第十七話 暗殺者は、炎を祓う
《狂王の針》を、女の肩へ突き立てた。
一瞬。
何も起こらなかった。
女のカタールは勢いを失わず、僕の喉へ迫る。
半歩だけ退く。
刃先が首筋を浅く裂いた。
血が流れた、次の瞬間。
「――あああああっ!」
女の全身から、赤黒い魔力が噴き上がった。
足元の瓦が砕ける。
外れていた肩が、軋む音とともに元の位置へ戻った。
傷ついた筋肉が膨れ上がり、全身の魔力が爆発的に高まっていく。
《狂王の針》。
肉体を守るための限界。
痛み。
恐怖。
理性による自制。
そして、外から意思を押さえつける力。
刺された者を縛る、あらゆる抑制を一時的に壊す魔導具だ。
ただし、洗脳そのものを解除するわけではない。
女が屋根を蹴った。
姿が視界から消える。
《第六感》に従い、剣を立てた。
凄まじい衝撃。
鋼の剣ごと、腕が跳ね上げられる。
速い。
もともと僕を上回っていた動きが、さらに限界を越えて引き出されている。
右のカタール。
左のカタール。
蹴り。
肘。
一撃ごとに瓦が割れ、火花が散った。
洗脳されたまま、力だけを解放してしまったのか。
女の刃が、僕の心臓を狙う。
剣で受け流す。
その瞬間。
女の瞳が、わずかに揺れた。
僕へ向けられた殺意の奥に、別の感情がある。
憎しみ。
怒り。
だが、それは僕へ向けられたものではなかった。
◇
――勇者を殺せ。
頭の中で、命令が繰り返される。
甘く。
優しく。
耳元へ唇を寄せるような、あの女の声。
――勇者を捜せ。
――追い詰めろ。
――心臓を貫け。
――首を持ち帰れ。
身体が勝手に動く。
右腕がカタールを振るい、少年の喉を狙う。
違う。
ナディアは、身体の奥で叫んだ。
殺したいのは、この少年ではない。
私が殺したいのは。
エスカリテを滅ぼした女。
仲間たちを奪った女。
母を殺し。
父を焼いた女。
紅魔将フィヨルド。
お前だ。
《狂王の針》が、肩から灼けるような熱を流し込んでくる。
押さえ込まれていた魔力が溢れた。
身体を守る制限が外れる。
痛みが遠ざかる。
同時に。
洗脳によって沈められていた記憶と感情が、濁流となって蘇った。
血の臭い。
焼けた石の熱。
倒れる母。
母を見下ろし、楽しそうに微笑むフィヨルド。
『あなたが従えば、こんなことにはならなかったのに』
父は答えなかった。
エスカリテ・アサシンギルドの頭領。
ナディアの父。
フィヨルドは、父へ服従を命じた。
父は拒んだ。
見せしめとして母を殺されても、膝をつかなかった。
ならば心を奪えばいいと、フィヨルドは父へ洗脳魔法を刻み込んだ。
父の全身が震えた。
血を吐き。
地面へ爪を立て。
自分の身体と戦いながら。
それでも、命令には従わなかった。
『苦しいでしょう?』
フィヨルドは、本当に不思議そうに首を傾げた。
『私に仕えれば、楽になれるのに』
父は、掠れた声で答えた。
『断る』
炎が父を包んだ。
一息には殺さなかった。
炎を弱めて皮膚を焼き。
治癒魔法で命だけをつなぎ。
また焼いた。
フィヨルドは、父が屈する瞬間を待ち続けた。
ナディアは動けなかった。
叫ぶことも。
目を逸らすことも許されなかった。
父の身体が炭になっても。
人の形を失っても。
灰へ変わる、その瞬間まで。
父は一度も、フィヨルドへ頭を下げなかった。
――勇者を殺せ。
命令が、記憶を塗り潰そうとする。
ナディアの腕が、再び少年の胸へカタールを突き出す。
違う。
父が命を懸けて拒んだ相手の命令に。
その娘である自分が従っている。
仲間を守るはずだった。
次期頭領として、皆を生きて連れ帰るはずだった。
それなのに。
父を殺した女の命令で仲間を率い。
自分の意思では望まない殺しを繰り返した。
止めることもできず。
死んで逃げることすら許されず。
フィヨルドの道具として使われ続けた。
許せない。
フィヨルドが許せない。
何より。
あの女に従っている自分自身が、許せなかった。
《狂王の針》が、ナディアの魔力をさらに押し上げる。
洗脳の鎖が軋んだ。
針が自由にしてくれるのではない。
ただ、鎖を緩めただけ。
そこから抜け出すのは、自分だ。
父がそうしたように。
――勇者を殺せ。
「断る」
声が出た。
首元の赤黒い紋様が燃え上がる。
肉を内側から焼かれるような痛み。
頭蓋が割れそうになる。
それでも構わない。
父が味わった苦しみに比べれば、こんなものは痛みですらない。
――命令に従え。
「断る」
ナディアは、強化された魔力を首の紋様へ叩きつけた。
洗脳の魔力が食い込んでくる。
