第十九話 勇者は、呪いを斬る
炎極百足が、無数の脚を打ち鳴らした。
刃で石を削るような音が、解呪の間を満たす。
長大な身体が壁を這い、そのまま天井へ昇った。
赤黒い炎に包まれた巨大な頭部が、僕たちを見下ろす。
『殺して』
フィヨルドの甘い声が響いた。
次の瞬間。
炎極百足が落ちてきた。
「散れ!」
僕は右へ。
ナディアは左へ跳ぶ。
直後、巨体が魔法陣の中央へ激突した。
床が揺れ、白い石片が飛び散る。
「術式は保ちます!」
ミリアが叫び、亀裂の入った魔法陣へ神聖魔力を流し込む。
炎極百足は着地と同時に身をくねらせた。
巨大な尾が横薙ぎに迫る。
《第六感》が鳴らす警鐘に従い、身を沈める。
頭上を甲殻の塊が通過した。
触れてもいないのに、熱風だけで髪の先が焦げる。
ナディアは尾を踏み台にして跳び、背中へ飛び乗ろうとした。
だが、巨体を覆う炎が一気に膨れ上がる。
空中で身体をひねり、間一髪で離脱。
それでも外套の端に火がついた。
着地と同時に、燃えた布を切り捨てる。
「近づけない」
「なら、僕が炎を消す」
魔法袋から水属性石を取り出す。
《空白の剣》へ押し当てると、石の魔力が吸い込まれ、透明な刀身が淡い青へ染まった。
炎極百足が大顎を開く。
石柱ほどもある二本の毒牙。
その間から、紫色の毒液が噴き出した。
横へ跳ぶ。
毒液が床へ落ち、白い石を黒く変色させた。
炎極百足が、そのまま僕へ突進する。
《第六感》が牙の軌道を示す。
右へ半歩。
大顎をかわし、すれ違いざまに剣を振り抜いた。
「《魔法剣》!」
水流をまとった刃が、炎の防壁へ食い込む。
白い蒸気が爆発した。
赤黒い炎が押し退けられ、甲殻の一部が露出する。
「今だ!」
ナディアが蒸気の中へ飛び込んだ。
二本のカタールを甲殻の隙間へ叩き込む。
火花。
刃が浅く食い込んだ。
直後、傷口から黄緑色の液体が噴き出す。
「下がれ!」
ナディアは甲殻を蹴って後方へ跳ぶ。
酸性の体液が床へ降り注ぎ、石を煙とともに溶かした。
カタールにも数滴が付着し、刃から白い煙が上がる。
「硬い」
「何度か繰り返す」
炎極百足が再び迫る。
今度は頭を振り下ろし、無数の脚で逃げ道を塞いできた。
一本一本が短剣のように鋭い。
僕は《空白の剣》で炎を裂き、迫る脚の間へ踏み込む。
ナディアは僕が作った道を走り抜けた。
カタールが二度、三度と甲殻を打つ。
傷は増える。
だが浅い。
致命傷には遠い。
しかも、傷口が赤黒い炎に包まれると、ゆっくり塞がり始めた。
『無駄よ』
フィヨルドの声が笑った。
眠る暗殺者たちの首元に、赤黒い刻印が浮かび上がる。
そこから細い糸が伸び、炎極百足の体節へつながっていた。
一人ではない。
十数人全員。
糸を通して、怪物へ魔力が流れ込んでいる。
「仲間から力を吸っている」
ナディアも気づいた。
「糸を切れるか」
「やる」
「僕が炎を消す」
「なら、道を開け」
炎極百足が大顎を開く。
僕は正面から走った。
右の牙をかわす。
左の牙へ剣を添え、軌道をわずかに逸らす。
飛び散った毒液が、手の甲へ触れた。
《初禍の環》が黒く光る。
身体へ入りかけた毒が消えた。
これで一度きりの効果は使った。
次に毒を受ければ終わる。
僕は体勢を崩さず、《魔法剣》を振るった。
炎の壁に穴が開く。
「一つ!」
