第8話 魔王、金はあるのに身分がない
「息災であったか、諸君。数日ぶりの辻である」
口上がまだ終わらぬうちから、書き込みが走り出した。目で追うそばから次が来る。数日空けただけで、この詰めかけようは何ごとだ。騒動の見舞いか、物見高いのか。……分からんが、ともあれ来た者は客だ。
《待ってた》
《来たか》
《魔王様を守る会、一同参上いたしました》
《会員一同って何人いるんだよ》
「守る会か。……守られる王というのも妙な役回りだが、志は受け取っておく」
《てかボタン生えてない?》
《ほんとだ、スパチャボタンある》
《収益化通ったのか!》
《おめでとう!》
《おめでとうございます!》
《よし投げるぞ》
ぼたん。……ああ、貢物の口か。沙汰が通った段で、あちらが勝手に開けておいてくれたらしい。余自身まだ確かめてもおらなんだのに、客のほうが先に見つけおった。
「待て。待つのだ、諸君」
余は掌を向けた。
「口は開いた。だが受け取るまでには、余の側にまだ済ませておらぬ支度がある。整わぬうちに受けては、そなたらに礼を欠く。——済ませ次第、改めて受ける。余の名において約す」
《ずっと懐で温めてたのに》
《まだ温めるのか》
《温めすぎて孵るぞ》
《わかった。約束だからな》
「うむ、約束である。今宵はここまでとする。大儀であった」
辻は短く閉じた。約したからには、支度とやらを済ませねばならん。
その夜のうちに、保留していた頁を開いた。受け取りの支度、その残りの中身である。要件は二つ、最初の行に並んでいた。
【収益のお受け取りには、銀行口座の登録と本人確認が必要です】
銀行。商店街の先で看板を見た覚えがある。字面からして両替商の大店と見える。
口座。頁を辿るに、その両替商の金蔵に開く、余名義の銭の預け口を指すらしい。貢物はそこへ流れ込む、とある。手から手へは渡さぬのだ。帳場から帳場へ、帳面の上だけを銭が歩く。なるほど、これでは夜盗に出る幕がない。
して、本人確認。こちらは余が余であることの証立てだ。請け人なり裏書きなり、そういう筋の話であろう。例示の品書きもあった。うんてんめんきょしょう。ぱすぽーと。音をなぞったところで、余の蔵のどこを探してもない品だということしか分からん。
証か。
幻で紙の一枚、それらしく拵えて見せるのは造作もない——と、一瞬だけ考えた。一瞬で捨てた。民に法を守らせておいて、当の余がくぐってどうする。……我ながら下らぬ。忘れる。
ならば話は早い。頁と夜通し睨み合うより、明日、店へ出向いて直に訊くことだ。
明くる日の昼、銀行へ出向いた。
立派な店構えであった。両替商にしては物々しいほどで、床は磨き上げられ、話し声より紙の音のほうが多い。入ってすぐの小さな箱から、先客が紙の札を抜いていく。倣って余も一枚取った。三十一、とある。名ではなく番の順で呼ぶ帳場らしい。味気ないが、揉めぬ工夫ではあるのだろう。
長椅子で待つ間、記入の台で筆を走らせる客どもを眺めた。誰も彼も慣れた手つきだ。この街の民は、こういう作法をどこで習うのだ。
「三十一番の番号札をお持ちのお客様、二番窓口へどうぞ」
呼ばれた。
「預け口を……この店に、口座を開きたい」
「ありがとうございます。口座の開設ですね。本日、ご本人確認書類はお持ちでしょうか」
本人確認、書類。口の中で繰り返して、ようやく頁の品書きと繋がった。あの証立ての品のことか。
「……いや、持たぬ」
「運転免許証、パスポート、マイナンバーカード、健康保険証などになりますが」
「いずれも持たぬ」
こうなれば名乗るしかあるまい。真名は軽々しく明かさぬのが流儀だが、余の銭の預け口だ。偽りの名で開くわけにもいくまい。
「余はヴァルゼルドという。名では足りぬか」
「申し訳ございません。お名前だけでは承れない決まりでして。ご本人確認ができない場合、口座の開設はいたしかねます」
窓口の者は丁寧に頭を下げた。声にも顔にも、余を疑う色すらない。ただ決まりを述べておる。
「その書類とやらを持たぬ者は、どうすれば持てる」
「発行につきましては、それぞれの発行元にご確認いただく形になります。恐れ入ります」
発行元とやらでもまた、余が余である証を求められるのであろう。証のためにまた証が要る。どこまで行っても同じ問答だ。この者にいくら食い下がったところで、決まりのほうは一寸も動かぬ。そもそも、掛け合う相手からして違うのだ。
「相分かった。手間を取らせた」
札を返し、頭をひとつ下げて店を出た。背筋だけは伸ばしておいた。精一杯の見栄というやつだ。
帰り道、歩きながら手詰まりの形を並べてみた。
貢物の口は開いた。臣どもは銭を手にしたまま、こちらの合図を待っておる。銭の通り道もある。ないのは一つだけ——その銭を受ける者が余である、という証だ。
金はある。稼ぐ道も立った。受け取る手だけが、ない。
数百年、名乗れば通った。ヴァルゼルドの名で開かなんだ門はない。その名が、紙一枚に負けおった。
しかも、腹の立てようがないのだ。素性の知れぬ男が名乗っただけで金蔵の口を開ける店のほうが、よほど信用ならぬ。まっとうな帳場であるほど、余は正しく締め出される。……よく出来た仕組みではないか。感心して、それから笑うしかなかった。
アパートの前まで戻ると、トキ殿が箒を使っていた。
「おかえり」
「うむ」
「まったく、この葉っぱは掃いても掃いてもきりがないよ」
独り言とも、余に向けた声ともつかぬ。脇を抜けようとしたところで、箒の音が止まった。
「あんた、何かあったのかい」
この人が余の様子に触れたのは、初めてであった。よほどの顔をして歩いてきたらしい。
嘘は言いたくない。……さて、どこまで言えるものか。
「……故あって、身分を証す物を持たぬ。それで今日は、通らぬ話が一つあった」
「ふうん」
箒がまた動き出した。二度、三度。
「珍しくもないよ、そういう人は。ここにも何人もいたからね」
それきりであった。何があったのかも、故とは何かも、訊かぬ。勧めもせぬし、慰めもせぬ。箒はもう次の枯れ葉に向かっている。
「トキ殿」
「なんだい」
「……いや。その、なんだ。飯の礼をまだ言っておらなんだと思い出した。あの鍋は美味かった」
「いつの話をしてるんだい。変なあんただね」
礼の言い方を探して、出てきたのがそれであった。訊かれずに済むというのは、こうも楽なものであったか。余は二階への段を、来たときより軽い足で上がった。
外廊下の途中で、足が止まった。
夕暮れの空だ。河川敷の方角、屋根と屋根の間の低いところ。——歪んでおる。
遠火の上の景色が揺れる、あの具合に似ていた。だが火の気はどこにもない。水を張った桶の底から見上げた空のように、そこだけ輪郭が頼りない。目を凝らして、ようやくそれと分かるほどの、かすかな揺らぎである。
道を行く民は、誰も見上げぬ。夕餉の匂いのする、いつも通りの街だ。
長く戦場の空を見てきた目は、こういうものを勝手に拾う。拾ってしまえば、もう捨てられぬ。
部屋に入り、戸を閉めた。閉めても、あの揺らぎだけが瞼の裏から出ていかなかった。




