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第四十五話 死者たちの帰還

 旧アサシンギルド本部。


 そこは、ナディアの記憶にある姿よりずっと小さく見えた。


 外壁の一部は崩れ、入口の扉も焼け落ちている。石畳の隙間から草が伸び、かつて人が出入りしていた気配はほとんど残っていなかった。


 それでも、見間違えることはない。


 ここで育った。


 ここで父に叱られ、母に技を教わった。


 そして、ここですべてを失った。


「ナディア様」


 物陰から男が現れた。


 先行していたギルド員だ。


「周囲は?」


「確認しました。魔王軍の姿はありません」


「中は?」


「一部崩れていますが、奥まで進めます」


 ハサムが建物を見上げる。


「静かすぎますね」


「ああ」


 ナディアは両手のカタールを確かめた。


 今日は戦うために来たわけではない。


 父が残した装備。


 代々、ギルドの頭領へ受け継がれてきた品が残っているかもしれない。


 それと。


 あの日、置いていくしかなかった者たちを弔うため。


「よし。中に入ろう」


     ◇


 建物の中は薄暗かった。


 焼け焦げた柱。砕けた家具。壁に残った刃物の跡。


「ここ、覚えてますか」


 ハサムが言った。


「もちろん」


「私はここで頭領に三日間立たされたことがあります」


「何をしたの?」


「酒を盗みました」


「自業自得よ」


「はい」


 後ろのギルド員が小さく笑った。


 ほんの少しだけ、昔に戻ったような気がした。


 やがて、誰も話さなくなった。


 広い部屋へ出たからだ。


 床が黒い。


 壁も、天井も。


 ここだけ焼け跡が深く残っている。


「……」


 ナディアの足が止まる。


 覚えている。


 炎。


 悲鳴。


 焦げた臭い。


 父が。


 母が。


 ギルドの仲間たちが、フィヨルドの炎に飲み込まれていった。


「ナディア様」


「大丈夫」


 そう答えた。


 奥を確認しようとした、その時だった。


 足音が聞こえた。


 一人ではない。


 ゆっくりと。


 何人も。


 ハサムが短剣を抜く。


「構えろ」


 ギルド員たちが散った。


 ナディアも両手のカタールを構える。


 暗い通路の奥。


 最初に現れた人影を見て、誰も動けなくなった。


「……お父様?」


 父だった。


 記憶にある姿のまま歩いてくる。


 その後ろから、さらに人が出てきた。


「……嘘だろ」


「そんな……」


 死んだはずのギルド員たち。


 名前を知っている顔も、一人や二人ではない。


 そして父の横へ、一人の女が並ぶ。


「ナディア」


「……お母様」


 母だった。


 顔も、髪も、声も。


 何ひとつ変わっていない。


 父が穏やかに笑った。


「お前たち、よくぞ無事に戻ってきた」


「と、頭領……?」


 震えた声がした。


 旧ギルドの生き残りの一人、ギドだった。


 武器を下ろしている。


「頭領……本当に、頭領なんですか……?」


「ギド」


 ハサムの顔色が変わる。


「迂闊に近づくな!」


「え、でも頭領が――」


 ギドが一歩前へ出た。


 父の腕が動いた。


 次の瞬間。


 ギドの首が床へ落ちた。


「ギ、ギド!」


 ハサムの叫び。


 身体が遅れて崩れる。


 父は床へ転がったギドの首を拾った。


 両手で、壊れ物でも扱うように。


「私が育て上げたギドよ」


 愛おしそうにその顔を眺める。


「これからも共に働けるな」


 首を、胴体へ戻した。


 倒れていた身体の指が動く。


 びくり、と脚が跳ねた。


 両手が自分の頭を掴み、ずれた首を押さえる。


 ごき。


 嫌な音がした。


 もう一度。


 首の位置が戻っていく。


 やがてギドが立ち上がった。


 首を両手で支えながら、父を見る。


 目はどこにも焦点が合っていない。


 口から血を吐きながら、嬉しそうに笑った。


「とうりょおぉぉ……」


 誰も声を出せなかった。


 馬鹿な。


 父も。


 母も。


 あそこにいる仲間たちも。


 フィヨルドに焼かれたはずだ。


 骨すら残っていない。


 それなのに。


 生前と何も変わらない姿で、目の前にいる。


「ナディア。我が娘よ」


 父がこちらを見る。


「よくぞ戻った。それも、皆を引き連れて」


 母も微笑んだ。


「偉いわ、ナディア」


 昔と同じ声だった。


「あなたにも、エンブリオ様に奉仕する悦びを教えてあげるわね」


「……」


「しっかりしろ!」


 ハサムの怒声が響いた。


「目の前にいるのはアンデッドだ!」


「し、しかし……」


「迷うな! そう思うしかない!」


 ハサムが一人一人を睨む。


「常識に捉われるな。心を殺せ!」


 父が嗤った。


「それも私の教えだな」


 ハサムの頬が引きつる。


 ギドがぎこちなくこちらへ顔を向ける。


「お、おまえらも……はやく……こっちにこい……」


「ギド……」


「いいぞぉ……ずっと……みんなと……いっしょだ……」


 ギルド員たちの動揺は消えない。


 それでも、一人が武器を構えた。


 隣も続く。


 ハサムが腰を落とす。


「来るぞ!」


 父が右手を上げた。


「ゆけ」


 死者たちが一斉に動いた。


 速い。


 踏み込みも、刃を振るう角度も、互いの死角を埋める連携も。


 昔と同じだった。


「右!」


 ハサムの声でナディアが身を反らす。


