第25話 魔王、二度目の治世を始める
祭りの翌日。米びつは空であった。
昨夜の宴で底まで浚われたゆえ、昼のうちに買い足してある。夕刻、余は米を研いでおった。濁った水を捨て、また水を張る。魔王城の厨では一度もせなんだことだ。あの頃の余が今の余を見れば、何の儀式かと問い詰めるであろう。儀式ではない。米を炊くだけである。
表の階段が鳴った。大男が夕の見回りから戻ったのである。
「ただいま戻りました。町内、異状なし。……いえ、一つだけございました」
「申せ」
「公園の婆どのに、飴を頂戴しました」
差し出された大きな掌に、包み紙の飴が一粒。婆どのは孫と昨夜の辻を見たらしい。「いい食いっぷりだった」と、帰り際に持たされたそうである。見回りの将が飴をもらって帰る国も、そうはあるまい。
「これは、いかが扱うべきでありましょうか。返礼の品が要るのであれば、明日の見回りで届けて参りますが」
「飴一粒に返礼の列を作るな。婆どのが困る。ありがたく食えばよい」
「はっ」
男はしばし迷ってから、飴を食わずに棚の隅へそっと置いた。すぐ食えばよかろうに、ああいうものは置いておきたくなるらしい。その心持ちは、余にも分からんでもない。
「それと陛下、商店街の衆が屋台を畳んでおりましたが、あの手際は見事でありますな。城普請の人足に欲しいほどで」
「勧誘はするなよ」
「無論であります。……縄の結び方だけは、聞いて参りましたが」
「半分勧誘しておるではないか」
男には朝から覆いを掛けたままである。それでも今の余は、保っておることを時折忘れる。
飯を炊く間に、板が鳴った。ひよりである。
「魔王さん、昨日はお疲れさまでした! ガルドバーンさん、あれ絶対また出てもらいましょうね。コメント欄でも『また見たい』がすごかったんですよ。ご本人の都合、聞いておいてもらえます?」
「本人は隣で飯を待っておる。都合は良いそうだ」
「返事はやっ。それでですね、次の企画、いま三つくらい書きかけてて――あ、まだ言いません。固まってから言います」
「そこまで申して隠すのか」
「言ったら魔王さん、ずっと待つじゃないですか」
「待たぬ」
「ほんとですか?」
「……多少は待つ」
「ほら。だから固まってからです」
うむ、と唸るしかなかった。臣に手の内を読まれる王である。
「それでですね、ひとつ真面目な話なんですけど。昨日のスパチャ、過去いちばん積まれてて。……で、あれ、いまだに全部受け取れてないんですよね」
そうなのである。欄へ向かって、そなたらの志は無にせぬと言ったのは余である。なのに貢物は積もるばかりで、余の手元へ移す手立てがない。さて、どこから手をつけたものか。
「これ、ちゃんとした受け皿がないとどうにもならない話で……わたし、そこは専門外なんですよね。すみません、いい知恵がなくて」
「詫びるな。そなたが抱える話ではない。余が考える」
「魔王さん、たまにほんとに王様っぽいこと言いますよね」
ぽい、ではないのだがな。つなぎの声を終えたところで、炊き上がりを告げる音が鳴った。答えはまだ出ておらぬ。王であった頃も、考えごとの途中で膳に呼ばれることはよくあった。もっとも、あの頃の余は米を研いでおらぬ。
飯が炊けた。今夜は二人の卓である。炊いた量まで二人分かと問われれば、答えに困るが。
卓を挟むと、男は存外に行儀よく箸を使う。
「昨夜とは随分違うな」
「昨夜のあれは戦であります。今宵は平時ゆえ」
「飯を戦にするな」
「平時の飯は、ゆるりと味わうものと心得ます。……時に陛下、この椀は持ち上げてよいものでありましょうか。国許の作法では、器は卓から動かさぬものでしたが」
「この国では持つのが行儀だ。汁も椀ごと持って啜る。箸で具を押さえてやればこぼれぬ」
「ほう。……なるほど、これは理に適っております」
男は味噌汁の椀を両手で包むように持ち上げ、慎重に啜った。その手つきには覚えがある。ひと月前、同じ手つきをしておったのは余である。
「お代わりは」
「是非に」
二杯目を盛ってやる。祭りの晩ほどではないが、減りは早い。卓が静かになったのは、男の椀の汁が半分になったころだった。
「時に陛下」
「今度は何だ。味噌汁なら好きに啜れ」
「いえ、そのことではなく。国許のことであります」
男は箸を置いた。
「某が飛んだあの日、空の裂け目は開いたままにございました」
「ほう」
「閉じるところは見ておりませぬ。ゆえにその後は分かりかねますが……もし、あの穴に飛び込む命知らずが某のほかにおるとすれば」
少し困ったような顔で、男は続けた。
「冥智将ヴェザリウス。あの御仁でありましょうな」
あやつか。名を聞いただけで、長い長い軍議と、その隣で露骨に渋い顔をしておったこの男の姿が浮かんだ。
「貴様とは折り合いが悪かったろう」
「悪くはございませぬ。ただ、軍議では三度に一度は言い負かされ申した。悔しいことに、あの理屈はいつも正しいのであります。……もっとも、あの御仁のことです。飛ぶ前に十日は理を詰めて、飛ばぬ理由を十ほど並べましょうが」
「並べた末に飛ぶのが、あやつだがな」
「御意。それが厄介なのであります」
来ると決めつけるには早い。この男が知っておるのは、飛んだ日までの国許だけである。ならば今は、それ以上でもそれ以下でもない。
ただ――この大男が落ちてきた夜は、言葉ひとつ教えるにもひよりを呼んだものだ。今なら、こちらでしてやれることがある。言葉も、飯も、板も。そこまで考えたところで、男が口を開いた。
「陛下。もし彼の御仁が参ったら、いかがなさいます」
「決まっておろう」
余は空いた茶碗に飯を盛ってやりながら答えた。
「まず飯を食わせる。話はそれからだ」
「はっ。某も、それなら異存ございませぬ」
男は笑った。そして盛ったばかりの飯をたちまち平らげ、また空の茶碗をこちらへ寄越した。……まだ食うのか。ヴェザリウスまで来た日には、この卓はどうなる。
米は、次からもう一袋増やしておくとしよう。
いつ誰が空から降ってこようと、飯だけはすぐに出せる。




