第29話 魔王、二人目の臣を拾う
辻を終うて戻ると、戸の隙に文が挟んであった。
白い封である。表には、余がこの国で使う名が墨で記されておった。筆の立つ字だ。この国の民は指で字を打つゆえ、墨で書く者というだけで、まず絞れる。
封を開いて数行読んだところで、もう誰の文か知れた。書き出しは時候の挨拶である。時下ますます御清祥の由、恐悦至極に存じ奉り――挨拶だけで紙の三分の一が埋まっておる。こんな書き出しをする男を、余は一人しか知らぬ。
文はこう続く。日ごろの非礼の段は、お目にかかりました上で幾重にもお詫び申し上げたく、つきましては今宵、お目通りを願いたく――刻限まで、きっちり指してある。末尾には案の定、冥智将ヴェザリウスとあった。
あやつなら文が先に来る。そう言うて、余は昨夜、あやつを勘定から外したのである。そうしたら文が来た。読みは寸分も外れておらぬ。外れておらぬまま、答えだけ外したのだ。これは誰を叱ればよい。余か。余だな。
「ガルドバーン。今宵、客が来る」
「客でございますか。……どなたが」
「ヴェザリウスだ」
「ヴェザリウス殿が!」
言うが早いか、将は部屋を片付け始めた。
「何をしておる」
「あの御仁は、散らかった陣を見ると眉をお動かしになりまする」
眉を動かされたくらいで慌てる図体か、貴様は。
時計の針が刻限を指すのと同時に、戸が叩かれた。
開けると、長身痩躯の男が立っておった。細面に切れ長の目。角は見えぬ。よくよく凝らして、ようやく分かった。自前の幻で、人の形にきっちり納めてある。ガルドバーンの姿は余が朝晩掛け直しておるのだ。こやつは手が掛からぬ。臣というのは、二人目からこうも楽になるものなのか。
男は戸口で深く、しかし短く礼をした。
「冥智将ヴェザリウス、御前に。……御無事のお姿、何よりにございます」
「うむ。……遅かったな」
「陛下の御無事と、この国でいかにお暮らしかをこの目で検めてから参るのが、臣の礼と心得ました。遅参の段は平にお詫びを」
「ヴェザリウス殿! 生きておられたか!」
奥から将が出た。声が大きい。
「貴公、先に参じておられたか。……その声も変わりませぬな。往来に響きますぞ」
「む、これは失敬!」
「もう響いた後かと」
そうだ。昔の軍議でも、将が吠えて、こやつが静かに止めた。まだ戸口だぞ。
卓に着かせて、まず問うた。
「検めた、と申したな。いつからだ」
「落ちましたのは十四日ほど前にございます。以来、街と、お住まいまでの道筋を見ておりました。御前を騒がせぬためとは申せ、隠れておりました非礼は、幾重にもお詫び申し上げます」
街路の気配。あれである。将の鼻さえ欺く隠形――得心はいった。いったが、腹の虫は別である。
「箱の紙も貴様だな。辻の刻限と、映す景色と」
「二枚とも私にございます。お答えを頂いて、御用心の深さを検めました。お見事な備えかと」
「その備えの上から住まいを突き止められては、世話がないわ」
「映しておられた景色に偽りはございませぬ。ただ、あれだけを頼りに歩いたわけではございませんので」
……理屈の声まで昔のままである。
「では、欄の『見てるだけ』は」
「私にございます。偽りは書けませぬ。見ておるだけの者は、見てるだけと名乗るのが筋かと」
「貴様かッ」
筋ではある。筋ではあるが、余はあの名のせいで、夜半に勘定を三度やり直したのだ。
「して、経緯は」
「裂け目に落ち、目が覚めればこの国に。仔細はガルドバーン殿と同様かと存じますゆえ、省きます」
「省くのか」
「長うなりますので」
助かる。あれをもう一度初めから聞かされるのは、正直つらいものがある。
「それだけ見て回って、騒ぎは起こさなんだか」
「起こしておりませぬ。力は使わず、名乗らず、寝どころは銭で借りました」
隣で将が、心なしか小さくなった。参ったその日に駅前を騒がせ、灯の柱まで曲げた男である。なお、空を光らせたのは余だが、あれは祝いだ。いまは関わりない。
「……某のことは、もうよいのです」
「何も申しておりませぬが、貴公」
積もる話は飯の後だ、と余は鍋を掛けた。米は増やしてあった。いつから増やしてあったかは、言わぬ。
ヴェザリウスの食いようは、将と何から何まで逆であった。椀は一杯きり。箸の音がせぬ。終いには一粒も残っておらぬ。
「……米が甘うございます。水ゆえかと」
言うたのはそれだけである。将は今宵も三杯食うた。並べて眺めると、うちの臣は二人を一人分に均せば、ちょうどよい。
食い終えると、ヴェザリウスは箸をそろえて置き、居住まいを正した。
「改めて。この身、以後お側に。御用は追って承ります」
誓いはそれで終いであった。あの男の忠義は昔から言葉が短い。長いのは詫びと理屈だけである。
「うむ。励め」
余の返しも、思えば昔からこの二言だ。
それから将が、この国で暮らすための決まりを教え始めた。灯りは紐を引けば点くこと。ごみは日を分けて出すこと。教わった側が教える側に回っておるのだが、当人はすこぶる得意げである。
「日を違えて出すと、持って行ってもらえぬのだ」
「持って行かぬのは、何の理で」
「理は……某もまだ教わっておらぬ」
「なるほど。では、後ほど私が調べます」
将よ、それは負けだぞ。
寝どころは、階下のトキ殿に隣の空き部屋を頼んだ。前払いの札を受け取ったトキ殿は、余とヴェザリウスの顔を順に眺め、
「……今度は何人来るんだい」
とだけ言うた。事情を訊かぬのはありがたい。人数だけは気になるらしい。
残りの銭は、およそ十八万。臣が増えるたび、面白いように懐が軽くなる。国とはそういうものであった気もするが、あの頃は税というものがあった。
部屋に戻ると、ヴェザリウスが「板を拝見してもよろしいでしょうか。まずは知るところから始めるべきかと愚考いたします」と言うた。許すと、あとは静かなものである。辻の仕組み、欄の流れ、帳場の写し。頁を繰る手が速く、時折こぼれる「なるほど」の間だけが、やたらと短い。
やがて、手が止まった。
「陛下。ひとつ、よろしいか」
「申せ」
「帳場の銭にございます。――積まれたまま、死んでおりますな」




