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第二話 魔王の誘惑に「YES」と答えた

「やめてくれ……」


 声がうまく出なかった。


「もう……何も、見せないでくれ……」


「もう終わっておる」


 魔王が黒い炎を消した。


 王都も、国王も、王女も見えなくなる。


 けれど、一度見た光景は消えなかった。


 王女が僕にくれた、小さなお守り。


 旅立ちの日、震える手で差し出してくれた。


『必ず、無事に帰ってきてください』


 僕は笑って、約束した。


 必ず魔王を倒して帰ると。


「お前が決めたのだろう」


 魔王の声が降ってくる。


「王都へ兵を残さず、すべてをわしの城へ差し向けるとな」


「違う……」


「何が違う?」


「僕は……皆を救おうと……」


「結果は同じだ」


 何も言えなかった。


 王都に残す兵を減らしたのは、僕だった。


 魔王さえ倒せば戦争は終わる。


 今まで何も決められなかったから、今度こそ迷ってはいけない。


 そう思って、初めて自分の意思を通した。


 その結果が、これだった。


 僕が決められなくても、人が死んだ。


 僕が決めても、人が死んだ。


 仲間も。


 国王も。


 王女も。


 王都の人々も。


 皆、僕を信じて死んだ。


「もうよいではないか」


 魔王の声が、急に穏やかになった。


「お前は十分に戦った」


 大きな手が、僕の前へ差し出される。


「勇者よ。わしの部下になれ」


「……何?」


「もう人間どもを守る必要はない。お前を責め、急かし、望みもしない戦場へ送り出した者どもなど、捨ててしまえ」


 その声は不思議なほど優しかった。


「お前が救えなかった首都を、褒美としてくれてやろう」


 魔王の口元が歪む。


「瓦礫でも墓場でも、領地は領地だ。お前にはよく似合う」


「ふざけるな……」


「何が不満だ?」


 魔王は首を傾げた。


「お前はこれまで、一度として自分の望むものを選ばなかった」


 胸の奥を、冷たい指でなぞられたような気がした。


「勇者になりたいと望んだか?」


 望んでいない。


 七歳のとき、僕の手に勇者の紋章が現れた。


 大人たちは喜んだ。


 両親は泣いた。


 神殿は僕を引き取り、国王は国の希望だと言った。


 嫌だとは言えなかった。


「魔王を討ちたいと望んだか?」


 望んでいない。


 怖かった。


 戦いたくなかった。


 けれど、僕が行かなければ大勢が死ぬと言われた。


 だから断れなかった。


「そやつらを仲間に選んだのは、お前か?」


 違う。


 国が選んだ者たちだった。


 最初は皆、優しかった。


 僕も皆が好きだった。


 失敗を重ねるたび、会話は減っていった。


 僕が判断に迷うたび、皆は僕を待たなくなった。


 最後には、誰も僕へ意見を求めなくなった。


 それでも彼らは、最後まで僕を守って死んだ。


「お前は一度も、自分で人生を選んでおらぬ」


 魔王の手が、目の前にある。


「今度くらい、好きな方を選べ」


 視界の中央に、二つの言葉が浮かび上がった。


《YES》


《NO》


 勇者の祝福が、僕へ選択を求めている。


 何度も見てきた。


 力を授けられた日。


 旅立ちを命じられた日。


 仲間を迎え入れた日。


 誰を助けるか迫られた日。


 そのたびに僕は迷った。


 どちらが正しいのか。


 誰も傷つかない答えはどちらなのか。


 皆が納得する道はどちらなのか。


 考えて。


 遅れて。


 間違えて。


 失った。


 もう考えたくなかった。


 正しい答えなど、どこにもなかった。


「さあ、選べ」


 魔王が囁く。


「わしの手下になるか?」


 勇者なら《NO》を選ぶべきだった。


 世界を救わなければならない。


 皆の期待に応えなければならない。


 そう教えられてきた。


 けれど、もう皆はいない。


 期待する人も。


 失望する仲間も。


 守るべき王都も。


 何も残っていない。


 僕は初めて、迷わなかった。


《YES》


 選択へ触れた。


 一瞬、世界から音が消えた。


「ク……クク……」


 魔王の肩が震える。


「クハハハハハハハハッ!」


 玉座の間を揺らす笑い声が響き渡った。


 黒い炎が噴き上がり、床に巨大な魔法陣が浮かび上がる。


「ようやく選んだな、勇者よ!」


「何を……」


「では、証明してみせよ!」


 僕の体が、闇へ沈んでいく。


「今度こそ、正しく選べるか!」


 仲間たちの遺体が遠ざかる。


 魔王の姿も、玉座の間も、すべてが闇に飲まれていく。


「今度こそ、わしの望む勇者となれるか!」


 意識が途切れた。


 そして――。


《勇者の魂を確認しました》


 無機質な声が響く。


《肉体の再構成を開始します》


《勇者の力を初期状態へ戻します》


《現在位階――一》


「待って……」


《最初の祝福を三つ選択してください》


 目を開けた。


 どこまでも白い空間だった。


 天井も、床も、壁もない。


 僕の前に、無数の祝福が浮かんでいる。


《小治癒》


《身体強化》


《剣術》


《火球》


《危険感知》


《魔力増幅》


 知っている。


 ここは、七歳の僕が勇者としての力を授けられた場所だ。


 慌てて自分の手を見る。


 小さい。


 傷一つない、子供の手だった。


「戻った……?」


 声も幼い。


 勇者の紋章へ意識を向ける。


 位階は一。


 身につけたはずの祝福は、一つも残っていない。


 あれほど鍛えた力も。


 仲間たちを守るために覚えた術も。


 何一つ引き継がれてはいなかった。


 残っているのは、記憶だけ。


 魔王軍の動き。


 敵の弱点。


 隠された武器。


 これから強くなる者。


 裏切る者。


 そして、一度目の僕が犯したすべての間違い。


 魔王を倒すために旅をした年月が、すべて消えていた。


 けれど、不思議と悲しくはなかった。


 力を失ったことより、もう一度選べることの方が大きかった。


 一度目の僕は、差し出されたものを断れなかった。


 勇者の使命も。


 国が決めた仲間も。


 誰かを救うためだけの力も。


 今度は違う。


 誰に嫌われても、僕が選ぶ。


《最初の祝福を三つ選択してください》


 一覧の一番上で、《小治癒》が淡く光っている。


 一度目の僕が、最初に選んだ力。


 傷つく人を助けたかった。


 誰かが痛い思いをするのが嫌だった。


 だから選んだ。


「もう、いらない」


 僕は《小治癒》から手を離した。


 代わりに《剣術》を選ぶ。


 次に《身体強化》。


 最後に《危険感知》。


 その三つは、かつての僕なら選ばなかった力だった。


 傷ついた誰かを前にしたとき、自分だけが生き残るための力を選んだことを後悔するかもしれない。


 それでも、もう迷わない。


 迷っている間に失う痛みを、僕は知っている。


 敵を倒す力。


 生き残る力。


 危険を先に見つける力。


 もう誰かの判断を待たない。


 敵を見逃さない。


 救えない者まで救おうとして、すべてを失わない。


 情だけで仲間を選ばない。


 今度は僕が決める。


 正しい力を選ぶ。


 正しい仲間を選ぶ。


 正しい道を選ぶ。


 そして今度こそ、魔王を殺す。


《選択を確定しました》


 白い空間に光が満ちる。


 意識が遠ざかる直前、視界の隅に黒い文字が浮かび上がった。


《魔王への従属を確認》


《契約第一段階を開始します》


「……え?」


 問い返すより先に、僕の意識は光に飲み込まれた。

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