第五十六話 楽しめ
焼ける。
全身が、内側から焼かれているようだった。
「ぐ、ぁ……!」
エンブリオが聖水の中でもがく。
腕を振る。
脚をばたつかせる。
それでも身体は沈んでいく。
「おのれ……」
皮膚が痛い。
目が焼ける。
鼻から入る。
口からも入る。
耳から。
傷口から。
清浄な水が、身体のあらゆる場所へ入り込んでくる。
「おのれええええええええっ!」
忌々しい聖水。
アンデッドなら、小瓶一本を浴びせられるだけでも苦痛を与える。
それが今は、全身を包んでいる。
逃げても。
もがいても。
どこまで行っても聖水しかない。
浄化の力が肉体の奥まで食い込み、エンブリオという存在そのものを削っていく。
「離せ!」
勇者を殴る。
一発。
二発。
それでも腕は外れない。
黒い鎖も繋がったままだ。
「離せ! 離してくれ!」
勇者は何も言わない。
ただ、さらに強く抱え込んだ。
◇
「皆さま、今です!」
ミリアの声が地下空間へ響いた。
巨大な浄化槽を囲んでいた神官たちが、一斉に祈りを捧げる。
床へ刻まれた術式に光が走った。
一本。
もう一本。
壁を伝い、天井へ伸びる。
やがて光は地下空間を取り囲み、巨大な結界を形作った。
ミリアも目を閉じたまま祈り続ける。
大神殿に伝わる限定結界を基礎に、魔術師たちとの共同研究で組み直したもの。
一人で使う術ではない。
神官たちが祈りを重ね、その強度を維持している。
水の中でエンブリオが顔を上げた。
「……何をした」
僕は鎖を握り直す。
「結界だよ」
「結界……?」
「何者の脱出も許しはしないそうだ」
エンブリオの顔が強張った。
「高位の――精神体みたいなモンスターでも」
「……なに?」
エンブリオが何かを試した。
肉体から抜けようとしているのか。
別の何かへ意識を伸ばしているのか。
僕には分からない。
でも。
何も起こらなかった。
「なぜだ……」
もう一度。
「なぜ、どこにも……!」
「効いてる?」
「貴様……!」
僕は少し安心した。
正直、ここは賭けだった。
エンブリオの仕組みを全部知っていたわけじゃない。
ミリアたちも、精神だけで逃げる相手に絶対効くとは言っていなかった。
だから、使える手は全部重ねた。
「こんなもの……」
エンブリオが歯を食いしばる。
「こんなもの、正気ではないぞ!」
「ありがとう」
「……なに?」
「褒めてくれて」
エンブリオが絶句した。
「お前を逃がさないために、ありとあらゆる手段を試してる」
「ふざけるな……!」
「聖水も」
鎖を少し持ち上げる。
「これも」
頭上の結界を見る。
「ここも」
「……」
「これで逃げられたら、もっと考えなきゃいけないんだろうけど」
エンブリオの身体が大きく痙攣した。
「ぐっ……!」
指先が崩れ始める。
腕。
頬。
水の中へ黒いものが溶け出していく。
僕はその様子を見る。
「その心配もなさそうだね?」
「貴様……!」
腕を振ろうとする。
もう力が入らない。
僕の肩を掴んだだけで終わった。
「おのれ……勇者……!」
身体がまた崩れる。
肉だけじゃない。
もっと奥にある何かまで削られているように見えた。
「さて」
僕はエンブリオの顔を覗き込む。
「お前へのおもてなしの題目は、ここまでなんだけど」
水の中で浄化の光が揺れている。
「満足できたか?」
「離せ……」
声が震えた。
「離してくれ!」
僕の腕にしがみつく。
「死にたくない!」
さっきまでの怒鳴り声とは違う。
「まだ、死ぬわけにはいかない!」
「黄泉の将が命乞いするの?」
「なんでもする!」
エンブリオが叫ぶ。
「なんでも言うことを聞く! 魔王様の居城も教える! 他の四天王のことも! 弱点だって!」
「いらない」
「なぜだ!」
「お前の言うことが信用できるわけないだろ」
「嘘はつかない! 誓う! だから――」
僕は黙ってエンブリオを見る。
声が止まった。
「……な、なんだ」
自分がどんな顔をしているのか、分からない。
「ここまで聖水を使う必要があったのかは、正直分からない」
「……」
「もっと少なくても、お前は殺せたかもしれない」
エンブリオの頭を掴む。
「ひっ」
顔を引き寄せた。
額と額が触れそうなところまで近づける。
「でも」
目を逸らさせない。
「お前が苦しむ姿を見ることができたから」
「……」
「これでいいって思ってるよ」
「ひ……」
エンブリオの身体が震えた。
「ひいいいいいいいっ!」
浄化の痛みとは違う。
目の前にいる僕から逃げようと、必死に首を振る。
エンブリオの瞳に、僕の顔が映っている。
目の周りが、妙に暗い。
黒く染まっているようにも見えた。
その中心で、瞳だけが赤い。
何だろう。
今は、どうでもいい。
僕は頭を離さない。
「どうした?」
さらに顔を寄せる。
「――楽しめ」
「ゆ……」
エンブリオの歯が鳴る。
「ゆ、ゆ、勇者様……!」
身体が崩れていく。
「お助けください!」
それでも叫ぶ。
「勇者様ああああああああ!」
浄化の光が強くなる。
「お助けくださいいいいいいいいい!!」
それが、魔王軍四天王の一人。
黄泉の将エンブリオの断末魔だった。




