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幕間 紅魔将は、刃を放つ

「ゴブリンヒーローを倒したと申すか」


魔王の声が、広い玉座の間に響いた。


報告を持ち帰った魔族は、床に額をつけたまま答える。


「はっ。放棄鉱山の拠点は陥落。ゴブリンヒーローと、その配下は全滅いたしました」


「計画は」


「……失敗にございます」


魔族の声が震える。


あの拠点は、ただゴブリンを集めていたわけではない。


周辺の村々を襲わせ、人間を殺させる。


戦いを重ねて位階を上げたゴブリンヒーローを、やがてゴブリンキングへと成長させる。


生まれた王を中心にゴブリンの軍勢を作り、周辺一帯を壊滅させる。


それが計画だった。


しかし、村への襲撃はことごとく阻まれた。


そして、成長を遂げる前にゴブリンヒーローは討ち取られた。


「討伐した者は」


「勇者でございます」


「軍を率いていたのか」


「いえ。単独で鉱山へ侵入したものと思われます」


それきり、魔王は何も言わなかった。


重い沈黙が、玉座の間を満たす。


報告役の魔族は、額を床につけたまま身動きひとつできずにいた。


長い時間をかけて進められていた計画を失敗させた。


たとえ自分に責任がなくとも、怒りを買うには十分だった。


背中を冷たい汗が伝う。


いつ首を刎ねられてもおかしくない。


いつ炎に焼かれても、影に呑まれてもおかしくない。


「……陛下」


恐る恐る、声を絞り出す。


魔王は答えなかった。


玉座から注がれる視線だけが、頭上へ重くのしかかっている。


やがて。


「さがれ」


短い言葉が落ちた。


「はっ!」


魔族は弾かれたように返事をした。


頭を下げたまま後退し、玉座の間を出る。


扉が閉じる寸前まで、決して魔王へ背を向けなかった。


重い扉が閉ざされる。


足音が遠ざかり、完全に気配が消えた。


魔王はしばらく動かなかった。


やがて、その口元がゆっくりと吊り上がる。


「ゴブリンキングを育てるはずが――」


低い笑い声が漏れた。


「勇者を育ててしまったか」


魔王は頬杖をつき、堪えきれないように肩を揺らす。


「素晴らしい」


まだ十年か、そこら。


それだけの年齢で、魔王軍の計画を一つ潰した。


誰かに命じられたわけでもない。


自ら敵の居場所を突き止め、単独で乗り込んだ。


「やはり前回とは桁違いだ」


配下を殺され、計画を潰された。


それでも魔王は、心の底から喜んでいた。


「そのまま強くなれ」


暗い玉座の間で、赤い瞳が細められる。


「儂への恨みも、憎しみも、決して忘れるでないぞ」


ひとしきり笑ったあと、魔王は顔を上げた。


「さて……紅魔将フィヨルドはおるか」


その声に応じるように、玉座の間の燭台が一斉に燃え上がった。


赤い炎が床へ落ちる。


炎は蛇のように絡み合い、女の姿を形作った。


深紅の衣に身を包んだ女魔人。


胸元と肩を大胆に露出した衣装の上から、細い金鎖と魔石をいくつも身につけている。


豊かな髪は、燃え上がる炎のような赤。


細く湾曲した二本の角の間で、小さな火が揺れていた。


魔王軍四天王の一人。


紅魔将フィヨルド。


「お呼びでしょうか、陛下」


フィヨルドは艶やかな笑みを浮かべ、玉座の前へ膝をついた。


「勇者が王都へ向かった」


「存じておりますわ」


「ならば、歓迎してやれ」


魔王の言葉に、フィヨルドは顔を上げた。


「王都の守りは、まだ健在です。わたくしが直接向かえば、少々騒ぎが大きくなりすぎるかと」


「お前が行く必要はない」


「では、魔物を?」


「先だって滅ぼした国で、面白い連中を捕らえたと聞いている」


フィヨルドの笑みが、わずかに深くなった。


「あの子たちですか」


「使えるのか」


「ええ。とても優秀ですわ」


フィヨルドは指先へ小さな炎を灯した。


「城壁を登り、屋根を渡り、鍵のかかった部屋へ音もなく忍び込む。毒、罠、変装、暗殺。殺すための技術だけなら、並の魔族よりよほど洗練されています」


「洗脳は済んでいるのか」


その問いに、フィヨルドは少しだけ困ったような顔をした。


「大半は」


「大半?」


「なかなか頑固な子もおりますの」


指先の炎が揺れる。


「国を焼かれ、仲間を奪われ、何度心を折っても、まだわたくしを殺そうとしている。かわいらしいでしょう?」


「命令に従わぬのか」


「従いますわ」


フィヨルドは即答した。


「従いながら、逆らおうとしているだけです」


魔王が喉の奥で笑う。


