case.63「双窮のジレンマ」
夢を見ている。
あたたかくて、すこしにがい。
忘れた/忘れたかった 過去の夢を。
「大丈夫よ、のどか」
「のどかはのどかのままでいいんだよ」
「そうよ。あなたはあなたでいいの」
いつも、そういって両親は僕を抱きしめた。
きっとその言葉は、善意で、好意で、愛からきたものだったろう。そこに僕を見下すような、謗るような響きはついぞなかった。
僕を誰かと比べることもない。僕の無力を悲しむこともない。
まるで空気の、いや、水のように透明な愛。不純物のない水。
ああ、その水が僕を殺す。
あなたたちの愛は、致死の水だ。
「…はあ」
翌朝。
いやになるほど澄んだ空。朝早くから公共交通機関を乗り継いで、実家へと帰省中。キサちゃんもサカヅキさんも移動の足を用意すると言ってくれたけれど、それを固辞したのは僕の都合だった。…少しでもあそこへ行くのを遅らせたいという、僕の。
実家に帰るというだけで重い気持ちになる。それは決して両親によく思われていないとか喧嘩して飛び出したからとか、そういうわけじゃない。
「でも、」
激しい運動のあとみたいな、重力で押しつぶされそうな感覚。
少しでも気分をあげようと奮発して買った駅弁も、その味をちゃんと楽しむことが出来ない。…ちなみに、ひさびさにみた自分の口座残高がちょっと意味わからないくらいに潤っていたせいもある。豊かであること自体はありがたい話なのだけれど。
「はあ」
白百合さんが僕の兄、というのは正直まったく実感がわかない。
ただ、日向まどかという名前と兄という存在は僕の記憶の奥の方、うすぼんやりと残っている。
…なんでも出来て優秀で、誰からも愛され求められる人。太陽。けして届かない高みの存在。けれど、その為人や話し方、声なんかは今も思い出せない。思い出さないようにしている、の方が正しいんだろうけれど。
「はあ」
何度目かもわからないため息に窓が曇る。
家に着くまで残り、おおよそ1時間弱。それまで一体何度ため息を吐くことになるだろう。
喉から漏れそうになったそれをお茶と一緒に飲み込んだ。
「おかえりなさい。のどか」
「うん。ただいま」
帰宅の言葉はつるりとでた。
「お父さん、お仕事で外せなくって。出張なのよ。のどかに会いたがってたわ」
「うん」
「なんだかちょっと背が伸びた?体つきもなんだかしっかりしているわねえ」
「うん、まあ」
「それがいいわ。ムキムキになるまで鍛えなくってもいいけれど、健康のためには少しくらい。ねえ」
「そうだね」
「ああやだ、お洗濯途中だったの。晩御飯は食べていくんでしょう?」
「そうするつもり」
「うふふ。ちょうどのどかの好きな鮭だったの」
「やった」
どこにでもある、長閑な親子のやり取り。
つるつる口を滑って出てくる言葉。思考じゃなく反応、反射に近い。
「…アルバム見たいんだけど」
「あら。…のどかの分だけでいいんだったら後で出しておきましょうか?」
「ううん。全部見たいから、いい」
「そう。場所は変わってないわ」
「わかった」
階段を上る。
父さんの書斎。数年どころか10年以上足を踏み入れなかった空間。
「…」
誰もいないと分かっているのに、コンコンとノックを2回。ドアノブを捻る。
久々に入った部屋の中は少し記憶と違う。模様替えをしたんだろうか、本棚が増え、それでも入りきらない本が床に積み上がっている。
「あ、これ読んでみたかったやつ」
積み上がった本の表紙に気になっていたタイトルを見つけて思わず手に取ろうと膝を折り、ハッと我に返る。
違う違う。これじゃなくて。
「…あった」
アルバムは本棚の一番上。丁寧に並べられて飾られていた。
「…」
ぶ厚く重いそれを、とりあえず端の1冊目から手に取る。
青いその背表紙を少し撫で、引き抜いた。
コンコン。躊躇いがちな小さなノック。
「いま、いく」
とんとんとんと階段を下りれば、ふわりと出汁のいい香り。テーブルには焼き鮭と小鉢、みそ汁。
「もうそんな時間だったんだ」
「そうよ。ごはん、大盛にする?」
「ううん、普通くらい」
母さんがごはんをよそってくれている間にお茶を出す。コップは2つ。
「はい」
「ありがとう」
お茶碗を受け取って席に着く。懐かしいような、新鮮なような。
「いただきます」
「いただきます」
「ごちそうさまでした」
ひさしぶりの実家ご飯は美味しかった。こんな味だったっけ。
「おそまつさま」
「…兄さんのこと、聞いてもいい?」
「…そう」
お互いに少しの間をあけて、ささやくように声を漏らす。
そうして聞いたのは、おおむね書斎で想像した僕の過去を少し肉付けするような、表面をそっと撫でるような話だった。
「お疲れ様です」
事務所にはサカヅキさんしかいなかった。
「あれ、先輩たちいないんですね」
「おう。昨日からキサちゃん連れて女子会だってさ。そのうち来るよ。ま、これからまた忙しくなりそうだしな。今のうち、今のうち」
「なるほど」
消息を絶った単独最強を探す。怪異のテリトリーに入ること前提な上に、そもそも難易度が高い任務だ。
リラックスやリフレッシュは今のうち、というのはごく自然な流れだろうな。
「で」
手を組んだサカヅキさんが切り出す。
「どうだった?ヒナタくんの中で整理は着いた?」
柔らかい、僕を慮るその声に小さく笑う。
「ええ。ちゃんと、思い出しました。思い出すことを許可した、って方が正しいかもしれませんけれど」
「思い出すことを許可、か」
「はい。…兄さんは昔からすごい人で」
デスクに荷物を降ろし、ソファに座る。
「はは、想像つく」
「優しくて頼りになってカッコよくて…遠い人」
「うん」
「でも、兄本人も両親も、僕と兄を比べたりだとかはなかったんです。のどかはのどかだからって」
「うん」
「それはきっと理想的な対応で、優しさで、愛なんでしょうけれど。僕はまるで透明な水で緩やかに溺れるような、そんな受け取り方をしたんですよね」
「うん」
ぽつりぽつりと、濁った水を吐き出すように。
サカヅキさんは肯定も否定もせず、ただ聞いている。相槌だけ。それがありがたい。
「僕が卑屈でネガティブなだけっていえばそうなんでしょうけれど、まあ、そんな感じで。僕も兄や両親の気遣いはわかっていたので逆ギレするようなことも出来なくて」
「うん」
「思えば、そこで爆発しておけばよかったんです。なんとなく兄さんとの距離を上手く測れなくなって、それに気づいた兄さんも僕を刺激しないように見守ってくれてて」
「うん」
「…まあ、今更恥ずかしいんですけどね。だから、さっさと見つけ出して本音を話し合って、」
言葉を切る。
顔をあげる。
「仲良くなりたいって思います」
「うん。…うん、そっか」
「はい。だから今回の件、どうかご協力お願いします!」
「もちろん」
見上げたサカヅキさんはいつも通り爽やかな笑顔。
すっと伸ばされた拳に拳をそっと合わせる。
「任せとけ」
「任せます」




