第二十話 勇者は、影と契約する
解呪の間には、戦いの痕跡が深く刻まれていた。
酸で溶けた床。
炎で焼け焦げた神聖文字。
壁には、炎極百足の巨体が叩きつけられた亀裂が走っている。
何事もなかったことにはできそうにない。
目覚めた暗殺者たちは、まだ完全には状況を理解できていなかった。
洗脳されていた間の記憶は、残っている者と曖昧な者がいるらしい。
ただ一つ。
首元に刻まれていた赤黒い紋様が消えたことだけは、全員が確かめていた。
ナディアは仲間たちの間を歩き、一人ずつ名前を呼んでいる。
返事を聞くたびに、わずかに肩の力が抜けていった。
僕は壁際へ座り込んでいたミリアへ近づく。
「ありがとう」
ミリアが顔を上げた。
「君が術式を維持してくれなければ、全員を助けられなかった」
「私は、教えられた通りに動かしただけです」
「最後まで続けたのは君だ」
炎極百足は何度もミリアを狙っていた。
途中で逃げても、誰も責められなかったはずだ。
それでも彼女は、最後まで魔法陣から手を離さなかった。
今はまだ神官見習い。
けれど、前の人生で僕と共に戦ったミリアと、根の部分は何も変わっていない。
「本当に、全員助かったんですね」
「ああ」
ミリアは暗殺者たちを見て、安堵したように笑った。
しかし。
すぐに床や壁へ視線を向ける。
その笑顔が引きつった。
「でも私、怒られちゃいそうです」
「そうだろうな」
「そうだろうな、ではありません!」
ミリアは酸で溶けた床を指さした。
「解呪の間を無断で使ったうえに、こんなことになっているんですよ!」
「位階二十五の魔物が出たんだから、仕方がない」
「どうしてそんな魔物が出たのか、絶対に聞かれます!」
その通りだ。
洗脳された暗殺者を十数人、深夜の大神殿へ運び込んだ。
正直にすべて話せば、ミリアだけでなく、ナディアたちまで拘束される。
だが。
すべてを話す必要はない。
「僕に考えがある。大神官に話は通しておくよ」
ミリアが目を丸くした。
「おじい様に?」
「ああ」
「なんと説明するんですか?」
「王城を襲った暗殺者から、魔王軍の呪詛術式を回収した」
ミリアが首を傾げる。
「回収?」
「その術式が王都内で暴走する危険があったため、勇者の判断で解呪の間へ緊急隔離した」
嘘ではない。
呪詛術式は、暗殺者たちの中に刻まれていた。
解呪の間へ運んだのも、王都へ洗脳魔法を残さないためだ。
「解呪を試みたところ、術式が位階二十五の魔物として顕現した」
「それで、私が術式を維持した……?」
「僕の緊急要請に応じて、解呪の間を開けた。責任は勇者である僕が取る」
暗殺者たちの存在は伏せる。
大神官には、魔王軍の呪詛術式を処理したとだけ伝える。
詳細は勇者の使命に関わる機密事項として封じてもらえばいい。
王城で暗殺未遂が起きた直後だ。
大神殿側も、勇者への協力を拒んだと思われたくはないだろう。
「そんな説明で、おじい様が納得するでしょうか」
「納得させる」
「どうやって?」
「お願いの仕方は心得てる」
勇者の要請を受けて孫娘が王都を守った。
そういう話にしてしまえばいい。
大神官がミリアを叱ることはあっても、処罰はしにくくなる。
「それで問題ない」
「問題しかありません」
ミリアは頭を抱えた。
それでも、少しだけ安心した顔をしている。
「あとで、きちんと説明してくださいね」
「分かった」
「絶対ですよ」
「ああ」
前の人生でも、似たようなことを何度も言われた気がする。
僕たちは、暗殺者たちを再び《影渡》へ沈める準備を始めた。
ナディアは魔力を使い切っていたため、仲間たちが輪になり、彼女へ魔力を渡す。
広がった影へ、一人ずつ身体を沈めていく。
全員を収めたところで、ナディアが僕を見る。
「行ける」
「無理なら言え」
「お前も人のことは言えないだろう」
「違いない」
僕たちは、夜明け前の大神殿を後にした。
◇
潜伏拠点へ戻る頃には、東の空が白み始めていた。
地下室へ戻った暗殺者たちは、互いに記憶を確かめ合った。
洗脳される前のこと。
フィヨルドに下された命令。
王都までの道のり。
そして、勇者である僕を襲ったこと。
ナディアは、何も隠さず説明した。
僕が彼らを殺さずに制圧したこと。
《狂王の針》を使い、ナディアが自力で洗脳を破ったこと。
大神殿の解呪の間へ運び、炎極百足を倒したこと。
話が終わると、地下室は静まり返った。
一人の年配の男が立ち上がる。
ナディアよりもずっと年上だが、彼女の前へ膝をついた。
「ナディア様」
それを合図に。
一人。
また一人。
暗殺者たちが膝をついていった。
最後に全員の視線が、僕へ向く。
「勇者殿」
年配の男が頭を下げた。
「我々の命を救っていただいたこと、感謝する」
