第36話 魔王、隠れるほどに伸びる
欄が、読めぬ。
目安箱の札をひとつ読み上げる間に、欄がまるごと二度入れ替わる。文字が流れるというより、降っておる。この地へ落ちて四十三日目の夜である。
《テレビで見ました!》
《テレビの人だ 本物?》
《ここが例の町の配信であってますか?》
触れ役の大きい板の名を、皆が口々に唱えながら流れ込んでくる。
今宵の辻は、何の変哲もない目安箱である。客から寄せられた文を読み、答えるだけの席だ。河原に紐が張られてこのかた、余は見張られておる身である。派手な芸は当分しまいで、今夜は火も氷も使わぬ。座って文を読むだけなら、何事もなく終わると思うておった。
それが、この降りようである。
《初見です。これ何の配信?》
《喋り方がすごい。役者さん?》
《↑まず過去回を見てこい。話はそれからだ》
《ここでは魔王様って呼ぶのが作法だぞ》
《質問は目安箱に入れるんだ。欄で叫んでも拾われないぞ》
《新入りに優しい古参の鑑》
《聖地巡礼から帰ってきたら人が増えすぎてて草》
古参の客が、新参に作法を教えて回っておる。誰が頼んだわけでもないのに、門前に案内役が勝手に立った。教わった新参が、次の新参へまた同じ口上を写す。伝令の教練でも、これほどうまくは回るまい。
妙な話である。大技を披露した夜より、ただ座って文を読んだだけの今宵がいちばん賑わう。大人しく隠れるほど客が門前に並ぶのなら、余は明日から昼寝でも見世物にするか。……やめておこう。わけは分からぬが、来た客を放っておくわけにもいかぬ。
余は次の札を引いた。
最後の札を読み終えて辻を畳むと、板を覗いていたガルドバーンが顔を上げた。
「陛下、これは……。某、先ほどから欄を追うておりましたが、三行と読めませなんだ。敵陣の矢弾でも、もう少し切れ目がございましたぞ」
「すべて追わずともよい。目安箱に入った分だけ拾えば足りる」
続いて、帳面をつけていたヴェザリウスが顔を上げる。
「本日の増え方は、これまでのどの夜とも違いまする。何と申しますか……坂を登るのではなく、崖を一息に、という増え方で」
「崖か。落ちる話でないのなら、聞き流しておく」
「はい。落ちてはおりませぬ」
真顔で返された。冗談の通じぬ帳面方である。
明くる四十四日目の昼、板が鳴った。ひよりの文である。開くなり、長い。
《ひよりん:ヴァルさん、起きてますか!? 寄進帳、気づいたら二十万を大きく越えてました! 昨日の夜からずっと伸びてて、朝には追うのをやめました! どうしましょう!》
どうもせぬ。そうか、と三文字だけ返した。
《ひよりん:それだけ!?》
《ひよりん:あの、聞いてます!? 町がまるごと客席なんですよ!?》
《ひよりん:……まあ、ヴァルさんはそうですよね。知ってました》
客の数を追うのはヴェザリウスの仕事である。余の仕事は、並んだ客の前に立つことだ。それより先に、済ませておく用がある。
世話になった者へ返礼をすると、いつぞや欄の前で申した。あれを言いっぱなしにはできぬ。まず浮かんだのは、トキ殿であった。
商店街の外れに、鍋だの箒だのを軒先まで積み上げた店がある。
トキ殿は毎朝、庭の植木に水をやる。使うのは、注ぎ口の長い、あの水やりの道具だ。よほど使い込まれたと見えて、傾けるたびに持ち手の付け根が小さく軋む。
店の親父に、水やりの、あの注ぎ口の長いやつはあるか、と訊いた。
「如雨露ね。その棚」
じょうろ、と言うらしい。ひとつ覚えた。
棚には大小が七つ八つ……いや、数はよい。手に取る。まず持ち手の握り。次に、傾けたときの重心の移り。注ぎ口の付け根の継ぎ目が、雑に塞がれておらぬか。
「兄さん、そんなに睨んでも値は下がらないよ」
「値切っておるのではない。選んでおるのだ。……この先の、穴の空いた笠のようなものは何だ」
「蓮口。銅のやつは水がばらけなくて、いいんだ」
「ならば、これを貰おう」
白鉄の胴に、銅の蓮口の付いた一本にした。握って傾けても、妙な引っかかりがない。これなら水を入れても素直に働くであろう。銭は受け皿から回ってきた余の取り分で払った。あの軋むじょうろを替えるのなら、惜しくはない。
帰ると、トキ殿が表を掃いておった。
「トキ殿」
箒が止まる。
包みも飾りもない。じょうろをそのまま差し出した。
「これ、あたしにかい」
「ああ。部屋を借りておる礼だ」
トキ殿は箒を片手に持ち替え、じょうろと余の顔とを順に見た。それから空いた手をひょいと伸ばして受け取り、重さを見るように二度ほど上下させる。
「……ふうん」
蓮口を指の腹でひと撫でして、トキ殿は言った。
「いいのを選んだね。あんた、目は確かだ」
剣と同じ勝手で選んだ、とは言わずにおいた。