ナディアが駆け抜け、魔力の糸を断つ。
一人の暗殺者から、赤黒い刻印が消えた。
「二つ!」
二本目。
「三つ!」
三本目。
接続が切れるたび、炎極百足の体節から光が失われていく。
怪物が激しく身をよじった。
甲殻の隙間が一斉に開く。
《第六感》が強く反応する。
「伏せろ!」
酸の体液が四方へ噴き出した。
柱の陰へ飛び込む。
ナディアも反対側へ滑り込んだ。
それでも飛沫が肩へかかる。
革の胸当てが泡を立てて溶け始めた。
留め具を外し、焼けた部分を引き剥がす。
炎極百足の尾が持ち上がった。
狙いは僕たちではない。
魔法陣を維持するミリアだ。
「させるか!」
尾の軌道へ飛び込む。
鋼の剣を横へ構えた。
直撃。
腕から肩まで、骨が軋んだ。
身体が弾き飛ばされ、石床を転がる。
肺から空気が押し出された。
それでも、尾の軌道は逸れた。
ミリアには届かない。
「勇者様!」
「術式を止めるな!」
胸が痛む。
肋骨にひびが入ったかもしれない。
それでも立つ。
《獅子奮迅》を発動した。
疲労による身体の鈍さが消える。
痛みも傷も残っている。
だが、動きだけは止まらない。
僕が炎を消す。
ナディアが糸を切る。
「四つ!」
「五つ!」
「六つ!」
即席だった連携が、次第に噛み合っていく。
僕が次にどこを切り開くか。
ナディアがどの糸を狙うか。
言葉を交わさなくても分かるようになってきた。
だが、時間がない。
《空白の剣》の青い光が薄れている。
水属性石の魔力が尽きかけていた。
僕は最後の水属性石を取り出し、剣へ吸収させる。
残る糸は二本。
炎極百足が大きく身を反らした。
喉の奥へ、赤黒い炎が集まっていく。
これまでとは違う。
解呪の間ごと焼き払うつもりだ。
僕は《空白の剣》を構えた。
「ナディア!」
「分かっている!」
炎極百足が火炎を吐いた。
「《魔法剣》!」
水の斬撃と、赤黒い炎が正面から衝突する。
轟音。
白い蒸気が石室を覆った。
炎が押してくる。
水属性の魔力が削られていく。
腕に力を込める。
最後の一滴まで、剣へ流し込む。
赤黒い火炎が左右へ割れた。
だが、そこで《空白の剣》の光が消える。
水属性は尽きた。
炎極百足の全身を、再び赤黒い防壁が覆う。
残る糸は二本。
ナディアが隣へ戻ってきた。
呼吸が荒い。
魔力もほとんど残っていない。
「糸を切っても、私では本体を倒しきれない」
「……ナディア、炎を消すすべはないか?」
「一度だけなら」
腰から二枚のチャクラムを抜く。
「残った魔力をすべて使う。技を放った後、私は動けない」
「十分だ。あいつは僕がやる」
「本当に倒せるのか」
「倒す」
ナディアは二枚のチャクラムへ魔力を注いだ。
刃の周囲に風が生まれる。
回転が速まり、空気を切り裂く甲高い音が響いた。
炎極百足がこちらへ突進を始める。
大顎を開き、紫色の毒液を滴らせる。
「後は任せた」
「ああ」
ナディアは両腕を交差させた。
「《空裂輪舞》!」
二枚のチャクラムが放たれる。
炎極百足の周囲を逆方向へ高速で旋回した。
風が荒れ狂う。
怪物の周囲から空気が外側へ弾き出され、一瞬だけ真空に近い空間が生まれる。
赤黒い炎が揺らいだ。
そして。
消える。
さらに二枚の刃が軌道を変え、残っていた魔力の糸へ食い込んだ。
二本の糸が同時に切断される。
眠る暗殺者たちの首元から、最後の刻印が消えた。