 刃が鼻先を掠めた。


 右のカタールを突き出す。


 その腕を横から払われた。


 左を出す前に、蹴りが飛んでくる。


「くっ!」


 腕で受ける。


 身体が流れる。


「下がれ! 外へ出る!」


 ハサムが叫ぶ。


 だが簡単には下がらせてもらえない。


 向こうはこちらの動きを知っている。


 どう避けるか。


 どこへ逃げるか。


 どんな連携を使うのか。


「ぐあっ!」


 一人が肩を斬られた。


 別の一人の脚に刃が入る。


 反撃が遅れる。


 見知った顔を前にすると、ほんの一瞬だけ手が鈍る。


「止まるな! 見るな、手を動かせ!」


 ハサムが怒鳴る。


「負傷者を連れて下がれ!」


 ようやく入口が見えた。


 ナディアたちは負傷した仲間を引きずり、崩れた廊下を抜ける。


 外へ飛び出しても、追撃は止まらなかった。


 散開しようとした先へ、死者たちが先回りする。


「読まれている……」


「当然だ」


 ハサムが息を整える。


「こちらの手を知り尽くしている」


 建物から、父がゆっくりと出てきた。


 母もいる。


 その後ろから、死んだギルド員たち。


 首を押さえたギドも。


「なぜ抵抗する?」


 父の声は穏やかだった。


「貴様らが私たちに敵うわけがなかろう」


 ナディアたちを見渡す。


「誰が貴様らを鍛えたと思っている?」


「しっかりしろ!」


 ハサムがもう一度、全員へ声を飛ばした。


「生き残ることだけ考えろ!」


 ギルド員たちが構える。


 手が震えている者もいた。


 それでも、今度は武器を下ろさない。


「来るぞ!」


 再び死者たちが襲いかかってきた。


 ナディアも前へ出る。


 一人の刃を右のカタールで流し、左で脇腹を狙う。


 避けられる。


 追おうとした。


「ナディア」


 その声で身体が止まった。


 目の前に母がいた。


「何を呆けているのです?」


「……」


「皆に言い聞かせなさい」


 母の口元が吊り上がる。


「頭領に従うように、と」


 目の前がちらついた。


 白い光が瞬く。


 次の瞬間には、視界の端が赤く滲んだ。


 母の顔だけが妙にはっきり見える。


 耳の奥で音が鳴っていた。


「……貴様は」


 両手のカタールを握り込む。


「私の母などではない……!」


 地を蹴った。


 右のカタールが喉を狙う。


 軽く払われた。


 左を腹へ突き込む。


 手首を叩かれ、軌道が逸れる。


 身体を回す。


 母の足が先に動いた。


「未熟者!」


「ぐっ!」


 腹へ蹴りが入る。


 ナディアが地面を滑った。


 すぐ立つ。


 また飛び込む。


 両手のカタールを交互に突き出す。


 右。


 左。


 もう一度。


 母は半歩ずつ身体をずらすだけだった。


「情けない」


「黙れ!」


「それでもエスカリテ・アサシンギルド頭領の娘ですか!」


 手首を取られる。


 引かれた。


 膝が腹へ入る。


「がっ……!」


 身体が折れる。


 顔を上げたところへ、掌底。


 地面を転がった。


「血よりも濃いギルドの絆を忘れ――」


 また目の奥で光が弾けた。


「黙れ!」


「幼子のように振舞うなど」


「黙れ!」


 母の口が動くたび、視界がちらつく。


「恥を知りなさい」


「だまれ……」


 カタールを握る手が震える。


「だまれ、だまれ、だまれ、だまれええええええええええええええ!!」


 叫びながら襲いかかった。


 もう狙いも何もない。


 両手のカタールを振るう。


 母は一本を払い、もう一本を避けた。


「感情に任せて刃を振るってはいけない」


 カタールを握る手を蹴り上げられる。


「それも教えたはずですよ」


「うるさい!」


 振り下ろす。


 掴まれる。


 身体が浮いた。


「……!」


 そのまま地面へ叩きつけられる。


「がはっ!」


 息が抜けた。


 視界が揺れる。


 周囲ではハサムたちも押されていた。


「立て!」


 ハサムが倒れた仲間を引き起こす。


「ここで止まるな!」


 父の刃が迫る。


 ハサムが受ける。


 弾かれる。


「腕を上げたな、ハサム」


「死体が喋るな!」


 返す刃をかわす。


「後ろへ! 包囲されるな!」


 仲間へ指示を飛ばしながら、さらに一撃を受ける。


 頬が裂けた。


 それでも下がらない。


「頭領の顔を見るな! 敵だけ見ろ!」


 別のギルド員が背後から襲われた。


「ぐあっ!」


「そいつを連れて下がれ!」


 ハサムの声だけが途切れない。


 ナディアは地面へ手をついた。


 立たなければ。


 分かっている。


 なのに目の前がまだ明滅している。


 母が近づいてくる。


「さあ、ナディア」


 昔と同じ優しい声だった。


「もう終わりにしましょう」


「……来るな」


「こちらへ来なさい」


「来るな……!」


「皆、一緒ですよ」


 母が手を伸ばす。


 その後ろには父。


 死んだはずの仲間たち。


 その時だった。


「うんうん」


 聞き覚えのない声がした。


 父の後ろから、一人の男が歩いてくる。


「やっぱりここに来たんだね」


 細い身体。


 青白い肌。


 男は楽しそうに目を細めた。


 ナディアを見る。


 口元が大きく歪む。


「フィヨルドが奪われた玩具」


 一歩、前へ出る。


「今度は私のものになってもらうよ」

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