第17話 魔王、知る者を得る
ガルドバーンが群衆を割って、まっすぐに来る。太い腕がひと掻きするたび、人垣が波打って崩れかけた。押された者が前へつんのめり、悲鳴が上がる。崩れた列は、それだけで人を潰す。
余は息を整え、声を置いた。
「止まれ」
張らぬ。戦場で軍列の端まで通した声は、張らずとも届くように出来ておる。
大男の足が止まった。獣の目が宙を泳ぎ、こちらを探す。声の主に覚えがある、そういう止まり方であった。
その間にも人垣の前は崩れかけておる。先にあちらだ。
久しく使わなんだ、一段深い術がある。民とこの場とを隔てる、透いた壁の術。封じられたこの身で届くかどうか。だが祭りの後から、術の根がずいぶんと軽い。いまなら届く、と身の内が言うた。理屈は後だ。
指先で織る。
淡い光の壁が、広場の只中を丸く囲うて立ち上がった。押し寄せかけた人波が、見えぬ硝子に触れたように、そこで止まる。壁の内には、余と大男だけが残った。
術は保った。だが深いほうへ力を回した分、常の織りが痩せた。角と瞳を覆う、あの薄い覆いである。気づいたのは壁を据えた後で、頭の上の空気が素に戻っておった。
透けたか。黒い角が。おそらく、瞳の紅も。
まずい、と思う間もなかった。ガルドバーンが、壁の内で膝を折ったのである。地が鳴るほどの勢いで両の拳を突き、頭を垂れた。
「——陛下」
割れ鐘の声が、震えておった。
「陛下。陛下であらせられる。某、この目を疑い申した。だがその角、その御瞳、その御声。間違えるはずもございませぬ」
「立て」
それだけ言うた。それだけしか、すぐには出なんだ。喉の奥に何かがつかえて、二の句までに間が要る。数百年、余の右翼で炎を振るうた男である。立て、ともう一度言うと、大男はのそりと立ち上がり、それでも頭は下げたままでおった。……不器用な下げ方まで、昔のままである。
そこで、壁の外がどっと沸いた。
拍手である。
「すごーい! 跪くとこ鳥肌立った」「この光の壁、どうやってんの」「プロジェクションでしょ、今すごいから」「映画? 告知あった?」
見世物と受けられておる。主従の再会が、芝居の山場と受けられておる。都合が良いには違いない。だが、拍手で祝われる再会というのは、余の長い生涯でも初めてである。
その拍手の中に、一人だけ、声の消えた娘がおった。
人垣の前列で板を掲げ、壁が立つまではよく回る口で喋っておった娘である。「みなさん見えてますか、光の壁! これ、なんかの企画……ですよね? 演出すご……」——その声が、途中から細り、途切れた。
娘は空いた手を、光の壁に当てた。押す。手応えを確かめる押し方である。それから手を当てたまま、左右を見た。仕掛けを探す目だ。器具を、線を、種を。何もない。首の振りが、だんだん遅うなっていった。
娘の目が、余の頭の上で止まった。作り物を被った頭ではない。生身の男の頭から、角が透けて立っておる。その近さで、それを見た。
「陛下」と地に折れた大男のことも、娘は壁一枚の向こうから見ておった。
板を持つ手が、ゆっくりと下がった。画面が余を映さぬ高さまで下がり、指が動いて、板が暗くなる。娘が、自分の手で辻を切ったのである。
拍手はまだ続いておった。沸き立つ人垣の中で、その娘ひとりだけが、動かなんだ。
長居は出来ぬ。騒ぎが役人の耳へ届けば面倒が増える。
「ついて参れ。話は歩きながらだ」
「御意」
壁を解くと、ひときわ大きな拍手が湧いた。深い術を仕舞うたら、覆いは独りでに戻った。そのかわり、術の根に重いよどみが残っておる。曲がった灯の柱が目に入った。直してやりたいが、この根の重さでは覆いを保つほうが先で、何より、役人の来る前にこの場を離れねばならぬ。
一本外れた通りに入ると、ガルドバーンが待ちかねたように口を開いた。
「陛下。お尋ねしたき儀は山とございますが、まず某の話を。ある日、国許の空に裂け目が開き申した。裂け目の奥から、陛下の御力の残り香がいたしました。ゆえに、飛び込んだのであります」
「ゆえに、で飛び込むな」
素の声が出た。備えも策もなく、匂いひとつを頼りに空の裂け目へ身を投げる。この男は昔からこうである。それでこそ余の将、と言うてやりたいが、言えば図に乗る。
「仔細は後で聞く。ここは国許と勝手がまるで違う。良いか、まず——」
軽い足音が、追ってきた。
ガルドバーンが振り向き、腰を落とす。「何やつ」
「よい」
一語で足りた。大男は身を起こし、黙って脇へ退いた。腕で組み伏せたわけではない。それでも軍令は通る。それで良いのだ。
通りの入口に、あの娘が立っておった。板は下げたまま、灯っておらぬ。肩で息をしておる。自分の足で、走って追うてきたのである。
娘の唇が動いた。
「……ヴァル、さん?」
その声で、分かった。
顔は知らぬ。だが声は幾晩も聞いた。つなぎの声で、辻の端で、余の間違いを笑い、余の口上を本気で褒めた、あの声である。ひよりであった。……考えてみれば、顔も知らぬ相手とさんざん笑うてきたわけである。いまさらそこに思い当たって、妙にこそばゆい。
消す手は、ある。今日見たものをこの娘の頭から拭うくらい、封じられた身でも届くであろう。脅す手も、誤魔化す口も、逃げる足もある。
どれも取らぬ。
取らぬ、と身のほうが先に決めておった。わけは、あとから数えた。王が民の法を破っては統治にならぬ。同じ理屈で、王が友の——友、で良いのか、この娘を。……良いのであろう、いまさら。——その目を欺いては、治めるも何もあるまい。余は娘に向き直り、覆いをひと結びだけ緩めた。昼の光の中に、角が静かに立つ。
娘の肩が跳ねた。半歩、下がりかけて——足は、そこで踏み止まった。
「……CGじゃ、ない。合成でも……じゃあ、なに……。ヴァルさん、これ……これ、本物なの……?」
震える声であった。だが目は、余から逸れなんだ。
ふと、ガルドバーンが横で身じろぎもせず控えておるのに気づいた。退かぬ娘が前に、動かぬ臣下が横に。……おかしな眺めである。余一人の、と思いかけて、その先の言葉を選び損ねた。
「本物である」
娘は答えなかった。板を胸に抱き、逃げぬ足で立ったまま、逸らさぬ目で、ただ余を見ておった。




