第9話 魔王、観客ゼロで本気を出す
夜道は静かであった。
街灯の間の暗がりを踏むたび、足元の影が伸びては薄れる。板は部屋に置いてきた。辻は立てぬ。見世物にする筋の話ではない。
行く先は川辺である。夕刻に視た、あの空の歪みだ。ああいうものを見てしまった以上、放ったまま眠れる質ではない。
それに、あの晩の遠吠えだ。幾重にも重なって夜気の底を這ってきた、あの声の主どもがまだ土手の辺りにおるなら、なおのこと捨て置けん。民が朝夕に歩き、子が水遊びをする川である。庭先に魔獣の巣を飼う街があってたまるか。
土手に上がると、川風が水の匂いを運んできた。夜釣りの灯りひとつない。人の気配もない。良い夜だ。……こういう夜に限って、良くないものがおるのだが。
果たして、おった。
歪みの根は橋の下であった。橋脚の陰、水際から上がった草地の宙——人の背丈ほどの高さで、夜気の一箇所が古布の裂け目のようにほつれておる。ほつれの奥は暗い。そこから魔素が、細い糸を引いて漏れていた。濃いな。この街に来てから、こんな濃さは嗅いでおらん。
そして、先客どもだ。
黒い獣。ざっと数えて十二。仔犬ほどのから、猟犬ほどに育った若いのまで。焦げた毛並みに燠火の目——地獄犬である。国許の野山では見飽きるほどおった獣だ。夜目でも見誤らぬ。
群れの奥、橋脚の根に、ひときわ大きいのが伏せておる。成体だ。荷馬の丈には届かぬが、大犬よりはよほど嵩がある。若いのどもの散り方に、あれを守る形が薄く出ておる。頭はあれだ。
見ている間にも、ほつれが一度ふくらみ、仔犬が一頭、こぼれ落ちるように湧いて出た。
……湧き口か。ならば数は、放っておけばまだ増える。
余は橋の下と、土手の上下へ目を配った。目の届く限り、人はおらぬ。よし。
ならば、これも要らぬ。
角と瞳を覆っていた幻を、余は自分の手で解いた。誰も見ておらぬ夜に、覆いを掛けておく理由がない——というのが半分。残る半分は性分である。戦の前に身なりを整えぬ将がおるか。夜風が角の根に触れて、息がひとつ、深くなった。
最初に気付いたのは見張りの若いのだった。首がこちらへ回り、喉の奥で低い音が鳴る。群れの耳が一斉に立った。
名乗りは要らぬな。獣が相手だ。
先に足を使う。群れと土手の斜面の間——街へ抜ける道筋に、余が立つ。追う前に、逃げる先を消す。群れ狩りの順は決まっておる。散らしてからでは遅いのだ。
右の端から二頭が回り込みに掛かった。数を頼む群れの癖である。回らせておいて、回り切る前に落とす。指を二度振った。下級の魔弾がふたすじ、それぞれの眉間で終わる。声もない。
残りがひと呼吸ひるんだ。その隙に幻をひとつ立てる。手負いの獣が水際でもがく、音と匂いだけの安い囮である。だが、獣には効く。群れの鼻が釣られて、湧き口の前から半分が割れた。
割れた側から順に落とす。若いのは動きが素直だ。跳ぶ前に沈み、跳んでからは伸びるだけ。伸びたところしか撃たぬ。一頭に一発。それで足りる的に、二発使う理由がない。
ほつれがふくらんで、また仔犬がこぼれた。着地の鼻先を撃つ。湧きたては足腰が据わっておらん。哀れではあるが、育てば民を食う獣だ。ここで灰にするのが、街にもあれにも一番安くつく。
土手の上の街は、静かなものだった。風の加減か、湯屋の名残りらしい湯の匂いが薄く下りてくる。あの静けさの側へは一頭も通さぬ。決めるのはそれだけだ。あとは順に片づける。
囮に食いついた最後の一頭を落としたところで——来た。
成体である。
仲間の減りを数えてから出てくるあたり、率いる器量はあるのだろう。だが遅い。出るなら二頭目のうちに出るべきだった。