ナディアは魔力を使い果たし、その場へ膝をつく。
「行け!」
あとは僕の役目だ。
炎極百足が大顎を開いて迫る。
《第六感》が毒牙の軌道を示す。
左へ半歩。
牙が頬を掠めた。
大顎の内側へ潜り込む。
喉の奥。
赤黒い魔力の核が脈打っている。
《剣雄》によって、指先から剣先までが一つになる。
《獅子奮迅》によって、限界を迎えた身体が最後の一歩を踏み込む。
そして。
《後の牙》が発動した。
格上との位階差が、一撃の力へ変わる。
全身の魔力が右腕へ集まった。
鋼の剣が低く震える。
「届かせる――《後の牙》!」
下から剣を振り上げた。
刃が炎極百足の口内を裂く。
黄緑色の酸が噴き出し、腕を焼いた。
それでも止めない。
剣先は喉を貫き、その奥の核へ届く。
『私のものを返しなさい!』
「最初から、お前のものじゃない」
核へ亀裂が走る。
まだ足りない。
両足を石床へ踏み込み、残ったすべての力を剣へ込める。
「これで――終わりだ!」
鋼の剣を振り抜いた。
赤黒い核が真っ二つに割れる。
炎極百足の巨体が激しく痙攣した。
無数の脚が床を掻き。
尾が壁を打ちつける。
やがて、すべての動きが止まった。
黒い甲殻が赤黒い炎へ変わり、白い光に包まれて消えていく。
最後に、フィヨルドの顔だけが残った。
『次は、本物の私が遊んであげる』
ナディアが顔を上げる。
「次は、その首をもらう」
残留思念は笑ったまま消えた。
静寂が戻った。
僕の手から、折れかけた鋼の剣が落ちる。
その瞬間。
膨大な経験が身体へ流れ込んできた。
位階十五。十六。十七。十八。そして、十九。
一度に五つ。
だが、喜ぶ余裕はなかった。
《獅子奮迅》を解除する。
直後。
倍になった疲労と全身の痛みが押し寄せた。
膝が崩れる。
床へ倒れる寸前、ナディアに抱き留められた。
彼女も立っているのがやっとのはずだった。
「無茶をする」
「君にだけは言われたくない」
「お互い様か」
魔法陣の上で、小さな声がした。
「……ナディア?」
眠っていた暗殺者の一人が、ゆっくりと目を開けていた。
首元に、赤黒い刻印はない。
続いて。
一人。
また一人。
十数人の暗殺者たちが、長い眠りから目覚めていく。
ナディアは僕から手を離し、ふらつきながら仲間たちへ歩み寄った。
「ナディア様……?」
その呼びかけに、彼女の拳が小さく震える。
「……もう大丈夫だ」
いつもの冷静な声だった。
けれど、最後だけ少し掠れた。
「全員、自由だ」
誰かが、声を押し殺して泣き始めた。
仲間の肩へ手を置く者。
顔を覆う者。
ナディアの前へ膝をつく者。
ナディアは泣かなかった。
ただ、一人ずつ確かめるように見つめていた。
全員が生きている。
全員が、自分の意思を取り戻している。
ミリアは魔法陣の外へ座り込み、安堵したように息を吐いた。
「成功……したんですね」
「ああ」
僕は炎極百足が消えた場所を見る。
あれはフィヨルド本人ではない。
彼女が残した魔法の一部にすぎなかった。
それでも、位階二十五。
本物は、さらに強い。
だが。
僕は位階十九になった。
そして、一人ではない。
仲間に囲まれるナディアを見ながら、壁へ背中を預ける。
奪われていた時間を、彼らへ返すべきだ。
フィヨルドとの第一ラウンドは終わった。
僕たちの勝ちだ。




