰も、その意味を理解できなかった。


 ヴァルガスも。


 周囲の魔族たちも。


 魔王が続ける。


「人間の絶望が」


 一言。


「憎しみが」


 また一言。


「怨嗟が足りぬ」


 赤い瞳が、暗闇の中で細められる。


「まだ、大地に満ちておらぬ」


 ヴァルガスは黙って聞いている。


「貴様がただ蹂躙するだけでは、な」


 一瞬。


 沈黙。


 やがて。


 ヴァルガスの口元が、ゆっくりと吊り上がった。


「……そういうことでございますか」


 先ほどまでの険しい表情が消える。


 何かを理解した顔だった。


「では」


 改めて頭を垂れる。


「なおさら、御注進いたします」


 魔王の目が細くなる。


「兵を退くことを、お許しください」


「こちらからも問おう」


 魔王が玉座へ深く身を預ける。


「何ゆえか」


「魔王様のお楽しみのためには、仕込みが必要にございます」


「仕込み、だと」


「はっ」


 ヴァルガスは顔を上げた。


「人間は、ただ殺されるだけでは絶望いたしませぬ」


 低い声が響く。


「失ったものを取り戻せると思わせる」


「戦えば勝てると信じさせる」


「明日は今日より良くなると、そう思わせる」


 ヴァルガスの口元に笑みが残る。


「その後に奪うからこそ、絶望は深くなりましょう」


 広間の魔族たちは、誰も口を挟まない。


「今、無理に戦線を維持すれば、ただ兵を失うだけ」


「ならば、一度退く」


「人間どもに土地を返す」


「街を直させる」


「軍を整えさせる」


「勝てるのだと、そう思わせる」


 ヴァルガスが、再び頭を垂れた。


「そのための時間をかけることを、お許しいただきたい」


 魔王は黙っている。


「それに」


 ヴァルガスが続けた。


「フィヨルドとセヴランは、今この瞬間も」


 一呼吸。


「魔王様に喜んでいただくための準備をしております」


 魔王の口元が、わずかに歪んだ。


「ほう」


「奴らの仕込みが終わるまで、我らは軍を整える」


「勇者にも時間を与える」


 ヴァルガスの笑みが深くなる。


「より強く」


「より多くを背負い」


「より多くのものを守ろうとするまで」


「育てる、と?」


「左様にございます」


 ヴァルガスは低く答えた。


「高く積み上げたものほど」


 わずかに間を置く。


「崩れた時の音は、大きゅうございますゆえ」


 しばらく。


 魔王は何も言わなかった。


 やがて。


「ク……」


 低い笑い声が漏れる。


「クハハハハハハハ……!」


 玉座の間が震えた。


 先ほどまで殺意に震えていた魔族たちは、今度はその笑い声に身体を強張らせる。


「よかろう」


 魔王が告げる。


「退くことを許す」


「はっ」


「好きに仕込め」


「御意」


 ヴァルガスは深く頭を下げた。


     ◇


 やがて、話は終わった。


 ヴァルガスが退出する。


 広間に残っていた魔族たちも、次々と姿を消していく。


 重い扉が閉じた。


 静寂。


 広い玉座の間に残ったのは、魔王ただ一人。


 しばらく。


 何も言わない。


 やがて、玉座へ深く身を預ける。


「勇者よ」


 誰もいない広間へ、低い声が響いた。


「エンブリオを屠り去った手管は、実に見事だった」


 魔王の口元が、ゆっくりと歪む。


「褒美をくれてやらねばなるまい」


 暗い玉座の間に。


 魔王の笑い声だけが、静かに響いた。

次回投稿は9/7。そこから新章開幕となります。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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