まっすぐには来ぬ。低く、橋脚を盾に取りながら弧を描いて走る。賢しいことだ。もっとも、地獄犬の踏み込みは三歩で癖が出る。左、左、右。昔の部下にも、同じ運びで余の膝を狙った跳ねっ返りがおったわ。
三歩目に合わせ、鼻先で閃光の幻を弾けさせた。燠火の目は闇に慣れる分、光に弱い。怯んだところで前脚の付け根を撃つ。折れずとも踏み込みは死ぬ。傾いだ首の顎の下へもう一発を送り、喉が詰まって前のめりに沈んだ眉間へ、残りの二発を置いた。
どう、と草を鳴らして成体は倒れ、動かなくなった。ひと息おいて、縁のほうから黒い灰にほどけていく。若いのどもの灰は、もう夜風に紛れて見分けがつかぬ。
撃ちながら、ふと思った。……出るな、今夜は。指先の手応えが、最後まで細らなんだ。
——勘定の続きが先だ。
橋の下をひと巡りして、灰の跡を数えた。頭数は手勘定と合う。取り逃しはない。草を風が撫でて、あとはもう、何も動かなかった。
残るは、こいつである。
ほつれは知らぬ顔で宙に浮き、変わらず細く魔素を漏らしておった。近寄って検める。裂けた縁は熱くも冷たくもない。ただ、そこだけ夜気が薄い。
塞げるものなら塞いで帰りたい。指先に魔力を集め、縁を縫い合わせる心持ちで当ててみた。——届かぬ。手応えが縁を素通りしていく。いま余に使える術で扱える深さではない。それだけは一度で知れた。全盛期の余ならば、と頭を掠めたが、掠めただけにしておく。ない袖は振れぬ。
しかし、こんなものがなぜこの街の、よりにもよって民の水辺に——
……いや、待て。
夜が明ける。寝ずに立てた見立ては、昼にはたいてい使い物にならぬ。湧きの速さからして、明日明後日に群れが戻る量ではない。ならばまず寝て、調べは続ける。それで良い。
土手を上がる前に、幻を掛け直した。角が覆いの下へ沈む。
部屋に戻る。今夜のことは誰も知らぬ。看板の数字は一つも動かず、貢物が積まれるでもない。誰にも見られず、誰にも数えられず、それで済んだ。不足はない。寝る。
十日目の朝である。
起き抜けに板を開いた。約定の続き、証立ての手立ての調べ物だ。あれを片づけぬことには貢物が受けられぬ。今日も紙の壁との睨み合いになる——と思いつつ余の看板を覗いて、指が止まった。
書き込みの欄が、朝から妙に賑わっておる。しかも話の中身が、余の辻のことではない。
《昨日の夜の河川敷のやつ、みんな見た?》
《見た。何あれ》
《なにこれ、画質わるすぎて逆にこわいんだけど》
《ヴァル様の新しい演出……だよね?だよな、演出でしょこれ》
《それにしては本人が何も告知してないんだよな》
《こわ》
《演出にしては場所が謎すぎるでしょ》
《これ→【深夜の河川敷で謎の閃光】》
河川敷。閃光。
嫌な並びだ。余は貼られておった先を開いた。
広場に掲げられた写しである。夜の映りで、ひどく粗い。川向こうの遠くから手で構えて撮ったものらしく、絵が始終揺れておる。暗がりの中で、光が断続して瞬いた。見覚えのある間合いだった。それはそうだ。撃ったのは余なのだから。
獣の姿は闇に沈んで判らぬ。音は風と、遠い破裂音ばかり。だが閃光の続いたくだりで一瞬、人影の輪郭が白く浮いた。頭の左右に、角の形。
……見られておったか。
対岸だ。橋の下と土手は見て回った。川の向こうまでは、目が届かなんだ。夜襲そのものは成った。だが物見をひとり、見落としておったのだ。
驚きはせぬ。慌ててどうにかなる段は、もう過ぎておる。頭が勝手に、戦のほうへ切り替わっていくのが分かった。欄へ戻ると、書き込みがひとつ、目に刺さった。
《この人影、ヴァル様のアバターに似てない?》
余は欄の頭へ戻り、一件ずつ読み直しにかかった。確かめるべきは、どこまで割れておるか。手当ての算段は、それからである。