身体を奪い返そうとする。
ならば、さらに強く押し返す。
父の灰を。
母の血を。
仲間たちの苦しみを。
胸の奥で燃え続けた殺意を。
すべて魔力へ変える。
「私は……」
少年の心臓へ届く寸前で、カタールが止まった。
腕が震える。
命令が、刃を押し込もうとする。
ナディアは、その腕を自分の意思で引き戻した。
「私は、エスカリテ・アサシンギルド頭領の娘」
赤黒い紋様へ、亀裂が走る。
「次期頭領候補――ナディア」
紋様が激しく明滅した。
「お前の人形ではない!」
乾いた音が響く。
赤黒い刻印が砕け散った。
◇
僕の胸へ触れる寸前で、カタールが止まった。
女の首元から、赤黒い光が砕けて夜へ散る。
直後。
女の身体から力が抜けた。
倒れる前に、その身体を受け止める。
「……フィヨルドは」
掠れた声だった。
「フィヨルドは、どこだ」
洗脳を破って、最初に尋ねることがそれか。
「ここにはいない」
「そう……か」
女は苦しそうに息を吐いた。
それでも、その口元がわずかに歪む。
「なら、探す」
背後から殺意。
女を抱えたまま横へ跳ぶ。
短剣が瓦へ突き刺さった。
残っていた暗殺者たちが、再び僕たちを包囲しようとしている。
倒れていた者も、少しずつ身体を動かし始めていた。
「仲間を止められるか」
「無論……だ」
女は僕の腕から離れた。
足元がふらついている。
それでも自力で立ち、腰から細い黒針を抜いた。
「三呼吸、欲しい」
「殺さずに?」
女が僕を見る。
先ほどまでとは違う。
その瞳には、はっきりと本人の意思があった。
「私の仲間なんだ」
「分かった」
僕は迫る二人へ踏み込んだ。
短剣と曲刀。
二つの攻撃線が重なる。
《剣雄》を得た今なら、その流れが見える。
短剣へ剣先を触れさせ、軌道を外す。
返す剣で曲刀を弾いた。
一呼吸。
二人の間へ入り、片方の肘を打つ。
短剣が落ちた。
もう片方の膝裏へ足をかけ、屋根へ倒す。
二呼吸。
起き上がろうとする二人を、剣の腹で打ち据えた。
三呼吸。
女――ナディアの指から、二本の黒針が飛ぶ。
針は暗殺者の身体ではなく、その影へ突き刺さった。
「《影葬》」
影が大きく広がった。
黒い帯となって二人の身体へ絡みつき、腕も脚も動きを止める。
二人は抵抗しようとしたが、やがて力を失い、深い眠りへ落ちた。
ナディアは続けて、倒れている仲間たちの影へ針を打ち込んでいく。
一人。
また一人。
屋根の上に倒れていた十数人の暗殺者が、次々と影へ封じられた。
「死んではいないな」
「魔力と肉体を、影の中へ沈めた」
ナディアは荒い呼吸を繰り返しながら答えた。
「アサシンギルドに伝わる捕縛秘術だ」
「どれくらい持つ」
「本来なら七日ほど」
ナディアは、首に残るひび割れた紋様へ触れた。
「だが、洗脳魔法が内側から抵抗するだろうから、長くても三日ほど」
「三日を過ぎれば?」
「全員が目覚める」
そして再び、僕を殺そうとする。
ナディアは眠る仲間たちを見回した。
「私だけが助かっても、意味が無い……」
「解除する方法は知っているのか」
「いや」
即答だった。
それでも、その目に諦めはない。
「必ず見つける」
問題は、これだけの人数をどう運ぶかだ。
王城の兵士が来る前に、この場を離れなければならない。
「潜伏場所はあるか」
「ああ」
ナディアは仲間たちの中央へ立った。
足元へ、先ほどより長い黒針を突き立てる。
「《影渡》」
ナディアの影が広がった。
それぞれの暗殺者の影へ、細い黒い道が伸びていく。
つながった瞬間。
眠る暗殺者たちの身体が、ゆっくりと影の中へ沈み始めた。
完全に消えたわけではない。
輪郭を残しながら、肉体の大半が黒い影へ溶けていく。
屋根を埋めていた十数人分の気配が、一気に薄くなった。
やがて、仲間たちの影はナディアの足元へ集まり、一つの大きな影となった。
「この状態なら、まとめて運べる」
「転移するのか」
「いや。私が歩かなければ、影も動かない」
ナディアが一歩進む。
足元の巨大な影が、遅れて滑るようについてきた。
十数人を運んでいるとは思えないほど、音も気配もない。
だが、ナディアの顔色はさらに悪くなった。
「無理をしているな」
「夜明けが限界だ」
「潜伏場所までは?」
「一刻ほど」
歩けない距離ではない。
しかし、洗脳を破った直後のナディアには重い負担だ。
僕は彼女の隣へ立った。
「急ごう」
「……ああ」
僕たちは王城の屋根を離れた。
残された猶予は三日。
それまでに、十数人へ刻まれた洗脳を解かなければならない。




