第31話 魔王、帳場を召し抱える
階段は覚えておったより急であった。
隣駅近くの古びた建物の三階である。前に来たときは、余一人であった。約定の書だけ受け取り、問いの答えを聞かぬまま持ち帰った、あの帳場である。今日は後ろに足音がひとつある。それだけのことで、階段の急さなど気にならぬのだから、勝手なものよ。
将は家の見回りに置いてきた。文面はひより殿の検分も済んでおる。三日と言うた男は、ほんとうに三日で席をこしらえた。
「手すりが、よう磨り減っておりますな」
ヴェザリウスが言うた。今日のあやつは、いつにも増して静かである。談判の前の顔だ。城で幾度も見た。
「人の出入りが多い証かと。看板は小そうとも、客の足がある帳場と見ました」
「建物で城を測る癖、まだ抜けぬのか」
「癖と申しますより、ほかに測るものを持ちませぬので」
戸を叩くと、例の男が出てきた。帳場の名乗りが先、頭を下げるのが後。相変わらずの型である。部屋も変わっておらぬ。狭くて、飾りがなくて、掃除だけが行き届いておる。
「お運びいただきまして。お文は拝見しました。どうぞ、狭いところですが」
卓を挟み、ヴェザリウスと男が向き合うた。余は一つ引いた席に座る。今日の余の役目は、座っておることである。可否を言うのは終いの一度でよい。そう決めて来た。
談判は、静かに始まった。
辻の銭の受け取りと勘定を、この帳場の役目とすること。ここはすんなり通った。文の段階で、あらかた固めてあったらしい。
口銭のところで、止まった。
「申し訳ありません。そこは、うちも商いですので……これ以上は、ちょっと」
「存じております。ゆえに、こちらも商いで申しております」
男が紙に何か書き、ヴェザリウスへ向ける。ヴェザリウスは一目見て、書き直して返す。紙が三度往復した。声よりも紙が喋る談判である。三度目に、ヴェザリウスが口を開いた。
「では、こちらの手間をひとつ引き受けましょう。勘定の書き出しは、月に一度で結構。そちらの手が浮きまする」
「……それなら、こちらも回せます。はい、その形で」
紙は四度目には戻らなんだ。
「代わりに、こちらから売らぬものを申し上げます。主の素性の詮索は、なしにございます。中身にも、口は出させませぬ」
「詮索は、もともとしない方針でして。そこはお約束できます」
「約定は、どちらからでも解ける形に願います」
「そちらが、それでよろしいので? 普通は、縛りたがるものですが」
「こちらから解く日も、ないとは申せませぬ。ならば同じ権をそちらへお渡しするのが、筋にございましょう」
男は紙から顔を上げ、ふっと息を漏らした。笑うたのだ、この男が。
「……お強いですね」
「恐れ入ります」
「失礼ですが、前は、どちらのお勤めで」
「古い勤め先で、主の銭を数えておりました」
「道理で。……いや、失礼しました。つい」
男は首の後ろを掻いた。腰の低さはそのままである。ただ、型が抜けた。前に来たとき、文をよこしたとき、この男はずっと同じ顔をしておったのだ。その顔が、初めて崩れた。
余は黙っておったが、内心は忙しい。宮廷ならば、格上の使者と気づいた瞬間の顔である。余の臣が、余の知らぬ国の卓で、一歩も引かずにおる。……当然のことのはずなのに、なぜ余まで胸を張りとうなるのか。
条件が出そろい、男が書を清書に回そうと腰を上げかけた。
「その前に、ひとつ訊きたい」
余は初めて口を開いた。男が座り直す。ヴェザリウスは動かぬ。
「前にこの部屋へ来たとき、答えを聞かずに帰った問いがある。――余の何を買う気か」
あの日は、問いを書いた約定ごと持ち帰った。それからずいぶん経った。もっとも、答えを聞かずに帰ったのは余のほうだが。
男はすぐには答えなんだ。卓の紙へ目を落とし、少しだけ間を置く。お世辞で埋める気はないらしい。
「……正直に申し上げます。最初は、数字でした」
「ほう」
「あれだけ伸びる看板と組めれば、うちのような小さい帳場は助かります。それが先でした。嘘は申しません」
「であろうな」
「ですが、一度お仕事をご一緒して、変わりました。宣伝は宣伝だと、ご自分から仰った。まずければ銭をお返しになるとも。……ああいう商いをなさる方の帳場を預かるのは、うちみたいな所には、その、誇りになりますので」
言うてから、男は少し困った顔をした。言い過ぎたと思うたらしい。
余は笑うた。
「数字が先。結構なことだ。商人が数字から入らんで、どうする」
銭の話を隠して忠義の顔をされるより、よほど信が置ける。それは余が城で学んだことであり、この国へ来て、あの一度きりの勤めで確かめたことでもある。先に銭と言い、それから誇りと言うた。逆の順なら、余は疑うたやもしれぬ。いや、たぶん疑うた。
「判を押そう。銭の道は、支度が整い次第でよい」
「はい。整い次第、お報せに上がります。……本日は、ありがとうございました」
帰り際の礼は、迎えたときより少し深かった。
帰り道、ヴェザリウスがぽつりと言うた。
「よき帳場にございました」
「珍しいな、貴様が先に褒めるのは」
「最初は数字と、正直に申す男でございましたゆえ」
同じところを買うたか。余は少し愉快になって、暮れかけた道を駅へ下った。




