第10話 魔王、観客一万の前で本物を討つ
昼の川辺に立つのは、これが初めてである。夜と違って水が光り、草が匂う。余は板を手に、幻を纏って土手を歩いておる。朝がた書き込みの欄を頭から尻まで検めた。割れておるのは「似ている」まで。言い切った者はおらぬ。ならば、やることは決まっておる。消して回るより、堂々と見せるが早い。余が白昼この川辺に辻を立てれば、ここは余の見世物の場ということで話が落ち着く。ついでに、あのほつれの様子も検められる。一度の足労で二つ片づく。悪くない算段だ。
「よくぞ参った、諸君。本日は昼の検分である。川辺の風が良いぞ」
口上が終わらぬうちから書き込みが走り、見覚えのある名が並ぶ。昨夜の熱が、まだ張っておるのだ。
《河川敷キター》
《昨日の閃光動画の現場じゃん》
《答え合わせ来た?》
《で、あれ結局なんだったの》
《本人が一番落ち着いてるの好き》
来るとは思っておった。
「余の辻で起こる出来事は、すべて演出である。前にそう触れを出したはずだが」
《出た公式見解》
《言質を取らせない魔王》
《つまりそういうことね》
歩きながら、橋の下へ目だけをやる。ほつれは変わらずそこにあり、細く漏れておった。増えても減ってもおらぬ。今日はそれが分かれば足りる。覗き穴は水面へ向けたまま、余は土手を下りた。
——ふくらんだ。
見間違いではない。ほつれが大きく波打ち、裂けた縁から黒いものが押し出されてきた。仔犬ではない。若いのでもない。荷馬ほどの嵩がある。焦げた毛並みに灰色が差し、牙は黄ばみ、燠火の目が濁った金に沈んでおる。地獄犬の、老いて育ちきった一頭だ。国許でも、群れを離れた老いた個体は厄介と決まっておった。若さで跳ばず、経験で詰めてくる。
悲鳴が上がった。釣り人が竿を捨てて土手を駆け上がる。子を抱えて下がる母がおる。遠巻きに板を構えて撮り始める者どもまでおる。「撮影?」「映画かな」の声。……民よ、逃げるか撮るか、どちらかにせい。
辻を切るか。
切らぬ。隠れる段ではない。獣と民の間に立つのが先だ。考えるより足が出ておった。
《ん? なんか出た》
《でかっ》
《犬回きたああああ》
《これ企画? 告知あった?》
獣が鼻を上げ、人のほうへ首を回した。させぬ。余は民と獣を結ぶ線の上へ体を入れた。老いた獣は正面から来ぬ。低く伏せて右へ流れる。子を抱えた母の側だ。
指を振る。魔弾を一つ、右前脚の付け根へ。骨は断てずとも踏み込みは鈍る。獣が体を捩ってこちらを見た。よろしい。的は余だ。
《撃った? 今の》
《音したよね》
《撮ってる人ら逃げてー!》
《犬の作り込みえぐい》
《演出の規模が上がってる》
来た。老いても地獄犬の突進は重い。真っ向で受ける理由がない。半歩引いて、水際に手負いの獣の幻を立てる。匂いだけの粗末な囮だが、老いた鼻にはかえって効く。突進の頭が半拍だけ幻へ流れた。その半拍で懐に入り、残った左の前脚を撃つ。両の脚が死ねば、あとは嵩が大きいだけの的である。獣が前へ崩れた。開いた顎の奥へ、続けて魔弾を三つ置く。
重い音を立てて獣は横倒しになり、動かなくなった。縁から黒い灰にほどけていく。昼の光の下で見る灰は、存外あっけない。風が川下へ運んでいった。幻の覆いは揺らいでおらぬ。手の軽い戦であった。
《え、終わり?》
《つよ》
《いま何が起きたか誰か説明して》
《人多すぎて欄が読めん》
《ニホンゴ ワカラナイ ケド ツヨイ ノハ ワカッタ》
《昨日の夜のあれ、この撮影の下見だったんだ》
《特定班、無事成仏で草》
勘定より先に、体が言うてくる。
満ちておる。
撃ち終えた指先から肩へ、乾いた川床へ水が戻るように、魔力が満ちてくるのが分かった。あの朝の妙な軽さ。昨夜の細らなんだ手応え。そして今、これだ。並べれば答えは一つしかない。
見られるほどに、力が戻る。……そういうことか。
なぜ、と考えかけた頭を、欄の速さが引き戻した。もう目で追える速さではない。
《同接1万超えてるんだが》
《万超えは草》
《生で見られたの一生自慢する》
一万か。驚かぬ。数字より先に、体が教えておった。
欄には色の付いた書き込みが混ざり始めた。貢物である。赤いの、金のが、次から次へ投げ込まれて止まらぬ。
「待て、諸君。貢物はまだ受けられぬ。手続きを済ませ次第、改めて受けると約したはずだ」
《知ってて投げてるんだよなあ》
《気持ちだから》
《止まらんwww》
……止まらぬか。投げられた貢物は余の手には一枚も入らず、どこぞの帳面に積まれるだけと聞いておる。約を守る王の前で、揃って約を破ってくる臣どもだ。困った連中である。
「本日の検分、これまで。昼の川辺とて獣は出る。皆、気を付けよ。——大儀であった」
夜。部屋で板を開くと、文が一通届いておった。
頭に「事務所」とある。じむしょ。どこかで聞いた音だ。宛名は余の看板の名で正しく、名乗りがあり、銭の話を先に立てておらぬ。身分と収益の受け取りの相談に乗る、とだけある。先だっての怪しい商人と同じ目で検めたが、引っ掛かる箇所がない。身元の証立てと銭の受け取りの世話をする、請け人か口入れ屋の類か。返事は急がぬ。だが、捨てる文ではない。出口の見えなんだ紙の壁に、扉らしきものが一つ見えた。
寝る前に、今日の辻の写しを頭から検める。撮られた側こそ検分が要る。手当ての続きだ。
討伐のくだりは、我ながら悪くない位置取りであった——と、画面の隅で目が止まった。
川向こう、橋の陰。獣が崩れた騒ぎの一瞬、大きいものの影がよぎっておる。巻き戻す。粗い。人ではない。嵩が違う。
音を上げた。風と歓声の底に、低いものが一つ埋まっておった。咆哮である。
……この声を、余は知っておる気がする。
喉まで上がった名を、呑んだ。映りは粗く、音は割れて、確かめようがない。ないのだが——胸の奥が勝手に、故郷の方角を向いておった。




