第35話 魔王、河原に入れなくなる
半歩先を行くガルドバーンが、土手の上で足を止めた。鼻が先に動いておる。この地へ落ちて四十二日目、朝の見回りはそこで止まった。
「陛下。風下から、覚えのない人の匂いがいたします。……河原です。誰か入っておりますぞ」
目を凝らす。橋の下あたり、余が朝な夕なに歩いてきた砂利場へ、見知らぬ者が数人入っておった。揃いの腕章を巻き、長い棒の先に覗き穴を据え、かがんでは書き付け、かがんでは書き付けしておる。触れ役の一隊とは様子が違う。あの覗き穴は人ではなく、地面に向いておった。
一人が、黒い染みの前にしゃがんだ。匙のようなもので土ごと掻き取り、小さな袋に収め、袋の表に何やら書き入れる。手際に迷いがない。
あの染みには覚えがある。鼬の灰だ。
袋がまた一つ増えた。一つ収めるたびに表へ書き入れ、書き終えるまでは次へ移らぬ。几帳面なことである。やがて腰を上げ、橋桁の根の古い焦げ跡へ移って、そこでもまた同じ手順を繰り返し始めた。あれはたしか、来て間もない頃の跡だ。余らの狩りの跡を、余らが土手の上から遠巻きに眺めておる。いや、調べておるのはあちらなのだが。
「討ちまするか」
「たわけ。窓口の役人であろう。獣の訴えが上がって、役所が検分に来たのだ。妨げる理由がない」
「は。……されど、あの者ら、砂利の一粒まで拾う勢いでありますぞ」
「砂利まで拾わせておけ。こちらはこちらで、道を替える」
妨げはせぬ。せぬが、困りはする。
河原は口のひとつを見張る要所であり、余の巡回の初手である。その初手に、朝から人の目が据わった。余の庭で、余が遠回りをする羽目になったわけだ。妙な話である。
「ガルドバーン。河原は対岸から見るだけにする。朝夕の刻限も、日ごとにずらせ。それから、昼からの見回りにはヴェザリウスを付けよ。人目のある道が増えた。術の備えがいる」
「はっ」
昼である。
昼餉を済ませて板を開くと、ひよりの文が三つ、溜まっておった。
《ひよりん:放送のあと、新しい人がすごい増えてます! 切り抜きもまた回ってて、もう追いきれないです》
《ひよりん:あと、この町が「聖地」って呼ばれ始めてます。見に行きたいって人がいっぱいいるみたいで》
《ひよりん:そういえば今朝、河原に人が入ってるの見ました。工事ですかね?》
聖地。神殿のひとつもない町で、誰を祀る気だ。そのまま文で問うてみた。
《ひよりん:誰も祀りません! 好きな配信とかの縁の場所を見に行くのを、そう呼ぶんです。そういう言い方なんです》
祀らぬ聖地があるか。あるらしい。こちらの理屈で数えるだけ無駄のようである。
河原のあれは工事ではない、役所の検分だ、ならばなおさら近寄るな、と返しておいた。
昼下がりの見回りは、ヴェザリウスを連れて出た。
緑地に差しかかると、漏れ口が開く気配がした。
茂みの陰で空気が揺らいだ。煤を丸めたような黒いものが地を這い出てくる。一匹、二匹、三匹。犬ほどの大きさ。焦げた匂い。走らせれば人の足では追いつけぬやつだ。
鼬だけなら始末はつく。だが道の先から、公園帰りらしい母子が歩いてくる。その後ろには、前籠に袋を載せた自転車まで見えた。人払いをする間はない。
「ヴェザリウス」
「は。——帳を下ろしまする」
ヴェザリウスが袖の内で指を組むと、茂みの周りの景色が、薄紙一枚を隔てたように曇った。
効いておるのか。余は道の先を見た。母親が、茂みへ向きかけた顔をふいと逸らす。子もその手に引かれ、茂みとは別のほうを指さして何やら喋っておる。自転車は速さを緩めもせなんだ。効いておる。余が同じことをやれば、隠すより先に茂みごと消しかねぬ。ここは任せるほかない。
「ガルドバーン。狩れ。音を立てるな」
「御意」
ガルドバーンが身を低くした。石と石の間へ踵を置く。砂利は鳴らぬ。夜討ちの前の物見と同じ足の運びである。
先頭の一匹が鼻面を上げるより早く、大きな手がその顎を包んだ。鳴かせぬまま、もう片方の手が首へ回る。それで終いだ。二匹目へ半歩。茂みの根を回り込み、跳びかかろうと沈んだ後ろ足ごと押さえ込んだ。三匹目は身を翻した。翻しただけであった。伸びた腕が首筋を掴み、そのまま地に伏せる。三匹とも、鳴き声のひとつも上げさせなんだ。
仕留められた鼬どもは、崩れて黒い灰になる。
「今朝、拾われた灰を増やすな。跡を残せば、また袋を提げた者が来る」
「心得ておりまする。お話は伺いましたので、箒と袋は持参しております」
ヴェザリウスが袂から小さな箒を出し、灰を掃き集めて口の細い革袋へ収めた。地面には、焦げのひとつも残っておらぬ。
帳が上がる。ちょうど母子が茂みの脇を通り、子が何も知らずに笑い声を立てた。自転車が横を過ぎていく。誰も、何も見ておらぬ。
灰を収めたヴェザリウスが箒を袂へ戻す。ガルドバーンは袖を一度払った。二人が余を見るので、先に歩き出した。それで足りた。
夕、帰りに河原沿いの道へ出た。
朝には無かったものが増えておる。打たれた杭。杭から杭へ渡された紐。等間隔に下がる白い札。
近寄って一枚を読んだ。「調査のため、当分の間、立入りはご遠慮ください」。角の立たぬ、丁寧な字である。
紐の内側には、いつもの砂利場がそのまま広がっておった。四十日踏んできた石も、朝な夕なに潜った橋桁も、何ひとつ変わらずそこにある。ただ、道のこちら側から眺めるだけのものになった。
元より余の土地ではない。紐なら跨げる。跨げるが、あれほど丁寧に遠慮せよと書かれた後では、かえって入りづらい。
「陛下」
「何も言うな。道順なら今朝替えた」
川風が渡る。張られたばかりの紐が撓み、白い札がひとつ、かたりと鳴った。