「礼はナディアにも言ってくれ。彼女がいなければ、全員は助けられなかった」
「承知している」
男はさらに深く頭を下げた。
「それでも、我々を殺さなかったのは、あなたの判断だ」
僕を殺しに来た暗殺者たち。
本来なら、全員殺しても誰にも責められない。
むしろ、その方が安全だった。
それでも助けた。
洗脳された人間を殺したくなかった。
そして。
彼らには使い道がある。
僕はナディアを見た。
「これからどうする?」
ナディアは迷わなかった。
「フィヨルドを殺す」
地下室の空気が変わる。
彼女だけではない。
暗殺者たち全員の瞳に、同じ殺意が宿った。
「その後は?」
ナディアは答えなかった。
祖国はない。
王家もない。
父も。
母もいない。
ギルドは生き残った。
けれど、帰る場所までは戻らない。
「考えていない」
「そうか」
今の彼女たちには、フィヨルドを殺すこと以外の目的がない。
ならば。
僕が、その先まで用意する。
「契約しよう」
ナディアが目を細めた。
「契約?」
「僕の目となり、耳となれ」
暗殺者たちが、わずかにざわめく。
「僕一人では見られない場所を見ろ。聞けない声を聞け。魔王軍の動き、王国内の異変、必要な情報を集めて僕へ渡せ」
「私たちを利用するのか」
「そうだ」
誤魔化す必要はない。
「君たちはフィヨルドを殺すために僕を使え」
「僕は魔王を倒すために君たちを使う」
ナディアは、僕を黙って見つめた。
後ろでまとめた黒髪。
切れ長の黒い瞳。鋭く、冷たい眼差し。
その奥には、仲間を救えた安堵と、フィヨルドへの殺意が同時に宿っている。
「契約はいつまでだ」
「魔王を倒すまで」
「私たちが求める報酬は、一つだけだ」
「分かってる」
僕は答えた。
「報酬は、紅魔将フィヨルドの首」
地下室が静まり返る。
ナディアの瞳に、激しい光が宿った。
「私に殺させろ」
「機会は渡す」
「必ずだ」
「ただし、勝手に死ぬことは許さない」
ナディアの眉がわずかに動く。
「フィヨルドを殺すためなら、命は惜しくない」
「それでは契約にならない」
「何?」
「君が先に死ねば、僕は報酬を支払えない」
ナディアは黙った。
「フィヨルドを殺す日まで生き残れ。それが条件だ」
長い沈黙。
やがて。
ナディアは、僕の前へ膝をついた。
「分かった」
それまでの硬い常体。
しかし、次に顔を上げた時。
彼女の口調が変わった。
「その契約、受けさせていただきます」
僕は手を差し出す。
ナディアは、その手を取った。
契約は成立した。
彼女は立ち上がり、仲間たちへ向き直る。
「みんな、聞いたな」
黒い瞳が、地下室に集まった暗殺者たちを見渡した。
「我らエスカリテ・アサシンギルドは、勇者様と契約を結んだ」
暗殺者たちが姿勢を正す。
「魔王を討つ、その日まで」
「我らは勇者様の闇となる」
「目となり、耳となり、手足となって、その御心を果たす」
ナディアは胸へ拳を当てた。
「我らの命も、技も、残されたすべてを勇者様へ捧げる」
一度、言葉を切る。
黒い瞳の奥に、炎のような殺意が燃え上がった。
「対価は――紅魔将フィヨルドの首だ」
暗殺者たちの表情が変わる。
母を。
父を。
祖国を。
仲間の尊厳を奪った女。
「あの女は、我らエスカリテのすべてをもって討つ」
全員が、同時に頭を垂れた。
「御意」
その声が、地下室に重く響いた。
こうして。
僕は、最初の仲間を手に入れた。
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【仲間プロフィール】
ナディア
職業:暗殺者
年齢:十六歳
艶のある黒髪を後頭部で高くまとめた、細身の少女。
切れ長の黒い瞳と、すっと通った鼻筋を持つ。整った顔立ちだが、感情を表に出すことが少なく、鋭く張りつめた雰囲気をまとっている。
肌は白く、身体つきは華奢に見えるものの、無駄なくしなやかに鍛えられている。
身につけているのは、動きやすさを優先した黒い軽装。腰や太腿には暗器や薬品を収める小型の革袋が固定されている。
滅亡した南方国家エスカリテの王家直属アサシンギルド、その頭領の娘。
若くして次期頭領候補に選ばれた、暗殺・潜入・追跡の達人。
戦闘では二本のカタールを使った高速の接近戦を得意とする。
敵の懐へ潜り込み、急所を正確に狙う一方、距離を取った相手には二枚のチャクラムを投擲する。
正面から力で押し切るのではなく、死角、足場、気配、相手の意識の隙を利用して戦う。
また、対象を影へ封じる術や、複数人を影の中へ収めて運ぶ術も使いこなす。
紅魔将フィヨルドに祖国と両親を奪われ、ギルドとともに洗脳されていた。
勇者によって仲間を救われた後、魔王討伐までの契約を結ぶ。
契約の報酬は、フィヨルドの首。