「ならば、そいつらを差し向けろ」


「何人ほど?」


「すべてだ」


フィヨルドの目が、わずかに見開かれた。


「丸ごと、でございますか」


「一人も残すな」


魔王は楽しげに告げた。


「勇者を殺せるなら、それでよい」


「殺せなければ?」


「その時は、勇者がどのように刃を折るのか見てみたい」


フィヨルドは、しばらく魔王を見つめた。


やがて、ゆっくりと頭を下げる。


「仰せのままに」


炎が巻き上がる。


その中で、フィヨルドの姿が消えた。


     ◇


地下牢には、窓がなかった。


空気は湿り、石壁には赤い魔法陣が幾重にも刻まれている。


広い牢の中に、何十人もの人間が並んでいた。


全員が同じ国の装束を身につけている。


砂塵を防ぐための外套。


顔を覆う布。


腰や背へ取りつけられた円形の刃。


両手へ装着するための、細長いカタール。


かつて、一つの国の影を担っていたアサシンギルド。


王を守り、敵国へ潜り、決して名を残さず祖国を支えた者たち。


その国は、もうない。


紅魔将フィヨルドによって焼かれた。


生き残った者たちは捕らえられ、ここへ運び込まれた。


一人ひとりの首には、赤黒い紋様が刻まれている。


「ご機嫌いかが?」


牢の奥から靴音が響いた。


フィヨルドが姿を現す。


並んでいた暗殺者たちが、一斉に顔を上げた。


その動きには、寸分の乱れもない。


しかし、誰一人としてフィヨルドへ襲いかかろうとはしなかった。


襲えない。


「今日は、あなたたちにお仕事を差し上げます」


フィヨルドが指を鳴らす。


首の紋様が赤く光った。


暗殺者たちの身体が、わずかに震える。


「王都へ向かいなさい」


誰も返事をしない。


フィヨルドは気にせず続けた。


「勇者が現れます」


その言葉に、列の先頭近くにいた一人の指が動いた。


ほんのわずか。


カタールの柄へ伸びようとする動き。


だが、その腕は途中で止まった。


命令されていないからだ。


「勇者を探し出しなさい」


首の紋様が、さらに強く光る。


「見つけたら、殺しなさい」


「……命令を、確認」


最初の一人が答えた。


続いて、全員の口が動く。


「命令を確認」


「勇者を捜索」


「発見後、殺害」


抑揚のない声が、牢の中へ重なった。


フィヨルドは満足そうに微笑む。


洗脳とは、技術を奪う魔法ではない。


記憶も残る。


判断力も残る。


積み重ねてきた鍛錬も、敵を殺す技術も残る。


ただし、命令へ逆らう意思だけが消える。


迷いも。


恐怖も。


良心も。


不要なものを削ぎ落とし、与えられた目的だけを遂行する。


それが、フィヨルドの洗脳魔法だった。


「準備をなさい」


暗殺者たちが一斉に動き出す。


鎖を外し、外套をまとい、刃を確かめる。


誰も言葉を交わさない。


互いに視線を合わせることすらない。


その中で、一人だけ動きが遅れた。


先ほど、カタールへ手を伸ばそうとした者。


その人物は自分の首へ触れ、震える指で赤い紋様を掻いた。


爪が皮膚へ食い込む。


血がにじむ。


それでも紋様は消えない。


「……フィ、ヨルド」


掠れた声が漏れた。


フィヨルドが振り返る。


「何かしら?」


「殺す」


その言葉に、フィヨルドの顔が輝いた。


「まあ」


洗脳されながら、命令へ逆らおうとしている。


自分の身体が勇者を殺す準備を進める中で、必死に別の言葉を口にしている。


フィヨルドは、その人物の前へ歩み寄った。


指先で顎を持ち上げる。


「本当に、あなたは壊れにくいのね」


暗殺者の瞳には、消えかけた憎悪が残っていた。


「安心なさい」


フィヨルドは優しく囁いた。


「勇者を殺して戻ってきたら、もう少し深いところまで作り変えてあげる」


暗殺者の手が震えた。


刃を抜こうとする。


だが、命令がそれを許さない。


フィヨルドは楽しそうに笑い、その場を離れた。


「さあ、お行きなさい」


地下牢の門が開く。


暗殺者たちは一人ずつ、闇の中へ消えていく。


最後の一人が門をくぐる直前、フィヨルドは声をかけた。


「期待しているわ」


暗殺者は振り返らなかった。


ただ、血のにじむ手でカタールを握り締めた。


その夜。


一つの国を影から支えていた暗殺者たちが、王都へ向けて放たれた。


一人でもなく。


一部でもなく。


アサシンギルド、そのすべてが。

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