case.042「悪因オーバーラップ」
生暖かい臭気が満ちている。
ぷくぷくと泡立つように空気の玉が昇っては弾け、空に消えていく。ことこと煮込まれたスープのようにとろりとした柔らかさがふちに揺れている。
つるりと滑らかで美しい白磁。ボーンチャイナにたっぷりと注がれたそれを、手首のスナップでくうるりと遊ぶ。
気取った紳士のようにたっぷりと時間をかけて目で、耳で、鼻で愉しみながら頭はずっとずっと先、輝かしく華々しい未来を思い描く。
机に置かれた白く細い指先が鍵盤を弾くようにかろやかに動いて、小さな爪がこつこつ音を奏でる。
「~、~~」
新しい波が生まれる。
即興、即席。基礎も定石もあったものではないめちゃくちゃで一歩的な旋律とも呼べぬ音の連なり。空気の振れる音。
鼻を抜ける振動が不安定に揺れる。共鳴するように天井の照明が揺らぎ、冷たい床で影が躍る。
「~~~、~~」
部屋の隅、雑然と置かれた一角でこっちを見てと誘いこむように青白い光。その向こうでは白い空間に黒い文字が波打っている。
ぽこんぽこんと増えては減る数字。
「~~!」
もっと、もっと!
まるで水が地面にしみわたっていくように、風が駆け抜けていくように、いいやそれよりもっと!
じわじわと浸食して増幅して、この地を早く呑み込んで欲しい。そうしてこの地よりもずっとずっと遠くまで。
「~、~~~!」
そうしたらきっと。
「~!!!」
ダン!と力強く叩きつけた。
「この時期に川沿いって、さむっ」
そろそろ誰しもが夢の帰路につく、一日のはじまりがやってくる、そんな時間。つっかけたサンダルを地面にこすりながら男が歩く。
年中冷え性なのもあって厚めに着込んだ服がさわさわ擦れる。足は蒸れるからいい。
ニットは静電気が立つし案外風を通してさむいんだよなあ。乾燥機に賭けたら縮むし。なんて誰ともなく悪態をつく。
「よいしょっ、と」
小さな亀裂をひょいと跨ぐ。
湿った地面に思わず足を取られそうになるのを、傍の木に手をつくことで何とか回避。
やっぱりサンダルじゃなく靴を履いてくるべきだっただろうか。まあいいや。
「ん」
見ると手のひらに小さな筋。
ぷくぷくと小さな球が湧いてきて、遅れてピリリと痛む。
「くっそ」
ハンカチなんて上等なものは持ち歩いていない。
男はべろりと手のひらを舐めることで何とかしようと思って、ふと反対の手に持つものを思い出す。
「…ま、いっか」
雑にそれで血を拭う。
どうせ同じ色だし、用意したばっかできれいだしと内心言い訳をして。
「さて、と」
ポケットのスマホはタイミング悪く充電切れ。
けれど必要な情報は頭の中にあるから問題ないとかぶりを振って、ボディバックに手を入れた。
こつんと指先に硬いものがあたる。手探りでそれを取り出して。
電話のコール音って、どうしてこうぞわぞわするんだろう。まるで心の内側を無遠慮に触れられているような、落ち着かない不快感。
歩くたびに着倒してくたびれたスウェット地のワンピースが揺れる。
「はあ」
ちょうどいい場所を見つけ、均すように何度か足をすり合わせる。
落ち着いたら握りしめていた端末を操作。トントンタップしてお目当ての番号へ。
プルル。プツリ。
プルル。プツリ。
プルル。プツリ。
プルルルルルルルル…。
静かな空間にうっすらと電子音が響いている。
とてもじゃないけれど耳に直接つけて至近距離でなんか聞いていられない。少し離した場所でスピーカーモードにして置いておく。念のため、小音にしておくのも忘れない。
「はあ」
肌寒さに震える手をポケットから出してすり合わせる。
早起きな犬がぎゃんぎゃんと騒ぎ立てている。一瞬びくりと肩を震わせ、距離があることを確かめて息を吐く。
「はあ」
明け方特有の夢色の空を見上げながらもう一度。深いため息をひとつ。
それから目を閉じて、失敗したボビンみたいにぐちゃぐちゃに絡まった思考を追い出す。何も考えなくていい。
「すーっ」
ぱちり。
大きく目を開いた。
同時刻。
北海道のとある場所で2件の怪異反応。のち、たった数分で反応消失。
反応検知後、即座にアルキメデス社が人員を手配し現着するも怪異はすでに姿を消していた。
両発生地域は車を飛ばしても1時間はかかる距離にあり、被害者同士は個々に怪異に遭遇したものと見られる。
しかし、不審な点が。
同じ時間の違う場所で怪異に遭遇したはずの被害者たちは、なぜか全くといっていいほど同じ状態だったという。
分身か、あるいは複数体で1つの怪異か。
怪異の詳細はいまだに不明のまま。
…現場に駆け付けた怪異討伐部隊が見たのは、まるで恐怖という言葉の擬人化を目にしたような尋常ならざる死に顔の抜け殻だった。
悪意の芽はとうに芽吹いてその根を深く伸ばしていく。
人知れず、ゆっくりと。
道を外した願いは加速し、呪いへと変わって肥大化していく。
止めなければ。
停めなければ。
どこかで実をつける前に。
種をつくる前に。
…ほんとうに?




