第28話 魔王、見られている
視界の端で、誰かが足を止めた。
こちらを見た。そう感じて、振り向いた。公園沿いの道の角には、停めてある自転車が一台と、ごみの袋が積んであるきりで、人はおらぬ。
朝の見回りの帰り道であった。これで二度目である。気のせいだと思った分まで数えるなら、数日前から続いておる。
余をつける者がおる。それ自体には驚かぬ。空を光らせ、獣の触れ書きまで出た街である。物見高い者のひとりやふたり、湧いて不思議はない。
解せぬのは、いまだに姿ひとつ見つけられぬことだ。並の物見であれば、こちらが気取らぬはずがない。国許で余の後ろを取れた者など、数えるほどしかおらぬのだ。その余が、まだ一度も姿を見ておらぬ。物見にしては、少々おかしくないか。
「ガルドバーン。近ごろこの道筋で、妙な匂いを嗅いだことはあるか」
「妙な匂いはございませぬ。……いえ」
「何だ」
「匂いが、無さすぎまする。人が立ち止まった跡には、人の匂いが残るものにございます。いましがた陛下が振り向かれた角に、それが、ございませなんだ」
将の鼻は猟犬より利く。その鼻にも掛からぬ、ということだ。ますますもって並ではない。
思い当たる節は、ほかにもある。目安箱だ。辻で民の問いを受けるあの箱に、近ごろ妙な紙が混ざる。
《辻を開ける刻限が日ごとに違うのは、何に合わせて変えているのですか》
民の問いというのは、だいたい菓子の話か犬の話か大男の話である。刻限の決め方など、訊いてどうする。……いや。使い道のない者は、そもそもこんなことを訊かぬ。
昼下がり、常のとおり辻を開けた。騒げば向こうに気取られる。辻は常の運びがよい。
《きたきた》
《今日は大男さん出ますか》
《大男待機》
「あれは余の連れであって、出し物ではない」
《またまたぁ》
《連れをしまっておく箱でもあるの?》
しまっておる箱はこの住まいである、とは言わぬ。ひよりも来ておって、近いうちに次の企てを持ち込む、とだけ書いていった。中身も書け。
それから、あの名も開けた端からおる。今日も、だ。
欄の隅には、見物に来ておる者の名が並ぶ。その列に「見てるだけ」とある。名乗りどおりではあるのだが、毎度終いまで居って、本当にひと言も書かぬ。余の知る限り、ここ数日、欠かした日が無い。書かぬ者は居らぬも同じ扱いなのであろう、欄の民は誰も、その名に触れぬ。
目安箱をいくつか読んだ。菓子の問いと犬の問いに答え、大男はいつ住み着いたのかという問いには、当人に訊けと答えた。その間に、また一枚混ざった。
《映す景色が毎日ちがうのは、同じ道を二度映さないようにしているからですか》
――また貴様か。
顔には出さぬ。
「余の気分である。余は存外、飽きっぽいのでな」
《わかる》
《魔王様けっこう移り気だよね》
欄は笑うておる。笑いごとではないのだがな。同じ道を二度映さぬのは、そのとおり、わざとである。住まいの見当をつけさせぬための、初日からの決めごとだ。誰にも明かしたことは無い。それを、映される絵のほうから見抜いた者がおる。
夜、将が見回りから戻る刻限まで、余は筋を数えた。
役人の類か。獣の触れ書きは出た。上つ方が人を寄越す頃合いではある。だが役人の物見に、将の鼻を欺く腕があるものか。あの手の者は、列を組んで書き付けを持って来る。
物盗りか。盗人が辻の刻限の理を問うてどうする。あの問いは銭にならぬ。
余の素性を釣ろうという、例の網——詮索の衆の類か。あの手合いは寄ってたかって騒ぐのが持ち味で、ひとりで黙って何日も立つ根気とは流儀が合わぬ。
……国許か。
そこは考えたくなかった。だが、外すわけにもいかぬ。
討ち手であれば、この隠形の腕には頷ける。手を出さず、余の力と暮らしぶりを測っておるのも、討ち手の仕事としては頷ける。余の居どころをどうやって突き止めたのかは、頷けぬが。
ヴェザリウスか?
数えかけて、やめた。あやつなら、余が気づくより先に文が来る。礼にうるさい男だ。人の庭へ黙って入るということを、あれは死んでもせぬ。戦の触れ状にまで時候の挨拶を書いて寄越した男である。外してよい。
「陛下」
戻った将が、板の間に膝をついて頭を下げた。
「恐れながら。明日より、夜の警固をお付けくださいますよう」
「ならぬ」
「なれど、相手の腕が知れぬ以上――」
「だからだ。いま警固を増やせば、増やしたことまで見られる。余が気づいたと、向こうへ教えてやるだけであろう」
「……御意にございます。では、せめて夜のお運びの供だけでも」
「貴様が後ろを歩けば、余の寝所を触れて回るのと変わらぬ。それに、目立つ」
「……小さく歩くことは、かないませぬ」
「知っておる」
体の大きさをこれほど詫びる将も、そうはおるまい。将は不服を口にせなんだが、下げた頭がなかなか上がらなんだ。
「案ずるな。こちらが騒げば、向こうは隠れ方を変えるだけだ。いまは見たいだけ見せておく。そのうち、何を見ておるのかが知れよう。辻も見回りも、常のとおりに続けよ」
「はっ」
寝る前に、灯りを落とした部屋の窓から道を見下ろした。街灯の輪を猫が一匹横切って、それきりである。やはり、窓から見つかるものは何もなかった。
余を調べておる者がおる。
何者だ。




