第32話 魔王、約束を果たす
昼、戸が叩かれた。
帳場の男である。狭い三和土に立ったまま、支度がすべて整いましたと言い、鞄から封筒をひとつ、両手で出した。
「これまでの分の、最初のお渡しです。以後は月々、お約束の形で」
受け取って、少し黙った。
厚い。
前にこの手が受けた封筒は、指でつまめば折れそうなほど薄くて、それでいて懐で妙に重かった。今日のは理屈どおりである。厚いものが、厚いまま掌に乗っておる。押せば押し返してくる。中を検めるまでもない、これは束だ。
懐に入れると、胸の側がわずかに膨らんだ。歩けば分かる厚みである。
「以後の勘定は、私が預かりまする」
ヴェザリウスが横から受け取り書きに筆を入れ、男と短く取り決めた。
「陛下は、遣い道だけをお決めくださいませ。銭の出入りを見張るのは、臣の役目にございますゆえ」
「あの……私も、欄でいつも拝見してまして。今夜は、その、仕事抜きで見ます」
「そうか。ならば今宵、見届けよ」
「はい」
男は頭を下げて帰っていった。戸を閉めるまで、仕事の顔には戻らなんだ。
夜になった。
灯りを整え、面を掛け、板の前に座る。やることは普段と変わらぬ。変わらぬはずが、面の紐を二度も結び直した。……別に、手が震えたわけではない。結び目が気に入らなんだだけである。
口上の前に、ひとつ息を置く。今宵が何の夜か、余は知っておる。ならば、いつもどおりに始めればよいのだ。
「――待たせたな、諸君」
《来た》
《今日の一声、いつもと違うな》
《何かあるぞ》
「今宵は先に、古い約束の話をする。かつて余は、支度が済むまで貢は受けぬと申した。余の名において約す、と。――その支度が、済んだ。約束のとおり、今宵より、貢物を受ける」
言い終わるかどうかのところで、欄が沸いた。
貢の札が立つ。ひとつ立ち、余が目で追ううちに次が立ち、読もうとした札が押し上げられて板の外へ流れていく。追いつかぬ。どうやら皆、この日まで札を抱えて待っておったらしい。少し待て。速い。
あの夜のことを思うた。受けられぬと余が言うても、民は投げるのをやめなんだ夜である。あのときは、届いても受け取れなんだ。今夜は受け取ってよい。よいのだが――まず、どれから読めばよいのだ、これは。
一番上の札に、名がある。白湯、とある。
読もうとして、一瞬、止まった。読み方が分からぬのではない。この名を読んだら、あの約束が終いになる。それだけのことが、妙に惜しかったのだ。……何を惜しんでおる。果たすための約束であろうが。
「白湯。そなたが一番槍である。志、確かに受け取った。礼を言う」
《白湯:読まれた……成仏します》
《一番槍で草》
《白湯おめでとう》
《この日をずっと待ってた》
《ひよりん:おめでとうございます! 今夜はお祝いですね! 皆さん、お名前を読まれたら手を挙げていく方式でお願いします!》
手を挙げる方式とは何だ。挙がったかどうか、こちらから見えぬのだが。
余は札を順に読んだ。名を読み、短く礼を言い、次を読む。声は震えなんだ。そこは王ゆえ当然である。だが、名をひとつ読むたび、板の向こうに夜更かしの民が一人ずつ座っておる気がして、次の札へ移る間が妙に取りづらい。王の作法とは、こんなに忙しいものであったか。
ガルドバーンが板の端に入ってきて、湯呑みを高々と掲げた。
「祝着に存ずる! この貢、槍働きに直せば一軍の……いや、やめておく。今宵は数えぬのが華と見た」
《将軍わかってる》
《成長しとる》
「返礼に、ひとつ灯そう」
余は掌を上に向け、慎重に、慎重の上にさらに慎重を重ねて、光の花を一房だけ灯した。一房である。それ以上は増やさぬ。前に量を誤って以来、この術ばかりは指の先まで検めてから使うと決めておる。
《ちっちゃ!》
《かわいい》
《前回の反動で草》
《一輪挿しか?》
「笑うがよい。余は学ぶ王である」
《学んだ結果がその量なの好き》
《ひよりん:きれいですよ! ちょうどいいと思います!》
うむ。ひよりんは分かっておる。余もそう思う。だいたい。
「受けた貢の遣い道を、先に申しておく。まず、余に仕える二人の将へ恩賞を出す。長らく只働きをさせた。次に、この座の道具をいくらか改める。それから、世話になった者へ返礼をする。残りは蔵に置き、遣い道が定まってから遣う」
《ブラック城だったのか》
《将軍たち初任給おめでとう》
《蔵って言い方いいな》
「今宵は、余の祝いに付き合わせた。よい夜であった。――また会おう」
板が静かになる。面を外して、まず湯呑みを空にした。思ったより喉が渇いておった。
ヴェザリウスが、帳面を抱えて待っておった。
「祝いの膳か」
「いえ。先に、陛下へ申し上げねばならぬことがございます」
「申せ」
「本日より、陛下は銭をお受けになる身の上です。ついては、この国の定めにございまして。――この国に、年貢をお納めいただきます」
「…………余がか」
「はい。まことに申し上げにくいのですが、陛下が」
「王は、取り立てる側であったはずだが」
「この国では、王もお納めになるそうで」
「受け取ったばかりだというのに、もう持っていくのか」
「定めにございますれば」
「……待て。祝いの膳はどこへ行った」




