第13話 魔王、事務所にスカウトされる
米の袋を提げて階段を上がる。二階の角まで十三段、一息で上がりきって、息が切れておらぬことに気づいた。
妙だ。いや、妙ではないのか。……妙であろう。買い出しの往復だけで足の重くなる日が、ほんの数日前まで確かにあった。辻を空けて、紙の壁と睨み合うておった頃だ。あの頃は起き抜けから体が鈍かった。今朝は違う。指の先まで、何かが満ちておる。何が変わったのか、まだ分からぬ。決めつけるには早かろう。
昨夜の会盟か。客が沸けば沸くほど——いや、よそう。飯より先に考える話ではない。
飯を済ませて板を開くと、文が一通、先に来て待っておった。差出は、十日目に一度文を寄越し、余が返事を保留したままの、例の「じむしょ」である。
文面は改めての挨拶に始まり、昨夜の配信を拝見しました、と続く。そして本題。「一度直接お話しできないでしょうか。こちらから伺うことも、お越しいただくことも可能です」。日取りは明日以降いつでも、とある。
検分なら一度目に済ませた。名乗りがあり、銭の話が後ろに控え、引っ掛かる箇所がなかった。もう一度検めるか、と目が紙へ戻りかけて、思い直す。同じ紙から二度目に出てくるものは多くあるまい。いや——検分をやめるのではない。見る先を移すのだ。次に見るべきは紙ではない。人と、帳場である。ならば呼びつけるより乗り込むほうが多くを見られる。相手の城には、相手の懐が出るものだ。
明日の午後、余が出向く。そう短く返した。
返してから、そもそも「じむしょ」が何の座か、余がよく分かっておらぬことに思い至った。請け人か口入れ屋の類、というのが見立てだが、見立てのまま乗り込むのは将のやることではない。ひよりに文で問うと、じきにつなぎの声が来た。
「事務所ですか!? えっ、来たんですか、ヴァルさんのとこに。……あ、いや、そりゃ来ますよね、あれだけ伸びたら。えっと、事務所っていうのは、配信者を束ねてる会社です。座元? 座元でいいのかな。所属すると、お金の受け取りとか、企業案件の仲介とか、面倒な事務をぜんぶ代わりにやってくれます。そのかわり売上から取り分を持っていかれます。二割とか三割とか、そこは所によります」
「口銭か。束ねて、代わりに走って、上前を取る。御用商人と同じ理屈だ」
「ごようしょうにん……たぶんそれです。あと、これだけは言わせてください。良い事務所も、そうでもない所もあります。わたしは入ったことないんで、ぜんぶ聞きかじりですけど。だから契約の紙だけは絶対、隅から隅まで読んでください。分かんなかったら、はんこ押す前にわたしに見せてください」
「約定の書は読み込むものと相場が決まっておる。案ずるな」
「ならいいんです。……あ、それと! コラボの企画、いま二十個から絞ってます。近いうちに企画書送るので、待っててくださいね」
娘の声は、最後だけ早駆けになって切れた。
夜、辻を立てた。
「諸君、昨夜の続きだ。今宵は余の辻でも目安箱を開く。問いのある者は投げ込むがよい」
《目安箱こっちでもやるんだ》
《昨日のコラボ最高でした》
《質問:ヴァル様って普段何食べてるの?》
「米だ。炊きたてに限る。次」
《即答で草》
《ひよりんの旗、まだ伸びてるらしいぞ》
《てかこれだけ伸びたら事務所から声かかってるでしょ》
《大手入ったら個人の色が消えそうで心配》
《外野が勝手に心配してて草》
「色が消える、とはどういう理屈だ。余の色は染めた色ではない。生まれついてのものだ。消しようがなかろう」
《そういう話じゃないんだよなあ》
《いや案外そういう話かもしれん》
「事務所のことなら、思案あってのことよ。次の問いを出せ」
問いを拾い、答え、また拾う。拾ううちに、指先が軽い。腕の芯まで軽い。その軽さに、今朝の体と、紙の壁と睨み合うておった頃の重い朝とが、呼びもせぬのに揃って戻ってきた。……そうか。そういうことか。いや、たぶん、そういうことなのだと思う。見られるほどに、力が戻る。
なぜ戻るのか、と覗きかけて、やめた。考えて底の見える話なら、とうに見えておるはずだ。それより先に使い方である。大事の前には辻を立てて、満たしてから臨む。戦の前に兵を食わせて寝かせる、あれと同じことをすればよい。今のところは、その程度の心得で足りる。
「今宵は仕舞いだ。箱はまた開ける。……開けると言うても、箱の実物はどこにもないのだがな。城の目安箱には蜘蛛の巣が張っておったものだが。——ではな」
十四日目の午後。隣駅の古びた建物の三階に、その帳場はあった。
入ってまず、狭さに目が行った。机が幾つか、人はまばら。壁に飾りがない。そのくせ掃除は行き届いておる。金があるようには見えぬが、荒れてもおらぬ。
「お待ちしておりました。担当いたします」
出てきたのは男が一人。口上より先に、小さな紙を一枚、両手で差し出してきた。名乗りの札か。屋号と男の名が刷ってある。名乗りが先、口が後。順は正しい。物腰は丁寧だが、余を持ち上げる言葉がひとつもない。かつて余に美辞を千も並べた商人の文とは、造りが逆だ。
「本日は、弊社にできることからお話しします。まずは単発の企業案件の仲介です。報酬は弊社を通して、現金か現物でお渡しできます。口座をお持ちでない方でも受け取れます」
銭を受け取る道が、初めて形を持って目の前に置かれた。帳に積まれるばかりの志とは別口の、確かな道だ。
「ゆくゆくは、ご所属いただく道もあります。ただ、今日決めていただくことは何もありません。契約書はお持ち帰りください。その場で書かせる会社は、うちも信用しませんので」
所属。……お抱え、ということか。言葉の意味はすぐに取れたが、飲み込むのには間がかかった。それは商人が王を抱えるという話である。そんな話があるか——と斬って捨てるには、目の前の男の物腰が丁寧に過ぎ、条件がまとも過ぎる。怒りにはならぬ。ただ、引っかかりだけが残った。余の何を売る気なのだ。
「一つ訊く。そちらは余の素性を問わぬのか」
男はわずかに黙り、それから言った。
「事情のある方は、珍しくありませんので」
それだけであった。親切なのか、商いの型なのか、読み切れぬ。約定の書は持ち帰って検める、とだけ告げて余は席を立った。男は最後まで、追いすがる言葉を口にしなかった。
部屋に戻り、卓に名乗りの札を置く。紙一枚。
思えば、余を帳場から締め出したのも紙一枚であった。その紙が今度は、余を招いておる。
して、あの者らは余の何を買う気なのだ。王が商人に抱えられるとは、何がどうなることなのだ。
飯を炊き、食い、片づけた。それでも問いは手元に残ったままである。今宵のうちに答えの出る類ではないらしい。明日、約定の書を広げるついでに、もう一度考えるとしよう。




