幕間二 紅魔将は、傷を賜る
玉座の間へ、赤い炎が渦を巻いた。
床を這う火が細く伸び、絡まり合い、一人の女の姿を作り上げる。
深紅の衣。
燃えるような赤髪。
細く湾曲した二本の角。
紅魔将フィヨルドは、いつものように艶やかな笑みを浮かべたまま、玉座の前へ膝をついた。
「ただいま戻りましたわ、魔王様」
玉座に腰かけた魔王は、頬杖をついたまま彼女を見下ろしている。
「報告せよ」
「はい」
フィヨルドは顔を上げた。
口元には、最初から最後まで微笑みが張りついている。
「王都へ送り込んだアサシンギルドですが――」
わずかに間を置く。
失敗を惜しむ様子はない。
むしろ、笑みが深くなった。
「勇者の殺害には失敗いたしました」
玉座の間に沈黙が落ちた。
左右へ控えていた魔族たちが、息を殺す。
「ギルドの者たちは」
「全員、生存しておりますわ」
フィヨルドは楽しそうに続けた。
「ですが、洗脳は解除されました。現在は勇者のもとへ身を寄せているものと思われます」
「つまり」
魔王の声が、低く響く。
「アサシンギルドを丸ごと奪われたということか」
「ええ」
フィヨルドはにこやかに頷いた。
「そのようですわ」
まるで、他人事だった。
配下を失った者の顔ではない。
失敗を報告している者の態度でもない。
魔王は目を細める。
「アサシンギルドを失ったというのに、嬉しそうに見えるが」
「あら」
フィヨルドは頬へ手を添えた。
「そう見えます?」
「見える」
「仕方ありませんわ」
彼女はくすくすと笑った。
「だって、あの子たちったら、あれだけ深く刻んだわたくしの命令を破ったのですもの」
その瞳に、歪んだ光が宿る。
「勇者に殺されるでもなく」
「逃げ散るでもなく」
「自ら洗脳を破り、揃って勇者の側へついた」
フィヨルドは指先を唇へ当てた。
「素敵ではありませんこと?」
周囲の魔族たちは、誰も同意しなかった。
「わたくしがどれほど心を折っても」
「どれほど絶望を与えても」
「まだ逆らう力が残っていた」
うっとりとした声だった。
「それを勇者が引き出した」
「次に会う時、あの子たちはどんな顔でわたくしへ刃を向けるのでしょう」
「恨んで」
「憎んで」
「殺したいと願って」
フィヨルドの肩が、小さく震えた。
「考えただけで、胸が高鳴りますわ」
魔王はしばらく彼女を見つめた。
「お前は、失敗を喜んでおるのか」
「失敗?」
フィヨルドは首を傾げた。
「いいえ、魔王様」
「勇者がどれほど成長したのか」
「どのような力を持つのか」
「どれだけ他者を惹きつけるのか」
「十分に知ることができました」
彼女は両手を広げる。
「それに、アサシンギルドを失った程度では、わたくしの手札は尽きません」
「まだあると?」
「もちろんですわ」
笑みは崩れない。
「人間も」
「魔物も」
「国も」
「呪いも」
「壊して、混ぜて、作り変えたものも」
フィヨルドの周囲で、赤い炎が揺れた。
「まだまだ、わたくしの手札はいっぱいありますわ」
玉座から、低い笑い声が漏れた。
「そうか」
魔王が、ゆっくりと身を起こす。
「ならば、近う寄れ」
フィヨルドの笑みが、さらに艶やかになった。
「はい、魔王様」
立ち上がる。
足音を響かせ、玉座の前まで進む。
階段のすぐ下。
魔王の手が届く距離で、再び膝をついた。
顔を上げる。
赤い瞳が、期待に輝いている。
魔王は右手を上げた。
人差し指を立てる。
その指を。
縦に、振り下ろした。
何かが裂ける音がした。
フィヨルドの額から、鼻筋を通り、左の頬へ。
一本の深い傷が刻まれた。
一瞬遅れて、血が噴き出す。
「あっ――!」
フィヨルドが顔を押さえた。
指の間から、赤い血が溢れる。
膝をついたまま身体を震わせ、苦しげに息を漏らす。
「ああ……!」
傷は浅くない。
裂けた皮膚から血が滴り、深紅の衣をさらに濃く染めていく。
「ああ、わたくしの顔に……!」
フィヨルドは震える手で、頬の傷へ触れた。
痛みに表情を歪める。
それでも。
その口元には、笑みが浮かんでいた。
「顔に、傷が……♡」
頬を伝った血を指ですくう。
その血を見つめ、恍惚とした息を吐いた。
「魔王様……」
声が震える。
「うれしゅうございます……」
玉座の間に控える魔族たちは、誰一人として顔を上げられなかった。
魔王だけが、冷ややかな目でフィヨルドを見下ろしている。
「その傷の痛み」
低い声が響く。
「その屈辱」
フィヨルドは血に濡れた顔を上げた。
「忘れるでないぞ」
「はい……」
「お前は失敗した」
「はい、魔王様」
「ならば、その失敗を次の成果で償え」
フィヨルドは深く頭を下げた。
床へ血が落ちる。
「必ず」
「今後とも励むがよい」
「仰せのままに」
炎が巻き上がる。
立ち上がったフィヨルドの顔には、今も長い傷が残っていた。
治そうとはしない。
隠そうともしない。
彼女は傷口へ触れ、その痛みを確かめるように微笑んだ。
「次は」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「もっと素敵なものを、お見せいたしますわ」
赤い炎が弾ける。
フィヨルドの姿は、血の跡だけを残して消えた。




