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第四十六話 蜃気楼

「貴様が、黄泉の将エンブリオか」


 ナディアは地面に片膝をついたまま、男を睨んだ。


 青白い肌。


 細い身体。


 男は両手を擦り合わせながら、見るからに嬉しそうだった。


「いやあ、僥倖、僥倖」


 その目がナディアを上から下まで眺める。


「フィヨルドの悔しがる顔が目に浮かぶねえ」


「……」


「さっさと私の支配下に入り給え。彼奴に自慢の玩具を見せびらかしたい」


 ナディアの両手に力が入る。


 父が一歩前へ出た。


「そういうことだ、ナディア。ハサム」


 昔と何も変わらない声。


「傷物になっても問題ない。エンブリオ様が治してくださる」


 その後ろでは、首を落とされたはずのギドが笑っていた。


「とはいえ、時間が惜しい。抵抗はするなよ?」


 死者たちが、ゆっくりと距離を詰めてくる。


 ナディアたちは囲まれていた。


 正面には頭領。隣には母。


 周囲には、かつての仲間たち。


 ギルド員の一人が後ずさった。


「……無理だ」


「しっかりしろ!」


 ハサムの声が飛ぶ。


「武器を下ろすな!」


「ですが、ハサム様……」


「見るな! 手だけ見ろ!」


 それでも皆の動きは鈍い。


 倒しても戻る。


 かつての仲間が、生前と同じ技で襲ってくる。


 しかも、こちらの戦い方まで知っている。


 ハサムだけが、敵を一人ずつ見ていた。


「……」


 何かを確かめるように。


「ナディア様。皆を連れて逃げるのです」


「な、何!?」


「影を使ってください」


「なら、あなたも」


「私は残ります」


「何を言っている!」


「聞いてください」


 ハサムが短剣を構えたまま言う。


「恐らく、あのアンデッドたちは、生前の腕前をそのまま残しています」


「それは見れば分かる!」


「ですが、祝福やスキルは使っていない」


 ナディアの目が止まった。


「……何?」


「先ほどから一度も使っていません」


 父を見る。


 かつて何度も見た動き。


 剣の技量も。


 間合いの取り方も。


 戦い方も。


 そのままだった。


 だが。


「《影渡》も、ほかの祝福も使っていない」


 ナディアが周囲を見る。


「だから影で逃げれば……」


「追ってこられない可能性があります」


「なら一緒に来い!」


「念のためです」


「何が念のためだ!」


「追ってこない保証はありません」


 ハサムが一歩前へ出た。


「少しの間だけ、食い止めます」


「ハサム!」


「なに。死にはしません」


 振り返らない。


「死んだらどうなるか、嫌というほど分かりましたからな」


 エンブリオが肩を揺らして笑った。


「いやあ、いいねえ。自己犠牲というやつかい?」


「違う」


 ハサムは即答した。


「私は死なない」


「ほう」


「ナディア様」


 声が強くなる。


「行きなさい!」


「……っ」


「今のあなたが残っても邪魔です!」


 ナディアの顔が歪んだ。


「ハサム!」


「行け!」


 今度は誰も逆らわなかった。


 ギルド員たちが負傷者を支える。


 ナディアもカタールを握り締めたまま、地面へ伸びる影を見る。


「……必ず戻れ」


「もちろんです」


 ナディアたちの身体が、影の中へ沈み始める。


 父がそれを見る。


「ハサム」


「なんだ」


「逃がすと思うか?」


 死者たちが動こうとした。


 ハサムは短剣を持ち上げる。


「逆に聞くが」


「何?」


「できないと思うか?」


 父の眉がわずかに動いた。


「なんだと?」


「かつて貴様に頭領の座を譲ったのは、私の腕が劣るからではない」


「ハサム」


「もう一度聞く」


 わずかに腰を落とした。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 その姿が揺れた。


 エンブリオが目を細める。


「ん?」


 灼熱の太陽が砂を焼いている。


 地表から立ち上る熱気。


 ハサムの輪郭が、その中へ溶けていく。


 一人。


 その横に、もう一人。


 さらにその向こうにも。


 同じハサムが立っていた。


「……」


 頭領の目つきが変わる。


 砂漠の上で、いくつもの影が揺らめいている。


 どこまでが影で。


 どこからが人なのか。


 目で追うほど分からなくなる。


「行きなさい、ナディア」


 影が閉じた。


 ナディアたちの姿が消える。


 同時に、死者たちがハサムへ殺到した。


     ◇


 僕は馬を走らせていた。


 前線都市で聞いた話が頭から離れない。


 焼いた。


 灰になった。


 その灰が消えた。


 五日後には、生前と同じ姿で戻ってきた。


 ナディアの言葉を思い出す。


 ――彼らは、私の前で灰になりました。


「くそ」


 馬の腹を蹴る。


 旧アサシンギルドがどこにあるかは聞いている。


 前線から西。


 旧エスカリテ領へ入った先だ。


 まだ遠い。


 街道を外れ、砂地を進む。


 しばらく走ったところで。


「……?」


 前方に人影があった。


 何人もいる。


 負傷者を支えながら歩いている。


「ナディア!」


 馬を寄せる。


 全員がこちらを見る。


「勇者様……?」


 ナディアだった。


 服が裂けている。


 頬にも傷がある。


 ギルド員たちも似たような状態だった。


「無事?」


「何とか」


 人数を見る。


 足りない。


「ハサムは?」


 ナディアが答えない。


 それだけで分かった。


「残った?」


「はい」


「行ってくる」


「待ってください」


 腕を掴まれる。


「ナディア?」


「行かないでください」


「でもハサムが――」


「彼は絶対に戻ってきます」


 強い声だった。


 僕はナディアを見る。


 何があったのかは分からない。


 目は赤い。


 顔もひどい。


 それでも。


 その目はもう揺れていなかった。


「……分かった」


 ナディアが手を離す。


 少しだけ、息を吐いた。


「街へ、戻りましょう」


 その顔は、先刻までの忘我したナディアではもうなかった。

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