第一話 勇者は、すべてを失った
世界を救うには、僕は優しすぎたらしい。
それが分かったのは、魔王に敗北したあとだった。
「顔を上げよ、勇者」
魔王の声が、玉座の間を震わせた。
僕は床に倒れたまま、動けなかった。
右腕は折れている。左脚には、魔王の放った黒い槍が突き刺さっていた。息を吸うたび、胸の奥で何かが軋んだ。
それでも、僕は顔を上げた。
上げなければならなかった。
「や……めろ……」
正面に、四人の仲間が並べられていた。
女騎士リナリア。魔術師エド。神官ミリア。斥候のガルド。
全員が魔力を封じる黒い鎖で拘束され、魔族たちに膝をつかされている。
誰一人、死んではいなかった。
まだ。
旅の終わりが近づくほど、僕たちの会話は減っていた。
リナリアは僕の命令を待たずに剣を抜くようになった。エドは作戦を決めるとき、僕ではなくガルドの顔を見るようになった。ミリアだけは変わらず微笑んでくれたけれど、その笑顔にも疲れが滲んでいた。
それでも魔王城へ入る前、四人は僕の周りに立った。
『勇者を中央に。僕たちが道を開く』
そう言ったのは、僕の判断の遅さを最も厳しく責めていたエドだった。
皆はもう、僕を信頼していなかったのかもしれない。
それでも僕を見捨てなかった。
だからこそ、僕は彼らを死なせたくなかった。
「魔王!」
リナリアが血に濡れた顔を上げた。右腕は肘から先がなく、それでも彼女は魔王を睨んでいた。
「私たちは敗れた。勇者は関係ない。殺すなら私からにしろ」
「よかろう」
魔王が指を動かす。
リナリアの首に巻かれた鎖が、勢いよく締まった。
「がっ……!」
彼女の体が宙へ持ち上げられた。
「待ってくれ!」
僕は床を這った。
「何でもする! 僕を殺せ! だから――」
「何でもする、か」
魔王は笑った。
リナリアの脚が激しく宙を蹴る。
助けようとした。治癒も、解除も、障壁も使おうとした。
何も起きなかった。
魔力はもう残っていない。仲間たちを守るために、すべて使い切っていた。
「リナリア!」
彼女は僕を見た。
苦痛に歪んだ顔で、それでも口元を動かした。
「……生きて……」
鈍い音がした。
彼女の首が折れた。
鎖が解け、体が僕の前へ投げ捨てられる。
「貴様ああああっ!」
エドが叫んだ。
拘束されたまま魔法を放とうとする。
「炎よ――」
「騒々しい」
魔王が手を振った。
黒い炎がエドの口へ飛び込み、喉の奥を焼いた。
エドは絶叫すら上げられなかった。
口を押さえ、床を転げ回る。煙が口から、鼻から、目から立ち上っていく。
「やめて……」
僕は何度も床を叩いた。
「もう、やめてくれ……!」
エドの動きが止まった。
あれほど口の悪かった男が、最後には一言も残せなかった。
「次は神官か」
「お待ちください」
ミリアが静かに顔を上げた。
「私の命を差し上げます。ですから、勇者様だけはお助けください」
「ミリア……」
「勇者様。あなたに救われた人は、たくさんいます」
「違う。僕が……僕が決められなかったから……!」
「それでも、あなたの優しさに救われた者は――」
魔王の爪が、ミリアの胸を貫いた。
言葉が途切れる。
魔王は彼女の体を持ち上げ、そのまま床へ叩きつけた。
一度。
二度。
白い法衣が赤く染まる。
「やめろおおおっ!」
僕は叫びながら、魔王へ這い寄った。
魔族に背中を踏みつけられ、顔を床へ押しつけられる。
それでも、ミリアから目を逸らせなかった。
「……僕が殺す」
ガルドが呟いた。
いつも軽口ばかり叩いていた男の、聞いたこともないほど低い声だった。
「絶対に……お前を殺す」
「面白い」
魔王が指を鳴らした。
ガルドの前に短剣が落ち、鎖が消える。
「機会をやろう」
ガルドは迷わなかった。
短剣を拾い、魔王へ飛びかかる。
あと一歩。
刃が喉へ届く。
そう思った瞬間、ガルドの体が宙で止まった。
胸から、魔王の腕が突き出ていた。
「勇気だけは認めてやろう」
魔王は手を引き抜き、ガルドの頭を掴んだ。
「身の程を知らぬ勇気は、蛮勇にすぎぬ」
指に力が込められる。
鈍い音とともに、ガルドの体が崩れ落ちた。
血が僕の頬にかかった。
「これで、お前一人だ」
魔王が立ち上がる。
「誰も守れなかったな、勇者よ」
僕は答えられなかった。
全員、僕を守って死んだ。
僕だけが残った。
魔王城へ突入したとき、僕は皆へ《身体強化》を重ね、《守護障壁》を張り続けた。
傷を負えば治した。毒を受ければ消した。恐怖に呑まれれば心を鎮めた。
僕の力は、確かに仲間を支えていた。
けれど、魔王を倒す一撃だけは誰にも与えられなかった。
僕自身にもなかった。
守って、治して、耐え続けた末に、僕たちは力尽きた。
「お前が敵を見逃さなければ、救えた命もあった」
魔王の言葉が胸へ突き刺さる。
降伏した魔族の兵士を、僕は殺せなかった。
武器を捨て、もう戦わないと泣いていた。
リナリアは殺すべきだと言った。エドも嘘だと警告した。
それでも僕は見逃した。
その兵士は後に部隊を率いて戻り、村を一つ焼いた。
『次は、決めて』
リナリアは僕を責めなかった。
けれど、次も決められなかった。
二つの町が同時に襲われたとき、僕は両方を救う方法を探した。
地図を広げ、援軍を求め、最善を探しているうちに時間が過ぎた。
結局、どちらにも間に合わなかった。
『お前は誰も見捨てないんじゃない』
焼けた町を見ながら、エドが言った。
『自分で見捨てたって認めたくないだけだ』
その通りだった。
僕は優しかったのではない。
誰かを犠牲にする責任が怖かっただけだ。
「一つ、良いものを見せてやろう」
魔王が指を鳴らした。
空中に黒い炎が広がり、遠く離れた光景を映し出す。
高い城壁。
白い尖塔。
大聖堂。
王城へ続く大通り。
「王都……」
炎の中で、王都が燃えていた。
城壁は崩れ、大聖堂の塔は折れ、通りには人々の遺体が積み重なっている。
「お前たちがわしと戦っている間に、別働隊を送った」
魔王が愉快そうに告げた。
「守る者のいない都など、落とすのに半日もかからなんだ」
映像が王城の玉座の間へ近づいていく。
そこに、漆黒の鎧をまとった魔族が立っていた。
額に三本の角を持つ、四天王の長――黒将ヴァルガス。
『魔王様』
低い声が響いた。
『王都の制圧、完了いたしました』
ヴァルガスが右手を上げる。
掴まれていたのは、白髪の男の首だった。
国王。
僕を励まし、必ず帰ってこいと言ってくれた人。
さらにヴァルガスは、左手も持ち上げた。
長い金髪が揺れる。
まだ幼さの残る、王女の首だった。
『国王は、最後まで勇者の勝利を信じておりました』
ヴァルガスが愉快そうに笑う。
『王女も、最後まで泣きませんでしたぞ』
王女の顔が、炎の中で揺れた。
『勇者様が必ず助けに来ると、そう申しておりました』
魔王の笑い声が響いた。
僕の中で、最後に残っていた何かが、音を立てて壊れた。




